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1
草の陰に身を潜め、微動だにせず、目の前の獲物だけに意識を集中する。まだだ。まだ、間合いに入っていない。もう少し近づかなければ、届かない。獲物に気づかれないように、ゆっくりと慎重に一歩近づく。間合いに入った。今だっ!
跳びかかった彼の身体の先端が、獲物を捕らえたかに見えた。しかし、一瞬早く、獲物は彼の攻撃をかわし、空のかなたに逃げていった。
彼は、プロのハンターだ。客から依頼された獲物を捕らえることが、彼の仕事である。しかし、今日はまだ、一匹も捕らえていない。しかも正確に言えば、今日は、ではなく、今日も、だ。
「また手ぶらじゃな」
「申し訳ありません、マスター」
彼は結局、一匹も獲物を捕まえられないまま、沼地の脇に設置されているベースキャンプに戻った。そして今、年老いた師匠から呆れたはてた目で見られている。彼は、まだ修行中の見習いハンターなのだ。
「ケロピー、お前の意識は、分散しておる。だから、たかがモンシロチョウ一匹も捕まえられんのじゃ」
ケロピーというのが、彼の名前である。彼は、代々優秀なハンターを排出してきた家系の出身だ。そのため、カエルになってすぐに、プロになるための修行を始めることになった。彼がオタマジャクシからカエルになって、既に3ヶ月が経過している。3ヶ月という時間は、カエルにとっては短くない。そろそろ一人前になってもいい頃である。しかも彼は、名門の出だ。だから老師も、ケロピーには特に目をかけているのである。
「お言葉ですが、マスター」
「ん?」
「僕にはまだ、モンシロチョウは無理です」
「若きハンターよ、よく聞くが良い。無理だと思う心が、物事を無理にするのじゃ。何度も教えたように、狩の基本は、心の中に成功のビジョンを明確に思い描くことじゃ」
「確かに、その教えは何度も聞きました。でも、そんな抽象論では、モンシロチョウは捕まえられませんよ。もっと具体的な技を教えていただけませんか?」
「技は、道具に過ぎん。技を正しく使うためには、正しい心を持つことが必要なのじゃ。お前の心は、物事の表面しか見ておらん」
「マスターのおっしゃりたいことは、理解しているつもりです。でも……」
「でも? お前は、そうやってすぐに口ごたえをする。そういうことじゃから、狩の腕が上がらんのではないか?」
「……はい」
「ふん。外に出よう」
老師はそう言って、ベースキャンプの外に足を向けた。すぐにケロピーも後を追う。と言っても、老師はよぼよぼと頼りない足取りなので、慌てる必要はない。むしろ、あえてゆっくりと歩かなければならないくらいだ。
しばらく歩いて沼のほとりまで来ると、そこで老師は足を止めた。そして、それっきり黙ってじっとしている。ケロピーは、老師が何か言い始めるのを待ってみたが、黙ったままだ。
「あの……」
「しっ」
ケロピーが声をかけようとした途端、老師に鋭く遮られた。そして、老師はまた、そのまま無言になった。しかも、身じろぎ一つしない。さらに、よく見ると目をつむっている。ケロピーは声をかけたかったが、老師から黙っているように言われたので、仕方なく黙っていることにした。
沼のほとりは、とても静かだ。先ほどまでは、自分と老師の足音が聞こえていたが、それがなくなった今、何の音も聞こえない。いや、そうではない。黙ったままじっとしていると、色々な音が聞こえてきた。沼のほとりには、カエルの他にもたくさんの生き物がいる。それに、植物も多い。それらが立てるわずかな音が、たくさん聞こえるのだ。
ケロピーが、ぼんやりとそんなことを思い始めた時、すぐそばでシュッという音がした。その音に我に返ったケロピーが老師の方を見ると、その口には大きなトンボが銜えられていた。トンボは飛ぶスピードが速いので、捕まえるのがモンシロチョウよりもはるかに難しい。ケロピーには、どんなにがんばっても捕まえることはできない。それなのに老師は、先ほどと全く同じ姿勢で、目もつむったままで捕まえてしまった。
どうやって捕まえたんだ? ケロピーがそう思っていると、老師はトンボを飲み込みながら、目を開けてケロピーの方を見た。
「ケロピーよ」
「はい、マスター」
「お前よりも動きの遅いわしでも、トンボを捕まえることができる。これが、心の力じゃ」
「しかし、どうやって」
「心の中に成功のビジョンを思い描くのじゃ。そうすれば、心が力を与えてくれる。じゃが、お前は心の力を信じておらん」
「どうしたら、心の力を信じられるようになれるんでしょうか?」
「お前は自分がトンボを捕るところを、明確に思い描くことができるか? ん?」
「やってみます」
ケロピーは目を閉じて、トンボを捕まえることをイメージし始めた。トンボは、とてつもなく速い。だから、こちらは、さらに速く動かなければならない。ケロピーは、思いっきり速く跳びかかる自分を想像した。しかしトンボは、ケロピーが動いた瞬間に飛び去って行った。ケロピーは意識を集中して、もっと速く跳びかかることを想像した。姿勢を整え、後ろ足に力を込める。そして、一気にジャンプする。でも、やっぱりトンボよりも速く動くことはできなかった。もう一度、想像し直す。今度は、トンボが速く動かないように想像してみた。今ケロピーが思い描いているトンボは、まるでコオロギのようだ。だから、楽々と捕まえることができた。
「マスター、できました!」
「ケロピーよ、お前が今捕まえたのは、本当にトンボか?」
「え?」
「飛ばないトンボなどという、自分に都合のいいものを想像しても、何の役にも立ちはせんぞ」
「はい、マスター」
ケロピーは、もろに図星を突かれて、思わず背筋を伸ばして気をつけの姿勢をとった。
「わしらは、無意識のうちに、自分に都合のいいように考えてしまう。そう考えてしまうと、成功するのが当たり前で、失敗するのは予想外のことになる。しかし実際は、その逆じゃ。自分に都合のいいように考えていれば、成功することは稀で、大抵の場合は失敗する」
「はい、マスター」
「自分に都合のいいように考えていると、自分の現状を肯定的に捉え、現状に疑問を持たず、現状に満足してしまう。それは破滅への道じゃ。厄介なことに、この破滅への道は、優秀な者ほど迷い込みやすい。気をつけるのじゃ、若きハンターよ。お前は、他の弟子たちよりも優秀じゃ。彼らがいまだに手を焼いているコオロギを、お前は難なく捕らえることができる。破滅への道は、お前のすぐ隣に迫っておる」
そう言って老師は、遠くを見るような眼差しになって、ケロピーを見た。まるでそこに、破滅への道が見えているかのように。
「マスター、ご心配には及びません。僕は絶対に、破滅への道には迷い込みません」
それを聞いて、老師は両目を大きく見開いた。
「おごるでないっ! それこそが、破滅の道への入り口じゃ。自分は大丈夫だと思うことは、自分に都合のいいように考えることと何も変わらん」
「はい、マスター」
ケロピーは再び、背筋を伸ばし直した。
「決して自分の現状に満足するでない。わしらは、自分の現状に満足してしまいがちじゃ。その心が、自分の限界を創り出す。だから、自分の現状に満足してはならん。より大きな成功のビジョンを持つのじゃ」
「はい、マスター」
「ケロピーよ、ビジョンと共にあらんことを」
「ビジョンと共にあらんことを」
その言葉を唱えながら、ケロピーは老師に対して、深々と頭を下げた。
2
次の日から、ケロピーの特訓が始まった。仲間たちから離れて、特別な修行を1ヶ月間行う。
修行は初日から、過酷を極めた。何しろ、まだモンシロチョウもまともに捕れないのに、いきなりトンボを捕ることが課題となったからだ。そのため当然、何度やっても、失敗の連続である。
既に何時間も連続で、トンボを見つけては息を潜めてチャンスを探り、跳びかかっては失敗して、再びトンボを捜し求める作業を繰り返している。ケロピーは、完全に息が上がっていた。
「ハァハァ、マスター、少し休憩させてください」
「なんだ。若いのに、もうばてたのか。だらしがないな。それから、オレのことはマスターと呼ばなくてもいいと言っただろう? オレはまだ、マスターと呼ばれるのが、こそばゆくてな」
「ハァハァ、すみません、デメック」
デメックは、ケロピーの修行の指導教官である。指導教官になれるのは、一流ハンターの称号を持つ者だけだ。そして一流ハンターたちは、他のカエルたちから尊敬の念を込めて、マスターと呼ばれる。デメックは、若くしてマスターとなった、優秀なハンターなのだ。
「まあ、いい。少し休憩しよう」
「ハァハァ、ありがとうございます」
ケロピーは、そう言うと同時に、その場に倒れこんだ。それに対してデメックは、汗ひとつかいていいない。ずっとケロピーと一緒に行動していたにも関わらず、だ。しかも、ケロピーはトンボを一匹も捕まえていないのに、デメックは5匹も捕まえている。
「ケロピー、そのままでいいから、オレの話を聞け」
「はい」
「なぜオレにはトンボが捕まえられるのに、お前には捕まえられないんだと思う?」
「それは、デメックが優秀だからでしょう?」
「じゃあ、お前が言う優秀ってのは、どういうことだ?」
「動きが速いってことじゃないですか?」
「そうじゃないよ。お前だって、老師がトンボを捕るところを見たことがあるだろう? 動きが速ければトンボを捕れるってもんじゃない」
「確かに……」
ケロピーは、老師が目をつむったままで、しかもほとんど動かずにトンボを捕った時のことを、ありありと思い出していた。そして、それと同時に、一つの疑問が浮かんだ。
「デメック」
「ん? なんだ?」
「じゃあ、なんでこの修行は、こんなに動いてばっかりいるんですか?」
「それは、お前が勝手に動き回ってるだけだよ。つまり、お前は、無駄な動きが多いんだな。でも、いくら動くなと言っても、どうせお前は動く。言っても分からないなら、分かるまで思う存分動いてもらないとな」
「なるほど……。でも、動くなと言われれば、僕は動きませんよ」
「いや、それでもお前は動く」
「いえ、動きません」
「じゃあ、試してみるか」
「ええ」
少し休んだおかげで、ケロピーの体力はすっかり通常通りに戻っていた。しかも今度は、動かないのである。それなら大丈夫だと、ケロピーには自信があった。
「どこでも好きなところでいいから、トンボを待つ場所を自分で選べ」
「はい」
ケロピーは、少し歩き回って、自分の身体をうまく隠せそうな場所を見つけた。
「ここにします」
「では、ここでトンボが来るのを待て。そして、できるだけ動かずに、トンボを捕まえるんだ。いいか?」
「はい、分かりました」
「よし。オレは向こうに行っているからな」
言い終えると同時に、デメックはピョンと跳んで、草の陰に隠れて見えなくなった。それを見届けたケロピーは、自分も草の陰に隠れて、息を殺してトンボを待つことにした。
しばらくの間は、アリ一匹通りかかることもなかった。だからケロピーは、そのままじっと動かなかった。そのうちに、目の前の地面から、ミミズが頭を出した。反射的に舌を伸ばしそうになった。しかし、デメックとの約束を思い出して、すんでのところで動くのを止めた。ケロピーがじっとしたままでいると、今度はコオロギの姿が見えた。いつもだったら、即座に跳びかかるところだ。それが、いつものケロピーの癖だ。しかし、デメックとの約束を思い出して、寸でのところで思いとどまった。
いつもの癖の通りにしないようにすることは、思ったよりもしんどいことだった。どうやら、こうしろと言われたことには、反発したくなるものらしい。しかし、ここで動いてしまったら、自分の負けだ。ケロピーは、油断することなく、周囲に気を配りながら、トンボが来るのを待ち続けた。
とても手の届かない上空を、トンボが通り過ぎることが何度かあった。ケロピーは、トンボが自分の近くの枝にとまってくれることを念じたが、どのトンボもあっけなく遠くへ飛んでいった。それでもケロピーは、神経を集中させたままじっとしていた。
どのくらい時間が経ったのか分からなくなった頃、やっと一匹のトンボが、ケロピーの近くの枝の上にとまった。チャンスだ。しかし、ケロピーは動かない。トンボがもっと近くに移動してくるのを待っているのだ。動かないと言ったからには、意地でも動かないつもりだ。
そうしていると、トンボが枝から軽く飛び立ち、その場でホバーリングを始めた。そして幸運にして、少しずつケロピーの方に近づいてくる。このまま行けば、ケロピーの射程範囲に入る。ケロピーはじっとしたまま、それを待ち構える。
来るのか来ないのか。来るのか? 来ないのか? 来い! もっと来い! よし! もう少しだ。慌てるな。もう少し。もう少し。……今だ! ケロピーは、トンボを充分に引きつけてから、全力で跳びかかった。
しかし、失敗だった。もう少しのところではあったが、失敗は失敗だ。でも、何がいけなかったのだろう? ケロピーがそう考えていると、草の陰からデメックが姿を現した。
「惜しかったな」
「でも、しくじりました」
「そうだな。でも、今のは悪くなかったぞ。約束通り、動かなかったからな」
「じゃあ、なんでダメだったんでしょう?」
「その理由は、場所だ」
「場所? この場所じゃ、トンボは捕れないってことですか?」
「そうだな。この場所でトンボを捕まえるのは、オレでも骨が折れる」
「え? どうしてですか?」
「その質問に答える代わりに、オレから質問する。お前はなぜ、この場所を選んだ?」
「ええと、隠れるのに丁度良さそうな草むらがあったからです」
「だから、トンボを捕まえにくいんだよ」
「は? それって、どういう意味ですか?」
「草の陰に隠れていたら、跳びかかるのと同時に、どうしても草が揺れてしまう。トンボは素早いから、それを見た瞬間に逃げることができる。だから、トンボを捕まえる時には、草の陰に隠れてはダメなんだ」
「では、どうしたらいいんでしょう?」
ケロピーは、どうすればトンボが捕れるようになるのか、ますます分からなくなってしまった。しかし、デメックは、さも当然という顔で答えた。
「隠れないんだよ。トンボが来そうな場所で、とにかくじっとしている。地面に伏せて完全に静止していれば、空の上をすごいスピードで飛んでいるトンボからは、石ころと区別できんよ」
「なるほど。そんなこと、一度も考えたことがありませんでした」
「コオロギを捕る時は、相手も地面にいるから、何かに隠れて狙う必要がある。だが、トンボは違う。そんなことは、言われなくても分かるはずだ」
「すみません」
ケロピーは、悔しかった。デメックが言う通り、そんなことは言われなくても分かりそうなことだ。なぜ自分は、そんなに簡単なことに気づかなかったのか? ケロピーは、自分の間抜けさを痛感した。
「お前は、コオロギ捕りの名手だ。だから、獲物を狙う時は物陰に隠れるのが当然だと思い込んでいるのだろう。それが、お前にとっての成功体験だからな。成功体験を大切にすること自体は、悪いことではない。しかし、お前はまだまだ若い。だから、成功体験が少ない。そんなお前が自分の成功体験にこだわっていたら、他の成功から遠ざかってしまうのが当然だろう?」
「はい」
「自分の成功体験から得た教訓は、自分にとっての常識となる。そして常識というやつは、悪く言えば思い込みだ。どんな状況でも通用する常識など、一つもないからな。だから、常識は、何度も疑わなければならない。いいな?」
「はい、分かりました」
この後ケロピーは、デメックに教えられた通りの方法で、見事にトンボを捕らえることに成功した。それはケロピーにとって、生まれて初めてトンボを捕らえた瞬間だった。
3
ケロピーは、徐々にトンボを捕らえるコツを習得していった。まだトンボを捕らえることは簡単ではないが、モンシロチョウであれば楽に捕らえることができるレベルまで上達していた。何日もかかったが、このレベルに達するにしては、短い時間だ。
デメックは、ケロピーの才能を実感していた。ケロピーは恐らく将来、自分をしのぐハンターになるだろう、それどころか老師に匹敵するハンターになるかもしれない、と。
この修行で行っていることは、狩の練習だけではない。何日もベースキャンプに戻らずに修行を続けているため、敵から身を守ることが狩以上に重要な課題だ。野原にも森の中にも、鳥や蛇やなどの敵がたくさんいる。狩をしているつもりが、いつ自分が敵に狩られてしまうかもしれないのだ。今も獲物がいそうな場所を探して歩いているが、もしかしたら今まさに敵に狙われている最中かもしれない。
実際、ケロピーは何度か、命の危険にさらされた。最初のうちは、そのたびにデメックに助けられていた。しかし今は、なんとか自分の身は自分で守れるようになっている。ただし、傷だらけで全身ボロボロだ。
そんなボロボロのケロピーを見て、デメックがからかう。
「ケロピー、だいぶ男前になったじゃないか」
「おかげさまで」
こんな軽口を返せるほど、ケロピーは精神的にも成長していた。ベースキャンプから、かなり遠く離れた場所まで来ている。ケロピーにとっては、未知の場所だ。しかし、そんなことには、今のケロピーは動じない。
「ところで、デメック」
「ん? なんだ?」
「さっきから、妙な臭いがしませんか?」
「あぁ。この辺りは、火山帯だからな」
「カザンタイ?」
「お前も、火を噴く山のことは話には聞いたことがあるだろう? そういう山のことを、火山っていうんだよ」
「じゃあ、この付近は危険なんじゃないですか?」
火を噴く山と聞いて、ケロピーは少し心配になった。いくら精神的に成長したとは言え、火を噴く山が相手ではどうしようもない。でもデメックは、少しも慌てずに答えた。
「大丈夫だよ」
「でも、火を噴く山が近くにあるんでしょう?」
「近くにあるどころか、オレたちは今、その山に登っているところだよ」
「え? でも、火なんて見えませんよ」
「火を噴く山と言っても、いつも火を噴いているわけじゃない。むしろ、火を噴く時の方が珍しいくらいだ」
「じゃあ、安全なんですね?」
「まあな」
デメックの説明を聞いて、ケロピーは安心した。だから、黙って歩き続けることにした。すると、デメックが話しかけてきた。
「おい、ケロピー」
「はい」
「お前、さっきのオレの説明を聞いて、何の疑問も感じないのか?」
「疑問? 特に感じませんでした。分かりやすい説明でしたから」
「それじゃダメなんだよ」
「え? 何がダメなんですか?」
ケロピーは、先ほどのデメックの説明を思い出した。でも、疑問を持つような点は、やっぱり何も見つからなかった。ケロピーには、デメックが言おうとしていることが分からない。
「あのな、ケロピー。火を噴く山もあれば、火を噴かない山もあるわけだ。なぜその違いがあるんだろうな。お前、知ってるか?」
「いいえ、知りません」
「それなのに、疑問に思わないのか?」
「そう言われてみれば、疑問ですね」
「ほら、それじゃダメだってことだよ。この前、自分の常識を疑えって話をしただろう? 自分が知らないことにすら疑問を感じないようじゃ、自分の常識を疑えるわけがないよ」
「あ」
ケロピーは、トンボを捕れるようになったことで、自分の常識を疑えるようになった気になっていた。しかし、それは間違っていた。自分はまだまだ自分の常識を疑うことができていないと、デメックによって気づかされた。
「ケロピー、ビジョンを忘れるな。正しいビジョンを持つためには、豊富な知識が必要だ。知識が乏しいと、誤ったビジョンを持ってしまう。そして、誤ったビジョンは、自らを破滅の道に導く。だから、自分が知らないことを知りたいと思う、知的好奇心を持つ必要があるんだ」
「分かりました、デメック」
「よろしい」
デメックは、満足そうにうなずいた。そして、言葉を続けた。
「この地面の下には、マグマを呼ばれる火の川が流れているんだ」
「え? 地面の下に、火の川が?」
「そうだ。しかもその川は、とてつもなく大きい。ベースキャンプの近くの沼に流れ込んでいる川よりも、何万倍も大きいはずだ」
「とても信じられません。もし、それが本当だとしたら、みんな焼け死んでしまうじゃないですか」
「マグマは、ずっとずっと下の方を流れているんだよ。だから、焼け死ぬようなことはない。でも、地面の表面よりも、土の下の方が温かいだろう? だから我々カエルは、土の下で冬眠するんだ」
「ひょっとして、それはマグマの熱のおかげなんですか?」
「そうだよ。土の下が温かいのは、マグマのおかげだ。そして、マグマの流れは、永遠に途絶えることがない。だから、土の下は永遠に温かいんだ。知的好奇心を持った我々のご先祖様たちが、大昔にそういう知識を持ってくれたから、我々子孫は、安心して長い冬眠に入ることができるってわけだ」
「なるほどぉ」
ケロピーは、心の底から感心した。知識というものは、自分のために役立つだけではなく、みんなのために役立つ。そのことに、初めて気づいたのだ。だからケロピーは、自分の知らないことを、もっとたくさん知りたいと思った。そして、火山とマグマの関係について、一つのことを思いついた。
「ねえ、デメック」
「ん?」
「火山が噴き出す火っていうのは、もしかしたらマグマなんですか?」
「あぁ、そうだよ」
「じゃあ、火山がある場所の地面の下では、他の場所よりもマグマの流れが激しいってことですよね?」
「その通り」
「ということは、ここの地面の下は、普通の場所の地面の下よりも温かいってことになりますよね?」
「それも正解。ほら、そうやって、一つ新しい知識を得ることで、新たな仮説が生まれて、それがさらに新たな知識を得ることにつながっていくんだよ。だから、知識を得るだけじゃなくて、仮説を構築することが大切なんだ」
「仮説の構築、ですか」
「そうだ。知識を得ただけで、仮説の構築をしなければ、知識はあまり役に立たない。それに、仮説を構築しようとするためにも、知的好奇心が必要なんだよ。もしかしたらこうなんじゃないかって考えることが仮説の構築だから、知的好奇心がないと仮説を構築しようと思わないだろう?」
「その通りですね。とても勉強になりました。ありがとうございます」
その言葉を聞いて、デメックはとても嬉しそうに微笑んだ。それから、いたずらっぽい表情を浮かべて、ケロピーに質問した。
「ところで、ケロピー。火山の近くにある沼は、どうなっていると思う?」
4
ケロピーとデメックは、ある沼の畔に到着した。その沼の水面からは、湯気がもうもうと立ち上っている。そんな不思議な沼を見るのは、ケロピーは生まれて初めてのことだ。
「まさかと思いましたけど、この沼の水は、本当に温かいんですね?」
「この沼の水は、土の中で温められた地下水が湧き出したものなんだ。だから、一年中ずっと温かい」
「冬でも?」
「マグマには、冬も夏も関係ないからな」
「へぇ~、冬でも温かいんだぁ。すごいですね」
「すごいのは、温かいってことだけじゃないんだ」
「他にも、何かすごいことがあるんですね?」
「あぁ。実は、この沼の水には、傷を早く治したり疲れを癒したりする力があるんだよ」
「え? まさか、そんな魔法みたいなことは、ありえないでしょう?」
「そう思うだろう? でも、本当なんだ」
ケロピーは、気味悪そうに、沼の湯気を見た。デメックの様子は、とても嘘をついているようには見えない。つまり、この沼の水には、本当に不思議な力があるということだ。しかし、そんなことは、魔法以外に考えられない。それに、湯気を立てている沼は、得体の知れない魔物が棲んでいてもおかしくないように見える。
ケロピーがボンヤリとそんなことを考えていると、隣から「せーの」というデメックの掛け声が聞こえた。その声にケロピーがデメックの方を振り返ると、なんとデメックはジャンプして頭から沼に跳びこんだ。
「デメック!」
ケロピーは、デメックが気でも狂ったのかと思った。そして、この沼の謎めいた湯気にはそういう力もあるのかもしれないと、不安な気持ちになった。それに、デメックは沼に潜ったまま、なかなか出てこない。だからケロピーは、ますます不安になった。
「デメックー! デメックー!」
「ケロピー!」
デメックの声のする方に目を向けると、遠くの方でデメックが水面から顔を出して手を振っているのが見えた。
「デメック!」
「気持ちいいぞ。お前も早く跳びこめ」
「え?」
ケロピーは、目の前で湯気を上げている水面を見た。不気味すぎて、とても跳びこむ気にはなれない。そこに、またデメックの声が聞こえた。
「何やってんだ。早く来いよ」
「デメック、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。早くしろ。これは命令だ」
デメックの様子は、確かに大丈夫そうだ。それに、命令と言われてしまったら、逆らうことはできない。それが、ハンターたちの掟だ。ケロピーは、覚悟を決めて、沼の中に跳びこんだ。そして、急いで水面に顔を出した。すると、デメックがこちらの方に泳いでくるのが見えた。
「どうだ? 温かくて、気持ちがいいだろう?」
そう言われてみれば、とても気持ちがいい。だからケロピーは、素直にそう答えることにした。
「はい。気持ちがいいです」
「さっきも言ったが、気持ちがいいだけじゃなくて、傷や疲れにも効くんだぞ」
「確かに、何となく、そんな気がします。でも、なんでそんな効き目があるんですか?」
ケロピーはまだ、少し不気味に感じていた。
「そういう成分が入っているんだよ。土の中には、身体にいい成分がたくさんある。特に土の奥深くには、よりたくさんそういう成分があるんだ。火山がある場所では、マグマの活動のおかげで、そういう成分が土の奥深いところで水に溶け込んで、こうして地表に湧き出しているんだよ。それを、温泉というんだ」
「へぇ~」
ようやくケロピーにも、これが魔法でもなんでもないということが分かり、安心することができた。そして、安心すると、沼の水の温かさが、より気持ちよく感じられた。
「こういうありがたい温泉も、知識がなければ、恐ろしいものに感じてしまう。未知のものを恐れるのは、我々の本能だからな。だから、知識がなければ、すぐ近くにチャンスがあったとしても、我々はそれを恐れて遠ざけてしまうんだ」
ケロピーは、ついさっきまでの自分を思い出して、深く納得した。
「知識がないと、すごく損をしますね」
「そうだな。でも、お前は、また一つ新たな知識を得た。だから、これからは、怪我をしたら、こういう温泉に来て怪我を治すことができるようになった」
「あ、ひょっとしてデメックは、僕の傷の治療のために、わざわざこの沼まで来てくれたんですか?」
「まあな」
デメックは、少し照れくさそうな顔をした。それを見てケロピーは、とても嬉しくなった。
「ありがとう、デメック」
「礼には及ばないさ。弟子の体調管理も、指導教官の務めの一つだからな。そんなことよりも、今日の教えを忘れるなよ。知識の不足は、チャンスを遠ざける。だから、どんな知識でも、貪欲に吸収するんだ。チャレンジできることには、何にでもチャレンジしろ。チャレンジを恐れていては、知識を吸収することはできない。温泉を恐れて眺めているだけでは、温泉の良さは理解できない」
「つまり、知的好奇心が大切だってことですね?」
「そうだ。それを忘れるな」
「はい」
ケロピーは、温泉の温かさとデメックの温かさの両方を心地良く感じていた。
「ところで、ケロピー、茹でガエルの話を知ってるか?」
「茹でガエル?」
「そう。茹でられて死んでしまうカエルの話なんだ」
「なんだか、残酷な話ですね」
「まあな。人間の世界で流行っている話だから、そんなもんさ」
「人間は、残酷ですからね。ところで、その話がどうかしましたか?」
「うん。その茹でガエルっていうのは、ちょうど今の我々のように、最初は心地良い温かさのお湯に浸かっているんだ」
「それで?」
「徐々に少しずつ、お湯の温度が上がっていく。でも、本当に少しずつだから、カエルはそれに気づかない。相変わらず、気持ちよくお湯に浸かり続けている。そして最終的に、何も分からないまま、茹でられて死んでしまうってわけだ」
「馬鹿な。そんな間抜けなカエルが、いるわけないじゃないですか」
ケロピーは憤慨した。いくらなんでも、死ぬほど熱くなっているのに気づかないカエルなど、実際にはいないからだ。だから、カエル全体のことを馬鹿にされたように感じたのだ。
「そうだな。そんな間抜けなカエルは、実際にはいない。これは人間の作り話なんだ」
「じゃあ、なんで人間は、そんな間抜けな作り話をするんですか?」
「これは、例え話なんだよ。楽な環境に甘んじて努力を怠っていると、いつの間にか使い物にならないヤツになってしまうっていう教訓なんだ」
「そんなこと、当たり前じゃないですか」
「その当たり前なことが分からないヤツが、人間の中にはたくさんいるんだろうな。だからこそ、こういう教訓が作られるんだろう」
「人間って、意外に間抜けですね」
「あぁ、そうだ。ヤツらは間抜けだ。大した理由も無く、同じ種族同士で殺し合いをしているのは、人間くらいだからな。それに、自然破壊をするのも、ヤツらだけだ。ヤツらは、自分さえ良ければ、それでいいのさ」
デメックの言葉を聞いて、ケロピーはすっかり気分が良くなった。カエルのことを馬鹿にされたお返しをした気分だった。
「そんなことをやっていて、人間は自分たちが生き残れると思っているんでしょうか?」
「思っているんだろうな。だから人間は間抜けなんだよ」
「ふうん。僕は人間じゃなくて、本当に良かったです」
「同感だ」
「ところで、デメック」
「なんだ?」
「そろそろ出ませんか? ちょっと、のぼせてきました。このままじゃ、本物の茹でガエルになっちゃいますよ」
「ははは。それにも同感だ。じゃあ、出るとするか」
ケロピーとデメックは、揃って温泉から出た。二匹の身体からは、湯気がまるで闘志のように立ち上っていた。
続く(かもしれない)
***
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