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さらに次の日。
いつもより少し早く民芸博物館に出勤した俺が自分の机で書類をまとめていると、突然背後から声が掛けられた。
「おはよう、天野君! 夢の新婚生活を楽しんでるかい? 愛しのハニーのことを考えると、仕事もおぼつかないってやつだろ? ぬふふふふふ……」
振り向くまでもなかったね。こんなダサい言葉を口にする人物は、もっと言えばどっかの大泥棒三代目みたいな笑い声を発する人物は、この職場で一人しかいない。とはいえ、唯一の上司を無視する訳にもいかないので、しぶしぶ俺は椅子を反転させる。
案の定、そこでは恰幅の良い初老の男性がニヤニヤしながら立っていた。
「……おはようございます、館長」
「おや、ずいぶん疲れた顔をしてるじゃないか。まぁ、新婚当初は夜も何かと忙しいからな、ぬふふふふふ……」
こんな下世話な台詞の後に説明するのもなんだけど、彼はいつも俺のことを親身になって考えてくれる優しい人であった。俺の結婚に一番驚いたのも、そして一番喜んでくれたのも、他ならぬこの館長なのである。陳腐な表現を承知で言わせてもらえば、早くに両親を亡くした俺にとって、まるで父親代わりみたいな存在でもあったのさ。
だからこそ、俺もついつい正直に言ってしまったのだろう。
「ええ、とても忙しかったですよ。なんせ、掃除も洗濯も一人でしなければいけませんからね!」
すると、予想通り館長の表情が一変した。
「どういうことだ? 奥さんは、何も家事をしてくれないのか?」
隣の椅子に腰掛けて心配そうな口ぶりで尋ねてくる彼に、俺はこれまでの顛末を事細かく説明した。厳密に言えば、愚痴りまくった。とにかく誰かにこの悩みをぶちまけたかったし、その誰かを求めるならば眼前の男性ほど最適な人物はいなかった。
しばらくの間、難しい表情で俺の話に耳を傾けていた館長だったが、
「……それは、君にもおおいに問題があるぞ」
やがて、今度は予想外の返答を発した。
「僕にも、問題が?」
唖然となる俺に、
「いいかい、天野君。夫には、妻を教育する義務があるんだよ」
それこそ生徒を教育する先生のような口調で館長は言った。「話を聞いている限り、君はその場では笑って許してあげているようだけど、そんな体たらくじゃあ全然駄目だ。ちゃんと叱りつけてあげなければならない。そうしなければ、延々とこの状況が続くぞ。君はそれでもいいのかい?」
「いや、もちろんよくはないですけど……」
「だったら、妻を教育しなければいけない。すなわち、夫が仕事に出ている間、安心して家を任せられるような奥さんになるように、君が仕付けるんだよ。そして妻の方は、給料をちゃんと家に持って帰ってきて、たまの日曜日には家族サービスをして、浮気を一切しないような夫になるように仕付ける。つまり、お互いがお互いを教育するんだ。……これが正しい夫婦の在り方だと俺は思うぞ」
「なるほど……」
「大袈裟に言うならばな、天野君。…… “夫には、妻の為ならいつでも死ねる覚悟が必要”なんだよ」
「いつでも死ねる覚悟、ですか? 本気で大袈裟ですね」
俺が苦笑したところで、
「結婚とは大袈裟なもんさ」
館長の真面目くさった顔は変わらなかった。「要するに、だ。夫は妻を、『この人の為にならいつでも死ねる』と思わせるような女に成長させなければならないってことでもある。……どうだい、死ぬ気になれば、妻を教育するなんて容易いことだと言えるだろ?」
なんだかずいぶんと古風な考え方に思えたし、また極論すぎるんじゃないかとも思えたが、それでも今の俺には妙に説得力のあるアドバイスであった。なにより、俺にこんな助言を行ってくれる人など、この世には一人しかいないからな。
つまりは、教育が必要って訳か――。
そんなことを考えながら、俺が本来の持ち場である受付カウンターに向かうと、眼鏡を掛けた女性が一人で黙々と開館準備を行っていた。
去年の夏からここで働いている、女子大生バイトの加賀さんである。
「……加賀さんはさぁ、料理とか得意なの?」
カウンターに片肘をつきながら、何気なく俺が話し掛けてみると、
「挨拶もなしにいきなり朝からセクハラですか、副館長?」
彼女は無駄に整った顔をしかめながら、冷たい声で返事をよこしてきた。「……まぁ、自分で言うのも何ですが、料理はなかなかできる方だと思いますけど」
「へぇ、意外だなぁ」
「竜策市役所に、セクハラ相談を受け付けてくれる部署はあるんでしょうか? あるなら、今すぐ場所を教えて欲しいんですけど」
「でもさ、やっぱり料理ができる女の子はいいよねぇ」
「ひょっとして私を口説いてるんですか? 新婚早々のくせして。浮気の味を知る前に、自分の身の程を知った方がよろしいのでは?」
「加賀さんは、どこで料理を習ったの?」
「どこでって……そりゃあ、母親に教わったり、料理の本を読んだり、ですよ。別に、そんな教室に通ったりはしていません」
「料理の本、ねぇ……」
なるほど、教育には教科書が必要ってことか――。
……という訳で、愚直にも俺は仕事を終えて帰宅する際に、近くの本屋で料理関係の書籍を何冊か購入してみたのだった。
これを突きつけてやれば、麻淋さんだって少しは心を入れ替えてくれるかもしれない。……そんな淡い希望を抱きながら、それでも悲壮な顔つきで俺が玄関のドアをゆっくりと開ける。
さて、今夜はどんなオチが用意されているんだろうね? ワクワクし過ぎて、胸が張り裂けそうな気分だぜ、おい。
――ところが、そこからの展開は恐ろしく意外なものであった。
「あ、おかえりなさい!」
まず、麻淋さんの声が予想外に明るかった。俺の帰宅を待ち構えていたかのように、上機嫌な笑顔すら浮かべている。「晩御飯は、もうできてますよ」
「あ、ああ……」
てっきり今日も暗い雰囲気を漂わせているものとばかり思い込んでいたから、あまりにも穏やかな彼女の様子に虚をつかれてしまった。おいおい、どうしたんだよ? なんだか結婚四日目の新妻みたく、甘酸っぱいオーラを放ってるじゃねぇか。
「ちょっと冷めちゃったかもしれませんけど……」
苦笑しながら、食卓を手で示す麻淋さん。
……視線を移した俺は、今度こそおおいに驚愕させられたさ。
そこに用意されてあったのは、昨日とはまったく違う意味で名称のわからない料理の数々だったのだ。ゼリー状の物体が添えられた色彩鮮やかなサラダ、いかにも食欲をそそる香りを漂わせているスープ、そして四種類のソースがバランスよくかけられてあるステーキ。なおかつ、たくさんのフルーツにかこまれたデザートケーキと、高級そうなワインまで用意されている。
少なくとも、外観だけで言うならば満点に近い晩飯だぞ。
「こ、これは……」
唾を飲み込みながら、俺が尋ねる。「……どうしたんだ、麻淋。魔法でも使ったのか?」
驚きのあまり、つい呼び捨てにしてしまったね。
それに戸惑ったのか、一瞬びくっと体を揺らす麻淋だったが、
「まさか……魔法なんか、使っていませんわ」
すぐに優雅な笑みを浮かべながら、そう答えてきた。「それよりも、どうぞ早く召し上がってください」
「う、うん……ありがとう」
テーブルに所狭しと配置された豪勢な料理郡は、味もまた絶品であった。食べ始める直前まで、美しいのは見た目だけで中身はひどい有様だなんてわかりやすいオチを疑っていた俺に、どうか罰を与えてください、神様。できればそんなに痛くない罰を。
……さらに俺が驚かされたのは、家中がひどく清潔になっている点であった。昨日までの猥雑さが嘘のように、全ての物が整理整頓されている。どうやら、ちゃんと掃除機も使用されているようだ。しかも、俺のパジャマが寝室から無くなっていた。なんと、しっかりと洗濯を済ませた上に、風呂場のカゴに畳まれてあったのである。
いや、考えてみれば、至極当然のことなんだろうけどさ。昨日までの経緯を知っている俺からすれば、死んだ弟の意思を継いで甲子園に出場した双子の兄を見るように、感動的な光景だったね。
要するに、である。何故だかはわからないが、うちの奥さんは今日一日でレベル1から最終ボスを倒せるくらいまでのレベルアップを果たしたみたいなのだ。まるで人が変わったかのような不自然極まりない成長スピードだったけど、その原因を追求する気にはなれなかった。ていうか、一応追求はしてみたけれど、適当にはぐらかされてしまったからな。あんまりしつこく問い詰めるのも野暮ってもんだろうよ。
たぶん、この二日間の悲惨な状況を鑑みて、麻淋はすっかり心を入れ替えたんだろう。俺はそういう風に解釈したさ。女性ってある意味とんでもない生物だから、きっとこれくらいの変化は当たり前なんだろう、と。
――そう、俺は単純だった。状況の変化に身を委ねるのは、得意中の得意分野であった。
あいかわらず会話は全然盛り上がらなかったけど、それでも俺は充分満足していたね。買って来た料理本は、こっそりと寝室の机のひきだしに直しておいた。まさか、後日自分が使う羽目になるとも知らずに、な。
久しぶりに食欲が充たされた俺は、風呂から上がってすぐに睡眠欲を充たしてしまった。結果的に、もう一つの欲望が充たされることはこの日もなかったって訳だ。
とはいえ、それほどがっかりすることもあるまい。少なくとも、大きな懸案は解決されたのである。一日の内にそれ以上の進展を望むのは、それこそ罰当たりってもんだろうよ。
次の日も、朝食こそお馴染みのコンビニパンだったものの、晩飯はこれから我が家で次期総理を決めるのかってくらいに高級料亭チックな懐石料理だった。そして、感動のあまり、胃袋だけではなく胸もいっぱいとなった俺は、やっぱり妻の体に触れることなく眠ってしまう。
※
いい加減思ったさ。……おいおい、これはさすがに病気なんじゃないかって。
正直に言おう。俺にだって性欲くらいはある。野獣のように人並み外れちゃあいないと思うが、それでも裸の女性を見るとドキドキしてしまうような、普通の成人男性ではある。
そんな俺が、若い美女と一つ屋根の下で暮らしているのだ。しかも、彼女は自分の妻でもある。そういう行為が禁じられているどころか、日本国、ひいては人類の発展の為にも、むしろ積極的に子作りに励んだっていいはずの対象だろうよ。
けれど、毎日麻淋が寝室に入ってくるなり、眠ってしまう俺。人件費を計上するだけが使命のような民芸博物館の仕事で疲労が溜まる訳はなく、前日にぐっすり寝ているんだから寝不足って訳でもないのに。
考えられるとすれば、心理的な何かが、そういう行為に及ぶことを止めている可能性だ。例えば、あまりにも彼女が美しすぎるが故に、自分自身で汚すことを深層心理下で恐れてしまっている、って感じかね?
……いやいや、まさかな。俺がそこまで高尚な精神を持ち合わせてるだなんて、到底思えないね。
いずれにしたって、ここは一度、病院かカウンセリングに相談した方がいいのかもしれないぞ。俺が真剣にそう悩み始めていた、ある日の朝。
出勤する為にマンションを出た途端、見覚えのある女性に遭遇した。
「おお、天野さんじゃん! 久しぶりぃ!」
前回よりは比較的フォーマルな格好をしている仁美さんが、俺の姿を見つけるなり、大きく手を振って近づいてくる。「やぁやぁ! 元気だったかい? 新婚生活はエンジョイしてるのかなぁ? もう、ベタベタしまくってるんだろうねぇ! ね、そうでしょ?」
矢継ぎ早に無邪気な声で尋ねてくる彼女を前に、俺は思わず表情を曇らせてしまった。
……ベタベタどころか、我々はまだ口付けも交わしていない。いや、考えてみれば手を握ったことすらもないぞ。
「そうでもないです。実にさっぱりしたもんですよ」
「ああ、そうなんだ。へぇ……」
一転して、困惑気味な顔つきで呟く仁美さん。その台詞に、なんだか『やっぱりねぇ』みたいなニュアンスを感じ取った俺は、
「うん? どうしたんです?」
と、逆に訊いてみた。すると、
「いや、別に何でもないけど……あれは、そうなのかな、じゃあ」
なんていう、いかにも思わせぶりな返答が返ってきやがった。
「あれって何ですか?」
「……いや、本当に何でもないよ。気にしないでね!」
無理から笑顔を取り戻す彼女に、『はい、だったら気にしません』と応じるには、出勤時刻までいささか余裕がありすぎたね。
「何か知ってるなら教えてくださいよ」
だから、つい語気を荒げて問い詰めてしまったさ。「ていうか、絶対に何か知ってるんでしょ、仁美さんは!」
しばらくの間、わかりやすいくらい目線を泳がせていた仁美さんも、一向にその場から離れようとはしない俺を見て観念したのか、やがておずおずと口を開き始めた。
「いやぁね、一つ訊きたいんだけどさ。……麻淋ちゃんには、お兄ちゃんか弟さんがいるのかな?」
「お兄ちゃんか弟さん? ……そんな話、聞いたこともないですけど」
もっとも、兄や弟がいないという話だって聞いたことはないけどな。
要するに、この期に及んでもまだ俺は、妻の素性をまったく把握できていなかった。彼女がどんな幼少時代を過ごして、どこの学校を出て、結婚するまで何をしていたみたいな基本情報を、これっぽっちも入手できていなかったのである。
そりゃあ、同居して一週間も経つのに、未だにほとんど長い会話が成立していない有様だからな。名探偵や超能力者でもない限り、わかりようがないってもんだろ。
「……わたし、見ちゃったんだよねぇ」
俺が改めて自分達夫婦の異常性を省みていると、仁美さんは言いにくそうな口ぶりで話を続けた。「昼間に、男が入っていくところをさ」
「入っていくって……ひょっとして、うちのマンションにですか?」
「うん。天野さんの部屋に」
彼女が小さく頷く。「ええっと、確かあれは三日前くらいのことだったかなぁ。昼の三時くらいに買い物から帰ってきたら、あなたの部屋の前に男が立っていたのよ。なんだかやけに周囲を気にするような素振りを見せてたわねぇ。だから、わたしも慌てて階段の影に隠れちゃったわよ」
「お父さんが実家から来ていた、とかじゃないんですか?」
「ううん、若い男だったよ。二十代前半くらいの。……しかも、かなりのイケメンだったねぇ! もう少しわたしが若かったら、恋に落ちてたかも!」
イケメン、ねぇ。紅白歌合戦とセミの成虫くらいに、俺には縁のない言葉だな。「で、しばらく様子を伺っていたらドアが開いてさ、中から麻淋ちゃんが顔を出したの。こんなことを言っちゃあなんだけど……凄く嬉しそうな表情をしてたね、あれは」
凄く嬉しそうな表情、か。そういえば、俺は麻淋のそんな表情を見たことがないな。
かいつまんで言うならば、つまりこういうことのようだ。
――うちの奥さんは、俺が仕事をしている間に、若い男と家で密会している。
「しかもさ、次の日もそいつが来てたんだよ、これが!」
一旦喋り始めたら止まらなくなったのか、早口でまくしたてる仁美さん。この辺りは立派に主婦しているみたいだな。「ひょっとしたらあの人、毎日来てるのかもしれないねぇ」
「そうなんですか……」
としか、俺には答えようがなかった。出勤時刻には余裕があっても、事態を受け入れるには時間がなさすぎるってもんだぜ。
「もちろん、わたしの勘違いかもしれないし、そうだったらそれに越したことはないんだけど……問題は、そうじゃなかった場合、だよねぇ」
それがどういう場合かってことくらい、容易に察しがついたさ。もうガキじゃないんだからな。「いや、今だったら取り返しがつくと思うんだよ、わたしは」
「今だったら……」
「そうそう! ……ほら、まだ二人とも若いんだからさ。優介君と麻淋ちゃんがじっくりと話し合えば、案外簡単に解決するかもしれないじゃん!」
「はぁ……」
呆然とその場で立ち尽くす俺をよそに、『朝から変な話してごめんね! ……じゃあ!』なんて台詞を残してそのまま去っていく仁美さんであった。無責任な人だな、おい。残された身にもなれっていうんだ。
……とはいえ、別に俺が立ち直れないほどのショックを受けていた訳ではないぜ。我々は、大恋愛の末にくっついた夫婦じゃない。つい三週間ほど前に知り合って、一週間ほど前に結婚した、いわばインスタント夫婦なのである。だから、特に激しいジェラシーを感じたりはしなかったね。
もっとも、まったく嫉妬心が芽生えなかったと言えば嘘になるだろうけどさ。少なくとも妻が、夫である俺には見せたことのないような表情を、他人に見せている訳だからな。ちょっとくらいは悔しく思ったところで、無理はないってもんだろ?
だがそれよりも、自分の家に見も知らぬ男が出入りしているって点が、俺は一番気にくわなかったね。家賃は当然、俺の給料から出てるんだぜ。だったら、家主である俺に一声掛けるのが礼儀ってもんじゃないかい? たとえ、俺には言えないような理由で来ているとしてもさ。
その他諸々の感情が渦巻く中、俺は強く決心した。
……ある作戦の決行を。
という訳でその日、俺は体調不良だと偽って仕事を三時に早退した。理由はもちろん、妻とその若いイケメン男とやらの密会現場を押さえる為である。
仁美さんの推測が正しければ、恐らく今日もそいつはうちに来ているはずだ。その男の姿を確認するのにも、あるいは麻淋の本性を知るのにも、これは絶好の機会だと言えよう。
玄関の前に辿り着いてから、ゆっくりと呼吸を整える俺。すでに、何パターンかのシミュレーションは立てていた。……ああ、最悪の事態ですら、想定していたさ。
しかし、結果的に俺の予測は全て外れてしまった。
――あらかじめ言っておくと、“その現場”に入っていった際、俺が妻から最初に掛けられた言葉は、『貴様、見てしまったのか』だった。
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