おはようございます、マクガイヤーです。
ちょっと時間ができましたので『Fallout76』をプレイしているのですが、レベルが100を越えた猛者たちがいてビビってます。
あいつら絶対社会人じゃないよな……
マクガイヤーチャンネルの今後の放送予定は以下のようになっております。
○1月27日(日)19時~「最近のマクガイヤー 2018年12月号」
その他、いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。
○2月3日(日)19時~「『銃夢』と『アリータ: バトル・エンジェル』」
2月22日より映画『アリータ: バトル・エンジェル』が公開されます。本作は木城ゆきと著の漫画『銃夢』を原作としています。『銃夢』は1990年代に連載が始まり、現在も続々編が連載中ですが、自分は『銃夢』が大好きで、特に90~00年代にSF漫画というジャンルの中で大きな位置を占めた作品だと考えております。
そこで、漫画『銃夢』を解説すると共に、ちょっとだけ映画『アリータ: バトル・エンジェル』について予想するニコ生をお送りしたいと思います。
アシスタントとして御代しおりさん(https://twitter.com/watagashiori)に出演して頂く予定です。
○2月17日(日)19時~「最近のマクガイヤー 2019年2月号」
詳細未定。
いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。
さて、今回のブロマガですが、前々々回に引き続き藤子不二雄Ⓐの『まんが道』について書かせて下さい。
●原型としての「あすなろ編」
いま『まんが道』を読んで感じるのは、「あすなろ編」の完成度の高さです。
たとえば「あすなろ編」の前半では、主人公である満賀が、同級生にも関わらず自分よりも大きな才能、高いプロ意識を持ち、努力に励んでいる才野に打ちのめされるというエピソードが、一つのパターンとして繰り返されます。
・教科書の隅にパラパラまんがを描くことで肝油を稼ぐ――既にまんがのプロである才野
・肝油ドロップはすぐに舐めずに貯めておく――貯蓄の大切さを諭す才野
・似顔絵は実物よりもちょっとだけよく描いた方が喜ばれる――高いプロ意識を持つ才野
・クオリティの高い幻燈機用のスライドまんがを描くために、まず作画資料用の模型を作った才野
・幻燈機用のスライドまんがを、ありものの本の挿絵の模写――パクリで済ます満賀
・同じ本を持っている――パクリであることを知っているのに口に出さないオトナな才野
・高岡新聞の読者まんが欄に投稿し、二人とも入選したことにホッとする満賀
・「まんが少年」の読者まんが欄に投稿し、自分だけが入選したことにわだかまりを抱く満賀
才野茂は、才能だけでなくプロ意識にも努力に励む気質にも茂っていたからこそ、「才野茂」という名前なのです。
肉筆同人回覧雑誌『少太陽』を一緒に作るようになってから、満賀の才野に対するコンプレックスはあまり描写されなくなります。(実際は幻燈機用のスライドまんが共作がきっかけだったようですが)、共作することで才能に対するコンプレックスが無くなり、相棒のプロ意識や努力を素直に見習うようになっていったわけですが、「あすなろ編」では何者でもない満賀を導くメンターとしての才野の役割がとても大きいです。
更に「あすなろ編」では、
・ミューズ(桐井紀子)の登場
・(激河大介に象徴される)劇画への思い
・作者である自分たちのおもしろさと、読者が感じるおもしろさの両立
・悪人がほとんど出てこない
・「神」として描かれる手塚治虫
……と、以後の『まんが道』で出てくるほとんどの要素が登場します。
こと漫画執筆に関しては、「締め切りの苦しさ」と「インスピレーションの一つとしての映画や本」以外は全て「あすなろ編」で描かれているといってもいいでしょう。
「あすなろ編」の絵柄はⒶにとって多分に劇画を意識したタッチですが、線が比較的少ないこと、ショックを受けたり感動したりするシーンでコントラストの高い別の絵柄が使われることもあり、すべての漫画家志望者にとって普遍的・象徴的な話を作っていこうという印象が強いです。
このような「漫画家としての教養主義」を中心とした作風は、「あすなろ編」がマンガ入門講座である『チャンピオンマンガ科』の枠内で連載されていたこと、わずか2ページの連載であったことも大きいのでしょう。
もっといえば、「あすなろ編」で出てきた要素を長編化・教養小説化したのが「立志編」以降の「本編」であるという見方もできます。
これらの要素について、順番に確認していきましょう。
●童貞とミューズ
桐井紀子、霧野涼子、竹葉美子、小村記者、小鷹洋子、リリー……『まんが道』には満賀(と才野)が憧れる女性が何人も登場します。
彼女たちは常にまんがを描く満賀を肯定し、応援します。彼女たちへの思いは、日常生活や漫画生活を続ける上での辛さや苦しさを乗り越える契機になります。
面白いのは、『愛しり』までは決して一度に複数人が登場しないことです。「あすなろ編」が終わって桐井紀子が出なくなったら、同級生に似た顔の「女王」霧野涼子が登場する(この二人の名前が似ているのは)、霧野涼子が亡くなったら、勤め先である新聞社に竹葉さんが新入社員としてやってくる……といった具合です。
また、どの女性もほとんど同じ性格であり、立ち位置です。厳密にいえば、「女王」である霧野涼子と後輩である竹葉美子は性格も満賀との関係性も異なるはずなのですが、童貞である(と描写されている)満賀にとっては、同じくらい憧れの対象です。
更に、満賀は絶対に彼女たちと付き合わない、というか付き合えません。霧野涼子も小村記者もリリーも、満賀とは別の世界の住人であり、身分違いです。竹葉美子だけは満賀が「まんがに専念する」という主体的動機により、自分から恋愛の道を棄ててしまいました。小鷹洋子とは恋愛が成就する前に連載が終わってしまいました。竹葉美子と小鷹洋子だけは、満賀とのデートらしいデートが描かれていることにも注目です。
もっといえば、どの女性も満賀にとって憧れの対象ですが、漫画とヒロインが天秤にかけられた場合、満賀は漫画をとります。特に、本作における白眉は、霧野涼子が見知らぬ男性と夜中に熱烈なキスをしているのを目撃してしまった満賀が、「おれの恋人はまんがや!」と泣きながら漫画執筆にとりくむシーンでしょう。「恋人はまんが」と自分に言い聞かせながらも諦めきれない満賀は、霧野涼子の訃報に涙を流し、霧野涼子を理解しない武藤四郎に激高し、電車の中で霧野涼子に似た人をみかけては勝手に思いを寄せ、彼女が電車に忘れた文庫本を勝手に自分のものにしてしまいます。当然これは創作です。この時の文庫本――ヘルマンヘッセの短編集『旋風』は、教養小説の代表作である『車輪の下』を書いたヘッセの著作の中でもとりわけ青春をテーマとしたものです……が、『旋風』の邦訳が文庫となったのは1955年で、Ⓐが十八~十九であったこの時から二~三年後だったりします(後述しますが、この種の「時空の歪み」は本作の特徴の一つであり、本作が自伝ではなく自伝的要素を含む教養小説的作品であると評されることの所以でもあります)。
こうして考えてみると、本作におけるヒロインは、ゴダールにとってのアンナ・カリーナや、タランティーノにとってのユマ・サーマン、ティム・バートンにとってのリサ・マリーやヘレナ・ボナム=カーターのような、いわゆる「ミューズ」と呼ばれるような存在であるように思えますが、決定的に違う部分もあります。明らかに満賀は童貞であり(少なくとも「春雷編」までは)、どの女性も今のⒶの妻とは関係無さそうな点も注目したいところです。ブラックユーモア作品では存分にセックスを扱っているⒶですが、教養小説的な雰囲気を重視した本作では主人公を童貞のままにしたかったのかもしれません。