今回から(ほぼ)毎週金曜日に、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信します。
イントロダクションとなる第零章では、人工知能はいかにして誕生したのか。その背景となった西欧世界における医学・工学・哲学の発展史を踏まえつつ、人工知能と東洋的思想との接続の可能性について考えます。
1. 知能とは何か?
「知能とは何か?」という問いは人間の最も深淵な問いです。しかし、この問いを思索のみから探求することはできません。この問いの答えを得るためには、思索し、行動し、仮説を立て、実験し、実際に作ってみて、再び反省する、という哲学、科学(サイエンス)、工学(エンジニアリング)の絶え間ない連携した活動が必要です。それが人工知能という試みです。
本連載では全十章にわたって「知能とは何か?」を探求します。その方向は三つあります。一つは「知能を解明する」という純粋なサイエンスの探求、一つは「知能を作る」というエンジニアリングの探求、一つは「知能とは何か?」を探求する思弁的な哲学探求です。この三つの探求を同時に行うというのが、人文科学、自然科学、哲学を横断する「知能学」そのものの姿です、この3つを少し詳しく見ていきましょう。
2. 三つの探求のクロスロード
「知能とは何か?」という問いは哲学的な思弁の深淵へ向かって軌道が伸びている一方で、実際に知能を作り出そうとするエンジニアリングの可能性の平野が広がっています。また作ることで知るのがエンジニアリングなら、知るために分解していくのがサイエンスです。知能を知ろうというサイエンスは、多面的なサイエンスであり、一つの分野の形を取らず心理学、精神医学、生物学を横断しています。また社会学や人類学など、あらゆる人文科学は、「知能とは何か?」という問いの周りに展開された科学である。これが知能をめぐる学問「知能学」の持つ地平です。
人工知能を生み出す人間の欲求は、科学、工学、哲学の三つの衝動に起因しています。
科学的衝動 「人間や動物の知能を分解して理論を作りたい」
工学的衝動 「人工知能を作り出し、実際に世の中を変革したい」
哲学的衝動 「知能と人工知能の探求から、生きている意味を解明したい」
人工知能に関わる人々がこのような欲求を持つのは、人工知能が人間から独立した対象として生み出す機械やソフトウェアと異なる傾向があるからです。知能とは我々自身であると同時に、探求し作り出す対象です。この二重性を持つという事実が、通常の科学と人工知能の探求の様相を大きく異なるものにする要因なのです。
我々は知能を内側から生きている存在です。人間という(自然)知能が(人工)知能を作り出そうとするというトートロジーの中に「人工知能」の開発の運動はあります。人工知能を作ろうとする者にとって、知能は対象であると同時に、我々自身をもう一度作り出そうとする「鏡像構造創造的な体験」です。常に自己を見つめつつ、その写し姿を電子回路の中に掘り起こしていく。そこで人工知能という分野は、知能を対象化することでサイエンスとなり、 自らを探求するという意味で哲学的となり、それを作り出そうとする意味で工学的となるのです。
3. 知能感受性
知能には知能を感じ取る力があります。これを私は知能感受性と呼びます。知能を感じ取る力、この人はこんな知能があるな、この熊はこんな知能を持っているな、このキャラクターはこれぐらいの知能を持っているな、という総合的に知能を感じ取る力です。誰もが持っている力ですが、適切な言葉がないので、こう呼ぶことにします。これはゲームAI開発の現場で私が作り出した言葉です。ユーザーにこのキャラクターをどんなふうに知能として感じてほしいか、という点を実現することにデジタルゲームのAI開発は終始すると言ってよいでしょう。
知能感受性は五感を基にしていますが、より高次の総合的な感覚です。知能は知能に対して厳格です。動物にせよ、生物にせよ、相手の知能を感じ取ることは自分の生存に切実に関わる問題だからです。初めて会った相手に、森で出会う動物に、敵に、どのような知能を感じ取るかということで、動物は行動を決定します。
この鋭敏すぎる感覚は、時にあらゆるものに知能を見出すことになります。風に、森に、川に、あらゆる森羅万象に知能を感じ取る。この知能感受性のありようをめぐって、人類は大きく二つの文化圏を形成してきました。
一つは、あらゆるものに平等に知能を見出す「森の文化」です。いわゆるアニミズムや多神教における「八百万の神」感であり、あらゆる生命を横のつながりの中で捉える感覚です。もう一つは、ユダヤ教やキリスト教といった一神教の文化圏に特徴的な、極めて対象化され序列化されたかたちで知能を捉える「砂漠の文化」です。この文化を土壌にして、「神―人間―機械」という縦の知能の序列を与える人工知能という発想が生まれました。
この二つの文化は、必ずしも特定の地理的・歴史的概念に結びつけられるものではありませんが、便宜上、前者の森の文化を東洋的、後者の砂漠の文化を西洋的と本連載では呼ぶことにします。
4. 擬人化・自動化・知能化
「擬人化」という言葉があります。世の中にあるいろいろなものを人に見立てて、話しかけたり聴き入ったりすることです。人は人の似姿を求めます。ファンタジーや神話ではいろいろなものが人の似姿を取ります。コンピュータが出現する以前から、人は自らの知能と良く似たものを作り出したいという欲求を持っていたのです。
一方で、「自動化」という思想があります。人間が行ってきた肉体労働・知能労働を機械に代行させるという思想です。そういった欲求は当初は産業革命で「オートメーション(自動化)」という形で明確化され広められました。まずは身体の「自動化」がなされ、たくさんの機械たちが人間の代わりに力仕事を、ロボットは物理的な組み立ての仕事をするようになりました。その本質的延長として、人間の頭脳の中の活動も、同じ動力で再現できたら、というアイデアが出てきたのでしょう。「フランケンシュタイン」(メアリー・シェリー、1818年)、「R.U.R.」(ロボットの語源、カレル・チャペック、1920年)、が書かれたのも、そんな産業革命以来の「自動化」の流れの中であったと考えられます。
さらに、「知能化」という概念があります。これは現在、第三次AIブームと呼ばれている2010年代以来の潮流の中で、「ディープラーニング」と並ぶ最も大きな特徴です。「知能化」とは、ロボットやゲームキャラクターのように、一つの新しい知能をまるごと生み出す、のではなく、既にあるものに知能を付与する、というアプローチのことです。
ドアに知能を付け登録した顔の人にのみ開く、デジタルサイネージ(電子ポスター)にカメラを付け前に立った人物を認識して広告を変える、自動車に知能をつけて自動運転をさせる、家電に知能をつけて入れたものを判定して自動的に食料や調理をアレンジする、などの事例が、これに該当します。このように環境に「知能」的なプログラムを付加することで、現実を変革していくというのが「知能化」です。
人工知能はこの「擬人化・自動化・知能化」の三つを内包しており、「エージェント化、オートメーション、インテリジェンス化(スマート化)」と呼ばれます。それぞれの背景には、人間の人工知能への錯綜した欲求が隠れています。