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ブリティッシュ・ロックへの批判的ふりかえり
ロッキングオン16号(1974年)
19740525
聴こえてくる音はどれも砂粒化してきた。クラウス・シュルチェは既に一粒の砂であり、タンジェリン・ドリームも既に一粒の砂の内部での時間である。レコードを聴く時は大体がヘッドホーンになってしまった。安いセットの、それでも、ボリューム8ぐらいで聴いていられるようになった。それで聴くロバート・ワイアットの<ロック・ボトム>は、すごくかぼそく弱々しく、今にも絶え入りそうで、握りしめられた掌からこぼれ落ちてきた砂のように孤独だ。
夜のひろがりを視線の道筋どおりに追っていくと夜はどんどんせばまってくる。夜はせまい。夜のその表面に、風も通り過ぎる事の出来ない一点がある。夜は砂粒だ。
ホーク・ウインドは夜を街角の<広場>として誤解したのだし、ルー・リードは夜を古ぼけた<椅子>あるいは痛んだ<ベッド>と思い込んだのである。彼らの思い込みもまた彼らが、時代の一番深みを生きたがゆえの痛みであり、そういう意味では大いなる正解であるはずだ。そして、そのような立体空間としての夜を強烈に二次元的世界としての平っぺたい<面>へと力強く引きずり込んだのがロバート・フリップである。彼にとって夜とは本の中味ではなく表紙である。中味は白紙。そこには、やがて語られるであろう私達の言葉が書き込まれるための理由によってのみ今は空白である。認識の処女性。ここからしか初まらない。
そして彼らたち。否定の面積から否定の結束点へ。つまり夜の鍵穴。鍵は私たち。闇の中では全てが無関係でありながら全てがつながりあえる。孤島の砂浜のように、孤立しながら密集できる。海に見棄てられた砂浜の子供たち。存在の処女性。ここから初めるしかない。
<人間というのは、ここまで孤独なのか>ブラック・ダンスを聴いた友人の感想。
いつか打ち寄せて来た荒々しい波の死体が私達の大地。ピンク・フロイドとタンジェリンとは異郷というものに対する発想が根本的に違う。ピンクにとって異郷とは<私>が行かなければならないところ、たどり着くべき場所の事であるから、彼らはそれを指で差し示すものでしかなく、イメージであり観念としての異郷を、具体的に音がなぞっていく、表現していくしかないものであった。ピンク・フロイドの道は永遠に道だけでしかなく、彼らはいわば昼と夜とにはさまれた夕暮れ時の迷い児である。
それに対してタンジェリンにとって異郷とは、私達の本来的な在り方そのものであるから、その音は音楽構成であるよりは、もっと私達の内部に秘められた本質的な異を誘発する契機のようなものである。だから、彼ら自身が言っているように、そこには個々の人間の才能、表現力とか創造力といった、経験主義的な操作は極めて希薄だ。彼らは意図的な作曲というものをしないし、スタジオの中で意識コントロールするなどという幼稚でたわいのない事もしない。
音と言葉との方法的徹底化の結果、とりあえず音として考えた場合、ほとんどベスト、究極に近い状態じゃないだろうか。そして音は、ツワイト(時)でありアテム(息)でありアクア(水)といった具合に、極度に握りしめられ、結晶化された砂粒であり。そして今、最新作ルビコンというタイトルに彼らがどういう思いを込めたのか正確には分らないが、やはり何かひとつの静かで力強い覚悟を持った事だけは確かだ。言葉の歴史とはつまり人間社会の歴史である。人間そのものの歴史は、それより遥かに広く深い。タンジェリンは今、闇をつくっているのだ。全く新しい言葉を、人間をつくり出すための暗い母胎にいるのだ。都市の原始密林の夜。
久しぶりに<アトム・ハート・マザー>を引っ張り出してきたが、聴くつもりはなかった。それは当然なのであって昔つけてた日記を新ためて読む気にならないように、ユージンの叫びは、初めて聴いた時に私が殺したのだ。それはそれで良いのだし、山崎さんが書いてるように、レコードというものは、音を<保存>するためにあるのではなくて音を<拡大>するためにあるのだ。あれは無線アンプみたいなもので、今この闇の中で、世界中一斉に同んなじ音を出す、という必然性のためにのみあるのだ。
異郷への旅というものはなく異郷に住まう事が旅である。ホーク・ウインドやピンク・フロイドがドラッグと共に果たした役割、私達はそれらのリズムという歩幅に合わして、一つの世界が全く多様な在り方をして成り立っているという知覚の世界へ突き進んだ。しかし、誤解してならないのは、ドンファンが言ってるように、煙が問題なのではなく煙が見せてくれた世界が問題なのだ。LSD体験を体験として個人的に語る事などに何んの意味もない。あらゆる種類のドラッグがあり、それと同じようにあらゆる種類の生き方がある。しかしそれらの方法によって得られる一つの結論、究極の態度、即ち通常は死と呼ばれている果実について語っている訳だけども、私達に”既に見てしまったもの”があるとするならば、最早、どのようなドラッグも必要ないし、生き方、人生論、処世術も必要がない。ドラッグを必要としなくなったタンジェリンの音だけを、今の、この隙間の中では必要としている。しかし、それすら必要がないと言ってのけられるのではないだろうか。
既に15冊のROが明らかにしたようにロックとは音楽ではない。……と書いていたら北海道の高尾敏子さん達もそう書いてきた。ロックとはミュージッシャンが作った一枚のレコードではなく、むしろミュージッシャンが一枚のレコードを作らねばならなかった、のっぴきならない<原因>の方である。言うまでもないが、私達がロックと呼称してきたものは、あの、闇の総体である。だから私達とミュージッシャンとをつないでいたものはスターという商品性ではなくて、この、闇である。メディアとしての闇。
ロックは音でしかない、という発想は間違いだ。それはイエスやピンクと同じでロックの音を突きつめて行けば、いつか音を超えられる、という幻想の産出した失望感である。そうじゃない。今は、ロックは音ですらない、という思い込みから始めるべきなのだ。エドガー・フローゼは言っている。私達の音楽は私達の演奏が終った後で、君達が始めるものなのだ、と。だから、決して、安らぎを得るための胎内回帰ではないのだ。むしろ逆。
イエスは竹場元彦が言うようにクリスタルであって砂粒ではない。イエスはむしろグラニュー糖だ。つまり結晶化ではなく合理化である。彼らの音は近代市民社会の生活を突きつめたものであるにしても突き抜けるものではない。その二つの力は全く別の才能を必要とするものなのだ。イエスは否定抜きの肯定、あるいは否定の対極にある肯定だから金持ちのお嬢さまお坊っちゃまがお喜びになる。否定するものの方がまだ山ほど多い。
この原稿はむなしい。ふりかえる事はむなしい。通り抜けてきた事への批判が何故むなしいかというと、私たちにとって経験というものが内部では何ひとつ実体化として残らず、常に空洞化していくものであるからだ。そして幸か不幸かロックはその事に対して正直すぎた。ロックの経験が、現実的には何んの役にも立たないのは、ロックが空白を埋めるものではなくて、むしろ拡大するものであったからだ。もう何んにも覚えていない。思い出す気にもならない。現在の私達が不完全な状態であり続ける限り、どんな経験も未来的にはみんな同じだ。<俺はロックンロールで生きるんよ>と言ってる人には、スタミナドリンクを飲ましておけば良い。ロックの経験を積み重ねていく事は出来ない。空白を積み重ねる事は出来ない。私達は更に無力にふがいなくなるばかりだ。ふっ。
人類が、闇の中で最初に発見した自然つまり神は、火であり、あるいは青空であったのだろうか。そして見たものを、見たとおりに理解しなかったが故の人類史の誤解を何んとかするためには、もう一度、完璧な闇が、私達の母胎が必要なのかも知れない。闇が、全く新しい国境を作るだろう。闇はとどまらない。闇は蠢いている。現在進行形の闇。
<闇というのはね、そこに何かがあるとかないとかいう事ではなくて、そこに何があっても良い、という状態なんだ。例えば……>友人で現在はダンボル屋の関幸三。
闇の中には何があっても許される。脱ぎっぱなしのズボンが脱いだままの形で無造作に置かれていても、あるいは切断された四肢が転がっていてもいい。イエスの許容力は闇ではなく青空だから、関の言うような凄みのある迫力のある許容力がない。青空が肯定しえないものがたったひとつある、それが闇だ。しかし闇は青空をも呑み込んでしまう。そしてフェドラーは青空を呑み込んでしまった銀色の闇。全てがある。音の内部にではなく、私達の内部にこそ全てがある。全てがある、全てが許されている。全てが、
オマケ
タンジェリン偶感集
PHAEDRA 夜が深すぎる故の盲目だったのかも知れない。ああ、それにしても。夜が街に冷たくささやくと、空白が重たく石になってしまう。私は歩きながら石になってしまいながら歩きつづける。太陽から預かったものはみんな夜に返してしまうが良い。光の子供たちを夜の草むらに埋め、その安らぎを、水のように鋭く泣こう。声を殺して更にみがくのだ。すでに石くれへと完了した私たちの未来をひとことのエピタフとするために。女は泣かない。女は涙するばかりだ。そして、途方もない闇を孕んだ。
ZEIT 出帆する舟の軌跡を海洋の青がおおい消すように、闇が、時の朽ち果てた光線を断つ。その日、時からやって来た旅人を時へと送る。だから、もはや、留まった私たちが異国人だ。太陽の軌道とは無縁の異国人だ。仮面の裏側のかすかな闇へ呼吸してきた、おおぜいの、本当におおぜいの異国人だ。
はなむけに 石くれに時の行方をたずぬれば何も言わずに重たさをます
RUBYCON ふりかえる事はない。背後は壁だ。進み続けている限り私たちの背後は永久に壁だ。壁に刻まれた絵文字は私たちを重たくするばかりだ。川がある。誰も渡る事のなかった悲鳴にも似た感触がある。川は水の本質だ。そして時の本質だ。友よ、君もまたあの川の伏流でしかないのか。夜は何者でもない。私達は?
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橘川幸夫放送局通信
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