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 兵御院の用意したリムジンに、姫花は乗っていた。
 自分の生きていた時代には想像すらできぬ、引く者なく動く鉄の車。最初こそ戸惑ったが、数分も経つうちに、その座り心地のいい椅子にすっかり慣れてしまった。
 運転席とはガラスで隔てられ、座席は向かい合わせに設えられている。
 
 興味深げに、姫花は運転席を覗き込んだ。
 何が何やら姫花にはわからなかったが、動きを操作するらしい円状のもの――ハンドルを握るドライバーの顔には、色濃く疲労が浮かんでいるのは見て取れた。

「そも、荒神とはなんなのか、姫花さまはご存じでいらっしゃいますか?」
 兵御院が問うた。姫花はとすっと座席に座り、意外そうな顔を兵御院に向けた。

「? そんなの誰でも知っていることでしょう」
「いえいえ……。我々の時代には、不完全な伝承しか残されておりませんでな」
「……そこまで時間が経っているのね」

 姫花は窓の外に目をやった。
 空気は毒霧に汚染され、出歩く人影はまるでない。
 死に絶えたかのように静まっている。

 道はむき出しの土ではなく、継ぎ目のない石で舗装されていた。
 木目の生きた街並みは消え失せ、堅牢そうな家々が立ち並ぶ。城壁を思わせるような、高い石造りの建物。無論、石ではなくコンクリートなのだが、姫花は知らない。
 
「本当に、ここは私の知る時代ではないのね……」

 荒神を倒す。その決意に変わりはない。
 しかし、目の前に突き付けられた時間の流れは、姫花を不安にさせる。
 姫花はため息をついた。

「……荒神の正体だけど。あれは、古の豪族の悪霊よ」

 姫花の答えに、兵御院は目を見張った。
「なんと……。姫花さまより、さらに古い時代のものでしたか」
「そう。生野には、墓所である古墳が散在している。そのうちの一つに眠っていた、古代人。この国を支配しようという野望を半ばに絶たれた、強欲な男よ」

 兵御院は首を振った。
「いやはや、我々には想像もできませんなあ。男と生まれたからには、野望に燃えるというところだけはわかりますが、な」
「治めるべき領民を苦しめて、何が王よ!」
 姫花は兵御院を睨みつけた。男は恐縮して頭を下げる。

「……荒神は私がこの地に来るまで、民を苦しめていたわ。竹田の城も、交通の要衝であると共に、荒神に対するために建造されたものだったの」
「ほう、それは興味深い。生の歴史というやつですな」
「私はあいつを放っておけなかった。ここの人たちは好きだったし、民を守るために戦う。それが民を治める者の役目だと言われて育った」
「姫花さまのお生まれは、高貴な血筋なのですな」

「生野を名乗ってはいるけれど、私は竹田の城を築いた氏族のゆかりの女よ。だから、あの城に封印されたのね」
「左様でございましたか。溢れ出る高貴さは消せぬものですなぁ」
「お世辞はいいわ」
 冗談めかした兵御院の言葉に、姫花は年相応の笑い顔で答えた。
 
「荒神はどこにいるの?」
 少しだけ笑いを残したまま、姫花は兵御院に聞いた。
「封印されし銀山にいるものと思われます。確約はありませんが、間違いはないでしょうな」

 遠回しな言い方に、姫花は違和感を覚えた。首を傾げる。
 
「? 不思議な物言いね。どういうこと?」
「夢、でございますよ」
「夢……? 荒神の夢でも見るというの?」
「左様……詳しくは、わしよりもこの者のほうがよろしいでしょうな」

 兵御院は、運転席のガラスを叩いた。
 車が路肩に止まった。運転席を隔てていたガラスが開く。
「ご用でしょうか?」
「この方に、例の夢の話を……」

 運転手は姫花に一礼してから、口を開いた。
「数日前……今から思えば、荒神の封印が解かれたときだったのでしょう。それから、毎日同じ夢を見るのでございます」
 運転手が疲れた顔で語る。目の下には隈が浮いていた。

「暗い、炭鉱の奥で、声だけが響くのです」

「声……?」
「はい。目覚めても耳に残っております。『数百年経ちても恨みは薄れぬ。我が心を安らがすため、娘を一人、妃に捧げよ。さなくば、この地に住まう人間は、一人残らず贄とする』と」
 身震いするようにしてから、続ける。
「それから、緑色の霧があふれ、息ができなくなります。苦しさのあまり目が覚める。これが毎日でございます」

 運転手が口を閉ざすと、兵御院が続ける。
「街の人間すべてが、どうやらこんな夢を見ているようでしてな」
 手振りをすると、ガラスが閉まり、車がまた動き出した。

「……妃ですって? 体のいい生贄じゃない!」
 姫花が語気荒く吐き捨てる。
「左様……。ですが、あの者の顔をご覧になったでしょう。眠るたび悪夢にうなされるようでは、あの憔悴も頷けまする。街の者たちも同様です。そうなれば、当然……」
「…………っ!」

 姫花の目に、燃えるような怒りが宿る。
 まさか、一人を犠牲にして助かろうなどというのか?

「このままではいずれ街の人々は夢と毒で、取り殺されるでしょう」
「だからと言って……!」
「あくまでも花嫁でございますよ。命までは取られますまい」

 姫花は唇を噛んだ。
 一人の人生と、街の人の命。
 その二つを天秤にかけた時、どちらが重くなるか。

「そんなこと、させられない」

 だからと言って、一人にすべてをかぶせていいとは思えなかった。
 誰も不幸にしたくなかった。だから戦ったのだ。
 いま、覚えられていなくても、自分が何より覚えている。

 車が停車した。交差点だ。
 信号が青に、黄色に、赤に変わり、明滅を繰り返す。
 窓の外を見やって、姫花はつぶやいた。

「妖力の光とも思えないわ。不思議なものね」
「我々にはごく当たり前のことですが、姫花さまには慣れぬことばかりでご不安でしょうな」

 再び車が走り出す。エンジンが吹き上がる音がかすかに聞こえた。
 
「いいえ。荒神がいる限り、私のすべきことに変わりはないわ」
 不安がないと言えば嘘だ。
 だが、やるべきことがある。
 弱音を吐くのはそのあとでいいはずだ。

「お覚悟、ご立派でございます……」
 兵御院は顔を伏せた。しわがれた声で姫花に告げた。
 
「この車は、生野銀山に向かっております。銀鉱の奥に荒神が。すでに坑道からは毒があふれ出しているとの報告です。お気をつけて」


 やがて、銀山の入り口についた。
 あたりはうっすらと緑がかった霧が漂っていた。ツンとした臭いが、姫花の鼻をつく。
 横で兵御院が軽く咳き込んだ。
 
 花の文様の彫刻された門があり、その前に盛大に篝火が焚かれている。
 周りには人々が集まっていた。皆、口と鼻を布で覆っている。
 
 篝火の前には木製の祭壇が設えられていた。その横に、一風変わった装束を身にまとった少女が、俯いて立っている。年は十代の半ば……姫花より、少し若いだろうか。
 少女のそばに、両親と思われる男女が立っている。母親は目に涙を浮かべ、父親は悔しそうに目元を歪めていた。

 一目で、ただならぬ様子であることがわかる。
 
「あれは……」
 あたりを指し、姫花は兵御院に問うた。
「婚姻の儀でございますよ」
 老人は重々しく、姫花に答えた。

 その瞬間、姫花は駆け出していた。
 少女に駆け寄り、あたりを見回す。
 
「この娘を花嫁にする必要なんてないわ!」

 集まる人々に対して、凛とした声を張り上げる。
 人々の注目が、姫花に集まった。
 憔悴と困惑が、半分布に覆われた顔からもありありと覗えた。

「じゃあどうしろっていうんだ。このまま殺されろって思ってんのか」
 少女の父親が、姫花の前に立つ。

「思っていないわ。でも、こんなことは間違ってる」

 静かな声で、姫花は繰り返した。
 少女に向き直り、優しく諭すように言う。
 
「あなたが行ったところで、解決にならないわ。誰かが犠牲になる必要なんて、ないの」

 少女はあっけに取られたような顔をしていたが、ふるふると首を振った。

「あの……。ありがとうございます。でも、これはわたしが決めたことなんです。この街が好きでなんです。わたしひとりでみんなが苦しまずに済むのなら、それが一番いいんです」

 儚げな微笑みを浮かべて、少女は続ける。
 
「怖くないわけじゃないんです。でもきっと、自らを犠牲にしてこの街を助けてくれた姫花さまも、こういう気持ちだったんだと思います」

 姫花は息を飲んだ。
 
「あなたは私を……生野姫花を知っているの?」
 
「姫花さまのことでしたら知っています。昔、命を懸けて、たった一人でこの街を救ってくれた女性だってくらいしかわからないですけど。わたしの名前――はなきって、姫花さまの文字を逆にして読んだものです」

「……そう」

 姫花は少女に近づいた。その手を取る。指の先は冷たく、かすかな震えが姫花に伝わってきた。

(ここには、私を覚えてくれている人がいるのね)

 姫花は自分の中に、温かい何かが宿るのを感じた。
 それはゆっくりと全身に沁み渡って、力と変わっていく。

(私のしたことは無駄ではなかったのだわ)

 時代が流れ、人が移り変わっても、変わらないもの。
 昔、自分が命を懸けて守ったものが、今も受け継がれている。
 
 姫花は笑った。決意を込めて。

「はなき。ありがとう。でも、あなたが行くことはないわ。その衣装を貸しなさい。私が代わりに行く。今度こそ荒神に引導を渡してやるわ」

 しかし、はなきはイヤイヤをするように首を振った。
「だめです。わたし、決めたんです。この街の役に立つんだって」
「強情ね……」
 
「いいじゃないかね。変わっておあげなさいよ」
 人々に一歩進み出て、兵御院がしゃがれ声をかけた。
 
「花嫁を捧げるという点なら、同じ若い娘だ。変わりはないじゃろう。それにこの方は勝算があるんだ。そうでございましょう?」
 姫花を見る。姫花は力強く頷いた。

「そうよ。死にに行くのではないわ」

「本当に……いいんですか?」
 おずおずと、はなきが言う。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず、と言うでしょう。もっとも、虎は私だけど。危険を冒さねばならない時もあるのよ」

 まっすぐに、姫花は少女を見た。はなきも姫花を見返す。
 はなきの目頭が赤くなり、涙が零れる。

「……ありがとう、ございます。本当は怖かった。ごめんなさい、ありがとう……」
 しゃくりあげながら、少女は姫花に抱きついた。
 姫花は子供にするように、背中をさすってやった。
 
「あなたの志、立派だわ。あとは私を信じて任せなさい」

 鼻を啜りあげながら、はなきはこくりと頷いた。
 
「ささ、姫花さま、はなきさんも。衣装替えをなさいませ」
 杖を突きながら歩く兵御院に先導され、二人はそばの建物に入った。

※ ※ ※

 
 青と黒を基調とし、銀を配した服を身にまとい、姫花は再び人々の前に立った。
 それはまるで姫花のためにあつらえたかのようだ。

「悪くないわね……」

 くるりとその場で回る。裾がひるがえり、円を描いた。

「よくお似合いですぞ」

 世辞ばかりでない様子で、兵御院が褒める。
 姫花は苦笑いした。だが、笑いを収める。
 
「行ってくるわ」

 歩み去る姫花におずおずと、はなきが声をかけた。

「あの……お名前を、聞かせてください」

 姫花は足を止めた。振り返る。
 
「私は姫花。生野姫花。遠い昔とは違う。今度こそ荒神を倒してやるわ」

 踵を返し、鉱山の入り口へ向かう。
 
 後には、顔を見合わせる人々が残された。


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