故郷の人々
上京する前に、私には一つ乗り越えなくてはならない難関があった。
河合先生の件と、大学受験をせず就職を決めたことを母に伝えなくてはいけない。この間、母には一切の相談や報告をしていなかった。日曜の午後、母が入院している町立病院に父と一緒に訪れた。
概要は父が話してくれた。いくつかの書類を見せながら説明し、何にどれだけ出費したかも伝えていた。
興信所にかかった金額は予想を遥かに超えており、手切れ金という名目は初耳で、それは深く知りたくないことだった。
母の白い額には静脈が青く透いて見えた。ベッドの上で体を起こし、下半身には掛布団が掛けられている。ベッドの床には右足用のスリッパが一つ置かれていた。
父の話を聞く母の額の中央には、深い皺が寄っている。時折大きな溜め息をつき、私を睨んだ。
母の細い指は、掛け布団をきつく握り締め、血管が浮き出た甲がかすかに震えている。
私は、母と視線を合わせないよう、目を伏せた。
父は話し終えると、私を前に出し、
「河合先生はお母さんが子供の頃からお世話になってきた方なんだ。事故に遭った時も、すぐに見舞いに来てくれたことは知っているだろう。河合先生は勿論、お母さんにも迷惑をかけたんだ。謝りなさい」と言った。
私は「申し訳ありませんでした」と、頭を下げた。
母の視線が痛かったが、私は目を合わせなかった。
「来月には上京するのね。お母さんはまだ退院出来ないから見送りには行けないわ」
と、残念そうな顔をつくって母は言った。そして
「最近さっぱり顔を見せないと思ったら、こんな事態になっていたなんて」と、憂いてみせた。
父の前で嘆き悲しむ子供思いの母を見事に演じていた。多分、本人は演技していた意識はないのだろう。
「河合先生に合わせる顔が無いわ。申し訳が立たないでしょう」と言い、悲愴の面持ちを見せた。
魔笛の夜の女王のようだと思った。冷酷な夜の女王が復讐と怒りに、女として母としての悲しみさえ聞かせる超高音が連続するアリアが、ふと思い浮かんだ。
父との帰りしなに、母から「明日二人でゆっくり話しましょう」と言われ、私は翌日一人で病室を訪ねた。
母は、私を見るなり般若の面をつけたような形相に豹変し、私を罵倒し続けた。
「親の顔に泥を塗ってどうしてくれる。花菜のせいで面目丸潰れじゃないか。恥ずかしくて河合先生に顔向けが出来ないわ。町の人の噂になったらどうしてくれる」と、声を張り上げた。
私は黙って聞いていた。ここまでは予想していた言葉だった。母の人間性を考えたら、この程度の言葉を投げ付けられるであろうことは覚悟していた。
母は唇を噛み眉間をうねらせて言った。
「親に恥をかかせて迷惑をかけた上に、大学に入らないで就職するなんてことが許されると思っているの」
病室に怒号が響いた。俯き押し黙る私を、母は目尻を吊り上げた険しい目付きで睨み据えている。
父が言う「子供達に良い教育を受けさせたいという親心」とは違う感情から出た言葉に違いなかった。
母の言葉に子供を愛する気持ちは微塵もない。
「花菜の教育に今までいくらかけてきたと思っているの。小さい頃からいくつも習い事をして、通信教育を受けて塾に通って、高価な教材買ってもらって、大学に行かないなんて、恩を仇で返すことになるとわかっているんでしょうね」
パジャマ姿なのに厚化粧をしている赤い口紅を塗った母は、唾を飛ばしながらまくし立てた。
「高卒で就職するなんて」と、母は吐き捨てるように言った。
大学に進学しないという選択は罪になるのだろうか。高卒で就職するのは恥ずべきことなのだろうか。
凪のような静けさの中で「返しなさいよ」と凄みのきいた声が響いた。ぞっとする恐ろしい声だった。
何を返せと言われているかわからず、私は顔を上げた。
母は凄まじい形相で凝視している。