文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。ウルトラシリーズからはじまり、特撮と映画について語ってきた本連載。今回からはアニメーションに議論を広げながら、戦後サブカルチャーにとっての「戦争」を論じます。
第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か
私はここまで、ウルトラシリーズを近代とポストモダンの端境期に位置づける一方(第一章)、地理的想像力(第二章)、技術志向(第三章)、虚構的ドキュメンタリー(第四章)という三つの切り口から、日本の特撮の文化史的座標を測定してきた。そのなかで戦前・戦中の映画にも何度も言及してきたが、それは昭和の特撮文化が戦争と切り離せないためである。
円谷英二とその息子たちは、戦争の記憶とイメージを子供向けの「商品」に変換して、戦後日本社会に継承したと言えるだろう――ちょうど円谷が川上景司とともに冒頭の空襲パートを担当した松竹の大庭秀雄監督のメロドラマ『君の名は』(一九五三年)において、戦時下の男女の約束が「忘れ得ぬもの」として戦後に持ち越されたように。しかも、この種の商品化された仮想の戦争は、ウルトラシリーズから『宇宙戦艦ヤマト』、富野由悠季、宮崎駿、押井守、庵野秀明らのアニメに到るまで、戦後サブカルチャーの映像表現の中核にある。「戦争をどう描き、どう商品化するか」という課題は、特撮やアニメという娯楽産業にとって大きな試金石となった。日本のオタク文化の母胎もこの軍事テクノロジーの娯楽化にあったのは明らかである。
惨めな敗戦国であるにもかかわらず、あるいは敗戦国のコンプレックスゆえにこそ、戦後のサブカルチャーは膨大なエネルギーをつぎ込んで、軍事的なイメージを増殖させてきた。戦時下のプロパガンダ映画から戦後の怪獣映画やウルトラシリーズまでが一直線に繋がっていく円谷の特撮は、まさにその原型である。そして、この軍事的な想像力によって、もともと子供向けの商品であるはずの特撮やアニメにはしばしば政治性やイデオロギー性が吹き込まれてきた(その影響は海外にも及ぶ――私が直接見た範囲だけで言っても、近年香港で民主化運動に参加している若者の一部は『機動戦士ガンダム』や『進撃の巨人』をモデルにして自らの行動を了解していた)。日本人はもはや違和感を覚えることもないだろうが、これは本来かなり異常な光景である。
ウルトラシリーズを含めて日本のサブカルチャーは、戦後の平和のなかで好戦的かつ暴力的な想像力を解き放ってきた。この「異常さ」について考えるには、サブカルチャーにとって戦争とは何かという厄介な問いに向き合わねばならない。その場合、特撮とアニメという「兄弟」を分離せず、同じ土俵で扱うことも必要になってくるだろう。本章では特撮とアニメ、映画とテレビドラマを横断しながら(1)円谷らの手掛けた戦時下の国策映画の戦争表象について論じた後(2)戦後サブカルチャーがその戦争表象に何を付け加え、いかなる政治性をまとったのかを考えていく。それはたんに虚構作品の分析に留まらず、二〇世紀の日本人にとって戦争とは何であったかを考える一助になるはずだ。
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