今月から、北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる新連載「中国オタク文化史研究」がスタートします。
現在の中国では、日本産のコンテンツに影響を受けたアニメ、コミック、ゲーム等のオタク文化が「ACG」ないし「動漫」と総称され隆盛を遂げていますが、その発展を社会・文化的な背景とともに探っていく、本邦初の通史的試みです。
初回は、1980年代、鄧小平の改革開放の時代に上陸したTVアニメ『鉄腕アトム』がもたらしたショックを紐解いていきます。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究
第1回 「アトム旋風」と改革開放の時代
1. はじめに
ACGという言葉をご存知でしょうか? Anime、Comic、Gameという言葉の頭文字をつなげたもので、アニメ、漫画、ゲーム等のコンテンツを指す総称です。中国では、最初は日本のアニメ、マンガ、ゲーム等のコンテンツを指す言葉として普及し、2020年現在は、日本コンテンツに近い絵柄、ストーリー、キャラクター性、設定の中国原作作品も含めた、オタク文化全般を指す言葉となりました。
他にも、動漫という言葉もよく使われます。これは動画、漫画の頭文字をつなげたもので、狭義ではアニメと漫画、広義ではゲームや二次創作作品等も含めたコンテンツ文化全般を指す言葉です。
中国の日本コンテンツ受容の歴史は、日本では「海賊版」という言葉に覆われて今日まで蔑ろにされてきました。2008年の北京オリンピック開催前後あたりから中国の海賊版VCD、DVD、ネットサイト等が日本で話題にのぼるようになりましたが、ではなぜ、反日教育を受けているはずの中国で「海賊版」である日本コンテンツ、価値観が違うはずの日本アニメやドラマ、漫画がこれほど大量に消費されてきたのでしょうか。
この連載では、北京大学副教授の古市雅子と10年間中国のゲーム・アニメ業界で仕事をしてきた峰岸宏行が協力し、日本のコンテンツ、つまり日本のACG/動漫が中国人にどのように受け入れられていったのか、そして中国社会にどのような影響を与えたか、という受容の歴史やその文化的背景等について、明らかにしていきたいと思います。
もちろん、中国のコンテンツ文化は日本からの影響以前に、「中国アニメの祖」と呼ばれる萬氏兄弟が制作した最初の作品『大鬧画室』(1926年)を皮切りに、日本でも上映されたアジア初の長編アニメーション映画である『鉄扇公主』(1941年)など、戦前からの脈々とした歴史がありますが(この時代については、今後の連載で改めて振り返っていく予定です)、戦後の政治的動乱によって、長らく冬の時代を余儀なくされていました。
ですので、まずはようやく改革開放が始まる1980年代からの時代に焦点を当て、日本の読者になじみの深いアニメや漫画、その他の付随するコンテンツについて具体的な作品を入り口に、様々なプラットフォームの発展や政策の変遷を絡めながら、紹介していきましょう。
2. 改革開放の大号令とともに
1976年、10年続いた文化大革命が毛沢東の死によりようやく終わりを迎え、中国は鄧小平の号令のもと、経済発展を最重要課題とする改革開放の時代に突入します。「窓を開けたら、ハエや蚊が入ってくるかもしれない。でもその後には新鮮な空気が入ってくる」。それまで他国との交流をほぼ断っていた中国はその門戸を開放し、階級闘争によって断絶された10年を取り戻そうと、「豊かになれる人から先に豊かになろう」という号令がかけられました。
鄧小平は、指導者として復帰した翌年、1978年に中国の国家指導者として初めて日本を訪問し、記者会見の席上でこう言いました。「科学技術や企業経営の面においては、我々は先進国、特に日本に学ばなくてはならない」。経済発展のモデルとして日本に学ぼうという、「日本ブーム」の始まりです。
鄧小平が「日本に学ぼう」といった理由は3つあります。市場経済体制でありながら経済計画を策定、実施していたこと、戦前の対外的に封鎖された経済体制から戦後、対外開放型経済へと移行していること、経済が立ち遅れた状態から短期間で先進国に追いついた東洋の国家であること。その全てが、中国の状況と重なっていたため、いわば政府の主導による「日本ブーム」が起こったのです。
鄧小平は記者団を引き連れて訪日し、新日鉄や日産、パナソニックなどの施設を訪れ、その様子を国内に報道させました。鄧小平の姿越しに写る日本を目にした人々は、その豊かな様子に驚き目を見張りました。鄧小平が訪日した翌月、早速日本を視察に訪れた中央弁公庁副主任、政府系シンクタンク中国社会科学院の副院長、鄧力群率いる視察団が、『访日归来的思索』という報告書を出しています。「一般的な労働者の家庭でも、40-50平米の家に住んでいる。全国平均で2世帯に一台自家用車を持ち、95%以上の世帯にテレビ、冷蔵庫、洗濯機、レコード、掃除機、炊飯器などの耐用性消耗品がある」、「農民も含めて、みなウールの服を着ている。ファッションは様々で、月曜日に街に出てみると、町中で見かけた女性の中で同じ服を着ている人はいない。案内してくれる女性スタッフも毎日違う服を着ている」、「東京の百貨店はおよそ50数万種の商品を扱っている。我々の王府井百貨公司は2万2千種である」[1]。全国民がみな同じグレーか紺の人民服を着て、仕事も学校も二の次で階級闘争に明け暮れていた中国の人々にとって、敗戦国であるはずの日本人が色とりどりの服を着て、白物家電に囲まれ、自家用車に乗る豊かな生活を送っていることはよほどのショックだったに違いありません。
鄧小平訪日のニュースで、特に強烈な印象を与えたのは新幹線です。東海道新幹線に乗った鄧小平が、「とても早い。追いかけられて走っているようだ。今の我々にふさわしい」と言ったのは有名な話ですが、車窓から伝わる速度、清潔な車内、そしてこの名言と共に、新幹線は日本、そして最先端の科学技術の象徴となりました。その後、中国では高層ビルの名前や、学習雑誌の名前など、いたるところに「新幹線」という言葉が使われ、日本を表す象徴として、富士山、桜、芸者とともに新幹線が使用されました。
こうしたいわば「日本ショック」ともいうべき衝撃を与えた鄧小平の訪日ですが、中国ではまだ一般家庭にテレビがない時代でした。そのような状況のなか、市井の人々にまで熱狂を巻き起こし、「日本ブーム」を決定づけたのは、1979年に輸入、公開された高倉健主演の映画、『君よ憤怒の河を渉れ』でした。
日本国内ではそこまで目立つことのなかった作品ですが、文革の10年間、限られた社会主義国の映画しか公開されてこなかった中国で、この映画は公開とともに一大ブームを巻き起こしました。殺人、強姦犯に仕立て上げられた検察官の高倉健が、迫る警察から逃れつつ寡黙に自ら行動して真犯人を見つけ出すサスペンスです。中国の人々はまずスクリーンに写る東京の高層ビル、最先端のファッション、電子音楽のBGM、主人公を救うため新宿のアスファルトを馬で駆け抜ける中野良子の派手なアクションに熱狂しました。高倉健が着用したトレンチコートとサングラスが大流行し、女性は中野良子のような帽子やブラウスを手に入れるために必死になったのです。「ラヤラ」のスキャットで歌われる主題歌が大ヒットし、みな高倉健になりきって、真犯人を追い詰める主人公の台詞を模倣し、映画を題材にした漫才まで人気を博しました。
中国の人々の心を掴んだのは表面的な豊かさだけではありません。無実の罪を着せられ、迫りくる追手や待ち受ける罠に寡黙に耐えながら、最後には自らの手で真犯人を追い詰め、自由を手に入れる高倉健の姿は人々に衝撃を与え、文革で抑圧されていた10億人の鬱憤や憤懣、豊かさへの渇望が、この作品によって開放されたのです。かくして、高倉健は「男子漢」(男のなかの男)の象徴となり、時代のアイコンとなりました。
「高倉健は私のアイドルだ。当時、日本映画『君よ憤怒の河を渉れ』が中国で公開されると、街の隅々に至るまで『高倉健を求めよ、本当の男を求めよ』というブームが巻き起こった。この映画を見なければ、他人と話ができないようなものだった。彼は私に映画の役と同じように、全く新しいイメージをもたらした。それまで流行っていた『やさ男』や『なよなよした二枚目』とは対象的に、冷厳、隠忍、責任感などのキーワードで人々の心を揺さぶった」[2]
このような時代に、『鉄腕アトム』は中国初のTVアニメとして放映されます。
まだ放送開始まもない中国の国営放送、中央電視台(CCTV)にて、『鉄腕アトム』第一作である1963年のモノクロ作品が放送されると、全国の子供たちの間で一大ブームとなったのです。
3. 『鉄腕アトム』中国へ
1980年12月、『鉄臂阿童木』(鉄腕アトム)がSEIKOの腕時計CMと共に中国のCCTVに翻訳吹き替えで登場しました。1963年に日本初のテレビアニメとして放送された「鉄腕アトム」は、漫画『アトム大使』の中で「宇宙人」と「地球人」との間を取り持った平和の使者だったように、「初のテレビアニメ」、「初のCM付テレビアニメ」として中国で放送され、アトムにとっては41ヶ国目の「海外奉仕」となりました。
アトムの父、手塚治虫は鉄腕アトムが中国で放送されて間もない1980年12月26日に朝日新聞夕刊で掲載された記事「鉄腕アトム中国へ飛ぶ」で以下のように記しています。
「中国にアトムを輸出しようという計画を立てたのはアニメ製作などで協力していた三京企画の木村一郎で、たまたま中国系の代理店で『向陽社』という美術関係の紹介をしている会社が映像分野を扱いたいという意向と企画がドッキングした。」
向陽社の社員が書いた本によると、1979年、鄧小平訪日の翌月、まさに先ほど引用した報告書を書いた訪日視察団の一員として来日したCCTVの副局長、阮若琳が、門戸を開いた中国とのビジネスチャンスを模索していた向陽社の社長、華僑の韓慶愈と会ったなかで、企業が番組の放映権を買い、それをCCTVに贈与する代わりにCMを無償で放送するというビジネスモデルが提案されたといいます。この方法なら、まだ海外の作品を購入する力などまったくないCCTVであっても、レベルの高い日本の番組を放送することができます。こうして三京企画と向陽社の協力により放送が決まりましたが、海外の子供向けアニメを中国で初めて放送するのです。台本の翻訳、吹き替えと全て手探りで進めていくしかありません。経験者がほとんどいない吹き替えという仕事は、最終的に北京広播学院アナウンサー学部1977年度入学の学生が、卒業実習として担当することになりました。しかしそれでも人手が足りず、お茶の水博士の役で参加したのは1977年度生のクラス担任でした。ところが主人公のアトムは、どんなに試しても相応しい声が見つからず、最後の手段として、アトムの担当ディレクター、児童芸術劇院出身の李真恵自身が念のため試したところ最も相応しいということになり、ディレクターが演じることになりました。こうして、「具有十万馬力、七大神力的少年機器人」(十万馬力と七つの超能力を有したロボット少年)というキャッチフレーズで「アトム」はなんとか、中国でのテレビ放映にこぎつけたのです。
この経緯は、後に日本の関係者から、「日本のアニメが安価で海外放映権を販売される前例となり、その後長く相応しい価格で販売することができなかった」と批判されることとなりましたが、当時の中国には日本のテレビ番組放映権を取得できる力などなく、新しい時代を迎えた中国で、初のTVアニメシリーズとして日本のアニメが放映されたことが当時の中国人民、そして日中関係に与えた影響は計り知れません。