今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、漫画『海街diary』です。
戦後日本的な「成熟と喪失」の問題を正しく引き受けた作家・吉田秋生。鎌倉を舞台にした本作では、初期作のような「成熟と喪失」をめぐる葛藤は昇華され、いかに「老いと死」に向き合うかが静謐な筆致で描かれます。そんな作家としての円熟の一方で、もし初期の可能性のまま描き続けていたらあり得たかもしれない、もうひとつの「鎌倉の海」とは?
※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
吉田秋生の『海街diary』の最新刊(今年の7月に発売された『四月になれば彼女は』)を読んでまた鎌倉に行こうと思った。以前にもこの連載で取り上げたことがあるのだけど、僕は鎌倉が好きで年に何度も足を運ぶ。たいていはよく晴れた日に、思いつきで出かける。こういったことができるのが自営業の特権だ。半日かけて、由比ヶ浜から極楽寺にかけてのゾーンをぶらぶらして、途中、目についたお店に入って休憩する。そして必ずお土産に釜揚げのシラスを買って帰るのだ。
観光ガイドには一時期、このマンガの舞台になった場所を紹介する『すずちゃんの鎌倉さんぽ』を使っていた。映画やドラマのロケ地めぐりが趣味の僕がどこかの街を気に入るときはたいていこういったミーハーなきっかけだ。
そんなミーハーな人間が、こんなことを言うといわゆる「鎌倉通」の人たちに怒られるかもしれないが、僕は実際の鎌倉は吉田の描くそれよりも、つまり昔ながらの人情下町コミュニティが残っていて、都心部とは違った時間のゆっくり流れるスローフード的な空間よりも、もう少し猥雑でスノッブな街だと思う。一年中昭和の日本人が環境役として群れを成しているし、夏のビーチはファミリー、カップルそしてエグザイル系のお兄さんたちで溢れている。こういっては失礼だが彼らはスローフードのスの字もない人々だけれども、こうした人々がいるからこそこの街に僕のような人間にも居場所があるのだと思っている。
だから正直に告白すれば、僕はこの『海街diary』に出てくる鎌倉にはちょっと住めないな、と思っている。もちろん、それは否定的な意味ではない。この作品に出てくる鎌倉はそういった猥雑さを排したことで、とてつもなく優しく、そして強靭な磁場を備えた空間として成立している。そしてその淀みのなさに、自分はちょっと住めないな、と憧れるのだ。
吉田秋生という作家を語るときは、かつてこの作家が用いた「川」というモチーフを中心に考えるとその変遷がクリアに浮かび上がってくる。
かつての吉田秋生は当時のアメリカン・ポップカルチャーの絶大な影響のもと、戦後日本的「成熟と喪失」を正しく引き受けた作家だった、と言えるだろう。同時代の少年マンガが戦後日本的未成熟の肯定に開き直り(反復される強敵との戦いで成熟を隠蔽しながら、実は幼児的遊戯を継続し続けるバトルマンガと、終わりなき日常をてらいなく描き続けるラブコメマンガ)、先行する先鋭的な少女マンガ(24年組等)がむしろヨーロッパ的意匠とファンタジーへの傾倒で戦後少女文化ならではの深化を見せていったのとは対照的に、吉田は同時代の少女マンガ家としては珍しく戦後日本人男性の「成熟と喪失」の問題を正面から引き受けていたのだ。
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