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私の『戦後史の正体』より。・中曽根元首相は著書で「キッシンジャーは “ロッキード事件は間違いだった”と密かに私にいいました。・バンカー駐南越大使と会談、その時の 'キッシンジャーの発言「Of all the treacherous sons of bitches, the Japs take the cake」
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私の『戦後史の正体』より。・中曽根元首相は著書で「キッシンジャーは “ロッキード事件は間違いだった”と密かに私にいいました。・バンカー駐南越大使と会談、その時の 'キッシンジャーの発言「Of all the treacherous sons of bitches, the Japs take the cake」

2023-12-01 06:21
  • 12

1:米国が政治的に葬った政治家と言えば田中角栄首相です。中曽根元首相も田中首相は米国に葬られたと判断しています
「日本の政治家で、米国によって政治的に葬られた人いるかしら」と問うと必ず上がってくる名前が田中角栄首相です。
ところが「米国はどのように関与したのであろうか」「何故関与したのであろうか」となると、どうもはっきりしないのです。
後に説明しますが、田中首相が政治声明を失うのはロッキード事件です。
中曽根康弘元首相は著書『大地有情』で次のように記述しています。
「キッシンジャーは私が首相を辞めた後ですが“ロッキード事件は間違いだった”と密かに私にいいました。キッシンジャーは、ロッキード事件の真相についてはかなり知っていたのではないでしょうか」
 中曽根康弘氏はキッシンジャー氏がロッキード事件に関与していることは認めています。日本の首相を政治的に葬ったという事件に、もしキッシンジャー氏が関与していな

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孫崎先生の著作の一つに「カナダのトルード首相が米国のジョンソン大統領に詰め寄られ殴られそうになった、ということをカナダの外務省職員から聞かされた」と書かれているのを思い出しました。ジョンソン大統領はベトナム戦争を批判するカナダのトルード首相に向かってまるで西部のカーボーイみたいに脅したのです。それも第三者が大勢いる前で。

田中角栄氏は周恩来氏に会ったとたんその人物の大きさに魅せられたのでしょう。明治維新以降、日本人が中国人を蔑視し侵略し大損害与えたことを詫びる気持ちで臨んだ会談は周恩来氏のリードで「過去より未来」に向けたものになっていたのですから。

元々、米国はバイオレンスの国です。ニクソンやキッシンジャーも例外ではありません。田中角栄氏の死以降、日本の独自外交は去勢されたままです。

No.3 11ヶ月前

>>1
米国も日本も中国とは断絶できません。中国と断絶したらあなたの好きな株も暴落、財政も破綻、日本の金融機関は破産します。

No.4 11ヶ月前

 Moon of Alabama、11月30日付の記事、キッシンジャーの死についての評価は、「ghoulが死んだ」であった。

 いくつか、海外記事が引用されている。

https://www.middleeasteye.net/opinion/murderous-legacy-henry-kissinger

 イギリスのジャーナリスト、クリストファー・ヒッチンズ氏は「キッシンジャーに関する著書の中で、戦争犯罪、人道に対する罪、そして「殺人、誘拐、拷問の共謀を含む慣習法、国際法に反する」罪でキッシンジャーを告発した。しかし、ヒッチンズは、キッシンジャーが異端者ではなく、これらの犯罪のそれぞれがより一般的に米国政府に対して非難されるべきであることを理解していないようだった。」

 この引用記事はThomas Meaneyという人の次の論評を踏まえて、「ミーニー氏が言うように、国の罪を一人の男のせいにすることは全員の利益になる。」と指摘している。

https://www.newyorker.com/magazine/2020/05/18/the-myth-of-henry-kissinger

「キッシンジャーの非道徳的で大量虐殺的な犯罪は、アメリカ建国以来のアメリカの犯罪に勝るとも劣らない。 どちらかといえば、キッシンジャーは、彼が生涯仕え、名声と富と贅沢の長い人生を保証した犯罪的なアメリカ・エリートたちの忠実な代理人に過ぎない。」

 キッシンジャーというヒトは、アメリカ帝国そのもののようなヒトであった、ということだろう。

>キッシンジャーは「日中国交正常化を延期して欲しい」と頼んだが、田中総理は一蹴しました。

 そんなキッシンジャーを、田中角栄氏は一蹴したというのは痛快である。惜しい政治家であった。

No.6 11ヶ月前

> “ロッキード事件は間違いだった”と密かに私にいいました。

本当は「オレの力でタナカを葬ったのだ!」と言い触らしたくてしょうがなかったのだろう。
その一方で、ナカソネには「日航123便のことは墓場まで持って行け」と釘を刺したのでないか。
「ロッキード裁判批判を斬る」を読んだ当時、「ペンは剣よりも強し」で「汚職政治家」の排除に一役買った立花隆氏を手放しで頼もしい存在と見做していたが、実は世界/日本の支配構造を全く理解していなかったのでないか―今にしてそう思う。

PressTV 30 November 2023

ヘンリー・キッシンジャー100歳で死去:世界を悪化させた戦争屋
https://www.presstv.ir/Detail/2023/11/30/715548/US-Henry-Kissinger-Nixon-Ford-Palestine-Israel-Cambodia

数十年に亘って米国の外交政策に影響力を持ち、物議を醸したヘンリー・キッシンジャーが100歳で死去した。冷戦時代、米国の生々しい力を悪びれることなく推進したことで知られるキッシンジャーは、米国の外交政策だけでなく、世界政治全体に消えない足跡を残した-

リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード両大統領のもとで国務長官と国家安全保障顧問を務めたこの極端な外交政策家は、彼のコンサルティング会社であるキッシンジャー・アソシエイツの声明によると、水曜日にコネチカット州の自宅で死去した。

1938年に家族とともにナチス・ドイツを脱出したキッシンジャーは、その後、著名な政治学者、地政学コンサルタントとなり、ワシントンの権力の回廊を渡り歩いた。

ドイツ生まれのユダヤ人難民であったキッシンジャーは、国際秩序の正当性を大国の合意によって成立するものと考え、道徳を無関係なものとして無視する、外交政策への「現実政治」的アプローチで悪名高い人物であった。

当然のことながら、キッシンジャーの遺産は物議を醸す決定や行動によって損なわれている。

1969年から1973年にかけてカンボジアで行われた絨毯爆撃は、15万人から50万人のカンボジア人を死に至らしめた。

カンボジアでの極秘戦術爆撃作戦の狙いはワシントンの願望に基づいており、キッシンジャーがニクソン大統領に「奴らをやっつけるのです!」と忠告したのに従って、南ベトナム民族解放戦線と北ベトナムの両方を打ち負かそうとの意図があった。

秘密作戦への関与で悪名高いキッシンジャーは、1969年、「ダック・ショット」と呼ばれる作戦の一環として、北ベトナムに対して核兵器を使用する可能性のある計画の立案者だった。

英国の作家クリストファー・ヒッチェンズを含む批評家たちは、彼を戦争犯罪と人道に対する罪で非難している。

その著書「ヘンリー・キッシンジャーの裁判」の中で、ヒッチェンズはキッシンジャーが「戦争犯罪、人道に対する罪、そして殺人、誘拐、拷問の共謀を含む通例法、慣習法、国際法に対する罪で訴追されるべきだ」と説得力を持って論じている。

ワシントン・ポスト紙の記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインは、1976年の著書「最後の日々」の中で、北ベトナム爆撃のアイデアが再び持ち上がったとき、キッシンジャーが「爆弾のクレーターの大きさに熱意を示した」ことを明らかにした。

キッシンジャーはまた、爆撃のスケジュールや、ある地域から別の地域へと飛行機を割り振ることを個人的に監督していた。

「次から次へと爆撃機が飛んできます。もう、B-52も見えないほどで、100万ポンドの爆弾を投下しました」とキッシンジャーはニクソンに言った―1972年4月、北ベトナムの港湾都市ハイフォン爆撃後、戦略が機能していると大統領を安心させようとしてのことである。

更に、「きっと、ジョンソン(リンドン元大統領)が1ヶ月で飛ばした爆撃機よりも多くの爆撃機が1日でそこに現れたでしょう...それぞれの爆撃機は、第二次世界大戦の爆撃機1機が搭載できた爆弾の約10倍を搭載できます」とキッシンジャーは言った。

1973年、米国防総省の報告書には、「ヘンリー・A・キッシンジャーは、1969年と1970年の3,875回に亘るカンボジア空爆(爆撃の最も秘密の段階)の各々を承認した」こと、及び「それを新聞に報道させないようにする方法」が書かれた。

中東に関して言えば、キッシンジャーは晩年まで依然として世界舞台で影響力を持っていたと見做されており、ニクソンとフォードの時代にイスラエルを米国の主要同盟国に変えることに貢献し、パレスチナを占領するイスラエル軍に徹底的な武装を施した。 1973年の戦争は「アラブの勝利を阻止する」ためであり、その後数十年に亘ってイスラエルによるパレスチナの土地の植民地化が永続することを確実にするためであった。

キッシンジャーはまた、少なくとも20年に亘ってパレスチナ人を敵視し、特にパレスチナ解放機構(PLO)を悪者扱いし、パレスチナ問題の解決を妨げることによって、パレスチナ人に対する敵対行為を展開した。

キッシンジャーは、1971年にパキスタンのヤヒヤ・カーン元大統領が行った東パキスタン(バングラデシュ)に対する大量虐殺キャンペーンを支持したり、1975年にインドネシアの独裁者スハルトが行った東ティモールの人々に対する大量虐殺戦争を支持したりと、おぞましい行動の数々を記録してきた。

キッシンジャーはかつて、「米国の敵になるのは危険だが、友人になるのは致命的だ」と述べ、友人に対してであっても米国政府の不公平で不誠実な行動に言及したのは有名だ。

No.7 11ヶ月前

RT 27 May, 2023

ヘンリー・キッシンジャーは冷戦を終わらせようとした。何故、ワシントンの後任者たちは、紛争の再開を目指したのか?
https://www.rt.com/news/576989-henry-kissinger-100-years/

現在100歳のドイツ生まれの思想家が、国籍を取得した米国の外交政策に多大な影響を与えた-

ペトル・ラヴレニン記
オデッサ生まれの政治ジャーナリスト、ウクライナ/旧ソビエト連邦専門家

スパイ、プレイボーイ、博士号保持者、外交官、20世紀を代表する政治家、そして冷戦期の米国外交を決定づけた男。2023年5月27日、元国家安全保障顧問で国務長官のハインツ(またはヘンリー)・アルフレッド・キッシンジャーが100歳を迎える。キッシンジャーは、「デタント」政策、中国との関係再構築、核抑止力の概念、ベトナム戦争の終結など、彼の生涯で最も有名な米国外交官と言えるだろう。

RTでは、ドイツから来たユダヤ人の少年が、如何にして米国の大統領たちを魅了し、その後数十年の米国の政策を決定したのか、そして何故 評論家たちは彼をニッコロ・マキャベリの無節操な信奉者と評するのか、その理由を考察する。

■若き大御所

1969年10月27日、熱核爆弾を搭載した18機のB-52がカリフォルニアを離陸した。カナダ上空で給油したこの爆撃機は、米国がモスクワや他の目標―ソビエト連邦の欧州領域―を攻撃できることを実証するはずだった。この計画は、リチャード・ニクソンとキッシンジャーによって練られ、10月10日に命令が下された。米国の指導部は、ロシアを脅して、ワシントンが負けている不人気な戦争で北ベトナムへの支援を制限させることができると考えていた。10月30日に帰還するまでの3日間、米国の爆撃機はソ連のレーダーシステムをテストした。このジャイアント・ランス作戦の詳細が機密解除されたのは、それから僅か35年後のことである。

キッシンジャーは、1954年に博士号を取得したハーバード大学で、初めて一流政治家の世界に足を踏み入れた。その後、同大学で教鞭をとり、外交の専門家として名を馳せることになる。

ハーバード大学では、このドイツ生まれの元気たっぷりの人物は、屈強な冷戦戦士でフランクリン・ルーズベルト元顧問のウィリアム・エリオットを含む、非常に反ソ連的な指導者のもとで学んだ。 エリオットは、キッシンジャーの卒業論文「歴史の意味」を気に入り、その中に彼自身の考えが反映されていると考えた。

彼らは、参加者が道徳的リーダーシップと民主主義原則に沿った世界政治構想や戦略について議論し、策定する年次会議であるハーバード大学サマー インターナショナル セミナーを立ち上げた。 キッシンジャーは、米国は自国のイデオロギーを広めるという点でもっと行動する必要があると主張した。

若いリーダーを集め、米国の価値を高めるために作られたこの新しい計画は、有力なエリートだけでなく、CIAの目にも留まり、10年間に亘りその経費を賄った。当時、共産主義の国際的信用を低下させるプロパガンダの開発を担当していた心理戦略委員会がキッシンジャーを雇い、1955年には国家安全保障会議の作戦調整委員会のコンサルタントとなり、外交問題評議会で核兵器と外交政策の研究ディレクターを務めるようになる。

1957年、初の著書「核兵器と外交政策」を発表し、ベストセラーとなり、一躍脚光を浴びる。これは、当時の多くの軍事研究者の意見を反映したものであったにも拘わらず、有力な政治家や軍関係者に注目された。キッシンジャーは、米国の原子力外交の欠陥を暴き、米国の核戦略は、核で「世の終末」となる相互絶滅という極端な反応しか保証しないため、ソ連を抑止することはできないと主張した。

キッシンジャーによれば、米国の敵対者は、そのような状況下では核兵器は決して使用されないと安心できるため、それはソ連のより大胆な拡張主義を促進することになるという。 そこで彼は、比較的狭い地域を効果的に攻撃できる低出力核兵器を使用し、欧州戦域でワルシャワ条約機構加盟国の軍隊が持つ数の優位性を相殺することを思い付いたのである。

キッシンジャーは、ケネディ大統領のような、米国の軍隊は国際的な脅威に対してより柔軟に対応すべきであると考えていた政治家に倣ったのである。この論理は、1960年代に米国で「柔軟な対応」という防衛戦略の出現に繋がった。大規模な報復ではなく、より慎重な武力行使を求めるものである。

キッシンジャーは、自らを国際関係におけるリアリズムの信奉者だと考えていた。彼のアプローチは、政治的教義や倫理ではなく、歴史的背景と国家自身の国益に基づき、他の強力なアクターとの実践的な関わりを優先させるものだった。この戦略は、より伝統的な米国の例外主義の概念とは異なり、国際政治的パートナーシップの道徳的、イデオロギー的側面を無視し、現実的なニーズに応える限りにおいて、その効力を発揮する。

彼は、政治における理想主義や高邁な思想は、政策を麻痺させる道だと考えていた。1956年、友人の歴史家スティーブン・グラウバードに「純粋な道徳を主張すること自体が、最も不道徳な姿勢である」と言った。

学問の世界で名を馳せた後、政治コンサルタントとしてのキャリアをスタートさせた。政治的、思想的に共和党に近かったが、民主党の高官にも招かれるようになった。共和党のニューヨーク州知事だったネルソン・ロックフェラーの腹心としてスタートし、同時にドワイト・アイゼンハワー、ケネディ、リンドン・ジョンソンの各大統領府のために働いた。

■同格者の中で抜きんでる

1969年、第37代大統領リチャード・ニクソンの当選により、キッシンジャーは国家安全保障顧問に任命され、戦略的政策立案に直接関わるようになった。そして、1973年9月からは国務長官を兼任し、一人の人間がこの2つの役職を同時に兼任したのは、米国史上唯一のケースとなった。この時期、彼は外交のノウハウを存分に発揮し、権力と恋愛に貪欲なことで有名になった。

この「現実的政治」狂が就任すると、彼は大統領の支持を取り付け、CIAを一元化した。国家安全保障会議は更に層が厚くなり、彼直属の委員会が幾つも設置され、スタッフも増員された。ニクソンは国務省を信頼していなかったので、大統領に結び付いたこの組織は、更に多くのことをする権限を与えられ、外交政策路線で国務省を圧迫するようになったのだ。ロシア科学アカデミー米国・カナダ研究所の応用研究センター長で政治学博士のパヴェル・シャリコフはRTに、キッシンジャーの画期的なアプローチは、評議会の業務に研究と分析を導入することに基づいていたと語った。

キッシンジャーは殆どの委員会や小委員会のトップを務めており、非常に強力なプレーヤーだった。ペンタゴン、統合参謀本部、CIAに人脈があった。外交の責任者であり、米軍とのパイプも持っていた。ベトナムからの撤退を管理するという微妙な使命を担っていたため、こうした権力を全て必要としていたのだ。

リチャード・ニクソンが大統領に就任するまでに、米国はベトナムで4年間戦い、北の共産主義政権と戦う南軍を支援していた。1968年に共和党の指名を受けたニクソンは、「戦争の名誉ある終結」を約束した。

しかし、「これ以上ベトナムを増やさないための政策が必要だ」と宣言した。後に彼は、できるだけ早く、そして威厳をもって戦争を終わらせようとしたと書いている。

しかし、早くすることはできなかった。大統領のチームが出口戦略に合意できなかったのだ。ベトナムでは合計58,281人の米国兵と将校が死亡し、そのうち21,189人がニクソン在任中に亡くなっている。ジョンソン大統領時代に和解交渉のコンサルタントとしてスタートし、戦争に勝つことは不可能だと確信していたキッシンジャーは、エスカレーションを―恐らく核による脅しさえ―提案したが、それは危機感を煽り、北ベトナムに交渉への参加を強制し、米国が譲歩するつもりはないことを相手に納得させる方法としてである(いわゆる狂人理論)。

1969年9月10日、全米で大規模な反戦デモ行進が行われるのを前に、ヘンリー・キッシンジャーは大統領にメモを送り、撤退の可能性がある場合の危険性を列挙している。軍隊を撤退させればさせるほど、有権者は更に要求してくる。それに、少ない兵士で戦うのは難しく、撤退するたびに戦力は弱体化する。また、そのようなやり方はドミノ効果を引き起こし、ソビエトに軍事作戦の励みを与えることになりかねない。

米国は、北ベトナムが南ベトナム政府を承認し、国を二つに分断しないような和解協定を結ぶよう主張した。このメッセージは、モスクワにも送られた: キッシンジャーとニクソンは、ソ連からの圧力で、勝っている北ベトナムを交渉のテーブルに着かせることができると考えていた。

1969年3月、米国はベトコンの拠点であった中立国カンボジアへの秘密爆撃を開始した。南ベトナム解放民族戦線の兵士が活動していた。10万人近い民間人が犠牲になったが、この作戦は農業部門に壊滅的な打撃を与え、ポル・ポトとクメール・ルージュを利することになった。同じ頃、米国は、ワシントンが核戦争の準備をしているとソ連に思わせるために、幾つかの秘密作戦を開始した。ソ連周辺でのスパイ活動の回数は大幅に増え、戦略爆撃機は配備に備えて待機させられ、核運搬車両が動員された。

キッシンジャーは外交ルートを駆使し、当時国務長官を務めていたウィリアム・ロジャースの影に隠れて、ワシントンのソ連大使アナトリー・ドブリニンと接触を図った。彼らは交換機なしの直通回線を持っており、通訳も補佐官もつけず、ほぼ毎日、一対一で話をした。

キッシンジャーはドブリニンとのコネクションを利用して、ベトナム共産党の政治局員であるレ・ドゥク・トとのパリでの会談を実現させた。第1回目の会談は成功せず、米国は爆撃で北ベトナムに圧力をかけ続け、解決策を見出そうとした。「北ベトナムのような小さな四流国家に、限界点がないとは到底思えない」とキッシンジャーは主張した。他の米国政府高官とともに、彼は北ベトナムとその同盟国であるカンボジア、ラオスへの絨毯爆撃の責任者であった。彼は、自分の決断がカンボジアで5万人以上の民間人の死亡を招いたことを認めている。インターセプトのニック・トゥルース記者は、その数は15万人に近いと主張している。

No.8 11ヶ月前

>>8
非エスカレーション政策がより効果的だった。ソ連は米国のハッタリを買わなかった。ソ連が第三世界の共産主義革命を抑制するならば、代わりに米国は核分野と経済でソ連に譲歩しよう―とした試みは失敗に終わった。アナトリー・ドブリニンはキッシンジャーに、ベトナム戦争があってもソ連は米国との関係改善を望んでいると、私的な会話で伝えた。2人の外交官による会談は、大国間の秘密のチャンネルを確立することに繋がった。

核兵器による威嚇ではなく、ソ連に対する別の戦術が選ばれた。1972年、暫定的なSALT協定とABM条約の調印によるデタント(緊張緩和)である。また、キッシンジャーは中華人民共和国の共産党指導部との関係修復にも着手した。

同時に、アナトリー・ドブリニンの著書「In Confidence」にあるように、ソ連指導部は米国よりも中国を恐れていた。米国とは交渉ができ、両国間で締結された協定を守ってくれると信じていたのに対し、中国は、1970年代の当時でさえ、既にソ連の主要かつ最も不倶戴天の敵だと考えられていた。更に、中国指導部は米国政府に秘密メッセージを送り、ワシントンとモスクワの核合意を非難し、米国人に「ソ連の指導者を信じるな」と警告していた。

デタント政策の事実上の司令塔だったキッシンジャーの行動の論理は、ソ連、中国両国との関係を改善し、この2国間の関係を弱体化させることで米国に利益をもたらすというものだった。彼が行った措置は、戦略的三角形を生み出し、その中で米国は2つの共産主義政権に対して優位に立ち、両国を団結させるはずだった共通のイデオロギーを忘れさせた。そして、ゆっくりとした軍隊の撤退は、米国が世界の政治状況を変えるのに必要な時間を提供し、ソビエトや中国との関係では、デタント政策を追求しつつ、米国の失敗による潜在的なダメージを最小限に抑えた。

米国の対ソ、対中関係の改善を目の当たりにした北ベトナムの指導者は、交渉のテーブルにつくことを望むようになった。1973年1月27日、キッシンジャーとレ・ドゥク・トは、ついにパリ和平協定に調印した。しかし、米国は北ベトナムから何の譲歩も得ることができなかった。 彼らは軍隊を撤退させることに同意し、南部の2つの政府を認めた。

協定調印の翌日、キッシンジャーは内政担当の大統領補佐官ジョン・アーリックマンに「運が良ければ1年半は持ちこたえられると思う」と言った。1975年、南ベトナムは共産軍に敗北したが、彼の言葉は僅か1ヶ月半ずれていただけだった。「戦争は、負けたと思うまで、負けたとは言えない。敗北が確実と思われるまでは、勝利と呼ぶことができる」-この格言に従って、ヘンリー・キッシンジャーはそれを定説に変えた。

皮肉なことに、キッシンジャーが負けた戦争は、彼の個人的な評価を高める結果となった。1973年、彼はベトナムの停戦を交渉したレ・ドゥク・トと一緒にノーベル平和賞を受賞した。更に、デタントとベトナムからの撤退により、キッシンジャーは米国内で人気を博し、ニクソン辞任後も国務長官に留まった。ニクソンの後継者ジェラルド・フォードの時代も国務長官を続け、1977年まで米国の外交政策を担当した。

■外交官古老のキャリアに黄昏が訪れる

米国外交の開祖であるキッシンジャーは、その外交政策において疑う余地のない貢献をしてきたにも拘わらず、長い年月が経過した今、その実績を疑問視する人が増えてきている。キッシンジャーを過去50年間で最も有能な国務長官と考える人もいれば、彼の行動に対する調査、更には逮捕を要求する人もいる。また、キッシンジャーを優秀な政治家、卓越した交渉人であると評価する人が多い一方で、不謹慎で独裁的、更には戦争犯罪人であると見做す傾向もある。

ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンズは、著書「ヘンリー・キッシンジャーの裁判」の中で、この政治家を極めて悪い見方で示し、カンボジア爆撃の第一弾を米国議会の決議なしに自ら指揮したと非難し、更に、ラテンアメリカの政治的敵対勢力を迫害し破壊する目的で、チリ軍のレネ・シュナイダーを誘拐し暗殺する計画を立案し実行に移したことも糾弾した。また、パキスタン政府による東パキスタンのベンガル人虐殺や、1975年のインドネシアによる東ティモール占領時の虐殺を奨励したことでも非難されている。

また、1973年にチリでアウグスト・ピノチェ将軍が、民主的な選挙で選ばれた社会党のサルバドール・アジェンデ大統領を倒した血で血を洗う軍事クーデターに、CIAとともに参加したことでもキッシンジャーは責められている。

こうした深刻な告発とは別に、外交の天才としてのキッシンジャーの役割を再評価する風潮が一般的であるが、彼の先見の明が問われることが多くなった今日、ショーマンシップを外交手腕の象徴であるかのように摺り替えていると非難されている。

第二次世界大戦を経験した世代は、新たな世界紛争を回避したいという強い思いで冷戦に突入した。キッシンジャーは、その時代の最後の生き残りの一人である。「国家は脆弱な組織であり、政治家には倫理的抑制で国家の存続を図るという危険を冒す道徳的権利はない」と彼は「世界秩序」の中で書いている。

政府機関を離れた後も、キッシンジャーは権力の回廊へのアクセスを失うことはなかった。キッシンジャーの業績と経験に対する社会的評価は高まり続けていた。キッシンジャーの助言は、米国の大統領だけでなく、他国の指導者たちからも求められるようになった。キッシンジャーは、政治とビジネスのコンサルティング会社、キッシンジャー・アソシエイツを設立し、キャリアを積んでいった。現在も国際的なイベントに出席し、世界政治の大きな動きについてコメントしている。

パベル・シャリコフは、キッシンジャーの外交的才能は明らかだが、その見解は時代の産物であると言う。

「今日、我々は米国外交を250年の伝統のように考えているが、実際のところ、米国はキッシンジャーが生まれた頃から外交に積極的に関与し始めたのだ。そして、既存の米国外交の流派は、1920年代から1940年代のアジェンダによって形成されたものだ。キッシンジャーはこれらの流派の門下である。彼の主な功績は1960年代から1970年代にかけてなされたもので、今日の米国外交の決定的な品質基準を示している。現在の米国は、彼の遺産を積極的に外交政策に活かしている。古老の中で、彼は最も優れた人物の一人だ」とシャリコフはRTに語った。

またシャリコフは、キッシンジャーは幾つもの時代を乗り越えてきたため、米国政界の若い世代に同様の人物を見つけるのは難しいとも指摘した。「米国外交の開祖といえば、ズビグネフ・ブレジンスキー(彼も欧州生まれ)が同類だろう。キッシンジャーが共和党の外交政策を代表する人物であるのに対し、ブレジンスキーは民主党の人物である。両者とも多くの興味深い書物を残している」

ロシアとウクライナの将来を巡って、キッシンジャーの主張が再び表舞台で活発に議論されるようになった。現在、キッシンジャーが専門家として行っていることは、現在の課題よりも長期的な展望を念頭に置きながら、如何に利害のバランスを保つかをアドバイスすることである。政治家は危機の際に数週間、数ヶ月先のことを考えなければならないが、専門家は自由な時間が多く、実際の意思決定に責任がないため、より遠い将来の選択肢を考える機会がある。そして、当初、キッシンジャーの言葉は、現代のロシアでも注意深く聞かれることになった。

シャリコフは、キッシンジャーが米国との二国間関係のそれぞれの時期、つまり最初はソ連と、次に現代ロシアとの関係において、一種の仲介役を果たしたと指摘する。「シャトル外交の助けを借りて、彼は定期的に一方の指導者から他方の指導者にメッセージを伝えることができた。最後にこのようなことが起こったのはドナルド・トランプ政権下であったが、彼はもはや如何なる正式な役職にも就いていなかった。そうは言っても、彼は最高レベルで受け入れられていた。ヘンリー・キッシンジャーは、ロシアで常に大きな敬意をもって扱われてきた。ロシア人はいつも彼に話しかけ、彼の言うことに耳を傾け、それに注目していた」

キッシンジャーが最近行ったロシアの外交政策に関連する幾つかの指摘は、最も興味深いものだ。例えば、ウクライナが非同盟の地位を維持することは不可能であるという。エコノミスト誌の重要なインタビューで、キッシンジャーは欧州大陸の安全保障のために、ウクライナをNATOに加盟させるよう求めた。キッシンジャーにとって、これまでの絶対的な優先事項は、ロシアが中国に近付き過ぎないようにすることがだった(これは、1970年代に米国の「中国政策」を作り上げた彼自身の経験との関連でも重要である)。

5月25日、キッシンジャーはDie Zeitの長時間のインタビューに応じ、その中で2014年当時に表明した立場―NATOが旧東欧圏諸国を取り込もうとすることは、必然的に大規模な戦争に繋がる―を回想した。キッシンジャーは現在、紛争の結果、ウクライナをNATOに受け入れるべきだと考えており、ロシアとNATOの直接紛争の脅威だけが戦闘再開を防ぐことができると論じている。

また、難聴になり、片目が見えなくなり、心臓の手術も何度か受けたが、たとえ自分の考えをゆっくりと、時には他人が理解できない形でまとめるとしても、精神的には、まだまだ元気である。キッシンジャーは最近のインタビューで、ロシアのウクライナでの軍事作戦について、「今年の終わりには、交渉のプロセス、更には実際の交渉について話すことになると思う」と語った。世界政治の開祖の正しさが再び証明されるかどうかは、ごく近い将来に分るだろう。

***

キッシンジャーは、正に米国の偉大な政治家の一人と呼ぶに相応しい。ナポレオン戦争後の欧州の政治再建を主導したオーストリア帝国の国家首相、クレメンス・フォン・メッテルニヒと同列に扱われる。メッテルニヒを手本としたキッシンジャーは、彼を「国際関係に対するロマンを持たない、素晴らしいマニピュレーター」と呼んだ。

実際、キッシンジャー自身もそのような人物だった。そして、ベトナム紛争に関与したことから戦争屋とされるが、彼自身は超大国間の世界的な紛争の防止を人生の主要な目標に挙げている。彼は、この脅威と戦うための代償として、血なまぐさい局地戦を見たのである。戦時中、第三帝国による殺戮を目の当たりにした彼は、破滅的な紛争を回避する唯一の方法は、共通の価値観に裏打ちされた現実的で冷徹な外交を行うことだと考えるようになった。

しかし、ウクライナ危機の場合、キッシンジャーのアプローチは失敗した。2014年の彼の助言は、既にイデオロギー主導色を一層強めていた新しい世代の西側政治家には受け入れられなかった。ロシアとウクライナの紛争はウクライナのNATO加盟によって止められるという彼の推論は、ウクライナの指導者の性質に対する明らかな誤解と結び付いており、彼らは現在の敵対行為を、ウクライナの存亡をかけた紛争と見做し、安全確保やロシアとの調和的共存のためではないとしている。

彼の運命の皮肉は、キッシンジャーが合理的な外交政策を行おうとしたのは冷戦時代だったことだ。しかし、現在のロシアと西側の対立は、理想主義的な熱狂に酔いしれた新世代の政治家たちによって、大きく煽られてしまっている。

No.9 11ヶ月前

岸田内閣は、中国寄り「バランス外交」を公安調査庁に波及させている。

テロに指定されていた「ハマス」、「PKK」、「ヒズボラ」、「ミャンマー」など11月24日の公安調査庁のHPで抹消した。理由は国連安保理決議1267号に基づくといっているが、1373号では「ハマス」は制裁対象になっている。理由が理由になっていない。

親日国トルコとかイスラエルに敵対する姿勢を示して「バランス外交」とは、岸田氏大丈夫か心配になる。

No.10 11ヶ月前

>>10
岸田氏が心配?株の仕手情報が来なくなるからですか?

No.11 11ヶ月前

>>11
岸田氏は株などしていないでしょう。
話し合い重視で、デシジョンメイキングの出来ない人には不向きでしょう。
株のことが大変気になるようですね。
株は実利を兼ねて楽しんでいますが、儲けようなどとは考えていません。
損を覚悟していますが、最近の5年間の実績は好調です。
何でも参加しなければ、実績が残せません。
「口先人間」は、「実行が伴って一人前」を自覚することですね。

No.12 11ヶ月前

>>12
日銀が株の仕手になって久しいです。黒田以降その行為は正当化されてます。日銀は政府への資金貸付で超忙しい。その日銀総裁人事権は首相にあるんです。昔は日銀は独立してたけど今じゃ首相にゴマする男しか日銀総裁にはなれません。そういう実態から岸田の手下たちは仕手情報に群がっていることでしょう。

No.13 11ヶ月前
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