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ども! 店長のイケダっす!
今回はミカドの新店舗オープンについての経緯を話します。
――話はかなり過去に遡ります。
2008年、テナント物件の大家さんの都合で「新宿ゲーセンミカド」は退去を命じられました。ここは「とある人」に紹介されてテナントに入ったという経緯があるため、ある種、転貸的な契約となっており、通常退去時に発生する「立ち退き料」「退去による売り上げ保証」的な資金を僕らは一切受け取ることができませんでした。
当時はクラウドファンディング、キックスターターなんて言葉もない(知らない?)ご時世です。俺は資金ほぼ0円で移転先を探すことになりました。
ゲームセンターには昔ながらの風習でテナントオーナーとの共同経営方式という運営形態があります。具体的に言うと、通常の賃貸借契約に必要な敷金、保証金などの費用を支払わない代わりにテナントオーナーと売り上げを折半するというスキームで、大手メーカーの店舗でも「リース店」という呼称でこの形態で運営する店舗が90年代までは一般的でした。
つまり、この「共同経営」「リース店」方式をテナントオーナーに持ちかければミカドを存続できるのではないかと思い立ち、資金0円の俺の挑戦が始まりました。
最初に説明しておくと、俺は高校を卒業するとアイモさん(※池袋にあったゲーセン「ゲームスポット モアイ」等を経営)、GM商事さん(※千葉県市川市にあるゲーセン「大慶園」を共同経営したり、ゲーセン「ゲームインファンファン」を現在でも経営中)といった業務用機器の販売やロケーション運営をする会社に勤めてきた。
▲かつての「ゲームスポット モアイ」。今は「蒙古タンメン中本 東池袋店」になってます
▲2016年12月18日に閉店した埼玉県大宮市の「GAMEオリンピア(スクウェアワン大宮オリンピア店)」は、俺が初めてゲーセン店員をやった店舗です
▲かつて務めていた「ゲームインファンファン」の新小岩店(写真左)と秋葉原店(写真右)
2008年の俺は、ゲームマスコミやゲームファンから"ぽっと出の存在”にみえたかもしれないが、じつはその時点でキャリア15年くらいのベテランだ。それゆえ、いろんな空きテナントや閉店案件の情報をかつての仲間から集めるのは容易だった。
また、当時はT社がS社に吸収されたことにより、T社ゲームセンターの運営条件が見直され、T社のゲームセンター(特に都内のオーナー共同経営店舗)の閉店が相次いだ時期と重なる。俺はそこに目をつけた。
まさに現在「高田馬場ゲーセンミカド」の入っているオアシスプラザビルも、そのT社閉店店舗のひとつだった。
T社撤退後オアシスプラザビルは1年以上空きテナントになっていることは知っていたので「もしかしたら!?」と、淡い期待をしつつ人づてにかつてT社に在籍していた方と接触。2008年秋、オアシスプラザビルのオーナーにゲームセンターの共同経営をプレゼンさせてもらう機会を取り付けることに成功した。
オアシスプラザビルのオーナーは“高齢だがパワフル!”という印象で、ちょっとした仕草や佇まい、話し方ひとつにしても、戦後激動の昭和を生き抜いた大成功者といった貫禄がビシビシと伝わってくる感じ。同席している役員たちの視線も鋭く、俺のビジネスマナーや言動を逐一チェックされているみたいで、正直、生きた心地がしなかったのをよく覚えている。
で、そんな「蛇に睨まれた蛙」状態の俺がプレゼンした内容はざっくり――。
・新製品に頼らない企画重視な店舗
そもそも販売価格が高すぎて買えない! ゆえに購入費をペイするのにも時間がかかる。
・イベントを積み重ねてリピーターを増やす
店として「ゲームを設置するだけ」ではなく、格ゲーの大会やスーパープレイの実演会を積極的に実施することで、ゲーセンへ足を伸ばすきっかけを作る。
・レトロゲームファンが喜ぶライナップ実現
やっぱりゲーセンにはビデオゲームがあってほしいし、いろんなジャンルを遊びたい、遊んでもらいたい!
このプレゼンとともに、12ヶ月分の売上目標および収支表のエクセルも提示した。「これくらいはいくでしょ?」と、今思えば安全圏的な数字を今までの経験や立地の感じから予測し、オーナーに伝えた。
「あのね、イケダ君。なぜオアシスプラザビルが一年以上空きテナントだったかわかる?」
オーナーからの問いかけに、俺は「わかりません!」と伝えた。当然その場で返答はしてくれず、この日はおひらき。 以後「アポをとる、そしておひらき」を2ヶ月ぐらい繰り返すのだった。
▲T社のゲーセンが運営していたころのオアシスプラザビル。入り口にある「ヤシの木」はこの頃からあるんですよ
T社がオアシスプラザから撤退してからの数年間、オーナーはかなりのテナントオファーを丁重にお断りしている。その企業の中には、誰でも知っている某大手コンビニチェーンや超有名ボクシングジムなどが含まれていた。
つまりオーナーは「収入に困ってないし、どうせ貸すなら自分が納得した人がいい」というわけだ。
とはいえ、俺が持ちかけてるのは「共同経営」。通常の賃貸借契約に必要な敷金、保証金などの費用がかからないという、ある種、虫のいい話なのだ。当然オーナーからしたら、30代の若造が社長を務める貧乏会社と組むにはそれなりのメリットを必要とする。
「あのね、イケダ君。なぜオアシスプラザビルが一年以上空きテナントだったかわかる?」
プレゼンしたあの日、オーナーから投げられたこの質問の答えはつまり「共同経営するつもりなら、出ていったT社以上の売上試算をプレゼンしてみろよ?!」ということだ(俺なりの解釈だが)。
うーん……困った、弱った。
現実問題として、ビデオゲーム――特にレトロゲーム中心のゲーセンで莫大な売上は望めない(笑)。しかし、グズグズしていたら「新宿ミカド」の退去期限が来てしまう。嫁さんや当時幼稚園に通う息子が飯を食えなくなったり、社員が路頭に迷う未来は避けたい……。
安全圏売上のプレゼン資料を破り捨てて、俺は覚悟を決めた。えーい、言ったれー!!
「月売上1000万円出します!!(あーあ、言っちゃった……)。売上は折半でいきましょう!!」
そこから話はトントン拍子だった。オーナーも俺の物言いに上機嫌だ(笑)。
するとオーナーの口から――。
「イケダ君。同じ条件で、池袋にもう一軒ゲームセンターやってみないかね? 『ランブルプラザ』っていう物件なんだよ」
……じつはランブルプラザも同オーナーが所有する物件なのだが、2008年の秋当時はオアシスプラザ同様、S社によるT社買収の煽りを受けて閉店。つまり空きテナントとなっていたのだ。
▲T社が運営していた頃の「ランブルプラザ」。二階はビリヤードコーナーでした
「ランブルプラザ」という店は5年前に内外装のリニューアル工事をしているため、2008年当時とはだいぶ印象が違う。現在「池袋ゲーセンミカド」の地下一階で『麻雀格闘倶楽部』を設置しているスペースは倉庫として仕切られたので、2008年当時の面影を唯一確認できる場所である。
さて、オーナーから二店舗経営を持ちかけられた俺は――。
「とてもありがたい提案なのですが『新宿ミカド』から引きあげたゲーム機を全台投入しても、高田馬場と池袋、二店舗の敷地を埋めることはできません。もちろん、これ以上ゲーム機を購入する予算もありません。申し訳ないのですが高田馬場だけでお願いします」
と、丁重にお断りさせていただいた。
……いや、お金があれば絶対やってたって! くそー、もっと俺の会社に体力があれば!
悔しかったが、当時の最優先事項は「新宿ミカド」の移転先を見つけることだ。それが実現できただけでも良しとしなければ。
店の看板に「高田馬場ゲーセンミカドinオアシスプラザ」と建物名を表記してあるのは、俺を信頼してくださってるオーナーへの敬意を表したものだ。山手線沿線の物件なんて、俺みたいな若輩者は普通じゃ借りられないからね。
その後「ランブルプラザ」には別のオペレーター・A社が入り、T社撤退後もゲームセンターとして見事復活した。
資金0円でオアシスプラザで復活することになった「ミカド」は、晴れて2009年の4月末にオープン(……実際は内装工事や電気工事で1000万円くらいドカーンと使うハメになったのだが、そこをどう切り抜けたかについては今回の記事と趣旨が異なるので、また別の機会に)。
▲オープン当初の「高田馬場ゲーセンミカド」の様子。この看板に筆を入れてくれたのは「シューティングラブ。」でお馴染み、トライアングル・サービスの藤野社長!
はったりだらけの売上試算だったはずが、もう、うんざりするほどの試行錯誤とトライ&エラーの末、本当に1000万円稼ぐ店になってしまいました。人間、”やるんだ!”と決めたらなんとかなっちゃうもんだね! いや、すべてはお店を盛り上げてくれたお客様のおかげです、ありがとうございます!!
オープン以来、オーナーとはますます親密なお付き合いとなり、東日本大震災後に売上が大幅に落ち込んだときは支払いを待ってくれたり、本来俺が払わないといけない電気・水道などの工事費(その辺も折半)も立て替えていただいたり、とても良くしていただいた。最初のすっげえ怖かった印象も、今じゃ懐かしい思い出だ。
あれから時は流れ、高田馬場ミカドが震災ショックの立て直しに明け暮れていた2013年のある日、オーナーより一報が入った。
「『ランブルプラザ』を運営していたA社が夜逃げした」
なんの商売でもそうだが「夜逃げ」ってのはマジでタチが悪い。ゲーセンなんてなおさらだ。
家賃の滞納は? スタッフの失業問題はどうする? 筐体の廃棄処分は誰がどこから金を出す? 「ALL.Net」や「e-AMUSEMENT」の回線使用料も、支払いの滞納対処が遅れれば同じ店舗でその回線を二度と引けなくなってしまう可能性だってある。
とにかく「夜逃げ」は、逃げた本人以外、関わったすべての人を不幸にする最恐のカードだ。
これはあくまでも俺個人の予想だが、この最恐のカードに対して当時のオーナーが頭に描いた問題解決策はこの3つだ。
1.一旦ゲーム機を全廃棄し2008年のようにテナント募集をかける。
2.ゲーム機ごと買い上げ、運営を引き継ぐオペレーターが現れるのを待つ。または募集をかける。
3.ゲーム機、スタッフ、すべててを引き受け、「ランプルプラザ」のオーナー自身がゲームセンターを運営をする。
結論を言えば、夜逃げしたオーナーはこの中から3を選択した。その理由は、問題を解決するための手間、時間、コストが最もかからない選択肢だからだ(……これは不動産業を本業とするオーナーの会社だからできるわけで、実際はかなりのコストと労力を必要とする)。
この経緯こそ、5年前に「ランプルプラザ」が内外装をリニューアルしたことと繋がり、現在に至る。
ただ、「ランブルプラザ」のオーナー自身がお店の運営を続けると聞いた俺は、正直なところ他人事だった。
「うちのオーナーが運営するなら『ランブルプラザ』は安泰だ。半端ないお金持ち会社だし従業員も再就職できて安心だろうなあ」と(笑)。
一方、当時の俺は「高田馬場ミカド」をベースとした音楽活動、ネット実況配信、トークライブといったサブカル寄りに運営の舵を取っていた。おなじみのルパン小島、大塚ギチ、ロフトグループのスタッフ、電通の若い奴ら、さまざまなバンド・アニメ・文学関係者とつるみ始めたのもこの時期だ。
彼らの影響を受けた俺は「ゲーセンは俺がいつでも帰れる場所」「あくまでもゲームは新しいことをするためのツール」というぐらいに割り切っていた。もちろん、ゲーセンとゲームに愛がなくなったわけじゃない。
その結果、たくさんの新しい刺激を取り入れた「高田馬場ミカド」はますます繁盛し、しまいには俺が『がっちりマンデー』に出演するほどに(笑)。
しかし、あれから5年。ゲームセンターを取り巻く現実は「高田馬場ミカド」の盛り上がりとは真逆の世界だったようだ。
オーナーの会社もあれから時が経ち、経営の中枢はオーナーの息子さんたちに代替わりしている。もちろんオーナー(社長)は健在かつ今でもパワフルだが、ここ数年やりとりしていたのはオーナーの息子さんたちだけで、オーナーと直接話す機会は激減していた。
で、オーナーの息子さんたちが「ランブルプラザ」の閉店を判断した理由は以下の3つ。
「店全体の売上がじわじわと下がってきている」
「『ソウルリバース』の売上を見て、この業界に未来がないと感じた」
「今の売上なら一旦ゲームセンターをやめてテナント貸しにしたほうが利益率は高い。それとなく不動産関係者にその旨を伝えたら、コンビニやラーメンチェーン店などからすぐに問い合わせが来た」
至極ごもっともな理由である。お金持ちは決断が迅速かつ正確だ。だからお金持ちなのだ。むしろオーナーの会社は『スペースインベーダー』の時代から会社を潤し、そして大きくしてくれたゲームセンターという場所に対して愛と理解とリスペクトがあるのは知っている。そんなオーナーが閉店を決めるのは苦渋の決断であることは明白だ。それを思うと悔しく、そして悲しい……。
片や「高田馬場ミカド」は、おかげさまで絶好調。震災ショックの負債を完済した今なら、売上は全部利益だ。
こうした状況を踏まえたうえで、今の俺にできることを考える。考える。考える。
(……リスクを負う必要なんてあるの? もう40代の半ばだぞ? また一からやれる体力あるの? 高田馬場王国の王様でいいんじゃないの? また頭下げるの? また土下座するの? また社員に負担かけるの?)
うるせぇよ!
自問自答の末、俺は「『ランブルプラザ』のオーナー(社長)に会わせてください」とアポを取っていた。
2018年8月末。俺は2008年のあのとき同様、プレゼン資料を持って社長室の前にいた。10年前みたいなしょっぱい「安全圏」な試算表じゃない。最初から「チャレンジ領域」に踏み込んだ試算のプレゼン資料だ。
今、俺にできること――。
「オーナー、俺がランブルプラザを引き継ぎます!」
「言うと思ったよ(笑)。で、いつからやるの?」
ゲーセンネバーダイ。やるしかない!!
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