「労組や日教組の言いなりの議員が何言ったってダメなんだよ!」と、ニコニコ生放送でよく叩かれます。確かにみなさんのおっしゃることはその通りだと自分も思います

そこで少し「組織と政治家と選挙」について私見を述べたいと思います。

選挙とは政治家に対し命を与える行為とも言える、どんなに立派な考えや政策を持っている人でも選挙に勝たなくては政治家としてその政策や考えを実践することはできないからだ。

一度でも当選し、政治家となった人は社会的地位や名誉はもちろん議員報酬や献金としてお金も手にすることとなる。当然ながらお金持ちや経営者でもない限りその大半がそこで得た収入を糧に生活を送ることとなる、同時に周りからはもてはやされ、持ち上げられ、雲の階段を上がるかの如く手にしてしまう社会的な地位や名誉、権力は、人の内面に潜む自尊心やプライドを過度なまでに育て、自分があたかも特別な存在であるかのような意識すら増幅させてしまう。こうした幻想を抱いてしまう政治家という職業は麻薬の様なものかもしれない。全部の政治家に当てはまるとは言わないが、こうした議員さんはみなさんの周りにも普通にいることだろう。

そして政治家は1年もすればこの政治家という麻薬にすっかり溺れ、同時にその効果が切れるのを恐れ、当選することに執着する。結果「政治家として何を成すべきか」ではなく「当選するには何をすべきか」へ目的をシフトさせてしまうのだ。

組織や組合の存在はこうした政治家にとって甘い蜜となる。
私は組織や組合等を否定するつもりもないし、無ければ良いと思っているものでも決してない。民主主義における資本主義社会を選択する日本にとって、そういったものが存在することは必然であり、時として必要なものと考えるからだ。

しかし問題なのは、選挙が政治家としての命の危機、または麻薬の効果が切れる時期と同じ意味を持つため、窮地に立たされた政治家にとって、組織や組合等の存在が命を救ってくれる薬、または新たな麻薬を手にするための「蜘蛛の糸」のような存在となり、藁にも縋る思いでこの糸をつい掴んでしまうということだ。そしてこの行為こそが政治家としての魂を売る行為へと繋がって行ってしまう。結果その政治家は政党や組織、組合の傀儡政治家と成り下がる。

そうなったら終わりだ、もともと信念や政策など持たず、政治家になりたいだけのノンポリと言われる人はもちろんだが、そうではなかった政治家ですら所属する政党や応援してもらう組織、組合の言われるがまま意見を二転三転させるようなサラリーマン政治家となる。考えることを放棄した政治家は怖い、いい加減な週刊誌やマスコミの情報に踊らされウラも取らずに批判するようなり、政党や組織から教えられた他政党の批判ばかりをそのまま暗記し、発言をするようになる。反対したいがための反対、反対票が欲しいがための「反対」すら政党や組織の意向であれば平気でするようになる。

とは言え、景気低迷が続く中、政治家が「当選への執着」や「落選への恐怖」を強く持ってしまう気持ちは正直わかる。中途半端な年齢で落選した政治家が再就職するのは難しだろうし、もし私の会社面接に来た人の履歴書に元○○議員なんて書いてあったら最低でも私は雇わないだろう。先日聞いた話しだが元地方議員や元国会議員が生活保護を受けているなんてことは珍しくないそうだ。

しかしこうした気持ちと対峙する覚悟が持てないのであれば最初から政治家という職業を選ぶべきではない。

よく就職先として政治家を選ぶ若者が増えてきていると聞くが、こうした若者がどこまでその覚悟持っているのか疑問だ、もし考えもせず政治家になっているのだとすれば直ぐに政治家という麻薬の中毒患者となるだろう。

散々言わせていただいたが、どこかの政党や評論家のように批判だけしていてもしょうがない・・・

そこで考えたのは政治家が最も恐れ弱みともなるこの「選挙」を逆手にとって、たとえどんな政党や組織、組合が応援してくれても、是々非々で自分の政策や考えを語り、志や信念を貫ける政治家を作れないものか?

と、いうことで・・・やってみた(^0^)/

17分にわたり、ご覧いただきありがとうございます。

いかがでしたか?勿論政治家自身大変な努力が伴うが、初めから政党や組織等の力を借りることを避け、このように普段の政治活動において、政策、アイデア、活動量で他候補に差を付け、まちに旋風を巻お越して行く戦術は、利害を抜きにして純粋にその政策や政治活動を支持し支援しようとする住民やボランティアの方々を増やしていくことに繋がるのだ。

弊社が運営するニコニコ生放送も、開始した当初は共演する浅野都議が民主党ということもあり殆どの視聴者の皆さんから否定的なご意見を受けていた。が徹底的に議論討論を重ねながら1年以上放送を続けて来た結果、少しずつ「民主党は応援できないが浅野は応援してやる」と言っていただけるように変わっていった。またこうした活動は、「僻み」「やっかみ」から嫌がらせを受けることもあるが、実際には、候補者が乱立しそうな際は立候補の抑制を促す効果もある、また勝ち馬に乗ろうとする組織や人も集めてしまう効果すら得られるのだ。

一方で、「目に見える」または「数」をかぞえることのできる票がどれだけあるか?という観点から見れば、まちの中で誰が一票入れてくれたのかまで把握することできないというデメリットがあるのは事実、しかしこのようにして生まれてくる政治家は、政党や組織等に流されることなく「正しいことは正しい」「間違っていることは間違っている」と、しっかり言い通すことができる。つまりは政治家として絶対失ってはいけない魂を売らずに済むのだ。

政治家が最も恐れ、弱みともなる「選挙」を乗りきる過程において、政党や組織を必要としていなければ、応援すると言って頂ける政党や組織に対して、政策または信念はしっかり貫いた上で「応援頂きありがとうございます」と言えるわけだ。勿論応援していただく以上は意見も聞き、議論もし、調整できる部分は調整もするが、これだけは「引けない、譲れない、曲げられない」という部分で一切の妥協をせずにすむという事だ。

最後に・・・

インターネットの普及とその発達がまだまだ進む中、選挙においてもインターネットは解禁されることとなった。我々有権者にとっては、マスコミの誘導や風評に流されることなく客観的かつ多角的な視点から物事を見極めることのできる土壌が広がってきているといえる。

だからこそ、日本の主権者である我々有権者は、政治家を選ぶ上で、政策は勿論その人の背景、行動、活動、発言等を慎重に監視し、その上で大切な一票という権利を行使しして行かなくてはいけない。

そして政治家はそれらをより多くの人に伝える最大限の努力をしてゆかなくてはならない。

投票率が上がれば組織票なる物は一瞬で消え去る。その時には「組織と選挙と政治」なんて問題は、問題にすら、ならなくなるのだから・・・・