詩人の最果タヒさんのエッセイ『百人一首という感情』(リトルモア)は、学生時代に古文が苦手だった人にこそ、ぜひ読んでほしい一冊。百人一首が自分の心と向き合う時間をくれるとは、この本に出会うまで思いもしませんでした。

「勉強」とは違う百人一首の世界

百人一首の現代語訳に取り組み、2017年秋にその成果を発表した(※)最果タヒさん。一年後に刊行された本書には、訳していくなかで最果さんが感じたこと千年前の歌人に「ふと言いたくなったこと」などが、みずみずしい筆致で綴られています。

※清川あさみさんとの共著『千年後の百人一首』(リトルモア)。最果タヒさんが手がけた百人一首の現代語訳に、清川あさみさんが布・糸・ビーズなどで描きおろした百の絵札が添えられている。

百人一首を詩の言葉で訳してほしい、という依頼を受けたのは2016年。それまでも、百人一首には触れてきていたけれど、どれもが「勉強」としてだけだった。文節ごとに言葉を区切って、現代語に変換していき、時代背景と比べながら意味を考え、直訳していく。いつの間にか和歌っていうものは、そうやって楽しむものだと私は思い込んでいた。

(『百人一首という感情』「はじめに」より引用)

本書の冒頭で最果さんが語る“百人一首のイメージ”は、きっと多くの人に共通するものでしょう。

最果さんにとって、詩は「白黒つけることのできない人の感情を、そのまま捉えるための言葉」。正解があると思って読んでいた百人一首を、曖昧な感情を曖昧なままで捉える「詩の言葉」で訳そうと向き合ったとたん、百人一首の別の顔が見えてきたと最果さんはいいます。

それは言葉の向こう側にある人間の存在であり、「これを歌にしたい」と彼らが思った瞬間の、衝動や感情の動きでした。

昔の人も、恋愛で抱く感情は一緒

やすらはで 寝なましものを さ夜更けて

   傾くまでの 月を見しかな       

「待たなくていいとわかっていたら躊躇せずに寝てしまえたのに。夜が更けて、西に傾く月が見えている。」という歌。

(『百人一首という感情』181ページより引用)

これは、1086年に編まれた「後拾遺和歌集」におさめられたもの。紫式部や清少納言とも親しかった才媛・赤染衛門が、恋人に“ドタキャン”されてしまった姉妹の代わりに詠んだといわれます。

最果さんはこの歌を、「期待を捨てきれない自分に呆れてしまったぶんだけ、待たせた男性にも少し、寛容になってしまう。そういうやわらかさを感じる歌だ」といいます。そこには、愛と共に暮らしている人のかわいらしさがある、とも。

こういう感情をなかなか、相手の男性には直接、そのままでは言えないのではないかな。なんか待っちゃう自分も自分だなって思ったよ、なんてね。(中略)そんな言えなさも踏まえて、こういう歌を赤染衛門は姉妹のために代筆したのかもしれない。

(『百人一首という感情』182ページより引用)

恋人を待つ時間の切なさや、翌朝の姉妹の会話、「私に任せて!」と張り切る赤染衛門の姿まで、妙にリアルに浮かんでくるよう。それもまた、最果さんの親身すぎる読み解きと、心に刺さる言葉のなせる技なのです。

自分の心と向き合う時間をくれる

それは、恋愛の歌だけではありません。

嵐に吹かれ、雪のように散る桜に老いていく自分を重ねた入道前太政大臣の歌には、こんな言葉が添えられていました。

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで

   ふりゆくものは わが身なりけり

本当は私は、一本の桜の木である。今も、いくつもの花を散らしながら、生き続けている。(中略)死はその延長線上にあるだけだ。きっと、生きる間にある喪失に比べれば、打たれるのは、とても小さなピリオドだろう。

(『百人一首という感情』283ページより引用)

最果さんの「詩の言葉」は、千年前の人も私たちも、同じ喜びや苦しみを抱くのだということを教えてくれます。

新鮮だったのは、その感情を生き生きと感じるほど、「自分ならどう思うだろう」という想像が掻き立てられること。見過ごしがちな自分の心と向き合う、貴重な時間をくれました。

古典をこんなに自由に味わえるなんて、なんだかとても贅沢な気分。ゆっくりと時間をかけて、味わうように読みたい一冊です。

自分の感情に目を向けて

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百人一首という感情

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百人一首という感情

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