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マクガイヤーチャンネル 第205号 2019/1/23
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おはようございます、マクガイヤーです。

今年前半の放送内容を調整している最中なのですが、皆さん協力的で、嬉しさで悶えております。

もうちょっとしたら、きちんとした形で発表できると思います。お楽しみに。


マクガイヤーチャンネルの今後の放送予定は以下のようになっております。



○1月27日(日)19時~「最近のマクガイヤー 2018年12月号」

・最近の魔改造

『トクサツガガガ』

『クリード 炎の宿敵』

『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

『ミスター・ガラス』

『マイル22』

『シュガー・ラッシュ:オンライン』

『アリー/ スター誕生』

『パッドマン 5億人の女性を救った男』

その他、いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。




○2月3日(日)19時~「『銃夢』と『アリータ: バトル・エンジェル』」

2月22日より映画『アリータ: バトル・エンジェル』が公開されます。本作は木城ゆきと著の漫画『銃夢』を原作としています。『銃夢』は1990年代に連載が始まり、現在も続々編が連載中ですが、自分は『銃夢』が大好きで、特に90~00年代にSF漫画というジャンルの中で大きな位置を占めた作品だと考えております。

そこで、漫画『銃夢』を解説すると共に、ちょっとだけ映画『アリータ: バトル・エンジェル』について予想するニコ生をお送りしたいと思います。

アシスタントとして御代しおりさん(https://twitter.com/watagashiori)に出演して頂く予定です。




○2月17日(日)19時~「最近のマクガイヤー 2019年2月号」

詳細未定。

いつも通り最近面白かった映画や漫画について、まったりとひとり喋りでお送りします。



○3月10日(日)19時~「俺たちも昆活しようぜ! Volume 2」

昨年の8月、ご好評頂いた昆虫回が帰って参りました。

今回も昆虫にちょう詳しいお友達のインセクター佐々木さん(https://twitter.com/weaponshouwa)をお呼びして、昆虫の魅力について語り合う予定です。

漫画に出てくる昆虫……果たしてどんな昆虫話が飛び出すのか?!

ちなみに前回の放送はこちら




さて、今回のブロマガですが、前回に引き続き藤子不二雄Ⓐの『まんが道』について書かせて下さい。


●満賀にとっての「敵」とは誰か?

また、本作の特徴の一つして、「悪人がほとんど出てこない」という点が挙げられます。


Ⓐが描く大人向け漫画には珍しく、本作に出てくる大人は、全員善人です。しかも、善人であるばかりか、満賀と才野が漫画家になろうとするのを応援します。


まず、満賀と才野の母親はどちらも二人が漫画家になることを応援してくれています。どちらも母子家庭で長男であること――きちんとした会社組織に就職して一家の大黒柱になって欲しいと考えて当然なこと、更に舞台となっている50年代はおろか、執筆された70年代になっても、一般的には漫画家という職業が夢とも妄想ともつかないものと思われていたことと考え合わせると、満賀と才野の母親の態度は凄すぎます。

「あすなろ編」と「立志編」には、満賀が授業の最中にこそこそと似顔絵や漫画の原稿を描いているのを教師が発見するというエピソードがあります。しかし、「あすなろ編」の教師は特徴を誇張した似顔絵の上手さに思わず満賀を賞賛し、「立志編」の教師は満賀を叱った後こっそり職員室で原稿を返してくれ、おまけに激励までしてくれるのです。

『少年時代』の主人公と同じく、満賀はチビで赤面症でひ弱という設定ですが、周囲からいじめられるという描写はほとんどありません。唯一、同級生の武藤四郎だけは満賀を脅迫してきますが、一見粗暴で暴力的にみえた牙沢は会話の通じる相手であり、才野の仲介もあって、武藤の詐欺のような脅迫に引っかからずに済むのです。この後、才野と二人で映画と食事を共にすることが「豪遊」とされること――二人の仲のよさが映画という知的欲望と食事という肉体的欲望を充足する好意で表現されることに、ホモセクシャルな匂いさえ感じてしまうのですが、同じようにホモセクシャルな匂いのあった『少年時代』が暴力と権力の世界であったことと比較すると、本作は会話と論理と内省を重視した世界観であるともいえます。


新聞社に入社してからも同様です。図案部の上司である変木さんは、気難しい人との評判でしたが、実際につきあってみるとデザイナーとしての満賀を思いやって仕事を振ってくれる優しい先輩でした。おまけに、版画家としての顔もあり、クリエイターと会社員の二足のわらじを履く先輩でもありました(Ⓐの富山新聞社時代を特集した月刊北國アクタス2018年10月号によると、モデルとなった金守世士夫は棟方志功のただ一人の弟子で、国画会最高賞に輝いた版画家だったそうです)。変木さんが日本版画大賞を受賞した夜、お祝いとして飲みに誘ってくれるエピソードは、尊敬する先輩が記念すべき日に個人的なお祝いに誘ってくれた嬉しさと、記念すべき日であるはずなのに自分しか誘う人がいないのかというクリエイターの孤独とが同居する、印象深いエピソードです。あまりの居心地の良さに、学芸部への異動の知らせに満賀はショックを受けます。

学芸部に移動した満賀は、就業中に漫画を描くという学生時代とほとんど同じ行為を上司の虎口部長にみつかってしまい、会社の仕事と漫画家としての仕事をきちんと分けるようにと、厳しく指導されます。しかしその厳しさは、元々芥川賞の候補になるほどの作品を書き、小説家を志望していた虎口の過去からくるものだったことを満賀は知るのでした(ここら辺の事情を、いちいち社長である親戚の叔父さんが解説してくれるのが微笑ましいところです)。

この傾向は上京してからも変わりませんが、「仲間」である漫画家や編集者に悪人がいないのは納得できる一方で、学生時代や新聞社時代の満賀の周囲に悪人がほとんどいないのは驚くべきことです。同い年の「ぼうや」である日上は満賀に嫉妬し、ことあるごとに意地悪をしてきますが、自分と同じように母子家庭であり長男であるということを知り、満賀は親しみを持ちます。エクスキューズなく悪人として描かれるのは大学に進学した武藤四郎ですが、彼すら満賀を嫉妬の炎で漫画執筆に燃え上がらせる原動力となります。


これを前述したストイシズムとを考え合わせると、満賀を追い詰めるもの――「敵」がはっきりと理解できます。

『少年時代』の「敵」がタケシに象徴される田舎の同級生やそれをとりまく世界そのものだったことに対し、『まんが道』の「敵」は「原稿を描かなければいけないけど怠けてしまう自分」、「まんがと学業や社会人生活とを両立できない自分」、「すぐ女性や映画などの娯楽に逃避してしまう自分」――自分自身なのです。

そして、そんな自分自身を律するためには、ストイシズムしかありません。



●「漫画家漫画」としての『まんが道』

本作のもう一つの特徴、というか大きな魅力は、50年代の「漫画家漫画」としての完成度の高さです。

本作以降、50年代のトキワ荘を舞台もしくはモデルとした漫画や文章作品は、石ノ森章太郎や赤塚不二夫、水野英子といったトキワ荘での生活者のみならず、長谷邦夫(『漫画に愛を叫んだ男たち』)や伊吹隼人(『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』)、やまだないと(『ビアティチュード』)といった様々な立場・世代の漫画家によって数多く描かれましたが、本作ほどの人気や知名度を獲得しませんでした。


この理由の一つは、教養小説としての本作の完成度の高さが圧倒的だったからです。

何者でもなかった青年が成長して何がしかになる教養小説的物語において、目標とするロールモデルやメンターは欠かせません。本作における手塚治虫は漫画家としての目標やロールモデルを通り越して、もはや崇拝の対象です。

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物語において大事なポイントには必ず現れ、満賀と才野に有益なアドバイスを与えるばかりでなく、満賀と才野は漫画家として大事なことを勝手に学び取ります。満賀と才野が心の中で仰ぎ見る手塚は光り輝き、信仰の対象にさえみえます。世が世なら「ネ申」とさえ呼んでいたかもしれません。後年になって、愛情や尊敬と共に語られる手塚治虫の嫉妬深さや編集者への我が侭は、本作では全く描写されません(人気漫画家故に編集者を待たせる描写は存分に描かれます)。

実際のⒶとFにとっても手塚は「ネ申」そのものだったでしょう。手塚作品からの影響だけでなく、手塚治虫から貰ったファンレターの返信、トキワ荘に残してくれた敷金3万円の有難さ、トキワ荘で受け継いだ机などについて、ⒶとFは様々な場所で口にしています。これは、他のトキワ荘メンバーも同様です。


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きょうは、手塚先生へ、例の敷金三万円を返すつもりなのだ。

ケーキと敷金三万円を出したが、手塚先生なかんか受け取ってくれない。

(中略)

あの三万円がどんなにありがたかったか、手塚先生に感謝の気持ちを性格に伝えるべきだった。でも一応お返しできたので、スッキリした。

『トキワ荘青春日記』より)

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少なくとも「あすなろ編」が連載されていた1970~72年の手塚治虫は、経営不振の虫プロを抱え、連載作品も人気がとれず、作家としての低迷期にありました。その後、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などの連載が人気を博して漫画家として復活したばかりか「漫画の神」と看做されるようになったこと、1976年に「漫画少年」の名を受け継ぐ「マンガ少年」が創刊され、手塚はそこで『火の鳥』の連載を再開したことなどは、「立志編」以降の本作とシンクロしています。

もっといえば、『まんが道』は手塚治虫が「漫画の神」として扱われることに、幾ばくかの寄与を果たしているのです。


雲の上の存在である手塚は偉大すぎる目標ですが、日常生活でのメンターの役割を果たすのは寺田ヒロオです。

年長者としてトキワ荘に引越した満賀と才野の面倒をみるばかりか、「新漫画党」というグループを作って児童漫画を盛り上げていこうと漫画家グループのリーダーにもなります。「原稿大量落とし事件」の後、漫画家を続ける自信が無くなったと口にする満賀と才野に「君たちから漫画をとったら、いったい何が残るのか?」と説教するのも寺田ヒロオなら、経済的に行き詰った赤塚不二夫におカネを貸してあげるのも寺田ヒロオです。

実際の寺田ヒロオもトキワ荘メンバーにとってのアニキ的存在であったことがあちこちで語られています。


更に、その時々に書いている漫画作品の担当編集者が満賀と才野に有益なアドバイスを与えるメンターの役割を果たしていることは、書くまでもないでしょう。現在の「漫画家漫画」には、会社や組織の論理を重視して漫画家の味方になってくれない編集者や、事務的にしか仕事をこなさない編集者が悪役として登場することがあります。そのような編集者は本作には決して登場しません。


つまり、満賀と才野は神と掲げる大目標と、メンターとして自分を指導してくれる小目標、更には、同じ目標を目指す仲間たちといった、教養小説的物語として強固な構造にいるわけです。何がしかになる――立派な漫画家になるという物語において、これはシンプルでありながら強い構造です。


「作者である自分たちのおもしろさと、読者が感じるおもしろさの両立」という漫画家として最大の葛藤も、ほどなく解決されるであろうことを読者は知っています。

何故なら、本作の作者は『オバQ』『怪物くん』『魔太郎がくる!!』『笑ゥせぇるすまん』といった様々な作風のヒット作を持つ「あの藤子」であり、『オバQ』や『怪物くん』や『魔太郎がくる!!』や『笑ゥせぇるすまん』を、ネタ出しや締め切りの苦しさはあるであろうものの、楽しんで描いていないはずが無いことを知っているのは読者自身であるからです。Ⓐがよく口にする「プロの読者」――漫画家が本気になって描かないと読者も「プロ」であるからすぐに見透かされ、人気が落ちる――という言葉は、これを裏付けます。


もう一つ、我々日本人にとって1950~60年代は特別な時代です。敗戦からの復興を経た、高度経済成長の始まりであり、公害や環境破壊や都市の過密化・地方の過疎化といったことが社会問題として認識されていない時代でもありました。今の日本という国にとっての青春期といっていいでしょう。

1950~60年代に生まれていなかった自分のようなアラサー・アラフォーが、駄菓子屋や雑貨屋や銭湯、土管の置かれた空き地、秘密基地のある「裏山」といった風景に懐かしさを感じるのも、それが理由でしょう。そして、そういった風景は、『オバQ』や『ドラえもん』『ハットリくん』といった藤子漫画で描かれた風景でもあります。



●「地の文」的ナレーションと映画的演出

本作のシンプルで強固な構造をいや増すのが、その表現手法です。

その時々で満賀が何を考えているのかは、先に示した映画的手法を用いた部分を除いて、基本的にナレーションで語られます。つまり、ナレーションとコマ割りが小説でいうところの地の文のような役割を果たしているのです。これは映画的というよりも小説的な表現手法であり、文学青年としてのⒶの本領が発揮されている箇所ともいえます。


もっといえば、本作の魅力はその分かりやすさにあるともいえます。

登場人物の心理状態が常に文字で説明されるだけでなく、分かりやすさはギャグとしても表現されるのです。

なにか美味しいものを食べれば「ンマーイ!」という手書き文字が躍り、「まんが少年」が休刊したショックで森安なおやは「キャバキャバ」と哄笑します。漫画執筆に燃える満賀の背中からは、当然のように「メラメラ」という書き文字が立ち上ります。

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「春雷編」で銀座に寿司を食べに行った際、食べたネタに合わせて「トロ~」「カッパカッパ」「ウニ~」「エビエビ」と書き文字が躍るのは、ギャグ以外の何者でもありません(それにしてもこの食事、満賀は明らかにワリカン負けしているのですが、良いのでしょうか)。


「愛しり編」に入ると、各エピソードの最後にⒶが変名で書いた詩が挿入されますが、Ⓐとしては内容をまとめるようなまとめないような、なんともいえぬ感じで書こうとしている努力が伝わってくるものの、わりと直接的にその回のテーマを語ってしまっているのも味わい深いところです。



●映画と漫画と歪む時空

唯一、本作で知識無しでの理解が難しいところがあるとすれば、映画史と漫画史に関する部分かもしれません。