2日目のレクは、初日の夜から合流した新会員さんにとって有意義な時間が過ごしてもらえればと念じつつの1日となりました。以下、A.Wさんのレポートです。
「美しいとは、こういうことだ」
早朝に着いたため未開館でしたが、先に庭園から館を眺めることができました。
館の面積自体は決して広くないのですが、例えば水面の反射を壁に投影するために植えられたであろう一本の柳、池に定期的に波紋を与えるポンプなど、計算され尽くした仕掛けが嫌味なく調和しています。作り込み過ぎるとややキザにもなるものですが、鈴木大拙館の佇まいは世俗的なノイズからは完全に断絶されていました。
順路のハプニングで何が分かったかというと、金沢21世紀美術館とは異なり「どこからでもどの順路にも戻れる」設計になっていることです。21世紀美術館が「普通」を敢えて排除して獲得した「自由」と、鈴木大拙館が訪問者に徹底的に余計なことを考えさせないよう構成した順路の「自由」。正解はありませんが、文字通り「対照的」です。
全く予習なしに訪問したのですが、「思索空間」と題されたエリアに足を踏み入れた瞬間、この館全体が、単なる作品展示場ではなく、建物自体の美観を売りにしているわけでもなく、「訪問者の心を整える」、ただその一つの目的を達成するためだけに設計された空間であることに気付きました。まさに「哲学の体現」と言えるでしょう。
屋敷内の写真はNGでしたが、ふすまに「丸に十の字」の白色紋が多数、しかもランダムに記されていました。「丸に十の字」と言えば筆者の故郷、薩摩は島津家の紋が有名です。松風閣の紋は、十文字が丸に内接しておらず、微妙に空間があるタイプで、係員の方も何の紋なのか不詳とのこと。気になるのでちゃんと調べてみたいですね。
訪問の感想は来訪者によって様々だとは思いますが、概ね精神的安らぎや充実を感じるのではないかと想像します。鈴木大拙の思想と本建築がどのような形で接続しているのか館内に詳細な説明は見当たらなかったので、やはり「観じよ」という主旨なのかとも思います。
言語の外側にある感覚を受け取ることも人間にとっては大切な営みで、仮にロジックだけで生きているつもりでも徐々に息が詰まってくるものではないでしょうか。仏教的世界観は世界や宇宙を想定する横軸だけではなく、過去・現在・未来といった縦軸も内包した深遠な視座を持っています。そこに縁起の洞察を当てて生命そのものや事物の関係する不可思議に立体性を与えているようです。釈迦が説いたこうした「物語」に連なる人々に生きる意味を与え、それを観じさせる場、そして祈り。科学が著しい発展を遂げる現代にあっても各種の信仰が人々の心を捉えて離さない現実が意味するものとは、としばし黙考することとなりました。
ところで、神社・仏閣・教会といった宗派性ある施設でしか深遠な世界観に接することが出来ないかというと、決してそうとは限らないというメッセージもこの鈴木大拙館にはあると言っても良いでしょう。禅の研究者であった鈴木大拙ですが本館を訪れる者に何らかの精神的営みを要請することはありません。信教と文化は多分に接面している存在なのは確かですが、この施設に関しては構えることなく訪ねていける場所だと思われます。
- エントランス -
- たたずむ犬ですら何らかの意味ありや -
- 来訪者の心中はいかに -
- 会員3人をパシャリ。水面に映る姿がどこか仏教哲学を感じさせる!?-
- 施設入り口にて -
鈴木大拙館を出た私たちは兼六園へ徒歩移動。気持ちよく晴れた金沢の道を談笑しながら歩く喜びを感じつつ。兼六園初訪問の会員さんが多く、私もその一人でした。
- 兼六園内の様々 -
- お茶屋さん -
- 日本武尊像(ヤマトタケルノミコト)-
- 金沢城公園へ -
兼六園を周遊して、金沢城公園へ移動。外でシートを敷いてご当地弁当を広げてのお昼となりました。なるべく「金沢らしさ」を感じることができるようにと考えたアイディアでしたが、当初予定していた使用場所が飲食できないとか移動先で風が強く冷え込んでくるなどの状況もあって会員さんにはバタバタさせてしまいました。改善点・反省点も踏まえて、今後のレクに活かしていく構えです。
公園内休憩所でアセスメントを行って、二日間にわたる全国レクも終了の運びに。現地会員さんには車も出して頂き、荷物運びの役割を引き受けて下さいました。心から感謝の念が尽きません。今回は新入会員さんがいらっしゃる新鮮さもある中での全国レクとなりました。引き続き、会員さんが充実した時間・経験を人生の中に築いていくことができるように知恵を絞っていくことを思案して金沢駅での解散となりました。(ぷらーり記)