5
ケロピーとデメックの修行の旅は、そろそろ佳境を迎えようとしている。温泉のおかげもあってか、ケロピーの傷と疲れが急速に回復し、それに伴ってトンボ捕りの腕前も急速に上達した。ケロピーは、今では難なくトンボを捕ることができる。
それは、この修行の旅の目的のうち、半分を達成したことを意味していた。つまり、残りは半分だ。だからデメックは、ここで折り返すことを決めた。ここからは、ベースキャンプへの帰還を目指しながら、修行の旅を続けることになる。
ただし、帰還と言っても、楽な道程ではない。行きとは違うルートを選んで帰るので、行きと同様、未知の道程だ。しかも、修行の課題の内容は、行きよりもはるかに難しくなる。だから、行きよりも帰りの方が、むしろ負担が大きい。さらに、そこに長旅の疲労がジワジワと加わるのだ。
「この修行も、いよいよ後半に入る。これからは、命の保障はないものと思え」
「はい、デメック」
ケロピーもデメックも、これまで以上に真剣な表情をしている。命の保障はない、という表現は、大袈裟ではないのだ。
「今日からは、ハチの捕獲の演習に入る。ただし、ハチと言っても、様々な種類がいる。最も大型で凶暴なのは、スズメバチだ。ヤツらは、力が強い上に、猛毒を持っているので、非常に危険だ。残念ながら、我々カエル族では、スズメバチに太刀打ちすることは不可能だ。しかし、幸いにして、ヤツらは硬くて味が悪い。だからヤツらは、我々ハンターの獲物ではない。スズメバチを見かけたら、即座に退却するように」
「分かりました」
「我々の獲物は、ミツバチだ。ミツバチは、スズメバチよりも、小型で大人しい。しかも、甘くて美味い。しかし、侮るな。ミツバチは、集団行動が非常に優れている。集団で、スズメバチを殺してしまうこともできるんだ」
「えっ! 本当ですか?」
ケロピーには、あの大きなスズメバチを、小さなミツバチが殺すことなど、想像することができなかった。
「本当だよ。何十匹ものミツバチが、いっせいに一匹のスズメバチを取り囲んで、圧殺するんだ。いくら大きなスズメバチでも、あの攻撃にはかなわない。ハチに限らず、カエルにも同じことが言える。きちんと統率された100匹の平凡なカエルがいたら、いくら優秀なカエルが一匹でがんばったとしても、とてもじゃないがかなわない」
「デメックでも?」
「そうさ」
デメックは、さも当然というように、あっさりと答えた。ケロピーには、それが不思議だった。なぜなら、単独行動のスズメバチよりも、集団行動のミツバチの方が優れているのであれば、自分が単独で修行を行っていることの意味が分からないからだ。デメックの言ったことが本当ならば、集団で修行を行うべきだろう。そう思っていたケロピーに対して、デメックが小さく、しかし鋭い声で言った。
「ケロピー」
「はい?」
「気をつけろ。どうやらオレたちは、既にミツバチにテリトリーに入っているみたいだ」
「どうしたらいいですか?」
「とにかく、むやみに動くな。右に3匹、左に2匹、前方には5匹、後ろに3匹いる。完全に取り囲まれたな」
「え? 本当ですか?」
ケロピーは、慌てて周囲を見渡したが、何一つ見えない。
「馬鹿っ! むやみに動くなと言っただろう!」
その瞬間、ブーンという羽音が聞こえた。と思った瞬間、突然デメックにタックルされて、地面に転がった。それでケロピーにも、すぐ近くにミチバチがいることが分かった。そう思って木の上をよく見ると、数匹のミツバチが飛んでいるのが見えた。
「そのまま地面に伏せて、じっとしていろ」
デメックも、地面に伏せた体勢だ。その姿勢のまま、小さな声で話しかけてきた。
「ヤツらが分散するのを、このまま待つ。ヤツらは必ず、花粉を集めにいく部隊と、見張りの部隊に分かれるはずだ。しかも、これからヤツらが花粉を集めに行こうとしている場所は、かなり遠い。だから、一旦出かけて行けば、しばらくは戻ってこない。その間は、見張りの部隊だけになるから、そこがチャンスだ」
「もし、花粉を集める部隊がすぐに戻ってきたら、どうするんですか?」
「だから、すぐには戻ってこないと言っているだろう? ヤツらはこれから、遠くまで花粉を集めに行くんだ」
「そんなこと、分からないじゃないですか」
「分かるんだよ」
「なぜです?」
「ヤツらは8の字ダンスで、仲間に花粉のある場所を教えるんだよ」
「8の字ダンス?」
「そうだ。8の字に飛ぶことで、花粉のある場所の方角と距離を示すんだ」
「え? 本当ですか?」
「嘘を言ってどうなる」
デメックの言う通り、ここで嘘を言っても仕方がない。つまり、デメックが言っていることは、本当だということだ。そう判断したケロピーは、ミチバチたちの動きを注意深く見た。すると、何匹かのミツバチが、デメックの言う通りに8の字に飛んでいるのが分かった。でも、分かったことは、それだけだった。
「あの飛び方を見て、どうやって花粉のある場所の方角と距離が分かるんですか?」
「それは、自分の目で観察して覚えろ。それが今回の演習だ。まず、あの8の字ダンスを頭に叩き込め。花粉を集める部隊が飛んでいったら、見張りの数匹を捕らえる。そうしたら、花粉を集めに行った部隊の後を追う」
「後を追う? なんのためにですか?」
「8の字ダンスと花粉をある場所の関係性を覚えるためさ」
「なるほど。了解です」
それからほどなくして、デメックが予言した通り、花粉を集める部隊がどこかに向かって飛んでいった。残った見張りの部隊は、数匹だけだ。花粉を集める部隊がすぐに戻ってこないのであれば、楽勝である。
つまり、ミツバチ狩りをするためには、8の字ダンスを覚えられるかどうかが、成果を大きく左右するということだ。8の字ダンスが分からなければ、成果うんぬん以前に、たくさんのミツバチに襲われて殺されかねない。だから、是が非でも8の字ダンスを覚えなければならない。
デメックの指示のおかげで、ケロピーは見張りのミチバチたちを、簡単に捕らえることができた。だから、すぐに花粉を集める部隊の後を追うことにした。
かなり歩いて、ミツバチたちが花粉を集めているところに、やっと辿り着いた。ミツバチたちは、やはりデメックの言った通り、かなり遠くまで来ていた。
「ケロピー、さっきの8の字ダンスを覚えているか?」
「はい」
「あの飛び方の場合、この方角で、この距離なんだ。それを忘れないようにしろ」
「分かりました」
「よし。元に戻るぞ」
「え? ここはこれで終わりですか?」
「そうだよ。ここに来た目的は、もう済んだからな。元に戻って、別の花粉のある場所に行く部隊を観察するんだ。そいつらは、さっきの8の字ダンスとは違う飛び方をするはずだ。それを見て、どこがどう違うのかを比較するんだよ」
「了解」
ケロピーとデメックは、元の場所に戻ってきた。その場所の近くには、きっとミツバチの巣があるのだろう。先ほどとは別の花粉を集める部隊が飛んでいる。
その部隊の飛び方も、8の字だ。ケロピーは、先ほどの部隊の8の字を思い出していた。そして、どこに違いがあるのかを考えた。でも、さっぱり分からない。それを見透かしたように、デメックが言った。
「何が違うのか、分からないだろう?」
「ええ」
ケロピーは、少し悔しかったが、分からないものは分からない。だから、正直にそう答えるしかなかった。
「8の字ダンスが分かるようになるためには、何回も何回も観察するしかないんだよ。オレも昔、そうやって覚えたんだ」
「はい」
「とにかく何回も観察する必要がある。でも、ただ単に何回も観ていてもダメだ。絶対に違いを見つけ出してやろうっていう執念が大切なんだ。そういう執念がなければ、違いは見つけられない。ケロピー、執念を持て」
「分かりました」
ケロピーは、気を引き締め直して、改めてミチバチたちの8の字ダンスを観察し始めた。
6
8の字ダンスの観察は、本当に何回も何回も繰り返し行われた。つまりケロピーは、ミツバチたちの巣の近くと、花粉のある場所とを、何度も何度も往復したということだ。たまには近い場所の時もあったが、大半はとても遠い場所だった。
初日と二日目は、何も分からないまま終わった。丸二日間、朝から晩までミツバチを追いかけて走り回り続けても、何も成果が得られないことに、ケロピーは何度もくじけそうになった。でも、そのたびにデメックの言葉を思い出して、それを自分に言い聞かせた。
「執念を持て」
それは、弱い自分に妥協しないということだ。疲れてくると、無意識のうちに「これ以上は無理だ」という思いが頭をよぎる。そして、老師の言葉も思い出した。
「無理だと思う心が、物事を無理にするのじゃ」
この老師の言葉は、執念を持てという意味だったのだと、ケロピーは今気づいた。8の字ダンスの観察を始めて三日目、ケロピーは心の中で老師からの教えを強く念じていた。
「ビジョンと共にあらんことを」
そう、ビジョンだ。一人前のハンターになった時の自分を思い描くんだ。デメックのような立派なハンターになった自分の姿を!
そう思っていれば、弱い自分に妥協することなどできない。ケロピーは、何としてでも8の字ダンスの秘密を見つけ出してやろうという気力が湧いてくるのを感じていた。
そうやって、これまで以上に集中して8の字ダンスを観察した。すると、8の字の大きさと、花粉がある場所までの距離に、関係があることが分かってきた。どうやら、8の字が大きい時は遠く、小さい時は近いようなのだ。これまで、それに気づかなかったのは、ほとんどの場合が遠い場所だったから、8の字の大きさにあまり違いがなかったためだ。
しかし、一度気づいてしまえば、8の字の大きさと距離が比例していることが、よく分かる。しかも、極めて正確に比例している。つまり、8の字のほんのちょっとの大きさの違いが、微妙な距離の違いを表現しているのだ。その微妙な違いは、何回も観察した経験のある者にしか分からないだろう。単なる知識ではなく、経験が必要なのだ。
ケロピーは、観察を始めて3日目で、そこまでのことを理解した。ただし、方角に関することは、まだ分からない。
8の字ダンスと方角の関係は、なかなか見つけることができなかった。ミツバチたちが特定の場所を教えようとしている時、みんな同じ方向に向かって8の字に飛ぶことまでは分かっている。別の場所を教えようとする時は、みんなまた別の同じ方向に8の字の軌跡を描く。では、その方向に花粉があるのかというと、そういうわけではない。では、8の字ダンスの方向は、何を意味しているのか? みんなが同じ方向の8の字を描いているのだから、そこには必ず意味があるはずだ。
4日目も5日目も、ケロピーはそのことばかり考えながら、観察を続けていた。つまり、「こういうことかもしれない」「あれとこれが関係しているのかもしれない」という仮説を立てながら、観察していたということである。
そして6日目、ケロピーは、ハチたちは同じ方向を仲間に教える時に、いつも同じ方向に8の字ダンスをするわけではないことに気づいた。同じ方向を教えているのに、時間帯によって8の字の方向が変わるのだ。それに気づいたケロピーは、ついに8の字ダンスと方角の関係の謎を理解した。
「そうか。太陽だ!」
謎を解く鍵は、太陽だった。ミツバチたちは、花粉のある場所の方角と太陽の角度を踏まえた上で、8の字ダンスをしていたのである。
確かに、そうすれば、花粉のある場所まで飛んでいる途中でも、常に正しい方向を判断することができる。8の字ダンスそのものの方向が、花粉のある場所の方向を示しているのであれば、そこに向かって飛んでいる途中で方向を見失う可能性がある。なぜなら、花粉がある場所までは障害物があるため、途中で何度も飛ぶ方向が変わってしまうからだ。そうなると、そのうちに正しい方向が分からなくなってしまうだろう。でも、太陽との角度が分かっているのであれば、方向を見失うことはない。
ケロピーは、ミツバチたちの知恵に心から感心していた。そして、それに比べて、8の字ダンスの謎を解くのに6日間もかかってしまった自分を、情けなく感じていた。だから、観察が終わったことを伝えるデメックへの報告は、自信のないものとなってしまった。
「やっと観察が終わりました。何日もお待たせして、申し訳ありませんでした」
ケロピーが8の字ダンスの観察を続けている間、それが終わるのをデメックはずっと黙って見守っていたのだ。
「そんなことは気にする必要はないよ。そんなことよりも重要なことは、このミツバチの観察で学ぶべきことを、お前はしっかりと学んだってことだ。そうだろう?」
「はい。執念を持て、ですね?」
「そうだ。それでいい」
デメックはそう言って、満足げに何度もうなずいた。
「ところでデメック」
「ん? なんだ?」
「この観察を通して、一つ疑問に思ったことがあるんです」
「うん。言ってみろ」
「はい。ミツバチたちは、すごい知恵を持っています。しかも、その知恵をみんなで共有しています。だからこそミツバチたちは、確実に花粉を集めることができる。それに、デメックは教えてくれました。ミツバチは集団でスズメバチを殺すこともできるって。だから僕は実感したんです。一匹よりも、集団の方が優れている。デメックでも100匹の平凡なカエルにはかなわないって話は、本当なんだって」
「その通りだな。で、それのどこが疑問なんだ?」
「だから、こうやって一匹で修行することの意味は、何なんですか? 一匹で修行するよりも、集団で行動することを学んだ方がいいんじゃないですか?」
「ケロピー、それは、半分は正解だが、半分は間違いだ」
「なぜですか?」
「自慢じゃないが、平凡なカエルがただ100匹いるだけなら、オレは恐らく、さほど苦労なく勝てるよ」
「でも、この前は、かなわないって言ったじゃないですか」
「オレがかなわないのは、100匹の統率されたカエルに、だよ。統率されていない烏合の衆なら、何匹いようが大したことはない。ミツバチだって、同じさ。彼らが一匹ずつ勝手に行動しているのなら、捕まえるのは簡単だよ。そう思わないか?」
「……なるほど」
「集団は、みんなが一つの目標に向かって行動する時に、強大な力となる。つまり、誰かが目標を提示する必要があるんだ」
「つまり、リーダーが必要ってことですか?」
「お前が言う通り、目標を提示するのは、リーダーの場合もある。でも、そうじゃない場合もあるんだ」
「そうじゃない場合は、誰が目標を提示するんですか?」
「誰でもいいんだよ」
「誰でもいい? どういうことですか?」
「目標を提示するっていうのは、その時に直面している問題を解決するための方向性を示すってことだ。そして、そのためには、その前に、何が問題なのかに気づく必要がある。問題があることに気づいていなければ、問題を解決しようという考え自体が浮かばない。そうだろう?」
「ええ、そうですね」
「だから、何が問題なのかに、誰かが気づく必要があるんだよ。それは、誰が気づいても構わない。誰かが問題に気づいたら、それをリーダーに言えばいいのさ。そして、リーダーを通じてみんながその問題を共有すれば、みんなでその問題の解決策を考えるだろう? そうすれば、一匹だけで考えるよりも、いい考えが出てくる可能性が高まる。そして、そのいい考えを、みんなで実行すればいい。これが、集団の力だよ」
「と言うことは、つまり……」
「そうだ。問題を解決する方法を考えることも、その方法を実行することも、平凡なカエルにもできることなんだよ。でも、何が問題なのかに気づくことは、平凡なカエルにはできない。だから、集団の力を活用するためには、問題に気づくことができるカエルが、必ず一匹は必要なんだ」
「分かりました。この修行は、そういうカエルになるためのものなんですね?」
「そういうことだ」
「ありがとうございます。僕、これまでよりも、もっとやる気が湧いてきました」
「うん。そうじゃなければ、困る。言っておくが、この先の修行は、これまで以上に厳しくなるからな」
「はい!」
ケロピーは、修行の内容が厳しくなると聞いて、ますますやる気が出るのを感じていた。なぜなら、将来の自分についてのビジョンが、今まで以上に明確になったからだ。
7
デメックの言葉通り、修行の内容は一段と厳しいものとなった。ケロピーは、草むらを走り回り、土にもぐり、崖をよじ登り、滝に打たれた。そういった経験を通じて、精神的にも肉体的にも、ケロピーはタフになっていった。
今日の修行は、潜水から始まった。これは、池で獲物の狙っている最中に、逆に鳥に狙われた時に逃げるための訓練だ。カエルにとっての獲物である昆虫類が豊富な池には、同じく昆虫をエサにしている魚が必ずたくさんいて、その魚を目当てにした水鳥たちもたくさんいる。だから、泳ぎが得意なカエルにとっても、池は安心できる場所ではないのだ。
「ケロピー! 上がって来い!」
デメックが池のほとりから、気持ちよく潜水を繰り返していたケロピーに声をかけた。でも、潜水の練習を始めて、まだ30分も経っていない。
「え? もう終わりですか?」
「そうじゃない。これからが今日の修行の始まりだ」
「これからが始まり?」
「そうだ。いいから、早く上がって来い」
ケロピーが池から上がると、デメックが池のほとりの大きな木を指差して言った。
「まずは、これに登ってもらう」
「これって、この木のことですか?」
ケロピーは、思わず聞き返した。何しろデメックが指差しているのは、とんでもなく大きな木なのだ。
「うん。この木のことだ」
「デメック、これはいくらなんでも、大きすぎるんじゃないですか?」
「大きいから、いいんじゃないか。できるだけ高いところに登った方が、色々な獲物が捕れるだろう?」
「まあ、そうですけど……」
「分かったら、さっさと登れ」
「……はい」
ケロピーは、意を決して、木の根元に近づいた。しかし、そこから木を見上げると、思わずため息がもれた。
「念のために確認しますけど、一番上まで登るんですよね?」
「当たり前だろう。そのために、わざわざ大きな木を選んだんじゃないか」
「ですよね」
デメックの返事は思った通りの内容だったが、それでもケロピーは少しゲンナリした。なぜなら、この木の一番上まで登るとなると、今日中にはとても無理だからだ。つまり、夜もこの木の上で過ごすことになるということだ。
それを想像すると、気が重くなる。しかし、登らないわけにはいかない。修行中は、指導教官の指示には絶対服従なのだ。ケロピーは渋々、木に登り始めた。
しばらくの間は、心を無にして、ひたすら登った。ところがすぐに、そういうわけにはいかなくなった。木の幹は基本的に、下よりも上の方が細い。ところが、その木の幹は、途中で大きく膨らんでいるのだ。だからその部分は、下から登っていくと、オーバーハングの状態になっている。そこを超えて上に登るためには、背中を下にした状態でしがみつきながら登るしかない。
これは不可能だ。ケロピーは、直感的にそう思った。それでも試しに、前足を上に伸ばしてみた。その途端に落ちそうになって、慌てて前足を引っ込めた。ケロピーはそのまま、立ち往生してしまった。
「どうした、ケロピー! もう疲れたのか?」
下から、デメックの声が聞こえてきた。それを聞いたケロピーは、地上からはこのオーバーハングが見えないのかもしれない、と思った。
「デメック! 木の幹がオーバーハングしているんです」
「それが、どうかしたか?」
どうかしたか、だって? だから、これ以上は登れないに決まってるじゃないか。自分は下から見ているだけだから、他人事なんだな。
「だから、これ以上登るのは無理です」
「そんなことはない。少々登りにくいだけだ」
無茶言うなよ。これは無理だって。
「ケロピー、頭を遣え。どうやったら登れるのかを、考えるんだ。いいな?」
考えるって、何を考えればいいんだ? 背中を下に向けなきゃ登れないことは間違いないし、その体勢になった途端に落ちることも間違いない。考える余地がないじゃないか。
「おいケロピー! 返事がないぞ。考えろって言っているだ」
「はい、考えます」
そう答えたものの、ケロピーは何も思い浮かばなかった。だから、そのままじっとしていた。そして心の中で、だったら自分で登ってみろよ、とデメックに対して毒づいていた。
その状態が、しばらく続いた。じっとしているだけでも、かなりきつい。だからケロピーは、それがこの修行の目的なのだろうと思った。不可能な状態にあえて挑戦させて、忍耐力を付けるのが、この木登りの目的なのだと思ったのだ。そのためケロピーは、このままじっとしていれば、そのうちにデメックが「よし! 降りて来い!」と言ってくれるのだろうと予想した。
ところが、いつまで経っても、その声がかからない。ケロピーは、そろそろ終わりにしてくれるように、デメックにお願いしようと思って、下を見た。しかし、デメックの姿が見当たらない。ケロピーがじっとしたままなので、それを見ているのに飽きて、どこかに行ってしまったのかもしれない。そう思ったケロピーは、無性に腹が立った。自分がこんなにがんばっているのに、ほったらかしにされていると思ったのだ。
「畜生……」
「おい、誰が畜生だって?」
突然、デメックの声が、少し上の方から聞こえた。ケロピーは驚いて、声がした方を見上げた。すると、すぐそこに、デメックが背中を下にした体勢で、木の幹に取り付いていた。
「デメック!」
「いつまで、そうしているつもりだ? 早く登れ」
「登れって言われましても、これ以上は無理です」
「これのどこが無理なんだ?」
デメックはそう言うと、上を向いてスルスルと登っていった。そして、すぐに止まって、ケロピーの方を振り返って言った。
「ほら、登れるだろう?」
「でも、どうやって……」
ケロピーは、まるで手品を見せられているような気分だった。
「お前なら、自分で考えて登れると思ったんだがな。でも、お前はそれを放棄した。恐らくお前は、どうやれば自分が登れるのかを考える代わりに、オレに対して『自分で登ってみろよ』とか何とか思ってたんじゃないか?」
「そんな……」
図星をつかれて、ケロピーは言葉を失った。
「あのなケロピー、指導教官であるオレがやれるかどうかなんてことは、今のお前には関係ないことだ。今のお前にとって重要なことは、お前がやれるかどうかだろう? それなのに、オレのことを考えるのは、現実逃避だ」
「……すみません」
「分かればいい。とにかく、登ることを考えろ。こういうオーバーハングしている場所は、お前みたいにしがみついていたんじゃ登れない。逆なんだよ」
「逆?」
「しがみつくんじゃなくて、足を突っ張るんだ。少し出っ張っている場所を探して、そこに足をかけて突っ張るのさ」
そう言われてデメックを見ると、確かに足を突っ張っている。ケロピーも、素直にそれを真似してみた。すると、足に力が入って、身体を楽に固定できた。
「なるほど。これなら登れそうです」
「よし。じゃあ行くぞ」
「はい!」
ケロピーは、デメックを追いかける形で、登り始めることになった。先ほどまでと違って、デメックの登り方を参考にしながら登ることができる。だから、自分一匹だけで登るよりも、かなり楽だ。ケロピーは、お手本があるということのありがたみを、改めて感じていた。
ケロピーは、登ることだけに集中することにした。そして、しばらく無言で登っていると、上からデメックが話しかけてきた。
「ケロピー」
「はい」
「何かの問題に直面した時、どうしたらいいのか本気で考え抜いても、どうしても分からない場合もある。そういう場合は、誰かに聞くべきだ。誰にも聞けない状況なら仕方がないが、誰かに聞ける状況なら、遠慮なく聞け。分かったか?」
「はい。ありがとうございます」
デメックからそう言われて、ケロピーは初めて気づいた。オーバーハングに差し掛かった時、なぜ自分がデメックに登り方を聞かなかったのか、ということに。
遠慮していたわけではない。どういうわけか、聞いてはいけないのだと思い込んでいたのだ。では、なぜ、そう思い込んだのか?
それは、プライドだ。デメックに登り方を聞いて、そんなことも分からないのかと思われるのが嫌だったのだ。
ケロピーはそれに気づいて、自分のちっぽけなプライドを気にしている自分が、ものすごくちっぽけに思えた。
8
太い枝の上で一泊して、朝一番から再び木を登り始める。上を見上げても、まだまだ頂上は見えない。だから、考えたところで、あとどれくらいかかるのかは分からない。それが気にならないと言えば嘘になるが、気にしたところで分からないのだから仕方がない。とにかく、一生懸命に登り続けるしかないのだ。そして、一生懸命に登り続けていれば、いつかは必ず頂上に達する。さぼっていたら、いつまで経っても頂上には着けない。
この状況を、ケロピーは、まるで一生のようだと感じていた。いつ死ぬのかは、考えたって分からない。だから、とにかく、毎日を一生懸命に生き続けるしかない。そして、一生懸命に生き続けていれば、いつかは必ず立派なハンターになれるだろう。さぼっていたら、いつまで経っても半人前だ。
そんなことを思いながら、ケロピーは木を登り続けた。既に、かなり高い場所まで来ている。木に登り始める前にデメックが言っていた通り、この高さには珍しい獲物がたくさんいた。地上では滅多に見ることができない、貴重な虫たちだ。ケロピーとデメックは、その虫たちを捕らえて栄養補給をしながら、ひたすら登り続けていた。
夕方近くになって、やっと頂上に辿り着いた。頂上付近の枝は細いが、カエルにとっては充分な太さだ。ケロピーは、枝の上に、疲れきった身体を横たえた。
「ケロピー、一息ついたら、枝の先端まで行ってみろ」
「何をするんですか?」
「何もしない。景色を見るだけだ」
言われてみれば、ここまで登ることだけに必死で、景色を見る余裕などなかった。それに気づいたケロピーは、ワクワクして、すぐに枝の先端まで行ってみることにした。少しずつ枝を進んでいくと、葉っぱが途切れて急に目の前が開けた。
「わぁ!」
「な、すごいだろう?」
枝の先から見えた景色は、ケロピーの想像をはるかに超えるものだった。ものすごく遠くまで見渡せるし、下界のものがとても小さく見える。その景色を目の前にして、ケロピーは何も言うことができなかった。
「これが、世界だ。お前が思っているよりも、何十倍も何百倍も、世界は広い」
そう言うデメックの声を聞きながら、ケロピーは世界の広さを想像してみた。目の前にしている景色だけでも、充分に広い。しかし、この景色ですら、世界の一部分でしかないのだ。
「人間の世界には、井の中の蛙大海を知らず、という諺がある。我々は井戸の中にいるわけじゃないが、それと変わらないのかもしれない。我々は結局、世界の一部分しか見えていないんだ」
「本当に、そうですね」
ケロピーは、自分の存在の小ささを再確認していた。そして、もっともっと修行しなければと、心に誓った。
暗くなってきたので、頂上でもう一泊することになった。そして、眠るまでの間、これまでの修行の復習をすることにした。これまでの修行で何を学んだのか、ケロピーは自分の気づきをデメックに話して聞かせる。デメックは黙ってそれを聞いているが、時折小さなアドバイスを挟む。
そんなやり取りを続けていると、下から声が聞こえてきた。どうやら、ケロピーたちと同様、修行中のカエルが登ってきたらしい。
「やあ、フロッガー」
「あぁ、デメックか」
二匹はそれだけ言うと、無言のままお互いの前足を交わした。それは、マスター同士の挨拶だ。ケロピーは見たことのないカエルだったが、どうやらフロッガーというのは、デメックと同じくマスターのようだ。だからケロピーは、慌てて挨拶した。
「はじめまして、マスター。私は、ケロピーと言います」
「うん。老師から、君のことは聞いているよ。優秀なんだってな」
「いいえ、私はまだまだ、修行が足りません」
「謙遜する必要はないよ。これから私の弟子が上がってくるから、彼に君の修行の成果を聞かせてやって欲しい。君の方が先に修行に出たから、君は彼の先輩ってことだからな」
そこに、一匹の若いカエルが下から上がってきた。
「彼の名前は、ピョンスキーだ。ほら、マスターにご挨拶を」
そう促されて、若いカエルは息を切らせながら、デメックに挨拶した。
「はじめまして、マスター」
「よろしく、ピョンスキー。少し休むといい」
「ありがとうございます、マスター。お言葉に甘えさせていただきます」
ピョンスキーはそう言うと、崩れ落ちるように、枝の上に身体を横たえた。ケロピーは、そんなピョンスキーの姿を見て、ほんの少し前の自分のようだと思った。自分も、やっとのことで、ここまで登ってきたのである。
そう思ったケロピーは、枝の先から見える景色を、ピョンスキーにも早く見せてあげたいと思った。ところがピョンスキーは、あまりにも疲れているためか、そのまま眠ってしまった。
その後、フロッガーから、ピョンスキーの修行の様子を教えてもらった。それによると、ピョンスキーはまだ修行を始めたばかりで、この木登りが最初の課題だということだった。つまり、ケロピーがこれまで経験してきた課題は、ピョンスキーにとっては未経験ということだ。
だから、明日になったらピョンスキーにケロピーの経験談を教えてやってくれと、フロッガーから頼まれた。誰かに自分の経験を教えることを頼まれるのは、少し恥ずかしいけれど、とても嬉しいことだった。ケロピーは、明日が楽しみになった。
翌朝、早速、ケロピーによる講義が行われることになった。ピョンスキーは、とても熱心にケロピーの話を聴いてくれた。だからケロピーは、とても誇らしい気分になった。まるで自分が一人前のハンターになったように感じていた。
講義を終えたケロピーは、誇らしい気分のまま、少し離れたところでフロッガーと一緒に何かをしているデメックに声をかけた。
「お、終わったか。では、次の修行を始めよう」
「次は何をするんですか?」
「うん。この枝の先から、下の池に飛び込む」
「え?」
ケロピーは、絶句した。デメックとフロッガーは、さっきまで飛び込む場所の確認をしていたのだ。つまり、本気で飛び込みをやらせようとしているということだ。でも、この高さから池に飛び込むなんて、自殺行為としかケロピーには思えない。
「なに、飛び込む姿勢さえ間違わなければ、何てことはないよ。ただ落ちるだけだ。それに今回は、手本が三匹もいるしな」
「三匹?」
「そう。フロッガーたちも、一緒だからな。フロッガーとオレと、それにピョンスキーが手本を見せる」
「え? ピョンスキーも?」
「うん、そうだ。ピョンスキーは、この木に登ったのは2回目なんだよ。だから、一度池に飛び込んでいるんだ。この修行は、必ず二回繰り返すことになっているんだよ」
「……そうなんですか」
「それにな、オレやフロッガーよりも、ピョンスキーの方がお前と体格が近い。だから、彼のアドバイスをよく聞くように」
「はぁ……」
ケロピーは、複雑な気持ちになった。ついさっきまでは、自分が先生で、ピョンスキーが生徒だった。それが今度は、立場が逆だ。
「どうしたケロピー。私の弟子からアドバイスを受けるのは、不服か?」
いつの間にかフロッガーが近づいてきて、ケロピーの気持ちを読み取ったように、そう言った。ケロピーは、慌てて否定するしかなかった。
「とんでもありません、マスター」
「ピョンスキー、そういうわけだから、ケロピーに飛び込む時の姿勢を教えてやってくれ」
「はい、マスター」
こうして、ピョンスキーによる講義が始まった。ピョンスキーは、先ほどのケロピーと同じように、誇らしげに見える。しかしケロピーは、先ほどのピョンスキーと同じではない。ケロピーは、複雑な気持ちを抱えたままで、ピョンスキーの話に集中できないのだ。
その状態のまま、ピョンスキーの講義は終わった。ケロピーは、それを伝えるために、再び飛び込む場所の確認をしているデメックのところに行った。
「終わったか。じゃあ、そこで飛び込みの姿勢をしてみろ」
「はい」
ケロピーは、ピョンスキーから教えてもらったばかりの姿勢をとった。それを見たデメックは、呆れ顔で首を左右に振った。
「それじゃ全然ダメだ」
「そうですか? 教わった通りに、やっているつもりなんですけど」
「一度飛び込んだことがあるピョンスキーが、そんな姿勢を教えるはずがない。そんな姿勢で飛び込んだら、確実に死ぬからな。つまり、お前がピョンスキーの話を、ちゃんと聞いてなかったってことだ。違うか?」
ケロピーは、無言のまま、うなだれるしかなかった。
「お前は、自分の方が先輩だと思って、ピョンスキーの話を素直に聞けなかったんだ。自分の方が先輩だからといって、後輩よりも何もかも知っているわけじゃない。後輩から教わることだって、たくさんあるんだ。くだらんプライドは、捨てろ」
そうだった。自分のプライドなんて、ちっぽけだ。昨日も一昨日も、そう思ったばかりじゃないか。ケロピーは、それを思い出していた。
「申し訳ありません。もう一度飛び込みの姿勢を教えてもらえるよう、ピョンスキーに頼んできます」
「うん。それがいい」
ピョンスキーは、快くケロピーの頼みを聞き入れてくれた。ケロピーは、今度は真面目に、ピョンスキーの説明を聞いた。ちゃんと聞いてみたら、ピョンスキーの説明は、とても示唆に富むものだった。
そのおかげで、ケロピーは見事に、池に飛び込むことができた。そのスキルを身に付けたことも大きなことだが、今回の修行では、ケロピーはスキルよりも大切なことを学んだ。
続く(かもしれない)
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●「ビジョンと共に 2」 高橋 朗(リアルテキスト塾2期生)