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アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第5回。今回はこれまでの作品分析から視点を変えて、1990年代初頭に遡る「オタク」と「萌え」の文化史的な省察から、それが現代におけるアニメ文化の危機にどのように帰結していったのかを考えます。

「オタク」という言葉(とその定義)同様に、僕らアニメに関わる人間を長年悩ませてきたのが「萌え」という言葉だ。
思えばこの言葉が生まれた時から、アニメ界隈では様々な「不文律」のようなものが崩れ、無法状態になり始めた(つまり僕の言う「ポストモダン化」)ように思う。
それは僕が度々引用する岡田斗司夫氏の2006年の講演「オタク・イズ・デッド」でも見られることだ。
岡田氏はここで「萌え」という概念が「オタク」という文化民族を崩壊させた、と(世代論を踏まえながらだが)断言している。

ただそう言い切る前に、「オタク」とは?「萌え」とは?という定義付けが、今途方もなく曖昧模糊になりすぎていると僕は考える。
今回は岡田氏他文化民族・オタクを苦しめ続けたと言っても過言ではない「萌え」について考えてみたい。

「萌え」に一番近いと思われる言葉は「カワイイ」だろう。
つまり男性オタクが美少女などに興奮して使う言葉だった。
それが次第に美男子にも向けられ、併せて「異性に欲情している状態」と考えられるようになった。

ここまでは誰も異論がないだろう。
しかし、ことはそれでは済まない。

ところで、僕は「萌え」の誕生の瞬間を目撃している。
正確には目撃ではないのだが、僕が大学に入り、アニメーション同好会で活動するまで、「萌え」という言葉はなかった。

「萌え」の語源に関しては諸説あるようだが、僕は『セーラームーンS』(1994)の土萠ほたるが最有力だと考える。
僕が記憶する「萌え」の誕生とちょうど同じタイミングだからだ。
あと、彼女を評して「萌え!」とオタク仲間が騒いでいたのも覚えている。
先述の岡田氏は『恐竜惑星』(1993)のヒロイン・萌だとしているが、この辺ははっきりしないので断定しないでおこう。しかし、間違いなくこの時期、「萌え」は生まれた。

それから十数年して「オタク・イズ・デッド」に至るのだが、そこで岡田氏は「萌え」が良く解らない、と告白している。
そして同時に、「萌え」がオタク世界に浸透していく過程への違和感にも言及している。
「萌え」は、あまりにも同調圧力を強いるものだったのだ。

岡田氏いわく、

たとえばミリタリーファンがいますよね、彼らは「俺ティーゲルⅠのこととか良く解らないんです」って言った時に、「岡田はティーゲルⅠも解らないからオタクじゃない!」とは、絶対言わないんですね。なぜかって言うと、ミリタリーファンには常識があるからです。「俺たちはミリタリーファンであって、ミリタリーの世界の中ではティーゲルⅠが解らなかったらお前何だ!?って話になるけれど、あんたはその世界じゃない、同じオタクの住人でも、あんたはジャンル違いだから解らなくて当たり前だよな」っていう常識が働く。ところが、「萌えが解らない」と言ったら、「え!? お前オタクなのに萌えが解らないってなんで?」って話になっちゃう。
(語尾など若干の修正有)

彼はオタクという「大陸」に漫画・アニメ・ゲーム・ミリタリー・鉄道など、様々なファンという「人種」がいて、それぞれの「人種」が過度に干渉しない、排除しないようなイメージを説明する。
さながらアメリカ合衆国のようなものだろう。

ところがそこに突如「萌え」族が押し寄せた。
既存の「人種」たちはパニックとなった。

「萌えが解らないならオタクではない!」
これ、僕が業界に入ってから徐々に言われ始め、困ったものだ。
だから最初の頃は薄気味が悪く、「萌え」と呼ばれるものを避けてファミリー向けやギャグなどの仕事をしていたものだ。
今では「ヤマカンは『萌え』で食わせてもらってきたのに!」と言われるようになったが、そもそも「萌え」に手を出したのはほんの数作だ。
僕のキャリアで言うと半分も遥かに満たないだろう。


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