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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第四章 風景と怪獣 1 虚構的ドキュメンタリーの系譜(2)【毎月配信】

    2017-09-19 07:00  
    540pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。円谷が「モダニズム的な飛行機」を愛しながら「反モダニズム的な怪獣」を共存させた流れを追いながら、その後継者としての宮崎駿についての議論を通じて、戦後日本の美学を「怪獣の時代」として総括します。
    円谷英二と「崇高」な国策映画
     ところで、本多が「記録」にこだわったのは必ずしも彼個人の趣味に留まるものではない。なぜなら、『太平洋の鷲』や『ゴジラ』を支えたドキュメンタリー志向は、すでに戦時下の日本映画において高揚していたからだ。特撮には大正期の枝正義郎らによる映画的技術の探求から戦時下のプロパガンダに到る発展のプロセスがあったが、ドキュメンタリー(記録映画)も戦争をきっかけにして大きく飛躍した。特撮とドキュメンタリーはともに、戦争を苗床として成長した「技術」なのだ。  そもそも、大切な家族を戦地に送り出した戦時下の観客にとって、身内が映っているかもしれないドキュメンタリーやニュース映画は戦場とのかけがえのない「絆」となった[14]。このきわめて真剣で注意深い観客の登場、さらに戦争のもたらす知覚的なインパクトのために、ドキュメンタリーは劇映画の想像力を凌駕するようになった。例えば、今村太平は一九三九年に、亀井文夫監督の『上海』や『南京』、内田吐夢監督の『土』、田坂具隆監督の『五人の斥候兵』といった同時期の記録映画――当時は「文化映画」(ドイツ語のKulturfilmの訳語)と呼ばれた――に言及しながら、こう述べている。
    最近の日本映画の大きな問題はやはり記録と劇の問題である。記録映画的方法は主として事変ニュースを土台としてにわかに発展した。多くの劇映画は、戦争ニュースにとりまかれることによって急にみすぼらしくなった。[15]
     三〇年代後半以降、ドキュメンタリー的手法は劇映画に着々と「浸潤」していった。本多の師匠の山本嘉次郎監督も、生まれたての仔馬の立ち上がる経過を高峰秀子演じる少女の家族がじっと見守る『馬』の印象的な一場面から、戦争ニュースと劇映画を融合させた『ハワイ・マレー沖海戦』の爆撃シーンに到るまで、戦時下の東宝で撮った映画では事実の記録というポーズを手放さなかった。『ゴジラ』の源流の一つは、これらの動物や戦争を題材とした「記録映画」にあるだろう。  この時期のドキュメンタリーの活性化は、日本に限らず世界的な傾向である。特に、ナチスの対外宣伝に貢献したレニ・リーフェンシュタールの映画は、事実の記録を華麗な映像詩に仕立てた。ヒトラーに感銘を与えたリーフェンシュタールの監督・主演作品『青の光』(一九三二年)には、水晶や山岳をモチーフとするドイツ・ロマン派的な美学に加えて、戦時下の円谷英二が「青空にそびえ立つポプラの葉裏がきらきら光る並木道を静かに駅馬車の通う感傷的な場面」と評したさり気なくも美しいシーンがある[16]。風景の「自生的」な立ち現れを鋭く捉える、彼女のこのリュミエール的な技術は、やがてナチズムの美学として組織化され、ナチスの党大会を記録した『意志の勝利』(一九三五年)やベルリン・オリンピックの記録映画である『民族の祭典』(一九三八年)を――すなわちドイツの力と美をアピールする「全体主義芸術」の最大の成功例を――生み出すことになる。  さらに、円谷自身の特撮も『ゴジラ』以前に「崇高」な風景に関わっていた。リーフェンシュタールの師であり、ナチスの支持者であったアーノルド・ファンク監督の日独合作映画『新しき土』に参加した円谷は、バックグラウンド・プロジェクションのかつてない多用によって、早川雪洲、小杉勇、原節子ら主要キャストを現地に連れて行くことなく、ある程度までスタジオで撮影を間に合わせることができた[17]。四方田犬彦が言うように、「大自然の脅威と火山の噴火」と「恋人たちの激情」の重なり合う『新しき土』の浅間山噴火口の場面は、ファンクによる「ナチスドイツ的な映像の修辞学」の具現化であったが[18]、このナチス的な美学を首尾よく完成させるのに、円谷の技術は大きな助けになったわけだ。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第四章 風景と怪獣 1 虚構的ドキュメンタリーの系譜(1)

    2017-09-05 07:00  
    540pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、特撮において現実の風景と虚構の怪獣がどのように結びついてきたのかを、ドキュメンタリー映画として『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』を分析することで明らかにしていきます。
    第四章 風景と怪獣
     特撮を中心にするとき、日本のサブカルチャー史は三世代の「共作」のように見えてくる。すなわち、一九〇〇年代生まれの円谷英二世代、一九三〇年代生まれの金城哲夫世代、一九六〇年代生まれの庵野秀明世代(オタク第一世代)。この三世代が一九〇一年生まれの昭和天皇、一九三三年生まれの今上天皇、一九六〇年生まれの現皇太子にそれぞれ対応することも興味深い。「雑草という草はない」という名言で知られる昭和天皇が生物学的な「メカニズム」の研究者であったこと、そして今上天皇が戦後民主主義の事実上の守護者として振る舞っていることは、ここまで論じてきた内容とも綺麗に符合する。
     むろん、世代論は大まかな指標にすぎないので、それを盲信するのは愚かである。しかし、新しいテクノロジーや世界戦争とどの年齢で出会ったかが、作り手の立場をある程度方向づけてしまうことも否定できない。人間は自分で生まれる時代を決められない以上、世代には一種の強制性があり、その負荷は文化や技術との関わり方を規定する。実際、円谷の世代にとって戦争が総じて映画とともに「機械の眼」を進化させる場であったとすれば、金城の世代にとって戦争は総じて「子供の眼」から見られるものであった。
     この世代体験はときにイデオロギーやジャンルの違いという敷居も超える。例えば、一九三二年生まれの石原慎太郎は、自伝的な短篇集『わが人生の時の時』(一九九〇年)のなかで、「戦争にいきそこなった子供たち」としての少年時代の自分が、米軍に空襲された際に「敵機の胴体に描かれたどぎつい極彩色のなにやらの漫画を見とどけた」思い出を語るとともに、長じてから鯨や熊のような「人間にはあり得ぬ巨きな存在」と出会ったときの感動を書き綴っている。石原の想像力は、海という広大な無機物に帰ろうとするタナトス(死の本能)とそれを反転させた「蘇生」の欲望だけではなく、人間を圧倒する怪獣的存在に対する恐怖と憧憬を含んでいた。その限りで、石原は政治的立場の異なる大江健三郎やジャンルの異なる金城とも決して遠くない。
     改めてまとめれば、一九三〇年代生まれの若者が主導したウルトラシリーズは、映画とテレビ、大人と子供、モダンとポストモダン、戦争と戦後、飛行機と怪獣、前衛と娯楽といった文化的な接合面において成立したテレビ番組である。そこでは若い作り手と若いメディア(テレビ)の力に加えて、先行する世代と先行するメディア(映画)の遺産が大きな作用を及ぼしていた。加えて、ここで再確認するべきは、このシリーズが文字通り現実と虚構にまたがっていたことだ。そこでは怪獣もヒーローも飛行機も基地もすべて虚構のミニチュアであり、大人の社会性も希薄であったが、その背後には常に実在の風景が控えていた。それを踏まえて、私はアニメの人工的なセカイ系との対比で、ウルトラシリーズを「不純なセカイ系」と形容しておいた(第二章参照)。
     現実と虚構をじかに重ね合わせることによって、ウルトラシリーズはアニメとは異なる独特の肌合いを獲得した。例えば、一九三七年生まれの実相寺昭雄はいくぶん叙情的な筆致によって、虚構の怪獣を現実の風景と同一視している。
    わたしは“消えた”風景の空気感が『ウルトラマン』であり、怪獣たちだったと思う。とりわけ、怪獣たちは消えた風景そのものだった、と思わずにはいられない。わたしたちは、怪獣に、ある時代風景を投影してきたのである。[1]
     私も実相寺に倣ってウルトラシリーズにおける「風景」と「怪獣」を等価なものとして考えたい。だが、その前に、そもそも日本の特撮文化がいかに現実の風景(自然物)と虚構の怪獣(人工物)を結びつけたのかを、言い換えればいかに「不純さ」を獲得してきたのかを、大まかに輪郭づけておくのがよいだろう。以下では、まず映画史における「虚構的ドキュメンタリー」という切り口を設定して『ゴジラ』のような戦後の怪獣映画、およびそれに先立つ戦時下の東宝のプロパガンダ映画を瞥見した後、それらのテレビ版の後継者としての昭和のウルトラシリーズの「風景」と「怪獣」について論じていく。そのなかで、私は「映画的怪獣」から「テレビ的怪獣」への推移を読み解くことになるだろう。
    1 虚構的ドキュメンタリーの系譜
    記録とモンタージュ
     映画史の原点におけるリュミエール兄弟とジョルジュ・メリエスという対は、依然として重要な問題を私たちに投げかけている。奇術師にして興行師のメリエスの映画が「特撮」の起源だとしたら、シネマトグラフの発明者であるリュミエールの映画は「ドキュメンタリー」の起源だと言えるだろう。実際、当時の観客は、リュミエールの映画の主題以上に、カメラが偶然に記録した付属的な風景(木の葉の揺らめき、鉄工場の煙、汽車の蒸気……)に魅了されたと伝えられている。撮影者の意図を超えて、生命をもたない自然物までもが映像表現に参加してくること――、そこに草創期の映画のもたらした新鮮な驚きがあった。リュミエールを論じた映画編集者のダイ・ヴォーンは、この作り手のコントロールを超えた映像の生成力を「自生性」と言い表している[2]。
     リュミエールの自生的な「現実」を評価する立場からすれば、映像の手品としてのトリック撮影を大々的に導入し、映画の産業化の道筋をつけたメリエスの「虚構」は、堕落した表現にすぎなかった。現に、リュミエール映画のカメラマンの一人は「現場で撮られた自然」を尊重する立場から、メリエスの特撮を「幼稚な幻想」と切り捨てている[3]。だが、その後の映画は、自然科学的な「記録」の媒体であり続ける一方で、モンタージュ(構成)やスクリーン・プロセス(合成)の生み出す「幻想」も手放すことはできなかった。私たちはここで、リュミエール以来の記録主義的映画観とメリエス以来の構成主義的映画観という二つの大きなプログラムを想定できるだろう。
     この両者をどう折り合わせるかは、映画の理論においても大きな課題となった。例えば、今村太平は一九四〇年の『記録映画論』で、記録(写すこと)とモンタージュ(構成すること)は「あたかも分析することと綜合することとが思惟の二つの契機である如く、映画における思惟の二つの契機である」というユニークな見方を示した[4]。その一方、フランスの映画批評家アンドレ・バザンは一九五〇年代の論考で、「モンタージュの安易な用法を超え、世界を細分化することなくすべてを表現できるような」表現技法を追求したジャン・ルノワールやロバート・フラハティ、あるいはイタリアのロッセリーニやデ・シーカといった監督たちを高く評価した[5]。マンネリ化したモンタージュに対する批判として、ワンシーン・ワンカットの表現技法やイタリアのネオリアリスモに注目したバザンの理論は、五〇年代末以降、記録主義を復権させたフランスのヌーヴェルヴァーグの映画監督たちにも重要な指針を与えることになる。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 3 プロパガンダと新しい知覚(2)【毎月配信】

    2017-08-22 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。政治性と距離を置き、徹底的に技術を志向した円谷英二はそれゆえに「あどけなさ」や「子供」の目線を持っていました。それらはやがてウルトラシリーズへと繋がっていくこととなります。
    主体なき技術者のあどけなさ
     今日の私たちは国策映画に対して強い警戒心を抱くし、それは当然である。ただ、国策映画を愛国的イデオロギーの権化としてむやみに悪魔化するのは、認識を曇らせるだけだろう。戦時下において、国家は映画や写真のテクノロジーを収奪したが、技術者も国家を表現の場として利用した。そして、この国家と技術者の共犯関係のなかでときにジャンルの越境も生み出される。国策映画はジャンル間のコミュニケーションの場でもあった。
     現に、戦争と美術と言えば必ず名前のあがる一八八六年生まれの画家・藤田嗣治も、円谷の特撮と無関係ではなかった。藤田は戦時下に多数の戦争画を手掛けたが、真珠湾攻撃の場面を描くにあたって『ハワイ・マレー沖海戦』の巨大なオープンセットを頻繁に見学に訪れていた。監督の山本嘉次郎は「秋の陽の、カッカと燃えるようなオープンで、藤田画伯は例のオカッパ頭に大きな経木製の海水帽子をかぶり、毎日毎日、作りものの真珠湾の写生をしていた」と述懐し、こう続けている。
     水深は、人間の腰の上くらいまである。満々とたたえられたプールの水面に、赤トンボが沢山飛んで来て、卵を産みつけていた。その赤トンボを食おうとして、ツバメが襲って来る。このミニチュア(模型)の比率からすると、赤トンボが丁度戦闘機の大きさになる。その戦闘機が爆撃機に食われまいとして、壮絶快絶の一大空中戦が、ニセ真珠湾の上で演じられていた。  それをオカッパの藤田さんが、無心に描いている後姿はまことにアドケないものがあった。[13]
     国策映画であったにもかかわらず、海軍が『ハワイ・マレー沖海戦』の製作への協力を渋ったため、円谷たちはやむなくアメリカのグラフ誌に載った情報をもとにオープンセットを作った。敵国の雑誌のイメージを複製したこの「作りものの真珠湾」をさらに「写生」して描かれた藤田の《十二月八日の真珠湾》(一九四二年)はまさに複製の複製、シミュレーションのシミュレーションに他ならない。しかも、この絵画作品では敵も味方も姿が見えず、ただ真珠湾中央に白い水柱が爆撃の結果として屹立し、その周辺に煙が立ち上るだけである(この構図は海軍省報道部提供の真珠湾写真の「視覚的追体験」でもある[14])。藤田は文字通り「人間不在」の特撮のオープンセットを忠実に写生したのだ。そのせいで、本来最もドラマティックであるはずの太平洋戦争開戦の場面は、人間を介さない静かな自然現象のようにも見えてくる。
     そして、この何重にもメディア化・仮想化された複製芸術家・藤田嗣治の根底に「あどけなさ」があったという山本嘉次郎の観察は、彼の戦争画の特性を図らずも鋭く言い当てていた。例えば、美術評論家の針生一郎は、戦争画を量産した藤田のことを辛辣に批判している。
    おそらく、戦争はこの精神不在、技術至上の画家にとって、第一に、題材と技法の拡大をもたらす点で、第二に、権勢欲と弥次馬根性を満足させてくれる点で、わくわくするような昂奮の的だったのだろう。藤田の仕事はすでにレディ・メイドだから、どんなオーダー・メイドでも利くのだ、と当時語った木村荘八の言ほど、適切な批評はないだろう。[15]
     メディアの寵児であった藤田は、すでに川端の『浅草紅団』にも「パリジェンヌのユキ子夫人」同伴でカジノ・フォーリーのレビューを見学に訪れる「パリイ帰りの藤田嗣治画伯」として登場しており、新感覚派のメカニズムの文学とも早い段階で交差していた。岡崎乾二郎が指摘するように、藤田は「受動的」なメディウム(霊媒)として「自分自身の身体さえ環境のひとつ」にしてしまった主体なき画家だが[16]、この巫女的アーティストとしての藤田が、メディアと機械の形作る戦時下の「メカニズム」において誰よりも輝いたのはある意味で当然である。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 3 プロパガンダと新しい知覚(1)【毎月配信】

    2017-08-01 07:00  
    540pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は円谷英二が特技監督として関わった傑作戦争プロパガンダ映画の分析から、「技術」志向の映画が生み出した新しい知覚について語ります。
    3 プロパガンダと新しい知覚
    技術を志向した世代
     私はここまで文化史的な見地から、一九〇〇年前後に生まれた円谷英二、三木清、稲垣足穂、木村専一、村山知義、川端康成、衣笠貞之助、山本嘉次郎、森岩雄らにゆるやかな世代的連続性を見出そうとしてきた。あえて乱暴に要約してしまえば、彼らは文化生産に「技術」の問題を本格的に持ち込んだ最初の世代である。彼らにおいては総じて、文化・芸術は一人の天才の作品ではなく、むしろ主体を超えた技術的な「メカニズム」の産物として捉えられる。言い換えれば、この世代の一部の文学者のあいだで流行した私小説的な自己表現ではなく、新しい技術によって新しい現実を「構成」することが彼らの狙いとなった。
     この世代のリストには、文学も芸術も集団化可能な「技術」と見なした一九〇〇年生まれのジャーナリスト大宅壮一、戦時下には『FRONT』の製作に関わり戦後も日本を代表する写真家として名を馳せた一九〇一年生まれの木村伊兵衛、その『FRONT』のアートディレクションを手掛けた後に装丁家として活躍した一九〇三年生まれの原弘、フランス象徴詩と唯物論を交差させて文芸批評を革新した一九〇二年生まれの小林秀雄、その小林の妹と結婚し『MAVO』でグラフィックデザインをやる一方で漫画『のらくろ』で一大ブームを巻き起こした一八九九年生まれの田河水泡、日本アニメーションのパイオニアである一八九八年生まれの政岡憲三、メディアと言葉の相互作用に小説家として鋭敏な感覚を示した一九〇二年生まれの中野重治、日本の美術界にシュルレアリスムを導入した一八九八年生まれの福沢一郎と一九〇三年生まれの瀧口修造、および前章で言及した小津安二郎、成瀬巳喜男、林芙美子らを付け加えることができる[1]。丹精込めて育てた特撮によって世界的名声を獲得した円谷は、この技術を志向した世代のなかでも突出した存在であった。
     と同時に、彼らは壮年期に戦争と出会って、仕事の方向性を大きく左右された世代でもある。前章では、この戦争経験のもたらした表象を「帝国の残影」という與那覇潤のモデルによって説明したが、ここからは技術やメディアに関わる観点を導入してみよう。結論から言えば、二〇世紀の世界戦争はたんに高度な軍事技術を用いただけではなく、エンターテインメントも含めた他の領域の技術をも「軍事化」したのであり、円谷の特撮もそこでは無垢なままではいられなかった。
    プロパガンダの時代
     東宝が国策映画に乗り出していくのは一九三〇年代末のことである。折しもライバルである松竹がメロドラマ的な『愛染かつら』(一九三八年)に代表される「大船調」で一世を風靡していたが、東宝はそれへの対抗として、戦意高揚を目指した国策映画を積極的に手掛けるようになり、特撮の専門家たちもそれに従事した。『海軍爆撃隊』(一九四〇年)以降は円谷英二の特殊技術課の人員も増やされ、円谷の片腕となった撮影技師の川上景司や美術の渡辺明もメンバーに加わり、森岩雄が陣頭指揮をとった『ハワイ・マレー沖海戦』では彼らの技術が存分に発揮された。
     このプロパガンダの時代は必ずしも狭隘なナショナリズムに支配されたわけではなく、ときに「普遍」への意志を映画やデザインに植えつけた。円谷の出席した戦時下の座談会では「ビルマ人にも佛印人にもインドネシア人にもわかる映画」を作るべきで「日本人固有の倫理や心理に固執」してはならないことが強調され、円谷自身も技術の底上げに強い意欲を見せた[2]。幸か不幸か、そのような普遍的な広がりをもった国策映画が実際に製作されたとは言い難いものの、日本映画の弱点を克服して作品を「大東亜」内部の他者に届けなければならないという鋭い批評意識が、皮肉なことに戦争によって育まれたのは確かである。それに比べれば、今日のクールジャパン政策は自己批評性を欠いた不出来なプロパガンダにすぎない。
     あるいは、国外向けに日本や大東亜共栄圏のPRを担当した東方社刊行のグラフ誌『FRONT』(一九四二年から四五年までに十冊刊行)も、英語・ロシア語・中国語・モンゴル語等の十六カ国語のコメントを記載しつつ、モダニズムの写真技術を生かしたダイナミックな機械美や、満州国における五族協和のヴィジョンを示した。一九〇三年生まれの東方社理事長の岡田桑三やデザイナーの原弘は、ソ連の構成主義的なプロパガンダの技術を深く研究し、陸海空の軍備や工場の大規模生産を題材とした驚くほど鮮烈な誌面を作り出した。先述したジョン・ハートフィールドがフォトモンタージュを反ナチスのプロパガンダとして用いたように、本来は存在しない場面を一つの目的に向けて「構成」するモンタージュは、しばしば「前衛」と「プロパガンダ」を結びつけた。しかも、原弘の弟子の多川精一によれば、写真は事実を映すという「信仰」が強かった時代ゆえに、モンタージュ写真による演出も真実性の錯覚を喚起し得たのであった[3]。
     もとより、『FRONT』の作り手たちはその思想信条からすれば、戦争を肯定するタイプではない[4]。多川が言うように、東方社はあくまで「技術者集団」であり、原弘も木村伊兵衛も岡田桑三も「ものを創ることの好きな、いわば第一級の職人」であった。だが、オリンピックや万国博覧会が中止されたため、先鋭な写真家やデザイナーの向かう先は国家宣伝しか残されていなかったのだ[5]。これと似たことは円谷にも言える。彼は決して狂信的な愛国者ではなかったが、当時の世情のなかで映画や飛行機への芸術的欲望を満たすには、プロパガンダに乗りかかる以外の道はほぼなかっただろう。円谷や原は生粋の「工作人」(ホモ・ファーベル)であるがゆえに戦争遂行のメカニズムに拘束されたが、だからこそ、戦後の高度経済成長時代の「ものづくり」の要請にも柔軟に対応することができた。
     いずれにせよ、現実のイメージ素材を組み合わせ、新たな意味を発生させる映画や写真のモンタージュは、いつでも宣伝の技術に転化し得る。加えて、戦時下においては映画そのものが一種の「兵器」となったことも見逃せない。例えば、一九一一年生まれの映画批評家・今村太平(マーシャル・マクルーハン、瀬尾光世、花森安治と同い年)は一九四三年の著書のなかで、望遠鏡撮影、高速度撮影、空中(水中)撮影といった映画の特撮が「日常的肉眼的な見方の否定」であると述べつつ、次のように指摘していた。

    今日の戦争から映画をとり去ることはできない。それはニュース映画が国民の志気を鼓舞するとか対外宣伝に使われるとかいう場合をさすのではなく、軍事的に今や映画が不可欠になりつつあるという事実をさすのである。ドイツのP・K〔引用者注:ゲッベルスの指揮下でプロパガンダを担った宣伝中隊〕の如きも、ニュース撮影を第一目的にしているのではなく、作戦上の必要から映画を撮っていることはあきらかである。

     肉眼の限界を超えて戦線を記録したフィルムは、プロパガンダ的なニュースだけではなく、きわめて有益な軍事資料にもなる。今村が鋭く述べたように、映画はまさに「思想戦における最大の武器である以上に、はるかに直接に、近代戦における重要兵器の一つ」なのだ[6]。
     この機械化した映像のリアリズムは、今なお更新され続けている。例えば、軍用の無人機ドローンは、地上の眼とヘリコプターやセスナによる従来の空撮の眼の「あいだ」の領域を格段に広げ、ニュース、災害救助、野外ショー等の幅広い分野の「眼」を書き換えてしまった。ドローンで撮られた動画は当然ニュースやイベントだけではなく偵察や監視の用途にも利用可能なわけだが、あえて悪趣味な言い方をすれば、視聴者は世界の秘部にタブーなく侵入していくその猥褻な軍事的エンターテインメントにこそ興奮しているのだ。今村はこのような新しい機械的=軍事的知覚の出現を早い段階でつかんでいた。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 2 飛行機・前衛・メカニズム(2)【毎月配信】

    2017-07-18 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。エンターテイメント作家としてのイメージが強い円谷英二を、近代映画史の文脈の中に改めて位置づけつつ、円谷の同世代に「メカニズム志向」が共有されていたことを指摘します。
    『バレエ・メカニック』から『狂つた一頁』まで
     円谷が『フォトタイムス』に寄せた文章には「ホリゾント法に據るセッティングの研究」のような技術論が目立つが、そのなかにあって一九三三年十月号の『フォトタイムス』には、円谷の美学的関心のありかを示唆する文章が掲載されている。

     フェルナン・レジェは、彼の「機械的舞踏」に於て、動的物体の発見に向かって、驚くべき一歩を踏み出した。
     シナリオとか自然主義的、または劇的のアクションとかの代わりに実在の、そして造形的な形体。
     彼は、物体の通常の意味などには気も止めずに、物体のただ造形的の価値の上にのみフィルムを建設しようとして理論的、お話的、象徴的な意味から、物体を完全に、離脱し、開放したのである。[26]

     レジェは一九二四年に画家ダドリー・マーフィーとともに製作した『バレエ・メカニック』(機械的舞踏!)で名を馳せた。この二〇分弱のアートフィルムは、歯車やレバー、振り子、泡立て器等の日常の事物の合成映像によって作られた、いわば「抽象画的ドキュメンタリー」と評すべき作品であり[27]、撮影はマン・レイが担当した。この円谷の論評以前に、日本でレジェはすでに「機械の世界」の運動を捉えることによって「新興写真運動」に貢献した重要な芸術家と見なされており[28]、『バレエ・メカニック』の与えた衝撃の大きさがうかがえる。
     円谷が技術者の見地から、この『バレエ・メカニック』の意義を「自然主義」や「劇的なアクション」からの解放として説明したのは、本質を突いた見解である。社会的現実にも演劇的約束事にも従属することなく、あるいは手垢のついた「物語」や「象徴」からも離れて、無機物の「バレエ」によって運動そのものを映像のパフォーマンスとして出現させること――、このレジェの前衛的な企ては、先述した一九二六年の『狂つた一頁』が精神病院での女性の「舞踊」で始まっていたことと綺麗に符合する。
     近年再評価の進む『狂つた一頁』は、一八九六年生まれの衣笠貞之助監督が、川端康成、横光利一、片岡鉄兵、岸田國士の四人を含む「新感覚派映画聯盟」を結成して製作した前衛映画である。精神病院に収監された女性患者が牢獄のなかで踊り狂うという鮮烈な冒頭部に始まり、他の患者たちがそれにエキサイトする「観客」として登場する。自我を失くしたかのような女の運動そのものを示しつつ、その狂気が周囲にも感染していくというディオニュソス的(祝祭的)な運動が、そこでは映像化されていた。
     ただし、『狂つた一頁』はいたずらにおどろおどろしい映画ではなく、アポロン的な造形感覚にも事欠かない。四方田犬彦の詳しい分析を借りれば、そこにはキュビズムやダダイズムの影響を思わせる抽象的な「円環」のイメージが増殖する一方で、それを切断するように、牢獄の鉄格子のような冷たい垂直線のイメージが多用された[29]。そもそも、『狂つた一頁』は凝りに凝った美術セットで名高い『カリガリ博士』(一九二〇年)の影響下にある「ドイツ表現主義的」な作品と見なされがちではあるものの、かつて蓮實重彦が指摘したように、その装置はむしろ普通の作りである[30]。『狂つた一頁』の「前衛性」は美術の仕事以上に、ディオニュソス的な激しさとアポロン的な冷たさを共存させながら、ときに「抽象画的ドキュメンタリー」にも近づくカメラの繊細な運動によって担保されていた。
     そのことはまさに円谷によって的確に指摘されている。円谷は自らが助手として関わった『狂つた一頁』の画期的な新技術として「画面を飛躍的に表現する急速な移動パンや、パンワーギと称するキャメラを横に振って急速な場面転換、立体的な移動ショット等」に加えて「歪曲鏡の使用、フラッシュ・ダブル・エキスポージュアに依るビジョンの効果、波形移動の効果、シルエットの使用効果、小型模型の使用」を挙げながら、衣笠監督について「映画の技術的なコツを実によく知りぬいた演出家だと、技術家の立場から私はいつも敬服している」と評していた。円谷にとって、『狂つた一頁』は「日本映画の技術発達史」に屹立するテクノロジーの記念碑なのだ[31]。
     歌舞伎の女形出身の衣笠監督はかえって演劇的映画から離れて、当時のヨーロッパの前衛とも共振する映画的映画を撮り、『狂つた一頁』の後に『十字路』という傑作も生み出すが、その前提として、円谷は衣笠自身にカメラマンの経験があったことを強調していた。円谷の考えでは、衣笠は何よりもまずカメラの性能を知り尽くした「技術者」なのであり、表現主義云々、主観描写云々はあくまでその高度な技術の後に続くものにすぎない――、むろん、この衣笠評から円谷自身の技術者としての密かな矜持を読み取ることも、十分可能だろう。
     戦後の『ゴジラ』やウルトラシリーズの印象が強いため、私たちはつい円谷英二をエンターテインメント志向の映像作家と見てしまいがちだが、それは大きな誤解である。映画固有の表現を追求した枝正義郎のもとで修行し、映像を人工的に「構成」することに習熟した技術者が、やがて『狂つた一頁』や新興写真のような前衛運動とも接近遭遇する――、この履歴からは戦後の「怪獣もの」のイメージには収まりきらない円谷のもう一つのモダンな顔をうかがい知ることができる。円谷自身、晩年には「私が怪獣映画ばかり作るように思われるのは心外」だとして、特撮の研究を始めたのは本来「映画をより芸術的なものにしたかったから」だと記していた[32]。裏返せば、日本の戦後とは、前衛が怪獣化し、娯楽化していった時代なのだ。次章で詳しく論じるが、この変転にこそ戦後サブカルチャーを読み解く鍵があると私は考えている。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 2 飛行機・前衛・メカニズム(1)【毎月配信】

    2017-07-04 07:00  
    540pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は円谷英二の手がけた多様な映像作品が、飛行機の美学をはじめとした大戦に関わる文化的文脈とどのように結びついていたのかを論じます。
    2 飛行機・前衛・メカニズム

     円谷は大戦間期には『メトロポリス』や『キング・コング』、あるいは五〇年代にはジョージ・パル製作の『月世界征服』や『宇宙戦争』、ジョン・P・フルトンの特殊撮影が冴えるセシル・デミル監督の『十戒』といった海外のSFXの動向をたえず注視しつつ、特撮技術のスペシャリストとして、戦前には新感覚派の前衛映画、戦中にはプロパガンダ的な戦争映画や航空映画、戦後には太平洋戦争の戦記映画や怪獣映画というように、実に幅広い分野の映像作品を手掛けた。では、この多種多様な仕事は、いかなる文化史的な文脈と関わっていたのだろうか?ここからは、大戦間期における(1)飛行機の美学(2)映像の前衛(3)メカニズム志向という三つのポイントを説明した後に、戦時下の問題に進みたい。
    飛行機とモダニズム
     まず注目すべきは、円谷にとって飛行機が生涯を通じてロマンの対象であったことである。模型飛行機を自作し、地元の須賀川でも評判になるほどの飛行機少年であった円谷は、来日したアメリカの曲芸飛行家アート・スミスに憧れ、自製の飛行機で世界一周することを夢見ていた。その夢はやむことなく、彼は後に東京羽田の日本飛行学校に入学するものの、たった一人の教官が事故死してやむなく退学する。
     この挫折を埋めるように、円谷の特撮はスクリーンのなかで実物とミニチュアの飛行機を飛ばしてみせた。彼はヴィクター・フレミング監督の一九三八年の『テスト・パイロット』を高く評価する一方、『燃ゆる大空』や『南海の花束』といった航空映画を経て『ハワイ・マレー沖海戦』ではその特撮技術を遺憾なく発揮する。内容面から言っても、飛行機乗りに憧れて訓練を重ね、ついに真珠湾に飛び立つ少年兵を主人公とする『ハワイ・マレー沖海戦』は、円谷の長年の夢を図らずもドキュメンタリー的なビルドゥングス・ロマンとして実現してしまったところがある。彼の飛行機へのロマンは、総力戦体制のもとでの国策映画のなかで受肉したのだ。
     そもそも、特撮と飛行機はともに二〇世紀の入り口で生み出された、ほぼ同い年の「技術」である。すなわち、帝国主義の時代を背景としながら、一九〇二年にメリエスの『月世界旅行』が人間の顔をした月面に砲弾型のロケットを暴力的に突き刺した、その翌年にアメリカのライト兄弟が有人動力飛行に成功する――、円谷はまさにこの二つの技術の申し子なのであり、しかもそのことが彼を後に戦時下の突出した映像エンジニアの座へと導くことになった。
     さらに、この「飛行機好きから戦争の時代の発明家へ」という円谷の経歴が、宮崎駿監督の『風立ちぬ』(二〇一三年)で取り上げられた零戦の設計者・堀越二郎を思わせるのは興味深い。一九〇一年生まれの円谷が虚構のスクリーンのなかで戦闘機を飛ばしたとすれば、一九〇三年生まれの堀越は現実の戦場を飛ぶ戦闘機を設計した。宮崎版の堀越は日本の貧しさを技術的工夫によって克服し、美しく機能的な飛行機を作ろうとしたが、これは「トリックというのは貧乏の生んだ知恵なんだ」という円谷の発言を彷彿とさせる[14]。『風立ちぬ』は飛行機を愛する技術者を通じて、円谷の特撮や宮崎本人のアニメも含めた日本サブカルチャーの根底にある「貧者の想像力」を、自己言及的に示した作品なのだ。
     むろん、飛行機の美に魅せられたのは日本人だけではない。例えば、モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエは一九二三年の主著『建築をめざして』で「飛行機は創意と、知性と、大胆さとを動員したと言明できる。すなわち《想像力》と《冷静な理性》とを。その同じ精神がパルテノンを作ったのだ」と記して[15]、ほとんど古典主義的な完全性の美を飛行機に認めていた。あるいは、二〇世紀の抽象彫刻の開拓者でプロペラ型の《空間の鳥》を残したコンスタンティン・ブランクーシやニューヨーク・ダダの中心人物マルセル・デュシャン、さらにイタリア未来派のマリネッティらも、飛行機の美に魅了された芸術家として知られる。近代の機能美の集約された飛行機は、一九世紀のロマン主義的な美意識(自意識)の圏域から脱出しようとした二〇世紀前半のモダニストにとって、疑いなく特権的な対象であった。
     このような文脈を踏まえれば、円谷の飛行機愛もいわば世界的なモダニズムの日本的な変種だと考えられるだろう。そして、この飛行機の美学は戦後のウルトラシリーズにも及ぶ。美術担当の成田亨は(彫刻家としてはブランクーシ的な抽象表現よりもイタリアのペリクレ・ファツィーニやマリノ・マリーニの具象表現に惹かれていたものの)『セブン』のメカニックデザインにおいて、飛行機のモダニズム的な機能美を子供向けの特撮に組み込もうとした。航空専門家から「ウルトラホークは飛行可能なデザインだ」というお墨付きを得て喜んだ成田には、軍関係者の眼を欺くほどのリアリティを達成した円谷の技術者的精神が再来していた。


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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二(1)【毎月配信】

    2017-06-22 07:00  
    540pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は日本の特撮の父とも言える円谷英二の軌跡を通じて、映画の歴史における特撮技術の位置付けを明らかにします。
    第三章 文化史における円谷英二
     一九三九年に入社した東宝技術部特殊技術課で円谷英二に師事するとともに、後の徴兵に際しては、滋賀県八日市飛行場で航空写真工手を務めていた三船敏郎の親友となり、戦後は漫画家として活躍したのに続いて、テレビドラマの製作会社ピー・プロダクションの創始者として『ウルトラマン』と同時期に『マグマ大使』を、さらに一九七〇年代には『スペクトルマン』や『快傑ライオン丸』といった特撮番組を世に送り出したサブカルチャー史の奇才・鷺巣富雄(うしおそうじ)は、円谷の印象的な言葉を紹介している。

    なあ、鷺巣くんよ、特撮とアニメは不即不離、いわば生まれながらの兄弟なんだ。アニメと手をつなぎ共同作業で新技術を開拓しなければ完全とは言えんのだよ。[1]

     現在は特撮とアニメの繋がりはさほど強くないし、そもそも実写のデジタル化が進んだため、円谷英二以来のアナログな特撮はすでに過去のものとなった。庵野秀明と樋口真嗣の手掛けた二〇一二年のショート・ムービー『巨神兵東京に現わる』はあえてCGを使わずミニチュア撮影に徹することによって、過去の特撮の歴史にオマージュを捧げた象徴的な作品である。
     しかし、円谷英二にとって特撮とアニメは「兄弟」であり、ある時期までのサブカルチャー史もこの両輪が形作ってきた。『風の谷のナウシカ』を踏まえた『巨神兵東京に現わる』でいわばアニメを特撮化し、ウルトラシリーズを踏まえた『新世紀エヴァンゲリオン』でいわば特撮をアニメ化した庵野は、実は円谷の理念の隠れた継承者だと言えるだろう(ちなみに、庵野監督の作品の音楽を長年担っている鷺巣詩郎は鷺巣富雄の息子である)。本論もまた微力ながら、この理念を部分的にでも今後のサブカルチャー批評に引き継ぐために書かれている。
     では、アニメの双子としての特撮は、いかにして表現上のリアリティを獲得し、日本の社会や文化とどのような関係を結んできたのだろうか。この問いを深めるにあたって、本章では特撮技術の詳しい専門研究に踏み込む代わりに、むしろ円谷英二の軌跡を中心にしながら、特撮という技術を戦前・戦中の文化史のなかに位置づけることを目指したい。それによって、彼の息子世代の作った戦後のウルトラシリーズにも、前章までとは違った角度から光を当てることができるだろう。
    1 技術者・円谷英二
    映画史における特撮
     映画の草創期において、シネマトグラフの発明者であるリュミエール兄弟に次いで、フランスのジョルジュ・メリエスの果たした役割はきわめて大きい。リュミエール兄弟の最初の映画が一八九五年にパリのグラン・カフェで上演された後、ロベール・ウーダン劇場の奇術師であったメリエスはシネマトグラフに大いに興味を示して自らさまざまなトリック映像に挑戦し、一九〇二年には『月世界旅行』で名声を博した。
     現実にはあり得ない映像を作り出すメリエスの特撮(SFX)には、手品(マジック)に加えて写真や演劇の表現技術が応用されている。彼は写真技法から「二重焼き」「多重露出」「マスク」等を取り入れ、一九世紀後半に流行した「交霊術」をトリック撮影によって再現する一方、夢幻劇の奇想天外で魔術的なイメージをスクリーン上に出現させた[2](その際にメリエスが変身、幽霊、分身といったポストモダニスト好みのイリュージョンを多用したのも興味深い)。さらに、メリエスの親友にアニメーション映画の創始者エミール・コールがいたことも注目に値するだろう。特撮とアニメーションはその出発点においてすでに「兄弟」であった。
     メリエス以降も、ウィリス・オブライエンが特撮を担当した『ロスト・ワールド』(一九二五年)や怪獣映画の金字塔『キング・コング』(一九三三年)を筆頭に、フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』(一九二七年)、ジョン・フォード監督の『ハリケーン』(一九三七年)、レイ・ハリーハウゼンの特撮技術が冴える『原子怪獣現わる』(一九五三年)や『アルゴ探検隊の大冒険』(一九六三年)、戦前にはパペトゥーンによるミュージカル・アニメーションを手掛けたジョージ・パル製作の戦後のSF映画『月世界征服』(一九五〇年)等、SFXを用いた記念碑的作品が次々と発表された。円谷英二はこのような欧米の先端的な表現技術を研究して、後の『ゴジラ』やウルトラシリーズの礎を築いた。そのプロセスは、戦前・戦後の日本の漫画やアニメがアメリカのディズニーを学んで自己形成したことと並行している。
     SFXの先進地域は欧米であり、日本の特撮はあくまで「後発」であったということは大前提として、しかしそれとともに、日本映画に固有の文脈も無視できない。日本の特撮史は、実は日本映画の「父」と称される牧野省三にまで遡ることができる。
     一九〇八年に京都の横田商会に映画製作を依頼されて、北野天満宮で撮影していた牧野は、フィルム交換の際に役者がその場を抜けたのに気づかずフィルムをうっかり回しっぱなしにしたせいで、人間が突然画面上から消失するという映像を偶然に得る(メリエスにもこれと似た偶然の発見がある)。この種の人間消失トリックを生み出す「カットアウト」の発明をきっかけにして、一九一〇年代には尾上松之助を主演とする牧野の一連の忍術映画が、逆回転や二重露出といった効果も用いながら、カメラマンの小林弥六の尽力のもとで撮られた。横田商会が北野天満宮に近い法華堂(後に大将軍に移転)に撮影所を構えて「日活」として出発するなか、日活の牧野映画は「目玉の松ちゃん」と称された松之助のキャラクター性を存分に生かして、多様なトリック映像を生み出した[3]。この意味で、特撮は日本映画の「起源」に根ざしている。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ(2)【毎月配信】

    2017-06-07 07:00  
    540pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、60〜70年代にかけて制作された昭和ウルトラシリーズと、平成以降の『エヴァ』や『君の名は。』といったヒット作に共通する構造を読み解きます。
    第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ
    2 セカイ系の源流
    『スタートレック』の神話構造
     ウルトラシリーズの視聴者は誰もが、その奇妙なご都合主義に一度はひっかかるだろう。そこでは全宇宙の関心が地球に集中しているかのようであり、多くの宇宙人が地球を美しい星として礼賛する。ウルトラマンもハヤタ隊員をうっかり殺してしまったという理由だけで、なぜか命懸けで地球を助けようとする。ウルトラマンを安保体制下の日本の保護者=超越者アメリカになぞらえる見解はよく見かけるが[15]、それもこのご都合主義から導き出されたものだ。しかも、この超人は「怪獣退治」の仕事が終わるとさっさと立ち去ってくれる……。民俗学者の折口信夫によれば、日本の神は人間界に常住せずに、定期的に「まれびと」(客人)として外からやってくるという特性をもつが、ウルトラマンにはまさにこの神の日本的行動様式が再現されていた。
     この観点からすると、高校時代の金城哲夫が国語研究者で脚本家の上原輝男の民俗学講座に出席し、沖縄のニライカナイ信仰についての講義や、一九五二年に提唱されたばかりの柳田國男の「海上の道」の仮説に深い感銘を受けたというエピソードは興味深い[16]。ウルトラシリーズは前期のSF的・未来的な世界観から後期の怪談的・民俗学的な世界観へと推移していくが、その萌芽はすでに若き金城の体験にあったと言えるだろう。先述したノンマルトの物語にも、柳田の「山人論」(大和王朝に敗北した原日本人が山中の漂泊者になったという説)との類似性が強く感じられる。
     宇宙人のヒーローが「まれびと」として向こうからやってくるというこの構図の特殊性は、アメリカのSFドラマと比べるといっそう際立つ。ここでは『ウルトラQ』の原点となった『トワイライトゾーン』や『アウターリミッツ』、あるいは『ウルトラセブン』の初期構想段階で参照された『宇宙家族ロビンソン』よりも、むしろ一九六六年以降に放映された『スタートレック』との違いに注目したい。パイロットからテレビ業界に転じたジーン・ロッデンベリーを中心に制作された『スタートレック』は、アメリカの神話構造を宇宙空間という「最後のフロンティア」で再現した物語であった。
     アメリカの原型的な神話とは何か。宗教社会学者のロバート・ベラーによれば、かつてヨーロッパから新大陸アメリカに渡った初期の入植者たちは、聖書に記された「楽園」や「荒野」のイメージやシンボルを使って、自らの状況を解釈した。ちょうどキリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後の四〇日間を荒野で過ごした、それと同じように自分たちもアメリカという未知の荒野に送り込まれた使者であり、後に来るクリスチャンの「楽園」を準備する使命をもつというわけだ。この見立てがもっと過激になると、海洋文学の傑作であるメルヴィル『白鯨』における「landlessness(土地をもたないこと)の状態が神の広大無辺の真理を開く」という壮大な形而上学的ヴィジョンに行き着くことになる[17]。
     人間を突き放す荒野こそが神=真理との出会いの場になる――、このアメリカの聖書的シナリオは『スタートレック』シリーズにも認められる。さまざまな出自をもつ艦長以下のクルーたちは、文字通り「土地のない」未知の宇宙に――いわば究極の「荒野」にして「大洋」に――乗り出し、科学や宗教の常識を超える存在と出会い、知性についての新たな啓示を受ける。なかでも、九〇年代後半に放映開始された『スタートレック・ヴォイジャー』の宇宙艦が白人の女性艦長とネイティヴ・アメリカンの子孫の副艦長のもと、地球から遥か遠くの宇宙の辺境に飛ばされたことは、新大陸アメリカへの「入植」の歴史の反復でもあっただろう。よくできた哲学的エンターテインメントであるこのSFドラマは、アメリカの神話構造を宇宙に投影したのだ。
    「海岸国家」の神話
     面白いことに、ウルトラシリーズではこの「アメリカ神話」がことごとく逆転している。科特隊やウルトラ警備隊は、多種多様な種族の集う『スタートレック』的な宇宙艦ではなく、同じ制服に身を包んだサラリーマン組織に近い。二〇世紀のSFにとってきわめて重要なテーマであったはずの異質の知性との出会いも、そこではほとんど起こらず、宇宙人もおおむね「侵略者」のカテゴリに収まる(『ウルトラマン』のメフィラス星人や『セブン』のギエロン星獣はその例外だが)。ウルトラマンもアメリカ的な荒野の神ではなく、あくまで日本的な「まれびと」であった。
     この日米の神話構造の違いは、宇宙との関わり方にも及んでいる。象徴的なことに、『スタートレック』では人間やモノを瞬時にワープさせる「転送装置」が不可欠の装置となったのに対して、ウルトラマンは惑星間の「テレポーテーション」のために、その寿命を縮めるほどの莫大な労力を支払わねばならない(二代目バルタン星人の登場する第一六話)。ウルトラシリーズにおいて、宇宙人はこちらから討伐するべき存在ではなく、あくまで向こうから勝手に地球にやってくる存在なのだ。
     ウルトラシリーズは概して地球という既知の海岸にこだわる一方、宇宙という未知の海洋への転送には及び腰であり、それが後期の「民話化」にも繋がっていく。冒険心豊かな海洋文学の伝統を思わせる『スタートレック』とは反対に、宇宙に対していわば戦後憲法的な「専守防衛」の構えをとること――、この受動性は二〇世紀の日本の自己認識とも符合するものだと考えてよい。
     例えば、一九三四年生まれの批評家・山崎正和は『セブン』と同時期の一九六七年初出のエッセイで、日本を能動的な「海洋国家」ならぬ受動的な「海岸国家」だと鋭く論じている[18]。確かに「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ」で始まる島崎藤村の有名な詩「椰子の実」(一九〇一年刊『落梅集』所収)にせよ、あるいは日本を外来文明の漂着と保存の場である「アジア文明の博物館」と評した岡倉天心の『東洋の理想』(一九〇三年)にせよ、日本のアイデンティティはしばしばその「海岸」に似た地理的性格に求められてきた。この海岸モデルは総じて、世界体験の日本的受動性を肯定するものである。
     裏返せば、四方を海に囲まれているにもかかわらず、日本には『白鯨』に相当するような目立った海洋文学がない。大日本帝国はその慎みを破って「海洋」と「大陸」に進出し、大東亜共栄圏の理念を掲げたが、戦後の日本は再び自らを「海岸国家」に限定した。このアジアからの撤退が『浮雲』のゆき子の身体を蝕み、富岡の心を空っぽにしたことは、すでに述べたとおりである。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ(1)【毎月配信】

    2017-05-12 07:00  
    540pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、『月光仮面』『モスラ』『浮雲』といった50年代〜60年代初頭の作品群が、いかにして「帝国」の地理的想像力に裏付けられていたのかを読み解きます。
    第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ
    1 大東亜の亡霊たち――ウルトラマンの前史
     改めて言えば、私は昭和のウルトラシリーズには大きな断層が二つあり、そのそれぞれが時代相を映し出すものだと考えている。第一の断層は『ウルトラQ』における夢のシニカルな否定が、ウルトラマンという高度成長期の生んだ突飛なヒーローによって上書きされたことである(近代化)。第二の断層は『帰マン』から『A』にかけて、社会よりも心が、科学の夢よりも反科学的な怪奇性やオカルティズムが上昇したことである(ポストモダン化)。要は、公的な正しさや社会的なコンセンサスの代わりに、私的な妄想やスポ根的な身体性が際立ってくるのだ。
     しかし、実はもう一つの大きな断層がある。それはウルトラシリーズ全体がそれ以前の、五〇年代から六〇年代初頭にかけての日本の地理的想像力を切断して出てきたということである。第一の断層(シニシズムから科学の夢へ)も第二の断層(社会から心へ)も、シリーズ以前のこの世界認識の変化の後に生じたものなのだ。そこで本章では歴史をもう一段階遡り、私の本業である文芸批評の分析手法も交えながら、ウルトラマンの「前史」のサブカルチャーを輪郭づけてみたい。結論から言えば、それは戦時下の「大東亜」の記憶と深く関わっている。
    宣弘社の男性ヒーロー
     戦後のテレビヒーローの歴史を考えるとき、ウルトラシリーズ以前に宣弘社プロダクション制作のテレビ映画があったことは重要な意味をもつ。『月光仮面』(一九五八〜五九年)、『豹〔ジャガー〕の眼』(一九五九〜六〇年)、『快傑ハリマオ』(一九六〇〜六一年)といった宣弘社のヒーローものは、戦後の草創期のテレビのなかに、戦前・戦中の日本の地理的想像力を呼び込んだユニークな作品群であった。
     もともと、宣弘社は社長の小林利雄の指揮のもと、敗戦直後にネオン、駅広告、シネサイン、街頭テレビ、ビルボード等を精力的に手がけた広告会社であり、戦後日本の都市風景の形成にも大きな貢献をした。例えば、宣弘社が銀座で展開したクリスマスのデコレーションはその後日本の冬の風物詩となり、一九五一年に小林の依頼で作られた猪熊弦一郎《自由》は(良い絵かどうかはともかく)今日のパブリック・アートの先駆的作品として、現在でも上野駅中央改札を飾っている[1]。さらに、宣弘社は『ウルトラマン』にも広告会社として関わっており、TBS、円谷プロ、スポンサーのあいだの関係を取り持つことになった。
     だが、ここで面白いのは、小林がたんなる広告業者で終わらず、ハリウッドの視察をきっかけに「宣弘社プロダクション」を創設し、草創期のテレビ映画の制作にも乗り出したことである。広告からコンテンツへのこの「越境」の結果として、川内康範が原作と脚本を担当し、プロデューサーの西村俊一がキャラクターの奇抜なデザイン(バイク、ターバン、サングラス……)を構想した『月光仮面』が日本初の本格的な「国産テレビ映画」として一九五八年に放映され、誰もが知る大ヒットとなる。「憎むな!殺すな!赦しましょう!」という『月光仮面』の有名な寛容のテーマは、苦い敗戦を経た戦後日本の理想を示したものでもあっただろう。
     川内康範もまた、宣弘社とは別の意味で「越境」を繰り返した人物である。彼は駆け出しの頃に東宝の演劇部の秦豊吉(丸木砂土)のもとで修行し、人気絶頂の喜劇役者古川ロッパや榎本健一(エノケン)らとも知り合うとともに、後にはそのマリオネット劇の知識を円谷英二に買われて、東宝の戦時下の人形劇映画『ラーマーヤナ』の脚本を担当するという具合に、師匠の秦にも似た脱領域的な才人であった(後には歴代首相との交友でも広く知られる)。その川内が「脇仏」の月光菩薩をモチーフにした月光仮面について、「正義」そのものではなくあくまで「正義の味方」だということを――アメリカのスーパーマンのような「超人」ではなく「神でも仏でもない、あくまで人間」だということを――後年のインタビューで強調していたのは、文化史的に見てきわめて興味深い[2]。
     現に、この控えめな男性ヒーロー像は「生涯助っ人」を信条とした川内自身に留まらず、『七人の侍』(一九五四年)や『隠し砦の三悪人』(一九五八年)、『用心棒』(一九六一年)等で「助っ人」としての三船敏郎を撮り続けた黒澤明の映画、さらには戦後のアニメの代表作でも反復された。例えば、宮崎アニメの少年は自分が超人になるのではなく、常に少女を助ける「正義の味方」(高畑勲の評を借りれば「エスコートヒーロー」)であろうとするのであり、その限りで月光仮面の系譜に属していた。男の主役が正義の脇役(用心棒)に甘んじることで、かえってヒーローになり得るというこの『月光仮面』的な逆説には、戦後日本の男性性の構造、特にその屈折したナルシシズムが表出されていたのだ。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供(2)【毎月配信】

    2017-05-02 07:00  
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    【メルマガ配信休止のお知らせ】 5月3日(水)〜5月5日(金) のメールマガジン配信はお休みです。5月8日(月)より配信を再開いたします。

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、『A』『タロウ』『レオ』を経てウルトラシリーズが勢いを失っていく過程を追うことで、「子供」と「青年」の狭間で揺れ動く戦後文化の輪郭を描き出します。
    第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供

    2 後期ウルトラシリーズ――家族物語とメディアミックスの時代
     前期ウルトラシリーズは科学と未来の夢によって『Q』のシニシズムからいったんは逃れるものの、『帰マン』はその夢を後退させ、宇宙からも引きこもって、東京の風景と人間へと接近していく。そう考えると、一九六九年のアポロ一一号の月面着陸や一九七〇年の大阪万博という科学の「祭り」のときに、ウルトラシリーズが放映されていなかったのは象徴的である。祭りの前の「期待」(『セブン』)と祭りの後の「現実」(『帰マン』)の落差が、このシリーズには残酷なまでにはっきり刻み込まれていた。ウルトラシリーズはたんに世相を反映するというよりは、日本社会の抱えた夢や象徴の変容こそをあからさまに示しているのだ。
     戦後のサブカルチャー史を考えるときに、未来との距離感はきわめて大きな意味をもつ。例えば、建築研究者の森川嘉一郎は、一九八〇年代に名づけられた「オタク」について「未来の凋落」を「趣味」で埋め合わせようとする存在だと定義した[14]。オタクはマニア的に情報を集めては、自分でもイラストを描いたりフィギュアを制作したりするプロシューマー(生産者+消費者)だが、未来のイメージを非公共的な趣味として楽しむしかなくなったその姿は、万博以降の日本社会そのものの戯画である。オタクは科学・宇宙・未来にまつわる象徴的魔術が後退した後の、どこか奇妙な適応形態なのだ。
     ウルトラシリーズの場合、この後退の穴を埋めたのは「家族」であった。現に『帰マン』に続く後期ウルトラシリーズは、急速にファミリー・ロマンス(家族物語)へと傾き「ウルトラ兄弟」という概念も定着する。と同時に、その家族的な親密さを脅かす妄執のテーマも上昇し、心理化・怪奇化が進んだ。このテーマの推移は、ポストモダン的な「リアリティの多元化」を象徴する出来事でもあった。その過程を具体的に見ていこう。
    ウルトラマンA――家族と心のあいだ
     繰り返せば、『帰マン』は主人公郷秀樹が東京の市井の家族とともにある物語であった。本多猪四郎監督・上原正三脚本の最終話も、ゼットンに対する郷の自己犠牲的な「特攻」の後、弟のような坂田次郎との交流によって締めくくられる。郷が「次郎、大きくなったらMATに入れ」というメッセージを残してウルトラマンとして戦地に旅立ったのに対して、次郎は「一つ、腹ペコのまま学校に行かぬこと」「一つ、天気の良い日にふとんを干すこと」「一つ、道を歩くときには車に気をつけること」「一つ、他人の力を頼りにしないこと」「一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと」という「ウルトラ五つの誓い」によって答える。このどこか珍妙で、それでいて不思議と胸を打つシーンは、戦中の特攻青年と平和な戦後民主主義社会の少年が心を通わせる場面のようにも読めるだろう。
     それに対して、一九七二年から翌年にかけて放映された『ウルトラマンA』はもっと単純に「ウルトラ兄弟」という家族イメージを確立し、作中にも歴代のヒーローがたびたび登場する。しかし、前半のメインライターを務めた市川森一自身は、ナイーヴな家族愛や人類愛からはむしろ明確に距離を置こうとしていた[15]。そのこともあってか、それまでの科特隊、ウルトラ警備隊、MATがどれも男どうしのホモソーシャルな絆によって結ばれていたのに対して、『A』の防衛チームTACはしばしば人間関係においてギスギスした空気をまとい、ときには相互不信と疑心暗鬼に取り憑かれる。『A』には子供向けのファミリー・ロマンスの裏側に、絆を断ち切る負の「心理」が深く根を張っていた。
     特に、波打つ不定形の怪人である『A』の主要敵ヤプール人は、人間の妄想と疑心暗鬼をますます増幅させ、それがしばしば超獣の源泉となる。例えば、市川脚本の第四話では、売れっ子の漫画家がストーカー的にTACの女性隊員への欲望を募らせ、テレパシーによって超獣ガランを出現させる。あるいは上原正三脚本の第一七話では、母を亡くした娘の心にヤプールがつけこみ、不気味な鬼女と超獣ホタルンガを生み出す。超獣は心の歪みやオカルト的な呪いの産物なのだ。『帰マン』は未来や科学という「大きな物語」が失墜した後を、東京の現実の風景によって埋めたが、『A』ではそのような公共の風景よりも、『怪奇大作戦』ふうの不透明な怨念や呪詛のほうが大きくなる。そこには、リアリティの多元化・不透明化によって特徴づけられるポストモダンの世界像が、綺麗に表出されていた。
     したがって『A』には一定の現代性があるのだが、作品の完成度については疑問符がつく。そもそも、市川は第一話で広島の原爆ドームを超獣ベロクロンに襲わせるという野心的なプランを立てていたが、それは実現せず、広島県福山市に舞台が変更される。そして、その後は結局おおむね東京の物語に戻り、『帰マン』後半以来の「怪談」の枠組みに沿ったエピソードも増える。さらに、北斗星司と南夕子が「合体」によってウルトラマンAに変身するという根本的な設定も、物語中盤でなし崩し的に変更されてしまった。『A』では作品のコンセプトが漂流し、中途半端になった印象は否めない。

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