p_fさん のコメント
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1: 米国が政治的に葬った政治家と言えば田中角栄首相です。中曽根元首相も田中首相は米国に葬られたと判断しています 「日本の政治家で、米国によって政治的に葬られた人いるかしら」と問うと必ず上がってくる名前が田中角栄首相です。 ところが「米国はどのように関与したのであろうか」「何故関与したのであろうか」となると、どうもはっきりしないのです。 後に説明しますが、田中首相が政治声明を失うのはロッキード事件です。 中曽根康弘元首相は著書『大地有情』で次のように記述しています。 「キッシンジャーは私が首相を辞めた後ですが“ロッキード事件は間違いだった”と密かに私にいいました。 キッシンジャーは、ロッキード事件の真相についてはかなり知っていたのではないでしょうか」 中曽根康弘氏はキッシンジャー氏がロッキード事件に関与していることは認めています。日本の首相を政治的に葬ったという事件に、もしキッシンジャー氏が関与していな
非エスカレーション政策がより効果的だった。ソ連は米国のハッタリを買わなかった。ソ連が第三世界の共産主義革命を抑制するならば、代わりに米国は核分野と経済でソ連に譲歩しよう―とした試みは失敗に終わった。アナトリー・ドブリニンはキッシンジャーに、ベトナム戦争があってもソ連は米国との関係改善を望んでいると、私的な会話で伝えた。2人の外交官による会談は、大国間の秘密のチャンネルを確立することに繋がった。
核兵器による威嚇ではなく、ソ連に対する別の戦術が選ばれた。1972年、暫定的なSALT協定とABM条約の調印によるデタント(緊張緩和)である。また、キッシンジャーは中華人民共和国の共産党指導部との関係修復にも着手した。
同時に、アナトリー・ドブリニンの著書「In Confidence」にあるように、ソ連指導部は米国よりも中国を恐れていた。米国とは交渉ができ、両国間で締結された協定を守ってくれると信じていたのに対し、中国は、1970年代の当時でさえ、既にソ連の主要かつ最も不倶戴天の敵だと考えられていた。更に、中国指導部は米国政府に秘密メッセージを送り、ワシントンとモスクワの核合意を非難し、米国人に「ソ連の指導者を信じるな」と警告していた。
デタント政策の事実上の司令塔だったキッシンジャーの行動の論理は、ソ連、中国両国との関係を改善し、この2国間の関係を弱体化させることで米国に利益をもたらすというものだった。彼が行った措置は、戦略的三角形を生み出し、その中で米国は2つの共産主義政権に対して優位に立ち、両国を団結させるはずだった共通のイデオロギーを忘れさせた。そして、ゆっくりとした軍隊の撤退は、米国が世界の政治状況を変えるのに必要な時間を提供し、ソビエトや中国との関係では、デタント政策を追求しつつ、米国の失敗による潜在的なダメージを最小限に抑えた。
米国の対ソ、対中関係の改善を目の当たりにした北ベトナムの指導者は、交渉のテーブルにつくことを望むようになった。1973年1月27日、キッシンジャーとレ・ドゥク・トは、ついにパリ和平協定に調印した。しかし、米国は北ベトナムから何の譲歩も得ることができなかった。 彼らは軍隊を撤退させることに同意し、南部の2つの政府を認めた。
協定調印の翌日、キッシンジャーは内政担当の大統領補佐官ジョン・アーリックマンに「運が良ければ1年半は持ちこたえられると思う」と言った。1975年、南ベトナムは共産軍に敗北したが、彼の言葉は僅か1ヶ月半ずれていただけだった。「戦争は、負けたと思うまで、負けたとは言えない。敗北が確実と思われるまでは、勝利と呼ぶことができる」-この格言に従って、ヘンリー・キッシンジャーはそれを定説に変えた。
皮肉なことに、キッシンジャーが負けた戦争は、彼の個人的な評価を高める結果となった。1973年、彼はベトナムの停戦を交渉したレ・ドゥク・トと一緒にノーベル平和賞を受賞した。更に、デタントとベトナムからの撤退により、キッシンジャーは米国内で人気を博し、ニクソン辞任後も国務長官に留まった。ニクソンの後継者ジェラルド・フォードの時代も国務長官を続け、1977年まで米国の外交政策を担当した。
■外交官古老のキャリアに黄昏が訪れる
米国外交の開祖であるキッシンジャーは、その外交政策において疑う余地のない貢献をしてきたにも拘わらず、長い年月が経過した今、その実績を疑問視する人が増えてきている。キッシンジャーを過去50年間で最も有能な国務長官と考える人もいれば、彼の行動に対する調査、更には逮捕を要求する人もいる。また、キッシンジャーを優秀な政治家、卓越した交渉人であると評価する人が多い一方で、不謹慎で独裁的、更には戦争犯罪人であると見做す傾向もある。
ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンズは、著書「ヘンリー・キッシンジャーの裁判」の中で、この政治家を極めて悪い見方で示し、カンボジア爆撃の第一弾を米国議会の決議なしに自ら指揮したと非難し、更に、ラテンアメリカの政治的敵対勢力を迫害し破壊する目的で、チリ軍のレネ・シュナイダーを誘拐し暗殺する計画を立案し実行に移したことも糾弾した。また、パキスタン政府による東パキスタンのベンガル人虐殺や、1975年のインドネシアによる東ティモール占領時の虐殺を奨励したことでも非難されている。
また、1973年にチリでアウグスト・ピノチェ将軍が、民主的な選挙で選ばれた社会党のサルバドール・アジェンデ大統領を倒した血で血を洗う軍事クーデターに、CIAとともに参加したことでもキッシンジャーは責められている。
こうした深刻な告発とは別に、外交の天才としてのキッシンジャーの役割を再評価する風潮が一般的であるが、彼の先見の明が問われることが多くなった今日、ショーマンシップを外交手腕の象徴であるかのように摺り替えていると非難されている。
第二次世界大戦を経験した世代は、新たな世界紛争を回避したいという強い思いで冷戦に突入した。キッシンジャーは、その時代の最後の生き残りの一人である。「国家は脆弱な組織であり、政治家には倫理的抑制で国家の存続を図るという危険を冒す道徳的権利はない」と彼は「世界秩序」の中で書いている。
政府機関を離れた後も、キッシンジャーは権力の回廊へのアクセスを失うことはなかった。キッシンジャーの業績と経験に対する社会的評価は高まり続けていた。キッシンジャーの助言は、米国の大統領だけでなく、他国の指導者たちからも求められるようになった。キッシンジャーは、政治とビジネスのコンサルティング会社、キッシンジャー・アソシエイツを設立し、キャリアを積んでいった。現在も国際的なイベントに出席し、世界政治の大きな動きについてコメントしている。
パベル・シャリコフは、キッシンジャーの外交的才能は明らかだが、その見解は時代の産物であると言う。
「今日、我々は米国外交を250年の伝統のように考えているが、実際のところ、米国はキッシンジャーが生まれた頃から外交に積極的に関与し始めたのだ。そして、既存の米国外交の流派は、1920年代から1940年代のアジェンダによって形成されたものだ。キッシンジャーはこれらの流派の門下である。彼の主な功績は1960年代から1970年代にかけてなされたもので、今日の米国外交の決定的な品質基準を示している。現在の米国は、彼の遺産を積極的に外交政策に活かしている。古老の中で、彼は最も優れた人物の一人だ」とシャリコフはRTに語った。
またシャリコフは、キッシンジャーは幾つもの時代を乗り越えてきたため、米国政界の若い世代に同様の人物を見つけるのは難しいとも指摘した。「米国外交の開祖といえば、ズビグネフ・ブレジンスキー(彼も欧州生まれ)が同類だろう。キッシンジャーが共和党の外交政策を代表する人物であるのに対し、ブレジンスキーは民主党の人物である。両者とも多くの興味深い書物を残している」
ロシアとウクライナの将来を巡って、キッシンジャーの主張が再び表舞台で活発に議論されるようになった。現在、キッシンジャーが専門家として行っていることは、現在の課題よりも長期的な展望を念頭に置きながら、如何に利害のバランスを保つかをアドバイスすることである。政治家は危機の際に数週間、数ヶ月先のことを考えなければならないが、専門家は自由な時間が多く、実際の意思決定に責任がないため、より遠い将来の選択肢を考える機会がある。そして、当初、キッシンジャーの言葉は、現代のロシアでも注意深く聞かれることになった。
シャリコフは、キッシンジャーが米国との二国間関係のそれぞれの時期、つまり最初はソ連と、次に現代ロシアとの関係において、一種の仲介役を果たしたと指摘する。「シャトル外交の助けを借りて、彼は定期的に一方の指導者から他方の指導者にメッセージを伝えることができた。最後にこのようなことが起こったのはドナルド・トランプ政権下であったが、彼はもはや如何なる正式な役職にも就いていなかった。そうは言っても、彼は最高レベルで受け入れられていた。ヘンリー・キッシンジャーは、ロシアで常に大きな敬意をもって扱われてきた。ロシア人はいつも彼に話しかけ、彼の言うことに耳を傾け、それに注目していた」
キッシンジャーが最近行ったロシアの外交政策に関連する幾つかの指摘は、最も興味深いものだ。例えば、ウクライナが非同盟の地位を維持することは不可能であるという。エコノミスト誌の重要なインタビューで、キッシンジャーは欧州大陸の安全保障のために、ウクライナをNATOに加盟させるよう求めた。キッシンジャーにとって、これまでの絶対的な優先事項は、ロシアが中国に近付き過ぎないようにすることがだった(これは、1970年代に米国の「中国政策」を作り上げた彼自身の経験との関連でも重要である)。
5月25日、キッシンジャーはDie Zeitの長時間のインタビューに応じ、その中で2014年当時に表明した立場―NATOが旧東欧圏諸国を取り込もうとすることは、必然的に大規模な戦争に繋がる―を回想した。キッシンジャーは現在、紛争の結果、ウクライナをNATOに受け入れるべきだと考えており、ロシアとNATOの直接紛争の脅威だけが戦闘再開を防ぐことができると論じている。
また、難聴になり、片目が見えなくなり、心臓の手術も何度か受けたが、たとえ自分の考えをゆっくりと、時には他人が理解できない形でまとめるとしても、精神的には、まだまだ元気である。キッシンジャーは最近のインタビューで、ロシアのウクライナでの軍事作戦について、「今年の終わりには、交渉のプロセス、更には実際の交渉について話すことになると思う」と語った。世界政治の開祖の正しさが再び証明されるかどうかは、ごく近い将来に分るだろう。
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キッシンジャーは、正に米国の偉大な政治家の一人と呼ぶに相応しい。ナポレオン戦争後の欧州の政治再建を主導したオーストリア帝国の国家首相、クレメンス・フォン・メッテルニヒと同列に扱われる。メッテルニヒを手本としたキッシンジャーは、彼を「国際関係に対するロマンを持たない、素晴らしいマニピュレーター」と呼んだ。
実際、キッシンジャー自身もそのような人物だった。そして、ベトナム紛争に関与したことから戦争屋とされるが、彼自身は超大国間の世界的な紛争の防止を人生の主要な目標に挙げている。彼は、この脅威と戦うための代償として、血なまぐさい局地戦を見たのである。戦時中、第三帝国による殺戮を目の当たりにした彼は、破滅的な紛争を回避する唯一の方法は、共通の価値観に裏打ちされた現実的で冷徹な外交を行うことだと考えるようになった。
しかし、ウクライナ危機の場合、キッシンジャーのアプローチは失敗した。2014年の彼の助言は、既にイデオロギー主導色を一層強めていた新しい世代の西側政治家には受け入れられなかった。ロシアとウクライナの紛争はウクライナのNATO加盟によって止められるという彼の推論は、ウクライナの指導者の性質に対する明らかな誤解と結び付いており、彼らは現在の敵対行為を、ウクライナの存亡をかけた紛争と見做し、安全確保やロシアとの調和的共存のためではないとしている。
彼の運命の皮肉は、キッシンジャーが合理的な外交政策を行おうとしたのは冷戦時代だったことだ。しかし、現在のロシアと西側の対立は、理想主義的な熱狂に酔いしれた新世代の政治家たちによって、大きく煽られてしまっている。
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