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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第8回 ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.678 ☆
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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第8回 ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.678 ☆

2016-08-30 07:00

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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
    第8回 ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか?
    【不定期配信】 
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.8.30 vol.678

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    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第8回です。
    ゲームの本質とは人間の「快楽」の追求に過ぎないのか。娯楽性の追求を本義に掲げながら、そこに留まらない余剰を抱え込んでしまうゲームという表現。震災の跡地に痕跡を残す『Ingress』や『Pokemon GO』、FPSの虐殺表現の是非を巡る議論を踏まえながら、ゲームのあり方について考えます。


    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。

     2012年、震災から一年と少し経ったころに友人らと東北をみてまわった。
     石巻を見て、気仙沼を見て、陸前高田を見てきた。津波によって飲み込まれた町をみてまわった。テレビでも、何度も観ている風景だったし、現地に行くことに何かテレビと違った意味があるのか、自分でもよくわからない気持ちを抱えながら、行くことにした。
     不思議な光景だった。普通の街並みが展開していたと思ったら、丘一つまたいだところで、風景が一転する。なにもない場所が広がっている。建物がすべて波にさらわれた跡だった。ニュースで見せられた風景は、普通の街並みのすぐ後ろ側に広がっていた。
     石巻にはじめて訪れた私にとって石巻の町の記憶はない。今、立っている場所がどのような場所であるかがわからなかった私にとって、そこはかつてそこにあった建物が削り取られたという跡だけがむき出しになっている場所だ。
     この場所を、どのように弔い、どのように記憶すればいいのかがわからなかった私は、スマートフォンを取り出し、YouTubeを見ようと思った。YouTubeの中に、石巻の街並みは記憶されているかもしれない。石巻の、いま、ここで私が立っている場所の風景は、残されているかもしれない。
     そう思って、YouTubeを検索したら、想像通り、1年前の石巻の町はYouTubeの中に、記録されていた。震災の前の風景も、震災の日の風景も、そこで見ることができた。石巻だけでなく、気仙沼も、陸前高田も見ることができた。私は何をしているのだろうか、とも思った。だが、この方法は、この場所の悲しみを知るためにできる数少ない方法の一つだろうとも思った。おそらく、似たようなことをした人は私以外にもいたのではないか、と思っている。

     そして、私が訪れた二年後の2014年に、いま『Pokemon GO』を展開しているNiantic社は、かつての町のスポットを、Pokemon GOの元となった『Ingress』のポータル(ポケストップ)として登録した。ゲームをすることで、町の記憶を見る経験を与える、ゲームはそのためのツールとなった。『Ingress』のために登録されたポータルは、いまも『Pokemon GO』のためのポケストップとして生きているはずだ[1]。

     *

     かつての町の記憶として、実空間に重ねあわされた情報たちは、いま私の立っている場所はどこであるのか、ということを知らせてくれる。そして、それは2011年の3月のことを思い出させる。
     2011年の3月ごろ、ゲーム業界以外の人はもうほとんど記憶をしていないかもしれないが、大量のゲームが発売延期を発表し、ゲーム関連企業のいくつかは臨時休業した。ゲーム業界の何人かの友人たちは「こういうとき、ゲームというのは不要不急のものなんだな、ということを思い知らされる」ということを嘆いていた。
     私はといえば、その陰鬱なムードを横から眺めつつ、田端さんと一緒に節電のゲームを作っていた。節電はゲームのように楽しめる要素がある、とそう思った。私と田端さんが、緊急にこしらえた節電のゲームは、それほどたいそうなものではなかったけれども、ゲーム業界関係のニュースで積極的にとりあげたいと思えるようなニュースがほとんどなくなっていたそのタイミングで、数少ないポジティヴなニュースとして、多くの人に取り上げてもらった。
     それはそれで嬉しかったし、取り上げてくれた人々や協力してくれた人々には今でも感謝をしている。だが、その一方で、なぜ自分ごときの不完全なゲームがこれだけ取り上げられてしまうのか、ということを何かふがいなくも思えた。多くのゲームが発売延期を発表し、尊敬するゲーム業界の友人たちが落ち込んでしまったその風景は、何か、私がとても長い時間をかけてきた、ゲームという文化が敗北した瞬間でもあるように思えた。なぜ、私が尊敬してきたゲームの開発者たちは、もっと素晴らしい節電のゲームを、もっと素晴らしい、震災のいま、必要とされるゲームを作ってくれないのか。なぜ、みんな沈黙したままなのか、と思った。
     当時の状況下において、そういったことを、ゲームにかかわる企業の中の人間がそういう動き方をすることに難しいところがあることはわかっていた。だから、私が感じていたそれは、わがままな感情の一種だと言われればそういうものだというのも、わかっていた。だが、ふがいなく感じたということは事実だ。

     「ゲームというものは、楽しいものでなければならない」

     これは、ゲームにかかわる人々の矜持であるのと同時に、呪縛のようなものでもあるように思う。
     多くのゲームというのは、確かに楽しいものだ。だが、「ゲームとは楽しいものだ」という想像力が、ゲームを通じて弔いをしたり、ゲームが社会的な問題提起をしたりする多様なプラットフォームとして機能しうる想像力を奪うものにもなっているのではないだろうか。
     つまらないゲームをみんなが作るべきだとか、無理やり前衛的なゲームを作ることが素晴らしいとか、そういう話ではない。ゲームというのものが、単に「快楽」の問題として語られ続ける限り、「快楽」であることによって、社会のさまざまな場所へとゲームが立ち入ることが禁止される、という問題が起こることになる。


     たとえば、『Pokemon GO』をめぐって先月(2016年7月)に起きた多くの「禁止」事例はまさにそのようなものだった。
     アウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館、アーリントン国立墓地、グラウンド・ゼロ、広島の平和記念公園などさまざまな場所で、「この場所はPokemon GOを楽しむのにふさわしい場所ではない」ということが問題となりPokemon GOが禁止された。
     これは、土地をめぐる権利者の異議申し立てプロセスとしては、当面は妥当な手続きといってもよいものだろうし、問題が起こった場合の対応に対する費用負担者の問題からしても一定の妥当性がありうる。そのため、特にこれらの禁止措置を申し立てた人々が偏狭だとか、そういうことを言うつもりはない。
     ただ、これらの禁止措置の理由の一つとして挙げられたのは、いずれも、ゲームをするという行為が、「快楽」のためのものであるという見立てに従っているということだ。


     別の例を挙げよう。
     1999年4月に米コロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件をモデルにして、犯人たちの虐殺を体験できるゲーム『Super Columbine Massacre RPG!』(2005)は「不謹慎だ」として数多くの反感を買った。
     しばらくして、『Call of Duty Modern Warfare 2』(2009)(以下、『CoD:MW2』)という世界的な人気ゲームタイトルでも、マフィアに潜入捜査を行い、潜入捜査の過程でマフィアと共に、ロシアの民間人を虐殺する、というシーンがゲームに登場した。これは、日本でローカライズされて発売された際には「警察官には発砲できるが、民間人を殺したらゲームオーバーになる」という改変が行われ、民間人を虐殺するという良心を試すような行為は予め禁止されてしまった。
     これらは、いずれもゲームのなかで「虐殺を経験する」ということが不謹慎だとみなされた例だ。実際には、いずれのゲームでも、ゲームプレイヤーは虐殺の経験を単なる「快楽」として経験させることに主眼が置かれているわけではない。ゲームをすることはプレイヤーにとってどちらかと言えば、気分の悪い、良心を試されるような行為として心に残るような、そのようなものとして演出されてきた[2]。

     『CoD:MW2』の日本語版での改変については、少なくない数のゲーマーたちが、ありえない改悪だ、ゲームという文化を馬鹿にしている、として不快感を示した。
     その不快感は当然のものだと思うその一方で、このような批判を生み出す一因をゲーマーたち自身が作り上げてきたという側面もある。これらのゲームで民間人を殺すことが「不謹慎」だと思われる理由は、ゲームが何よりも快楽のためのものだということが社会的に強力なイメージとして想定されているからだ。そして、ゲームの開発者や、ゲームプレイヤーは、ゲームとは何よりも楽しいことが第一だということを、ゲームという文化のプライドとして築き上げてきた。
     ゲームに対して怪訝な視線を向ける人々のそれと、ゲームプレイヤーの文化的プライドは、ゆるやかな共犯関係にあるのではないか?「こんなに楽しいものは他にない」「楽しくなければゲームじゃない」といったことを言う、ゲームファンは、数多くいることだろうと思う。そしてこういった発言は、ゲーマーの日常感覚としては、とてもよく理解のできるものだ。
     だが、ゲームという文化が奥深く、多様なものだという主張をしたいのであれば、「楽しくなければゲームじゃない」と言うことは、ダブルスタンダードになってしまう。

     「ゲームは楽しいものでなければならない」という言辞は、プライドでもありうるし、呪縛でもありうる、というのはそういうことだ。
     「ゲーム」という現象の全体を記述しようと試みた時、確かに「楽しさ」という要素は、とても重要な役割を果たしている。しかし、それだけがゲームというものを規定するわけではない。
     本連載はそのようなこともまた、問題の一つとしている。


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