おくやまです。

先日、政治と「呪い」(!)に関する
驚くべき記事を発見しましたので、
すでにブログや番組で紹介しました。

その記事について簡単にご説明すると、
著者はアメリカのコネチカット州にあるウェズリアン大学の宗教学の先生です。
2012年のオバマ大統領の再選をかけた大統領選挙の時に、
共和党の保守派の宗教陣営によって展開された、
「呪いキャンペーン」とでもいうべき運動を紹介しております。

詳しくはブログのほうをご覧になっていただくとして
今回、本稿で論じたいのは、
このアメリカの「前近代的」とも呼べる奇妙な習慣についてです。

アメリカといえば、みなさんもよくご存知の通り、
最先端のテクノロジーを生み出す
活発な社会を抱えた立派な「近代国家」です。

経済力は20世紀前半から
相変わらず世界トップの立場を維持しておりますし、
その国家システムは非常に合理的な制度設計をなされた、
まさに「近代制」の権化のようなレジームを持っています。

ところが上の記事でも紹介したように、
その選挙戦で実際に行われているのは、
「オバマ大統領の任期が短くなるように祈る」
という、まるで中世の黒魔術的なもの。

ちなみに上の記事の著者の先生は、
ハイチやガーナで盛んな
ブードゥー教のような「ネガティブな祈り」が、
アメリカの宗教保守と呼ばれるキリスト教の人々でも行われているとして、
間接的にアメリカの非近代性を
ハイチやガーナのそれと同列視しております(笑)

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では、なぜこのようなわけのわからない
「非合理的」なことが
アメリカのような
「合理的」な社会で行われているのでしょうか?

私はこれに関して一つの解釈をしております。

それは、人間の社会というのは、
社会制度を作り上げる上で
「合理的なもの」と「非合理的なもの」
の両方を同時に必要としている、ということです。

これについては更に説明が必要ですね。

私の専門分野である「国際関係論」のリアリズム系の文献を
長年読み込んでいるとわかるのですが、
「人間の非合理性」というか、
いわば「動物的な面」について
考えざるを得なくなります。

つまり、人間はそもそも(それが悪いと知っているにもかかわらず)
互いに争わなければならない存在であり、
このような争いというのは、
人間の社会活動から完全に消滅させることはできない・・・

ということです。

このような「人間の本質」(ヒューマン・ネイチャー)
を意識しながら国際政治を眺めておりますと、
冒頭の記事にあった
オバマ大統領に対する「呪いキャンペーン」などは、
「さもありなん・・・」という感さえあります。

アメリカのような「近代国家」(これには日本も含まれる)
というのは、合理性というか、
理性的な部分を強調した社会制度(とくに民主制)
を作り上げたために、人間が本来持っている「非合理性」、
つまり、本能的な部分を排除しがちになります。

たとえば、これがイギリスのような国になると、
非合理性の象徴である女王という存在を
国のトップに持ってくることによって、
民主制という合理性の固まりのような近代制度の「毒」を
なんとか解消できているとも言えます。

日本も皇室をトップに置いておりますが、
これも同じこと。

どちらの国も、伝統的な権威の存在が、
絶妙なバランサーとしての役目を果たしていますね。

ところが、アメリカの場合は、建前上、
大統領制にしてしまった都合上、
社会の中で「合理性」が非常に強調されます。

その結果どうなるのか?

「非合理性」というのは、
人間の本能に関わる「性(サガ)」
のようなものですから、完全に抑え込むことなど出来ないわけです。

なので、当然の帰結として、中世の黒魔術のような形で、
本来はどこかで他のところで表出していたはずの非合理性が、
大統領選挙の「呪いキャンペーン」として表面化したりするのです。

こういうことをいうと、

「では、おくやまさんはもっと”黒魔術(非合理)”をやれ!
                   って言いたいのですか!っ?」

と思われたかたもいらっしゃっるかもしれませんが、
もちろん、そうではありません。

「動物的な本能の部分」と「理性的な合理性の部分」
の二つの人間の要素が、前述のように、
社会体制にも反映されると私は見ています。

人間の本質というものを理解した上で、
合理性と非合理性が上手くバランシングした社会を設計したほうがよくね?
ということが言いたいのです。

さて、察しの良い読者の皆さんは、
この後の私の論の展開をお分かりではないでしょうか?

そうです。お察しの通り、
この「本能」の部分を強調するのが
「リアリズム」というわけです。

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日本の知識人の方々というのはどうもマジメな方が多いようで、
日本ももっと社会の中で「合理性」を突き詰めなければならない!
と感じている方が大変多いように思います。

ところが(国際・国内)社会というのは、
しょせんはドロドロとした非合理性を抱えた人間たちによって
構成されているわけで、
常に合理性だけを追及するのではなく、
同時に非合理性を意識したガス抜きをする、
という「仕込み」が必要となります。

私が翻訳した「戦略論の原点」という良書がありまして、

▼「戦略論の原点(普及版)」J.C.ワイリー (著),奥山 真司 (翻訳)
http://goo.gl/CZ1mNl

このなかで、原著者のワイリーは
戦略を大きく二つに分けています。
それが「順次戦略」と「累積戦略」です。

「順次戦略」は「合理的な戦略」であり、
そのプロセスは段階を踏んだ極めて理性的で理にかなったもの。

しかし、実はワイリーが強調しているのは、
その反対の「非合理的」な「累積戦略」の重要性。
戦争に勝つのは「累積戦略」が強かった側だ
という分析をしているくらいです。

そして、最終的にワイリーが提唱しているのは、
<「累積戦略」と「順次戦略」の両方を同時に使うべし!>
これは、まさに「合理と非合理のバランス」をブレンドしたもの。

社会制度でも戦略でも、大事なことは
合理性と非合理性を同時にバランスよく使わなければならない
ということです。

合理性と非合理性を備えているというのが、
人間という存在の面白さです。

個人の生活や人生全般などを考えるときのみならず、
国際関係や、国際政治の分野を考える際にも
このことはしっかりと考慮に入れる必要があります。

私がこれまで一貫して「リアリストたれ!」と主張しているのは、
要するに、こういうことなのです。


( おくやま )








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