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 兵御院に示された入り口から、姫花は坑道に入った。
 人の手によって整備されており、壁は固められている。
 しかし、明かりはない。
 
「光よ……」

 指先からほんの少しの妖力を解放する。
 ふわりと光の玉が浮かんだ。
 あたりを照らす。

「でも、霧に阻まれてあまり遠くまでは見えないわね。嫌らしい霧……」

 外よりもはるかに濃い、べったりとした緑の霧が漂っていた。
 死臭と腐臭、刺激臭。ありとあらゆる悪臭の塊。
 姫花は服の裾で口と鼻を抑えた。
 
「気分が悪くなってくるわね……」

 前を睨みつけ、姫花は奥へと歩を進める。

 足元はだんだんぬかるみはじめ、空気は重く湿り気を帯びる。
 毒霧は濃度を増し、視界は悪くなる一方だ。
 
 だが、突然霧が薄くなった。開けた場所に出たのだ。
 天井は高く、上の方には澄んだ空気がたまっているのか、霧はない。
 それを見て、姫花は妖力の光球を上方に飛ばした。
 
 最奥に、人の背丈のゆうに三倍はあろうかという巨大な岩が見える。
 その前に、緑の霧が凝ったような人型の何か。
 体のいたるところから毒霧を噴き上げている。

 冠に袍、沓に笏。
 壁画に描かれるような、古の日本を治めていたであろう王族の衣装。
 数百年の時を経てなお、変わらぬ宿敵の姿。
 
「荒神っ……!」

 円形の広場に、姫花の声が響いた。
 
「妃たる娘か……」
 低く、くぐもった声が残響する。
 
 人型の頭の部分に、下卑た表情が浮かんだ。
「ほう、これは美しい。我が妃に相応しい。さあ、近う寄れ……」

 姫花は両足を肩の幅に開き、踵を浮かせた。
 両腕を胸の前で交差させ、妖力を集中させる。
 
「私の顔を忘れたの? 長いこと経って耄碌したんじゃない?」

「ぬうっ……貴様、生野姫花か!」

「今更気づいたの? 間抜けなことね」
 姫花は鼻で笑った。

「ふん、貴様が来たならこの上ないわ。うまくいったようだ。妃などもはや必要なし」

「何かわからないけど、戯言はここまでよ! 引導、渡してやるわ!」

 姫花の両腕から放たれた純粋な妖力が、荒神に叩きつけられた。
 しかしその瞬間、荒神は実体を失い、緑の霧へと変じた。
 妖力の塊は、一瞬前まで荒神がいた場所をすり抜け、後方の大岩にぶつかった。
 
 ドォォォン!
 
 爆音が響く。もうもうと煙が立ち、天井からぱらぱらと土の破片が降り注いでくる。
 
「手間を省いてくれて感謝するぞ、小娘」

 荒神の声だけが響く。
 土煙が収まると、巨大な岩に変化が生じていた。
 妖力の光を反射して、坑道中が照らされる。
 表面を覆う岩と土が払われ、中の銀が姿を現したのだ。
 
「この山に封じられて、むしろ幸運であった。我が失われし肉体に相応しい憑代を見つけたのだからな」

 霧が筋となって、巨大な銀塊に巻きつく。
 そしてそれは、吸い込まれるように消えて行った。
 やがて。
 
 低く、山そのものを揺るがすような地響きが始まった。
 
 銀塊が動く。命あるもののように銀塊が蠢く。
 まるで眠れる巨人が起き上がるかのごとく、それは徐々に人の形を縁取り始めた。

「!? 何をする気なの、荒神っ」 
 
「人の肉体のように脆弱ではない。霧のように薄弱でもない。我が肉体は、強く美しく、輝きを放つ銀とする!」

 甲に冑をまとい、右手には巨大な直刀。
 姫花の時代よりさらに昔。太古の兵装をなした銀の巨人が、姫花の前に立ちあがった。
 その身丈は、姫花の五倍はあるだろう。

 姫花は息を飲んだ。だが、すぐに立ち直る。
「所詮は木偶人形よ。粉々にしてやるわ」

 ギロリ。
 冑の下から、姫花を睨みつける。
 表情は、霧でいた時よりもはるかに殺気に満ちていた。
 
「クハハハ! 小さいな、生野姫花」

 響き渡る哄笑。
 巨人となった荒神は、その直刀を上方に振り上げた。
 山頂に至る、天井に向かって。
 
 衝撃波が走る。
 
 坑道の中が光に照らされた。鉱山そのものが切り裂かれ、そこから陽光が降り注いだのだ。
 そして次の瞬間、崩落が始まる。
 
「きゃあああああ!!」

 大岩が姫花めがけて落下する。
 
「今度はお前が銀山に封じられる番だ! 地中深くに埋もれるがいい!」

 崩れゆく銀鉱を、ゆっくりと荒神は上昇してゆく。
 
 
 


 生野銀山の頂上に、荒神は姿を現した。
「数百年ぶりの地上か。なんと太陽の力強いことか」

 地上を見下ろす。
 山々に囲まれた生野の地は、古の時代よりも栄えているのが見て取れた。
 銀山の入り口に群れた人々が、恐怖の眼差しで荒神を見上げていた。
 それが、たまらなく心地いい。
 
「愚民ども……。その命、我に捧げよ。その生気を我が妖力としてくれよう」

 大きく息を吸い込む素振り。そして街に、毒霧を噴きつけた。
 固形化したような緑の霧が、人々に襲い掛かる。

「ゲホッ……ゴホッ!」
「いき……が……」
「けほっ……あのひとは……」

 ある者はそのまま地に倒れた。
 喉を掻き毟る者、咳き込みうずくまる者。
 涙を流しながら、空に手を伸ばすもの。
 妻と子を抱きかかえながら倒れ伏す父。妻の悲鳴は、毒に塞がれて外に出ることはなかった。
 
 荒神は上空から、緑の霧に包まれた地獄絵図を、恍惚の表情で眺めていた。

「時が経とうと、人は変わらぬものだな。なんと心地よい絶叫か……むっ!?」

 何かを察し、荒神は身を翻した。
 雷球が銀の体をかすめて飛んでいく。
 
「なんということを……! 残虐にして極悪なのは、変わっていないようね!」

 怒りに満ちた声が響いた。
 
「生野姫花……っ」
「おあいにく。あの程度でどうこうできると思ったら、舐められたものだわ」

 衣装の裾がはためく。
 髪が、風にたなびく。
 全身を淡い銀の光に包まれた姫花が、空に浮かんでいる。
 妖力を解放して、浮力に変換しているのだ。
 
「生野の地よ。谷よ。風よ。今ここにある毒を打ち払え……!」

 その身に宿る力を乗せて、姫花は祈るように唱えた。
 刹那。
 地上を突風が駆け巡った。
 姫花のいる上空では、髪の先を揺らす程度のそよ風だったが、大地に溜まる毒霧はすべて払われていた。
 人々が、互いに助け合い立ち上がるのが見える。
 
「貴様あぁぁ!」

「ふん、お前が人々の苦しみを妖力に変えるなんて百も承知よ。そうはさせないわ」
 彼女は油断なく、身構えた。

「さあ、決着をつけましょう。今度こそ永遠に古墳に葬ってやるわ……!」
「ぬかせ小娘! 跡形も残らぬよう捻り潰してくれるわ。その苦悶を我が力としてやろう」

 姫花は不敵に笑った。
 自分の数倍の大きさのある敵を相手にしながら、その瞳に恐怖はない。
 銀色の光が、稲妻を成して彼女の体を走る。
 自分の妖力が高まっていくのを、姫花は感じていた。

「さぁ、そろそろ本気を出そうかしらね」

 左手を大きく打ち振る。
 雷球が空中に五つ、荒神の巨体を囲むように現れた。
 
「喰らいなさい!」

 広げた手のひらを、ぐっと握る。それに合わせて、同時に五つの光が荒神に襲い掛かる。
 
「手ぬるいわ!」

 荒神は刃を打ち振るい、雷球を切り裂いた。
 弾ける音を立てて、雷球が消え去る。

「やるわね!」

 光の残滓の中を、荒神が刃を掲げて突っ込んでくる。巨大な体躯に見合わず、その動きは素早い。
 姫花の瞳に、振り上げられた剣が映る。避けられない。

「盾よ出でよ!」

 とっさに、姫花は身を守る。妖力が実体化し、盾の形をした結界壁が形成された。
 
 ギイン!
 
 金属同士がぶつかり合うような音。
 その一撃で、姫花の盾には亀裂が入っていた。二撃以上耐えられないと判断し、実体化の妖力を打ち切る。盾は霧散した。
 防御分の妖力も上乗せし、攻撃に転じる。
 
「刃がお前だけのものとは思わないことね」

 大きく空中に十字を切るように、姫花は手を動かした。
 切り裂かれた空気が意思を持つように、鎌鼬となって銀の巨体に向かう。
 荒神は、避けようともしない。
 
「愚かなり」

 真空の刃は荒神の体に、毛の筋ほどの傷をいくつかつけただけで、かき消えてしまった。

「金属を切り刻むなど、土台無理なことよ」
 嘲りを含んで、荒神が笑う。姫花は舌打ちした。
 
「ちっ……。当然だったわね。じゃあ、火ならどう?」

 空中で体制を立て直す。両手を合わせ、軽く指を曲げる。できた隙間に妖力を集中させた。
 薬指、中指、人差し指と徐々に離していく。
 花びらのように開いていく手のひらの真ん中に、青く燃える炎が現出した。
 
(一点狙いよ……)
 
 両手を離す。その幅に合わせて火球も、轟々と音を立てて回転しながら、大きく膨れ上がっていく。
 姫花は両腕をいっぱいに広げた。
 巨大な火球が形成された。

「行きなさいっ!」

 姫花の声を受けて、火球は荒神に向かっていく。
 正確に言うのであれば、剣を構える右腕の、肘一点に。
 
「ぬうっ」

 意図を見抜けなかった荒神は、迫りくる火球にとっさに右腕を上げ、顔面をかばった。
 むき出しになった腕の関節に、火球が絡まりついた。
 青い火球は、荒神の体を構成する銀を融解させていく。

 ずるり。刃を持ったままの右腕が焼切られた。
 水銀のように液体化した金属の雫が、日の光を反射しながら落ちていった。

「やったぞー!」
 地上の人々の声が、姫花の耳にも届いた。

「う、ぐああぁぁぁ!」
「そんな体でも、痛みは感じるのかしらね」

 冷たく言い放つ姫花。

「おのれ小娘、許さぬ……むごたらしく殺してくれるわ!」

 憤怒の光を宿して、荒神は姫花を睨みつけた。
「いくら貴様の結界壁といえども、無数に襲い掛かる銀の礫に耐えられまい」

 無傷の左手で、右の失われた肘先を引っ掴む。
 バァン! 握力で己の体を砕く。肘、上腕、そして肩。そのたびにいびつな銀の礫が生産される。礫とはいえ、その一つ一つの大きさは人間の拳ほどもある。

 傷口からは、血のように緑の霧が溢れ出た。

「喰らえ!」

 荒神の体の一部であった銀塊は、それ自身が意思を持つかのよう空中を走り、あらゆる角度から姫花に殺到した。
 
「盾……いえ、球!」

 姫花は己の周りに真球の障壁結界を形成した。身をかがめ、それでも訪れるであろう衝撃に備える。
 幾百もの礫が、結界壁を打ちつける。
 地うねりのような低い音があたりに木霊する。

(この勢いじゃあ、いつまでも耐えられないわね……)

 障壁の内側で、姫花は焦っていた。攻撃はやむことなく、間断なく姫花の妖力を削っている。
 かといって、攻撃に転じるために結界壁を消せば、その瞬間に無数の礫に打たれて命を失う。
 差し違える屈辱はもうごめんだった。でも、このまま荒神に一方的に負けるのは、彼女の誇りが許せなかった。

(一気に妖力を解放し、その隙をついて一撃で決める)

 いくらかの傷を負うことを覚悟の上で、結界壁の妖力を絶とうとした瞬間。
 不意に、礫の攻撃がやんだ。
 絶好の好機。彼女は結界壁を解除した。
 だが。
 
「クハハハハ! 小娘は何百年経とうと小娘よ!」

 姫花の目の前に、荒神の無傷の左手が伸びていた。
 その細い体を、鷲掴みにする。
 
「ああああああっ……!」
 姫花は、体の中で骨が軋る音を聞いた。
 痛みが全身を支配し、集中させた妖力が霧散していく。
 
「この程度の策にかかるとはなぁ! 宣言通り、捻り潰してやろう」
 荒神は、さらに握力に力を込めた。

 姫花の悲鳴が、山彦となって生野の地を駆け巡った。
 
(この、ままじゃ……)
 すぐそばのはずの荒神の嘲笑が、遠く聞こえる。
 手足が冷えていく。
 視界が暗くなっていく。
 
(か、さま……姫花さま!)
 姫花のすぐ耳元で、はなきの声が聞こえた気がした。
(どうか勝ってください)

「負けられない……あの娘の祈りを、私は背負っているから!」
 体に妖力がみなぎる。 

 手足にぬくもりが戻ってきた。
 暗くなった視界は、霧が晴れるように明るくなった。
 遠のいていた荒神の不愉快な笑い声は、途切れていた。
 驚愕の眼差しで、姫花を見る。 
 
「馬鹿な! 妖力も命も、尽きかけていたはず……」
「お前が人々の苦悶を妖力とするように、私にも糧とできるものがあったのよ」

 姫花の体が光に包まれる。優しく、それでいて力強い光。
 それが一気に収縮して、弾ける。

「ギャアアアァ!」

 荒神の左手だったものが、砕け散り地上へ落ちて行った。
 両腕を失った荒神。
 姫花は宙を舞い、素早く懐に飛び込んだ。
 
「それは、人の希望、祈り。さあ、終わりよ!」

 両腕にすべての力を集中させ、巨体の中央、胸の部分に叩き込む。

「おのれえぇェェ! まだ、まだだァ…… まだ我は……!」

 言い終わらぬうちに、荒神の銀の体にひびが入った。
 体から、緑の霧が吹きだし始める。
 足が砕け始める。膝、腰、胸……細かい銀の砂となって、風に舞い散る。

「今度こそ……」

 姫花は荒い息を吐いた。
 ぐらり。視界が歪む。
(力を使いすぎたわ。浮いていられない……)
 崩れゆく荒神の体と共に、姫花は重力の糸に引かれて、地上に落ちて行った。
 
 後には、かすかに揺らめく緑の霧が残された。


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