ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。劇画全盛の時代に適応できず、少女漫画誌へと移籍したあだち充ですが、週刊少女コミックは偶然にも、一時代を築いた大御所たちと才能煌めく若手作家たちが交差する場所でした。
連載自体はあだち充論ではあるが、今回は「少女漫画」の歴史にも触れていく。その理由としては、1975年にあだち充が移籍した形になった週刊少女コミックで、どんな作品が連載されていたのかを知っておくことで、当時の漫画界がどんな状況だったのかがわかるからだ。また、『ナイン』が少女漫画のテイストを持ち込んだことで評価されたという部分を理解するために必要だと考える。
もうひとつは、現在の私たちが知っているサブカルチャーは、当然ながら脈々と続いている歴史の上に成り立っていて、今や当たり前になっている「萌え」や「BL」の始まりに、少女漫画や当時の女性読者たちがいたことを知っておくことは決して無駄なことではないと思うからだ。この時代の少女漫画について知っておくことで、現在の漫画・アニメカルチャーの想像力の始まりの地点にあったものを、多少なりとも理解できるのではないだろうか。
余談になるが、2年前の2017年3月初旬に、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で日本文学について講義をしていた小説家・古川日出男氏を訪ねたことがあった。授業には参加できなかったが、校内で開催された詩人の管啓次郎氏が教えている学生のワークショップの発表と古川氏と学生たちによる(日本語と英語と中国語の三ヶ国語での)小泉八雲『怪談』の朗読パフォーマンスに呼んでもらった。その際に、古川氏をUCLAに呼んだマイケル・エメリック氏や彼の学生たちとわずかだか交流することができた時に感じたことが大きい。
UCLAの大学院で日本文学を学んでいるような学生は当然ながらエリートであり、いろんな国籍の人がいたが、彼らは日本語で小説を読み、私が英語をがんばって話すこともなく、日本語でのやりとりができた。日本国外で日本文学となると、川端康成、井伏鱒二、谷崎潤一郎、大江健三郎、三島由紀夫などを基礎教養として持っていないと会話にならないという現実がある。そこをわかっていないと、現在の作家へと続く議論はできないと強く感じた。
ちなみに2018年12月に明治大学中野キャンパスで特別シンポジウム「古川日出男、最初の20年」というものが開催され、古川氏をはじめとし12名が登壇した。シンポジウムにはUCLAから来たマイケル・エメリック氏も登壇したが、会場でUCLAを訪れた時に話した生徒の一人と再会をした。彼を含め数名が来日して早稲田大学で日本文学を学んでいるということだった。こういう交流こそが本当の意味での文化交流であり、文化を発信する上で重要なことだと思う。
これは文学の話に限らない。『なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか』を書いたカナダの研究者であるマーク・スタインバーグは、80年代の角川書店などを題材にメディアミックスの研究をしている。彼以外にも海外の様々な大学でメディアミックスについて研究が行われているし、そこには当然ながら、日本の漫画・アニメカルチャーの歴史が大きく関わっている。
そして、日本のメディアミックスの歴史を紐解いていくと、そこには第二次世界大戦があり、国民の動員として使われていていた事実がある。「クール・ジャパン」という戦略で完全に抜け落ちていたのは、そういう部分を理解した上で、日本のサブカルチャーが海外でどう受容され、どう影響を与えたのかのきちんとした分析や、海外でそれらが好きな人と話す際に必要な最低限の歴史の認識や理解だったのではないだろうか。
日本文学に興味がある海外の人とコミュニケーションを取る際に、村上春樹作品だけの話をしても当然ながら通じない。戦後日本文学なら最低限、大江健三郎や三島由紀夫についてのバックボーンを理解していないといけない。これから漫画やアニメに関しても、同じようなことがもっと頻繁に起きてくるのではないかと思う。「クール・ジャパン」はコンテンツを売るだけではなく、歴史を含めたサブカルチャーの総体を、海外に広めると同時に、国内にもきちんと伝えるべきだろう。自分が好きな文化の歴史を最低限、知っておくことが、今より大きな意味を持つ時代になってくるはずだ。
少女漫画はどこから来たのか
話を本題に戻そう。少女漫画の歴史を遡っていくと、戦前の少女雑誌に行き当たる。まだ少女漫画というメディアがない時代、女学生たちが夢中で読んでいたのは雑誌小説だった。
1899年に高等女学校令が公布され、各県に女学校が設立されたことで「女学生(少女)」という新しい概念が生まれ、出版社にとってはその「少女」は新しい読者層として商売のターゲットになった。この頃の少女雑誌の小説には必ず挿絵がついていて、彼女たちは「読む」ことと「見る」ことを雑誌で楽しんでいた。
現在、ラノベと一般文芸の中間に位置する小説をライト文芸(キャラノベ)と呼ぶが、私たちの祖母や曾祖母の時代から小説には挿絵が描かれ、そこに描かれていたキャラクターを小説に投影して読んでいたと考えることもできるかもしれない。
アール・ヌーヴォーを代表する、現在ならグラフィックデザイナーと呼ばれる仕事をしていたアルフォンス・ミュシャの挿絵やポスターを、与謝野鉄幹と与謝野晶子が刊行していた文学雑誌『明星』(1900~1908年)において、挿絵を担当していた藤島武二が盛んに模倣していたことも知られている。また、彼が手がけた与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙もアール・ヌーヴォーを取り入れたものになっている。
▲ミュシャ『黄道十二宮』(1897)と『明星』表紙(1902)
▲与謝野晶子『みだれ髪』表紙(1901)
ミュシャと藤島武二の挿絵やポスターを見比べると、少女漫画の絵柄の源流がここにあることがよくわかる。日本において鳥獣戯画が漫画に、浮世絵が少女漫画に大きな影響を与えていると流布されていることが、いかに的外れであるかということは、明治や大正時代の文化を見るとわかるはずだ。
愛国者だと言いながらも、フェイク・ヒストリーを作ることに必死な人たちはどうしてもそういうものを結びつけ、日本の漫画を「クール・ジャパン」と呼んで海外に喧伝したがっている。日本の漫画は明らかに近代以降に諸外国からの文化の影響を強く受けているという事実を、どうしても認めたくないのだろう。大正デモクラシーとそこから派生した文化の影響、手塚治虫が戦時下に自らも投稿した「大政翼賛会」というメディアミックス、手塚がディズニーに出会ったことによって日本の漫画の歴史が大きく動き出したというのは、まぎれもない事実である。これらに関して詳しく知りたい人は大塚英志氏の著作である『まんがでわかるまんがの歴史』『手塚治虫と戦時下メディア理論 文化工作・記録映画・機械芸術』『大政翼賛会のメディアミックス』などを読んでみることをオススメします。
戦前と戦後の少女漫画
戦前の少女たちに人気があった挿絵家の筆頭は、中原淳一だった。竹久夢二の抒情画の伝統を引き継ぎながら、西洋風の雰囲気を加えることで、新しい独自の世界観を作り出していた。中原の描く少女は長い手足に、大きな潤んだ瞳、そしてリボンを頭に添えていた。ここから現在に至る少女的なイメージの原型が共有されていくことになった。
▲『中原淳一の女学生の服装帳』。現在でも企画展が開催されたり、LINEスタンプが発売されるなど、根強い人気がある
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