〈元〉批評家の更科修一郎さんの連載『90年代サブカルチャー青春記~子供の国のロビンソン・クルーソー』、前回の水道橋駅から総武線に乗って、飯田橋駅に降り立った更科さん。ランチを食べる場所を探しながら、富士見にあるKADOKAWAとの思い出を回想します。
第10回「水道橋から神楽坂へ・その2」
JR飯田橋駅は川沿いの湾曲した土地にあるため、電車とホームの間が大きく、降り立つたびに緊張する。
ホームから眺める飯田橋界隈は、大きく3つのエリアに分かれている。
東口から北東の後楽や三崎町は、老舗の編集プロダクションや中小出版社が点在している。ネット上でよくネタにされている竹書房の自虐的な広告も、東口改札前にある。
対して、橋上駅舎の西口から神楽河岸を越えると、神楽坂が長く続いている。坂の上の矢来町には新潮社があり、平河工業社などの印刷所や製版所、中小の編集プロダクションが周辺の住宅地と一体化している。
そして、西口から富士見二丁目へ向かうと、角川書店改め、KADOKAWAの本社がある。
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振り返ってみると、編集者としては、KADOKAWAとの縁は数えるほどしかない。
何故か、社屋の上にある天河神社の祠を見たこともあったが、角川春樹事務所の会議室にも同じ神棚があったから、前体制の名残りなのだろう。
批評家の仕事で行くことも稀だった。
唯一、レギュラー執筆者だった『Comic新現実』でも、ササキバラ・ゴウ氏の紹介で編集長に挨拶へ行ったのと、「戦時下のアニメ」と題した鼎談で呼ばれただけだ。
そもそも、『Comic新現実』で書くようになった理由も、ササキバラ氏の唐突な飛び込み依頼で、大塚英志氏とも面識はなかった。
ササキバラ氏は徳間書店で『少年キャプテン』編集長だったこともあるが、友人Kがアシスタントを始めた頃には退社していた。むしろ、最後のパイプ役だったササキバラ氏が退社したことで、『少年キャプテン』でも大塚英志の名前は禁句となっていた。最後の編集長は休刊後、AICへ「天下り」し、その後、YMO評論家へ転じている。わけが分からない。
件の鼎談は論点がいまいち噛み合わなかったが、改めて読み返すと、それほど悪い内容ではない。わざわざ読み返すほどの話題でもないのだが。
途中で何故か香山リカ氏が来たことを覚えている。弟の中塚圭骸氏が参加していたからかも知れないが、いきなり大塚氏と世間話を始め、鼎談はしばらく中断した。
香山氏が帰ると圭骸氏が恐縮し、ようやく再開したが、この頃、知人の音楽ライターから香山氏が年上の著名なミュージシャンと付き合っている、というゴシップを聞かされていたので、余計なことを言わぬよう黙っていた。