今回アップした「YOSHIKIの凄さ#19〜YOSHIKIとピアノ」を収録している時、不思議な気持ちになった。
 
 時の流れが普通ではない、と感じたのだ。
 
 Xにまつわる記憶自体にそういった不思議な力を感じるのだけれど、特にYOSHIKIに関してはその力をとても強く感じる。
 
 時の流れが普通ではないというのは、簡単に言えば「時間が伸び縮みする」ということだ。
 
 YOSHIKIだと、一番遠い過去の記憶は35年以上前になる。

 YOSHIKIの胸に真紅の鮮血を見た、あの時だ。

 「ART OF LIFE」を無事完成させ、マスタリング後にNYでYOSHIKIと別れたのは30年前。

 その後ソニーミュージックを離れ、3年間YOSHIKIのそばで「YOSHIKIシンフォニックコンサート2002 with 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 featuring VIOLET UK」のプロデュースなどを務めた後、再びYOSHIKIと別れたのは20年前。

 『WE ARE X』のインタビュー撮影をしてからずっと会いたかったYOSHIKIと、念願の再会を果たしたのが6年半前。
 
 そして約1ヶ月後に「REQUIEM」や「Angel」のリリースを控えた今。
 
 YOSHIKIのことを、あるいはYOSHIKIと会話している自分達のことを思い出す時、それがたとえ30年以上前の記憶でも、あまり遠い昔の記憶という感じはしない。
 
 たまたまYouTubeで、日本の過去の街並みなどを撮った動画に興味が湧いて観ていたら、1990年の渋谷や原宿の様子を観ることができたのだけど、やはりそれは充分「昔」だった。
 
 X関係の保存書類を見ていたりすると、当時やり取りした関係者の名刺が出てきたりするが、手にとって思い出すその相手との会話もその時の自分のあり方も、やはりとても遠い記憶という感じがする。
 
 
 
 
 なのに、YOSHIKIとの記憶にはそのように「時間によって隔てられた感覚」というものが、ほとんどなかったりする。
 
 もちろん記憶の中で蘇る35年前のYOSHIKIは、年齢も若く表情や仕草も懐かしい「あの頃のYOSHIKI」だ。
 
 なのだけれど、心で感じるYOSHIKI、そして心に残っているふたりの会話などは、時間を全く感じさせない、まるでリアルタイムのような感じなのだ。
 
 レコーディングの記憶もそうだ。