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ファミリーヒストリー その1
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ファミリーヒストリー その1

2016-08-05 16:35
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    ■はじめに


    100年、200年という年月は長いのか短いのか。

    わたしにはわからない。

    137億年という宇宙のスケールからすれば、人間の一生は一瞬である。

    一方、一瞬にすぎないわたしたちの命のはかなさの中で、
    わたしたちは、幸運にも同じ時代を生きている人々との連携を大事にしているだろうか。
    身近な同僚を大切にしているだろうか。
    この生きにくい世の中でお互いに助け合っているだろうか。

    ほんの一瞬の命しか持たない者同士、
    尊敬しあい、励ましあい、分かち合っているだろうか。


    今回は、わたしの高祖父、曽祖父、祖父、父、そして息子たちのことを時系列に記す。

    わたしたちが、ここに存在するのは、例外なく、わたしたちの祖先が、
    懸命に儚い命をつないできたからである。


    我が祖父、鹿十朗は、1964年、わたしが1才のときに死んだ。
    わたしは彼と話した記憶はない。

    彼は孤児であったし、学校にも行けなかったし、苦労人であった。
    祖父、鹿十朗に「山本家のその後」を知ってもらいたいという気持ちで書いた。


    だが、一般の読者にも、興味を持てるようにも書いた。
    今という時代のことを理解するために、過去の時代との違いを書いた。

    時代の流れを感じていただいた上で、
    将来のこどもたちのために、今、わたしたちは、なにができるのか、
    わたしたちは、なにをすべきなのか。
    そんなことを考えるきっかけになってくれれば幸いだ。


    天国のおじいちゃん、おばあちゃんへ。
    わたしたちは元気に暮らしています。
    あなたたちが精一杯生きたように、
    わたしたちも精一杯生きていこうと思っています。



    ■岡山から北海道へ。高祖父と曽祖父の時代


    山本兼吉は岡山県に江戸時代の後期、
    西暦1840年ごろに岡山県児島に生まれた。

    兼吉は、わたしの高祖父である。
    江戸時代の平均寿命30~40才に対して、兼吉は76才まで生きた。

    当時としては長寿といってよいだろう。

    兼吉は岡山県の児島半島で塩田を営んでいた。

    電波も電気も水道もガスもない時代の話である。
    インターネットもない。
    携帯電話も、もちろん、スマホもない時代であった。

    西洋医学も健保も普及していなかった。
    靴もない。素足で生活しているものも少なくはなかった。

    もちろん、自動車も自転車もない。
    舗装された道もない。

    兼吉の暮らしぶりがどうであったのかは知るよしがない。
    塩田を所有していたぐらいだから、それなりの人であったかもしれない。
    庄屋や武家など、経済力を持つ者たちが塩田の所有者であったからだ。

    明治政府が塩の統制価格を廃し、塩価を自由化してから、塩の価格が暴落した。
    塩田の経営は楽ではなかったようだ。
    国内では競争力が高いといわれている瀬戸内の塩田でさえ、
    廃田、棄田となったところも少なくない。


    さて、兼吉には金次郎(わたしの曽祖父)という子がいた。
    金次郎は、だが、兼吉から岡山の児島塩田を相続しなかった。

    なぜならば、金次郎は故郷である岡山を離れて、
    遠い、北海道の地へ開拓民として移住したことがわかっているからだ。

    金次郎は1860年ごろに生まれた。
    1906年(明治42年)に40代の若さで死去。
    1868年が明治維新だから、明治時代をどっぷりと生きた人である。


    時代はというと、
    金次郎が幼いのころ、明治政府は人力車の営業を許可し、
    1873年に人力車の普及は1万台を超えたという。

    エッサ、エッサとカゴで人を担いで移動するカゴ屋家業は
    人力車との適合競争に敗れ、淘汰されていく。

    カゴは速いもので40分4キロのスピードであった。
    だが、人力車は急ぎの場合は二人引きや三人引きで駆けた。

    1880年代以降、鉄道が30キロを50分で走り交通主役に躍りでる。
    大量輸送の始まりである。

    カゴから人力車へ。馬車から鉄道へと時代は移っていく。

    今、当たり前になっているインフラはないに等しい。
    往来にはガス灯も電灯もなく、湯に行く時は提灯を持っていく。


    金次郎の結婚は早かった。
    それは最初の妻が1889年に死去したことが戸籍からわかっているからだ。
    金次郎がまだ20代後半のときであった。

    明治初期、結婚平均年齢は男子20才、女子14才であった。
    いまは男性も女性も30才程度であるから、随分と晩婚になったものだ。
    少子化社会になるのも頷ける。


    世情はといえば、蒸気機関による産業革命が日本に押し寄せていた。
    軍事力で勝る列強がアジア諸国を植民地化していた。
    朝鮮半島や中国北部を巡って、日露の対立も激化していた。
    日露戰争の前夜である。
    国防の観点からも北海道への移民政策を明治政府は大々的に打ち出していた。


    金次郎と兼吉との親子間に何があったのかわからない。

    とにかく、金次郎は岡山を離れ、北海道の長万部へと移住した。
    岡山の児島塩田は相続されず、そのまま山本家の土地として、
    瀬戸大橋の開業まで「放置」された。

    瀬戸大橋開業を急ぐ岡山県が山本家の児島の土地を買い上げて国有化したのが
    1985年のことである。
    岡山県庁の方が、児島の山本の土地を国有化したいと、
    父の実家を、「岡山県庁作成による」山本の家系図を持って訪ねてきた。
    戸籍情報から作成したものであった。

    わたしは高祖父の兼吉と曽祖父の金次郎のことをその家系図から知った。


    兼吉は岡山に残ったのだろうか。それとも一緒に北海道にいったのだろうか。

    金次郎は妻に先立たれていた。
    その失意の中、開拓移民として北海道に渡ったのだろうか。
    あるいは、塩田では食べていけなくなり、半ば、塩田を放置して、
    親族一同で北海道に渡ったのだろうか。

    何もわかっていない。


    ひとつだけ、確かなことがある。

    北海道長万部は農業には向かない厳しい土地であったということだ。



    ■移民と北海道


    1869年、それまでの蝦夷は北海道へと名を変えた。
    北海道の原野の開拓は、明治政府が最も力を入れる事業のひとつとなった。

    1870年代、政府は1400万円という巨額を投じて北海道の開発を行った。
    当時の1円がいまの3800円程度であるらしいから、
    明治の1400万円は現在の500~600億円にあたる。

    北海道の開拓にあたっては政府は米国に協力を頼み、
    米国から家畜、農具、技術者を派遣してもらった。

    北海道は対ロシア防衛の拠点である。
    同時に、日本を支える食糧自給の希望でもあった。
    政府は北海道の開拓を急いでいた。


    四民平等となり、禄を失った氏族の没落が大きな社会問題であった。
    およそ100万人の武士が失業していたからだ。

    氏族救済と北の守りを兼ねた屯田兵制度によって、
    士族たち屯田兵は原始林を七万町歩の農地に変えていく。

    冬に巨木を伐採していくが、雪の上からの伐採なので、
    雪が溶けると切り株の高さは1メートルを超えていた。
    だから、雪融け時には、再度、切り株を伐採せねばならなかった。


    1876年には米国マサチューセッツ州立農業専門学校長のクラークを召喚、
    札幌農学校を開校。後の北海道帝国大学となる。

    「大志を抱け」で有名なクラーク博士の年棒は7200円で参議、
    大久保利通の年棒500円の10倍以上の高給であった。
    教員は年棒100~200円程度であった。


    鉄道は都市部では即座に収益化された。
    1873年の新橋ー横浜間の営業収支は21万円の黒字となる
    初年度にもかかわらず1日平均4000人以上の利用であった。

    北海道でも新鉄道事業が起工。
    1880年に幌内と手宮間が開通した。
    本土の鉄道がイギリスからの技術導入であったのに対して、
    北海道の鉄道は米国からの技術導入であった。

    また、都市圏の鉄道が旅客主体であったのに対して、
    北海道の鉄道は貨物中心であった。

    石炭は無料で運ぶ取り決めとなったため、
    北海道の鉄道の収支は当初から赤字であった。

    現在でもJR東が高収益なのに対して、JR北海道は低収益である。


    北海道の幹線の整備には囚人が動員されて、
    その多数が過酷な労働と劣悪な環境下で死亡した。


    北海道の人口は劇的に増加した。
    1880年に30万人程度だったが、
    1910年には150万人に増加している。
    この間、わずか30年間である。

    金次郎も1905年までには長万部に移住したことがわかっている。
    金次郎の子どもである鹿十朗が長万部の生まれだとわかっていることと、
    鹿十朗が1905年に生まれた事実からである。


    広大な開拓地に夢をはせて北海道に渡った多くの開拓民たち。
    金次郎はその一人であった。

    移住の前後で金次郎は再婚した。妻の名前はウリといった。

    1905年にわたしの祖父にあたる鹿十朗が長万部で生まれた。

    二年後に鹿十朗の弟の一馬が生まれた。

    一馬は生涯、長万部で暮らした。戦後は洋服屋を営んでいたという。



    ■開拓の地での困窮生活


    一般に、北海道開拓者たちの生活は困窮を極めた。

    寒冷に加え、ガス、電気、灯油などのインフラが整わない時代の北海道である。
    さらに、長万部は農業には全く適さない土地であった。

    開拓者たちは想像を絶する大自然に直面した。
    天を覆うほどの巨木を人力で伐採していくのである。

    寒冷の湿地や泥炭を道産子の耕馬で耕していく。


    すべてが未開のまま、開拓生活はまずは貧相な小屋で始まった。

    カラスやクマの被害も大きかった。

    まだ、休日とか日曜日という考え方はなかった。

    毎日、働くのが当たり前の時代であった。

    困窮の中で、金次郎は1908年に死去した。
    わたしの祖父、鹿十朗はわずか3才のときだ。


    1910年代には北海道を大飢饉が襲う。
    イナゴの対文が一葉半片も残さすに草も木も食い尽くした。
    虫の体が地面を覆い尽くしたという。

    これが2年続いたという。

    多くの家庭で食品が底をつき、川辺に小魚を漁り、
    山野にユリの球根を求め、フキを採取、
    だが、飢えが勝る。

    ブヨ、蚊などの害虫を防ぐ手立てもない。
    防虫剤、殺虫剤、蚊取り線香などもない時代だ。
    布に体をつつみ寝るしかなかった。


    鹿十朗の母ウリが1913年1月11日に死去。
    ときに、鹿十朗は8才、弟の一馬は6才であった。
    兄弟は幼くして両親をなくした。

    岡山に残り塩田を所有していた兼吉(鹿十朗にとっての祖父)が
    1916年9月8日に死去してからは頼る身内もいなくなった。

    そのころの思い出を祖父、鹿十朗は生涯、誰にも話さなかった。


    1919年、北海道長万部高等小学校を卒寮した鹿十朗は
    名古屋に出稼ぎに出ることになった。

    その年、北海道帝国大学に医学部が設置された。



    ■祖父、鹿十朗、名古屋へ。激動の時代。


    日本は激動の時代を迎える。
    1923年、関東大震災。
    1927年、金融恐慌。
    1928年、世界大恐慌。

    ストライキや労働争議が多発した。

    1930年、「エコノミスト」誌の推定の当時の失業者は
    120~130万人で多くは都市失業者であった。
    政府は、都市失業者に帰農を奨励したが、農村は恐慌で疲弊し、
    餓死者が続出していた。


    1928年。男子25才以上であれば投票できる普通選挙が実施された。
    無産政党が普通選挙で当選した。だが、その直後に弾圧される。


    名古屋に出稼ぎに出ていた鹿十朗は20代後半に結婚することになる。
    喫茶店をある姉妹がきりもりしていた。その姉である、とみ江と結ばれた。
    (本名は、とみゑ。とみ江は俳号)

    とみ江は、わたしの祖母である。

    鹿十朗と、とみ江の夫妻に長男、登(わたしの父)が誕生する。
    1935年のことである。


    そのころ、
    ラジオの受信契約者数は200万を突破していた。
    だが、受信機は一台27円とまだ高かった。

    東北の村では凶作が続き、多くの娘が売られるなど、
    日本にはまだ国民に基本的人権が認められていなかった。
    昭和という時代は、人身売買が公然と横行していたのである。

    現行憲法ですべての国民に基本的人権が認められたのが戦後のことである。
    医療制度や生活保護制度などの確立は人身売買や劣悪な労働状況や
    飢餓という痛み知る人々が勝ち取ってきた権利である。

    わたしたちは権利の上に、単に安住してはいけない。

    現状の国家財政を鑑みると保険医療や生活保護などの制度の存続が危ぶまれて
    いる。

    言論の自由もなく、人身売買やテロが横行した戦前のような時代に戻ることを
    多くの国民は危惧している。

    (つづく)


    日本株ファンドマネージャ
    山本 潤


    (情報提供を目的にしており内容を保証したわけではありません。投資に関しては御自身の責任と判断で願います。万が一、事実と異なる内容により、読者の皆様が損失を被っても筆者および発行者は一切の責任を負いません。)
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