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遺言 その10 2016/1/18
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「畜生腹」って知ってるか?
ヒトが多胎出産する確立は僅か数%にすぎない。だが、自然界では犬や猫や豚のように、一回の出産で複数の子を産む多胎動物の方が圧倒的に多い。だから双子や三つ子を生んだ女性を「畜生腹」とか「畜生孕み」とか呼んだんだ。つまり、昔の日本には双子や三つ子を妊娠した女性を蔑む風習があったんだな。
なんで蔑んだかって? まず、多胎妊娠すると圧倒的にハラがデカくなる。栄養状態や衛生状態が悪い古代や中世では、妊娠そのものが命がけだ。それが双子や三つ子だったら、母子共に死ぬリスクも高まる。だから減数手術みたいなものが行われた時代もあった。
もう一つは、家督争いや遺産争いが起こるからだ。とりわけ、一卵性双生児は忌むべきものとされていた。周囲に気づかれずに入れ替わる、入れ替わられる可能性があるからな。外見はそっくりなのに、ある朝突然それまで虐げられていた一派をとりたてる……なんてことがあったら困るわけだ。だから、戦国時代なんかは大名や殿様の家で双子が生まれると、片方を養子にやったり、寺籍に入れたり、はたまた殺したり……といったこともあったらしい。
だけど、今や21世紀、平成の世の中だ。おれは、弟のお前との間に、家督争いとか遺産争いとか醜いことが起こらなくて、本当に良かったと思っているよ。
……さて、なんの話だったか……そうそう、じじいがなんで死んだかって話だった。
インフルエンザが流行すると、いかにも昭和って感じのおっさんが、したり顔でよくこんなことをいう。
「インフルエンザは風邪の一種だから、寝ていれば治る」
これは、半分正しくて、半分間違っている。
ああ、お前はおれよりよく知ってるだろう。だけど、おれもそれなりに勉強したんだぜ。最後まで聞いてくれや。
「インフルエンザは風邪の一種」その通りだ。だが、それをいうなら、溶連菌だってRSウイルスだって風邪の一種だ。寝ていれば治る、なんて一概にはいえない。溶連菌感染は、抗生物質を飲まないで放置していると、リウマチや腎炎などの後遺症が残ってしまう可能性があるし、最悪の場合、心臓弁膜症で死ぬ。RSウイルス感染は、大人ならたいていの場合は寝ていれば治るが、時に重症化する場合もある。重症化すると気管支炎や肺炎になるし、慢性気管支兼になったら、最悪の場合、酸素マスクをつけて生活することになる。
いわゆる「風邪」が他の感染症と大きく違うのは、原因となる細菌……は違うな、原因となるウイルスの多様性だ。
RSウイルスもライノウイルスもインフルエンザウイルスも、様々な型や株――人間でいったら種族や個人だな――がある。一度あるウイルスのある株に感染したら、免疫的に「記憶」するので、同じウイルスの同じ株には感染しない。
大事なのは「同じ株」という点だ。ライノウイルスやインフルエンザウイルスは毎年のように新しい型、新しい株が報告され続けている。ライノウイルスは、一度感染したら人生で二度と同じウイルス株には感染しない。これは免疫的に「記憶」するからだが、なにしろ株の種類が多いので、違う株に感染してしまうというわけだ。免疫学的に似たような株なら、それなりの耐性があるらしいがな。
これが、たとえばおたふく風邪とは違うところだ。おたふく風邪はムンプスウイルスの感染により発病する。ムンプスウイルスはライノウイルスやインフルエンザウイルスほどの多様性は無い。だから、子供の頃におたふく風邪に罹れば、その後は一生罹らない……と言われている。……おたふく風邪も「風邪」だったな。
ノロウイルスの場合は、この二種類のメカニズムが重なり合っている。ノロウイルスのある株に感染すればその株に対する免疫ができるが、違う株には感染する。そして、せっかく成立したノロウイルスのある株に対する免疫の持続時間も比較的短い。結果、短期間に何度もノロウイルスに感染してしまうこともある、というわけだ。最近じゃノロウイルスは「風邪」に分類されないらしいがな。
だが、それでも人生で二度おたふく風邪に罹る人もいる。同じ汚染された牡蠣を食べても、下痢になる人もいれば健康なままでいる人もいる。普通の風邪でも、寝ていれば治る人もいれば、重症化する人もいる。
この差はなんだ? 一言でいってしまえば、これが「免疫力」というやつだな。おたふく風邪の場合は、流行期間以外はムンプスウイルスに触れる機会があまりに少ないので、おたふく風邪に対する「免疫力」を忘れてしまうからだが……「免疫力」をRPGでいう防御力と考えれば、専門家じゃないおれにも理解しやすかった。
細菌やウイルスの攻撃力が高くても、防御力が高ければ感染しない。感染しても、発病しない。防御力が高ければ、同じ攻撃をほぼ無効化できる。これは、細菌やウイルスの攻撃力が低くても、同じ攻撃でも、防御力が低ければ感染し、発病する、ということを意味する。
免疫力という名の防御力の低い者とは誰か。……子供、ヒト免疫不全ウイルス――HIV感染者、骨髄移植患者、……そして老人。
そう老人だ。
老人は、免疫力が低い。過去に同じ株、免疫学的に似たような株に罹っていたとしても、免疫力が低ければ発病してしまう。
もしじじいが誰かに殺されるなら、それはおれの手によってでなければならなかった。
おれが世界で一番憎んでいたのはじじいだし、じじいを世界で一番憎んでいたのはおれだった。おれでなければならなかった。だから、じじいを殺していいのはおれか神だけだ。
じじいがインフルエンザをこじらせて肺炎で死んだ時、遂に罰が与えられたのだと思った。じじいは、ダイエットやリバウンドを繰り返していたものの、若い頃からデブっていて、自身の健康にあまり関心が無かった。デブっていると、感染症に対する抵抗力――免疫力も低くなる。おまけに老人だ。うっかりインフルエンザをこじらせて肺炎で死ぬ――これは、いうなれば神が殺したのだと思った。勿論、おれはお前と同じく、どんな神様も信じてなどいやしないがな。
だが、ここで大事なことに気づいた。
そういえばお前、冬になったら必ず風邪ひいていたよな? 家族の中で一番若いくせに。
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