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国境を超えた虚擬偶像(バーチャルアイドル)、リスクと変遷(後編・最終回)|古市雅子・峰岸宏行
2022-06-06 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第13回(後編)。「虚擬偶像(バーチャルアイドル)」として中国に大旋風を巻き起こしたキズナアイ。ホロライブやにじさんじといった後続のVtuberたちも人気を博すなか、活動規模がグローバル化したゆえの問題にも直面しました。「虚擬偶像」の行く末を、「中国オタク文化」の現在地として本連載の最終章で解説します。(前編はこちら)
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第13回 国境を超えた虚擬偶像(バーチャルアイドル)、リスクと変遷(後編)
キズナアイの分裂、そして世代交代
快進撃を続けていたキズナアイとhololiveがその後も中国VTuber界隈をけん引していくと思われましたが、キズナアイが2019年、突然4人に分裂します。
VTuberとは、キャラクターのガワ(外側のキャラクターの部分)と魂(演じている演者)で構成されています。これは初音ミクや洛天依とは大きく違う部分です。VTuberはVocaloidと違い、それぞれ人格を持ち合わせています。
キズナアイはガワを変えず、3つの新しい魂を入れて、4人に分裂しました。これに対してファンは当初、戸惑いを隠せませんでしたが、少しずつ受け入れようとした矢先、loveちゃん(2号)とあいぴー(3号)がオリジナルに対して貶めるような発言や配信を行い、同じタイミングでオリジナルの配信が減少し、さらにはActiv8の役員だった副島雄一氏が、同棲しているらしい中国人女性をキズナアイ4号としてデビューさせるためにキズナアイの分裂を主導した、という根も葉もない噂がまことしやかに流布し、ファンは不満を爆発させました。
ファンが爆発したこの一件によって、中国でもキズナアイのbilibiliアカウントや微博アカウントのフォローを外す動きが始まります。最終的には10万人以上がフォローを解除する事態に発展しました。
そこに登場したのがhololiveやにじさんじの搬運アカウント、そして本人のオフィシャルアカウントで、hololiveやにじさんじのクオリティの高さ、そしてキャラクターの豊富さに魅了され、キズナアイから離脱し、行き場をなくしたファンの受け皿となりました。
2021年7月1日、キズナアイはYouTubeの登録者数をhololive Englishのがうる・ぐらに抜かれ、2022年2月26日の「キズナアイ The Last Live “hello,world 2022”」をもって無期限活動休止となりました。時代の移り変わりを感じさせる出来事でしたが、大炎上の一因となった中国語を話す4号はbilibiliをプラットフォームに中国で活動を続け、炎上しながらも新たなファンを獲得し、アカウント登録者数は85万に届こうとしています。
国境を超えたがゆえに直面したチャイナ・リスク
2019年、順調にフォロワーを増やしていったhololiveですが、突如として大事件が勃発します。桐生ココと赤井はあとの「台湾発言」問題です。
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国境を超えた虚擬偶像(バーチャルアイドル)、リスクと変遷(前編)|古市雅子・峰岸宏行
2022-05-31 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第13回(前編)。2017年、中国政府によって厳しいコンテンツ規制が施行される少し前、日本で誕生したバーチャルYouTuberキズナアイが中国にも登場しました。大旋風を巻き起こしたアイちゃんは、中国エンタメ業界における一筋の希望となる「虚擬偶像(バーチャルアイドル)」という存在になりました。「虚擬偶像」はどこから来てどこへ行くのか、中国における巨大市場を解説します。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第13回 国境を超えた虚擬偶像(バーチャルアイドル)、リスクと変遷(前編)
2016年12月にキズナアイが「バーチャルYouTuber」(以下VTuber)を自称して以来、日本勢にはキズナアイ、輝夜月、ミライアカリ、バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん、電脳少女シロのバーチャルYouTuber四天王から始まり、hololive(カバー株式会社)、にじさんじ(ANYCOLOR株式会社)、ぶいすぽっ!(株式会社バーチャルエンターテイメント)、774inc(774株式会社)、ゲーム部プロジェクト(Unlimited、2021年解散)、個人勢と呼ばれる企業に所属しない天開司やイラストレーター兼業のしぐれうい、麻雀専門の千羽黒乃、自分でVTuber事務所を立ち上げた犬山たまき、ゲーム動画YouTuberながらもVtuberとしても活動しているガッチマンVやヒカキン、hololive、にじさんじの外国語配信メンバー、holollive English、ID、KRやNIJISANJI EN、VirtuaRealなどが活躍していますが、Gawr Gura(がうる・ぐら)がトップの390万人、Mori Calliope(森カリオペ)は200万人という登録者数を誇り、コメントなどを見ると日本国内だけではなく、海外でも驚くほど人気があるのがわかります。さらにプロジェクトメロディ、ヴェイベ、ニャンナーズ等、海外の個人VTuberがグループ化したV-Shojoや台湾の杏仁ミル、フィンランドのLumi等、筆者が日常的に見ているだけでもこれだけ多くのVTuberが世界中で活躍しています。
▲2018年12月31日に開催された年越しVR歌合戦イベント「Count0(カウントゼロ)」。キズナアイ、樋口楓(にじさんじ)、おめがシスターズ、東雲めぐ、ユニティちゃん、響木アオ、周防パトラなど現在でも活躍しているVTuberが多数参加している。
2020年には日本経済新聞で「Vチューバ―、雑談で1億円 投げ銭世界トップ3独占」という記事が報道され、2016年から考えると社会の認知、理解が格段に進んでいます。 中国でも動画プラットフォーム「bilibili」と「にじさんじ」が共同で運営するVirtuaRealや中国人個人勢VTuber、日本人個人勢VTuber、中国Bytedanceが運営するVTuberグループ・A-SOULが大きな人気を得ています。2021年以降、政府のエンタメ規制によってアイドルやアーティストの活動が制限され始めている今、次のエンタメ産業の要として、VTuberに代表される「虚擬偶像」(バーチャルアイドル)が注目されています。
本章では、これまでの連載で紹介してきた日本アニメ、ゲームコンテンツ消費史の最終章として、最新のオタク消費コンテンツである、VTuberが中国でどうして、どのように受容されているのか見ていきたいと思います。
みっくみくにされた中国人オタク
VTuberがすんなり中国人に受け入れられた要因には、Vocaloid「初音ミク」の存在、日本コンテンツへのリテラシー、コンテンツに接することができるプラットフォームの存在の3つがあります。
初音ミクは2007年8月31日、札幌に本社を置くクリプトン・フューチャー・メディア株式会社から発売された音声合成・デスクトップミュージック用のボーカル音源に付帯したキャラクターです。
周知の通り、初音ミクは音楽のみならず、キャラクターに対する消費の概念を大きく変えました。ITmediaに掲載された「初音ミク5周年」を記念した連載では以下のように書かれています。
草の根ミュージシャンたちが自作曲にミクで歌を付け、「ニコニコ動画」などに投稿。身近で日常的な曲たちが、たくさんの共感を呼んだ。曲にイラストや動画を付ける人々も現れ、イラストに合わせた新しい曲が作られる。視聴者の応援がクリエイターを刺激し、新たな作品が生まれる。無名のクリエイターによる創作のサイクルが、加速していった[1]。
中国のプラットフォームACFun、bilibiliにも、多くのクリエイターの楽曲が、連載第9回にご紹介した「搬運工」によってニコニコ動画から転載され、その影響から中国のオタク界隈でも初音ミクが広く認知されました。もっとも人気があった2010年代前半には、中国の音楽ランキング上位に必ずミクの歌があり、10代から20代前半を中心に圧倒的支持を受けていました。2015年に上海で行われた中国初のライブでは、オンライン視聴者数が150万人、弾幕の数は70万を突破、すでに熱は冷めたと言われるものの、2020年、オンラインモール「タオバオ」にオフィシャルショップが開店した際には、いいねの数や売上、閲覧数などから総合的に算出するアイドルオフィシャルショップランキングにおいて、わずか出店半日で中国のトップアイドルをダブルスコアで抑え、ダントツの結果となりました[2]。中国のオタク文化を代表する動画プラットフォーム、bilibiliも、そもそものスタートはmiku Fanというミクのファンサイトだったということも、第9回に書いたとおりです。
ミクの爆発的な人気を受け、2012年7月12日に上海禾念信息科技有限公司から中国人声優、山新の声をライブラリー化したVocaloid洛天依(ルオ・ティエンイー)が発売され、たちまち中国で人気のVocaloidとなりました[3]。
洛天依は、日本コンテンツを愛するあまり日本語を理解するコアなオタクから、より広い範囲のオタク、そして一部の一般人にまで受け入れられるようになり、ケンタッキー・フライド・チキンやピザハット、ネスレ、浦発銀行、ネット映画等とコラボ、中国SNS微博では2015年にフォロワー数でミクを超えました。
2018年にはbilibiliが香港にある上海禾念信息科技有限公司の親会社、香港澤立仕の持ち株比率を高め、その後「虚擬偶像」としてbilibiliの主催するイベントに主役として登場しています。
洛天依は「吃貨」、つまり食いしん坊として認知されています。これはファミリーマートの入店時のジングルをアレンジした楽曲『洛天依投食歌』が元ネタです。2012年にネットで火がついたこの曲は、中国のスーパーや売店、PCショップ、飲食店で使用され、洛天依を知らない人にも知名度が高まり、その後の洛天依の発展に大きく寄与しました。
▲bilibiliなどに投稿された『洛天依投食歌』の映像。YouTubeでも見ることができる。
「吃貨」、食いしん坊は中国では非常に受ける要素で、UUUM所属のフードファイターYouTuber、木下ゆうかは中国SNS微博に259万人のフォロワーを持ち、高い人気があります。
またオーディオライブラリに声を提供した山新がもともと人気だったことも、洛天依の人気に作用しました。山新、本名王宥霽(おう・ゆせい)は1989年生まれ、北斗企鹅工作室(ホクトペンギンスタジオ)に所属する声優で、もともとインターネット上で、日本アニメのファンアフレコを行っていた人です。彼女の作品でもっとも有名なのが、多くのネットスラングを輩出した『ギャグマンガ日和』のファンアフレコです。また『ヒカルの碁』(アニメ2001年・テレビ東京)、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ SAGA』(1996年)、『ケロロ軍曹』(アニメ2004年・テレビ東京)などの中国語アフレコ、そして中国のオリジナルアニメにも多数出演していました。とは言え、まだまだ一部のネットコミュニティーでしか知られていなかった彼女が、洛天依のボイスに採用されたことは大きな驚きでした。
もともと、中国では日本アニメの歌姫キャラに高い人気がありました。『マクロスフロンティア』(2008年・ビックウエスト)のシェリル・ノームやランカ・リー、『ギルティクラウン』(2011年・フジテレビ)の楪いのりといったキャラ、そしてニコニコ動画の歌い手やbilibiliの歌ってみた界隈が、個人の人気だけではなく同人文化として受け入れられ、初音ミク、洛天依は中国人の理想の歌姫となったのです。
2010年代後半、みっくみく化した中国オタクファンがそろそろ新しいコンテンツを求め始めた頃、登場したのがVTuber、キズナアイでした。
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中華圏ゲームの発展史:2010年代中盤〜2020年代編(後編)|古市雅子・峰岸宏行
2022-04-15 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第12回(後編)。ゲームを中心に中国のオタクコンテンツ市場が成熟していく一方、徐々に強まっていくコンテンツ規制の圧力。2018年のゲーム制作に対する新規審査の停止が業界に大きな打撃をもたらす中で、2020年からのコロナ禍がさらなる追い討ちをかけていきます。前編はこちら。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第12回 中華圏ゲームの発展史:2010年代中盤〜2020年代編(後編)
『西遊記之大聖帰来』の成功により、アニメは大人でも楽しめるのかもしれない、という認識をもつ人が少しずつ現れるようになった気がします。
そして同2015年には、今日に至るまでセールスランキング1位を守り続けるロングランヒット、『王者栄耀』をテンセントがリリース。日本で現在も多くのユーザーを抱える『Fate/Grand Order』(アニプレックス 2015年)をbilibili動画が代理店となり、リリースします。bilibili動画は長年継続的な赤字で苦しんでいましたが、『FGO』の中国代理運営権を取得したことで大きく躍進する足掛かりになったと、決済報告書などから読み解くことができます。
2017年になると、ネットイースが本格幻想RPG『陰陽師』を発表。日本の平安時代を題材に、全編日本語、能登麻美子、諏訪彩花、中井和哉、鈴村健一、水樹奈々、桑島法子、福山潤、斎藤千和という豪華な声優陣、リッチな映像という、中国産なのか日本産なのかまったくわからないこの作品は人々の度肝を抜きました。
『陰陽師』と同年、『アズールレーン』が登場します。この作品は上海蛮啾網絡科技、厦門勇仕網絡技術の2社が協力し、中国のリリースをbilibiliが、日本でのリリースを、今や日本で圧倒的な知名度を持つローカライズ専門の企業、yostarが担当し、日本人が中国ゲームのクオリティに対する偏見を見直すきっかけとなりました。
▲2018年にJR山手線で1周年ラッピング広告を行ったアズールレーン(筆者撮影)
文化部のアニメ制限、という数メートル巨人級の怪物は来ましたが、中国産ゲーム、アニメが大きく展開し、乗り越えたように見えました。しかし状況は2018年に一変します。
ゲーム審査停止とさらなるコンテンツ規制
2018年3月、中国のゲーム業界に今度は50メートル級の怪物が立ちはだかります。中国ゲームの新規審査停止です。3月29日、新聞出版広電総局が《遊戯申報審批重要事項通知》を発布し、新規ゲーム審査を停止するのですが、なんの予告もなく、また再開時期についても言及されませんでした。
ゲーム業界はコンテンツ市場で最も重要な稼ぎ頭で、製薬、不動産など多くの企業から多額の投資を受けており、またゲーム会社自身も映画やドラマに投資をする、中国エンタメ産業のいわば中心的存在で、ゲーム企業が稼げないのは、業界全体にとって大変大きな損失です。
テンセント、ネットイースといった、中国のトッププレイヤーは、様々なゲームを同時進行で制作、申請していたため、3月時点で新たに出版番号を申請・取得できなくとも、審査停止前に申請・取得していた出版番号を用いてゲームをリリースしましたが、中小規模のゲーム会社やパブリッシャーは難しい状況に追い込まれます。
中国のゲーム市場は、テンセントとテンセント以外、と言われるように、シェアの50%前後をテンセントが、25%をネットイースが、残りの25%をその他多くのゲーム会社が占める、非常に特殊な構成をしています。
当初はほとんどの企業が数カ月で審査が再開されると高をくくっていましたが、状況が改善されないまま約半年がすぎ、迎えた8月のChinaJoy以降から、「出海」(海外への進出)を謳い始めます。それまでは海外より国内市場の方が利益が大きかったのですが、国内でゲームをリリースできないため、海外を主戦場にせざるを得ない状況に迫られたのです。
幸いにも、欧米に向け『アズールレーン』を成功させたyostarや、それより早い2015年に日本へ進出したmiHoyoのように、日本向けゲーム市場を開拓していた上海莉莉絲網絡科技やFunplus等の企業が存在していたことが功を奏し、海外展開は早い段階で実行に移されていきます。
海外の業界がこれらの異変に気付いたのは、2018年8月、日本のオンラインゲーム『モンスターハンター・ワールド』の原因不明の配信停止がきっかけです。すでに世界中でリリースされていて、表現上特に大きな問題もなさそうな『モンスターハンター・ワールド』が中国で突然配信停止されたのはなぜか、どうやら中国でゲームの新規リリースが止まっているようだ、といった形で海外で報道されるようになったのです。
▲2018年上海Chinajoyにて参考出展された『モンスターハンター・ワールド』
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中華圏ゲームの発展史:2010年代中盤〜2020年代編(前編)|古市雅子・峰岸宏行
2022-04-11 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第12回(前編)。2010年代中盤、日本のコンテンツを中心に消費していた「オタク」たちがゲーム市場に組み込まれ、中国産日本アニメ風ゲームと日本アニメの同時配信が行われるようになったのもつかの間、中国政府によって厳しいコンテンツ規制が敢行されます。それにより市場環境と消費者がどのように変わっていったのかを見ていきましょう。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第12回 中華圏ゲームの発展史:2010年代中盤〜2020年代編(前編)
盛り上がりを見せるゲーム市場
前回述べたように、2012年に動画配信サイト、愛奇芸が『Fate/zero』(TYPE-MOON/アニプレックス)を皮切りに日本アニメを日中同時配信し、億単位の再生数を記録したことで、中国にいるアニメファンの存在が発見され、「市場」として認識されました。これが契機となり、2014年『幻想神域』が日本声優を起用した最初の中国産ゲームとしてヒットし、その後の多くの中国ゲーム作品に影響します。
2014年には『幻想神域』以外にも多くのゲームがリリースされます。上海莉莉絲網絡科技のロングランヒット作『ソウルクラッシュ』(2014年・中題:刀塔傳奇/小冰冰傳奇)から始まり、中国版Twitterとも言えるweibo(新浪微博)が2014年に開催した「ゲームランキング(遊戯排行榜)」には最優秀ネットゲーム賞に『剣網参』(西山居 2009年)、『夢幻西遊』(ネットイース 2001年)や海外の『World of Warcraft』(Blizzard Entertainment 2004年)、『ファイナルファンタジーXIV』(スクウェア・エニックス 2010年)、『モンスターハンターオンライン』(カプコン 2013年)などが選出され、新ゲーム部門に『幻想神域』や、日本原作、韓国制作のゲーム『魔界村オンライン』(Seed9 Games・カプコン 2010年)、期待賞として『ドラゴンクエストX』(スクウェア・エニックス 2012年)、『World of Warship』(Wargaming 2015年)、『ディアブロIII』(Blizzard Entertainment 2012年)、『Overwatch』(Blizzard Entertainment 2016年)などが挙がっています。このほかにも多くの中国国産ゲームがランクインしており、国境を感じさせません。
また日本の業界が中国最大のゲームショー「Chinajoy」に注目し始めたのもこのころです。
▲2017年7月に開催されたChinajoyのテンセントブース。例年とは打って変わってコンパニオンを配置せず、e-sportsに重点を置くようになった。
Chinajoyは正式名「中国国際数碼互動娯楽展覧会」といい、国家出版総署と上海市人民政府が主催し、全国の映像デジタルメディア運営事業者が集まって結成された「中国音像与数字出版協会」が共催するイベントで、2004年に開かれた第1回は北京で、それ以降は上海新国際博覧中心で開催しています。連載第7回で、中国のコスプレ甲子園的な役割があるとご紹介しました。しかしそれだけではなく、本来の目的であるゲームショーの部分に関しても、中国では唯一、かつトップレベルのイベントです。
第7回で紹介したCoser(中国のコスプレイヤーはCoserと呼びます)がゲームなどのビジネスに大きく絡み始めたのも、まさにこの2014年前後です。ゲームの宣伝イラストやポスターなどをCoserが飾りました。
この頃、新作ゲームはひと月に60タイトル以上リリースされ、ネットカフェは連日盛況。オタクはアニメの日中同時配信を見て、中国各地で増え始めた同人イベントに参加する。Coserでない一般の消費者もECサイト「タオバオ」の発展により容易にコスプレ衣装を入手できるようになり、コスプレのハードルが下がります。カメラマンが増え、SNSでの投稿が増えました。間口が広がったことにより、より多くの人がCoserとなり、カメラマンとなります。そしてそのイベントに多くの人が参加することで、ゲーム会社がイベント出展や広告に費用対効果を期待できるようになり、より多くのゲームが出展し、コンパニオンとしてCoserが参加する、といった全体的に良好な循環が生まれていました。
ファンの裾野がどんどん広がり、イベントも規模が大きくなって、コンテンツビジネス全体が少しずつ熱気を帯びていきます。
当時中国にいた筆者には、ゲームをはじめとする中国のコンテンツビジネスがその後も順調に発展を続けていくように見えました。
コンテンツ規制の始まり
2015年3月、その日人類は思い出した。支配されていた恐怖を……鳥籠の中に囚われていた屈辱を……。というのは大げさですが、数メートル級のバケモノといえる政策が初めて中国の消費者の前に現れます。
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中華圏ゲームの発展史:2000〜2010年代前半編(後編)|古市雅子・峰岸宏行
2022-02-25 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第11回(後編)。2010年代、日本風アニメ系MMORPGの誕生を皮切りに中国ゲーム市場が爆発的に拡大するきっかけを分析します。ネット環境や輸入制度の整備などが進んだ結果、巨大な消費者層として認知された「オタク」たちがゲーム市場に組み込まれていく過程を辿っていきます。(前編こちら)
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第11回 中華圏ゲームの発展史:2000〜2010年代前半編(後編)
オタクがギーク主力の国産ゲームビジネスに組み込まれるまで
オタクは当初、中国のゲーム市場ではほとんど注目されないユーザー層でした。あくまで、ネットカフェで遊ぶギークたちが主力であり、より課金もしていました。また、オタク層は国産ゲームにはあまり興味がなく、あったとしても、『剣網参』のようなBL色の強い、仲間がみんな遊んでいる作品にしか手を出さなかったので、二つの層が互いに交わることはほとんどありませんでした。
オタク層は数字に表れることは少なく、イベントに人がたくさん来ようが、あるいは開発会社にオタクが数人いようが、あくまでも小規模なサブカルのファン、という認識でした。 2013年は中国においてゲーム産業のシンギュラリティが起こった年と言えます。今、日本人が親しんでいる中国ゲームが登場するために必要な要素は、ほとんど2013年に起こります。
ビジネスの大きな流れは、市場、企業、政策に影響されます。 2000年インターネットの登場以降、ゲーム業界を含めた中国の各産業は非常に速いスピードで展開、変化しました。ゲーム業界がオタク層に目を向け始めた背景として、当時のゲーム市場がクライアントゲーム、ブラウザゲーム、携帯アプリゲームの3種類に分かれていたことを知る必要があります。
PCで遊ぶゲームには、インターネットの接続を必要とするものとしないものの2つがありました。そして通信プレイも、身近な範囲で接続するローカル通信と、何千キロも離れた人と通信できるインターネット通信の2つがあります。 1990年代から発展した中国のゲーム界隈では、インターネットが普及する2000年前までは、ローカル通信が主流でした。例えば『Counter Strike』や『Age of Empire』など、ゲーム機を持ち寄り、比較的近い距離の仲間とプレイする、という形です。これはゲームソフトやデータなどを、PCにインストール、保存してプレイします。別のPCでは保存されたデータは使用できませんが、ローカル通信で完結していました。
これが発展したのが、クライアントゲームと呼ばれるものです。PCにクライアントというゲーム起動ソフトをインストールし、ゲーム会社が運営するゲームサーバーに接続してゲームをプレイする、という形式で、それによって、多人数が同時に同じサーバーに接続し、同じ場所でプレイすることを可能にしました。これがMMORPG、大規模多人数同時参加型オンラインRPGと言われるものです。こちらはPCに一定のゲームデータを保存しますが、ゲームの進捗や所有状況をゲーム会社所有のサーバーに保存するため、友人のPCでも、自分のアカウントでログインさえすれば、自分のゲーム進捗を呼び出すことが可能です。
この、「サーバーにゲームの進捗が保存」されることによって、中国のゲーム市場は大きく変化しました。海賊版ゲームの販売を大きく抑制することに成功し、中国のゲーム市場のマネタイズ化に大きく寄与したのです。 それまで、CD、DVD、BDのような物理的なメディアでソフトとして販売されているゲームは、一度データさえ手に入れば、遊ぶことができました。しかし、MMORPGでは、ソフトを通してサーバーに接続しなければプレイすることができないため、正式なルートでゲームを購入するか、あるいはサブスクリプションしなければ、サーバーにアクセスすることができません。何らかの方法でデータメディアを入手するだけではプレイできず、きちんと運営するゲーム会社に正規にお金を支払わなければならないのです。
▲夢幻西遊のログイン画面。IDとパスワードを入力してゲーム会社が運営するゲームサーバーにログインすることで始めてゲームをプレイできるため、海賊版問題が解決された。
これは、単体ゲームをいくら作っても海賊版で販売され、収益化に悩む中華圏のゲーム会社に福音をもたらしました。台湾や大陸で制作された質の高いゲーム作品について安心してビジネスを構築できるようになったのは、サーバーとの連携が必要で、ソフトを複製するだけではプレイできないMMORPGのようなゲームが登場してからといえるかもしれません。 2000年以降、インターネットの普及とともに、持続的にビジネスになるクライアントゲームを多く作るようになり、CD媒体を購入して一人あるいはローカル通信で多人数でプレイするスタイルから、MMORPGが主流となっていきました。
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中華圏ゲームの発展史:2000〜2010年代前半編(前編)|古市雅子・峰岸宏行
2022-02-24 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第11回(前編)。ゼロ年代から2010年代前半の中国における、ゲーム産業の発展史を辿っていきます。当初は一部のコアユーザーによる消費に限られていた国内ゲーム産業でしたが、ネットカフェの普及とともに登場した、FPSやMMORPGに興じる「中国ギーク」たちがゲーム産業大衆化のきっかけを作ります。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第11回 中華圏ゲームの発展史:2000〜2010年代前半編(前編)
これまで10回にわたって、中国では日本のアニメ・コミック・ゲームを、テレビ・雑誌・インターネットなどのメディアや、個人・サークル・字幕組といった人々のムーブメントがリレーして繋げてきた歴史、そして1980年代から90年代の中国のゲーム業界の勃興の流れについて、触れてきました。 前章で述べたように、1993年に入ってきたコスプレや、1995年以降のネット掲示板とゲームセンター、VCDを通して日本のゲームを享受してきた中で、初めてオリジナル作品を発表した96年、97年は大陸にとって重要な転換期だったと言えるかもしれません。 しかし『血獅』の失敗により、自国のゲーム制作に対して大きく失望し、ユーザーは日本コンテンツに傾倒する人々、「オタク」層と、ネットカフェが生まれたことによって『Age of Empires』(1997年・Ensemble Studios/Microsoft)や『Half-Life』(1998年・Sierra Studio)、『カウンターストライク』(2000年・Valve Software)等をプレイする「ネットカフェ民」の二極化していきました。 その後の中国のゲーム市場はまずネットカフェ民が市場のベースとなり、その後いくつかの作品でオタクがゲーム市場に影響を与える、という構図になっていきます。
二極化するゲームユーザー
1990年代は、受動的な消費が主流でした。第5回「「鏰児厅(ゲーセン)」から「網吧(ネットカフェ)」へ〜中国ゲームコミュニティの勃興」でも紹介したように、作品に対してファンアートを描いたり、コスプレ写真を撮ったり、あるいは輸入されたゲーム筐体で遊んだりというのは、ほんの一部の人たちの動きでしかありませんでした。 実際にファンの動きが活発化するのは1999年中国がインターネット元年を迎え、フォーラムが誕生してからです。第6回「国家規制下の初期インターネットで発展した中国アニメコミュニティ」でも述べたように、一部のコアなユーザーはフォーラムの登場とともに、その層を広げ、日本の同人文化や字幕制作といった二次創作に近い行動をとるようになります。
ゲームユーザーのオタク層は日本での情報をフォーラムや雑誌から得て、アニメなどの複合コンテンツがある「ポケットモンスター」シリーズ(任天堂・1996年~)や「英雄伝説 軌跡」シリーズ(日本ファルコム・2004年~)などの携帯ゲーム機、ハードゲーム機ゲームを遊ぶようになります。こうしたオタク層は、富裕層、そして大学生などのインテリ層が中心です。当時の平均収入を考えるととても高価だったうえ、国内での正規販売を許可されていなかったゲーム機を購入する財力やルートをもつ人のみが遊べたからです。2000年以降、日本旅行、日本留学に行く人口は徐々に増えていきますが、自力で行けた富裕層と、留学の機会をつかめたインテリ層が中国での日本コンテンツ普及に影響していきます。
1999年までは、中国から日本への団体観光旅行ができませんでしたが、1999年1月から解禁。2000年9月から日本政府の中国人団体観光客、2009年には個人観光客へのビザ発給を開始しています。2000年の団体観光客へのビザ発給により、日本を直接訪問し、日本に直に触れるチャンスが少しずつ増えました。当時、日本へ行くためには年収25万元(当時のレートで約200万円)の財力証明が必要でしたが、中国統計局のデータ[1]によると、2000年の都市部の平均収入は6208元(当時のレートで5万円前後)、年収8万元にも満たない人が多く、あくまでも中国人口の中でも本当に一部の富裕層のみが日本観光できました。
2000年当時の中国人日本留学生は全国で、4.4万人[2]。全日本留学生の55%を占めていました。その後2010年には8万人までに増えており、2019年の令和元年には12万人まで増加します。中国人留学生は1990年代の日本コンテンツに触れた人も多く、中国のネットフォーラムやQQを通して、日本のアニメや漫画をリアルタイムで中国に広めていきます。 その実例の一つが、行為自体は違法ですが、中国に多くのゲーム・アニメファンを作り上げた「漢化組」や「字幕組」です。以前の章でも紹介しましたが、字幕組はもともと、日本製18禁PCゲームを中国語化し布教することを目的にしていました。 また、以前紹介した「海南出版社」のような漫画単行本、或いは「画王」「二次元狂熱」「動漫基地」「動漫販」等の情報誌、海賊版などを見てもわかるように、香港・台湾などの中国本土以外の華人の存在も重要でした。
▲2000年創刊の「遊戯同志GAME月刊」日本のゲームアニメ情報誌の海賊版。だがこれらがなければ、いま日本の作品がここまで受け入れられたかどうか定かではない。
こうした状況もあり、中国国内のオタク層にとって情報量はかなり増えましたが、情報を仕入れたとしても、実際に触れる機会はなかなかありませんでした。そこで運用されたのがBitTorrentのようなP2Pソフトウェアと、並行輸入商品を販売する実店舗、そして実店舗が販路を広めるためのECサイト、タオバオ(淘宝)などの存在です。 当時、信用社会ではない中国で、タオバオがネット上の物品売買を成立させ、プラットフォームとして成功した秘訣として、売買に際し、信頼の置ける「中立的な第三者」が契約当事者の間に入り、代金決済等取引の安全性を確保するサービス、「エスクロー」がありますが、この方式が出現したことで、2000年代のオタクのビジネス市場が大きく広がったので、まさに様々な環境、条件が重なった幸運な時期といえます。
かくして2000年代初期には日本や台湾・香港あるいはその他の地域の華人が情報を提供するフォーラムと、日本国内のアニメ・ゲーム情報誌をもとに編纂した情報誌から最新情報を入手し、BitTorrentでダウンロードしたゲームソフトや、店舗で販売される並行輸入品を消費し、プレー体験をフォーラムで討論する、という流れが確立していきました。 オタクのコンテンツ消費の循環はこうして成り立ち、現在では、タオバオで店舗を開設する日本企業も増えています。ただ、こうしたオタク層がゲームの売上や企画に直接影響するのは、もう少し後のことになります。
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中華圏ゲームの発展史:1980〜90年代編|古市雅子・峰岸宏行
2021-12-28 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第10回。中華圏におけるオタク文化全体の中でも特に大きく開花することになったゲーム分野に光を当て、その発展の軌跡を辿っていきます。今回は1980〜90年代編。大陸に先駆けて日本コンテンツの流入窓口になっていた台湾でのパソコン産業の勃興を起点に、中華圏独自の人気エンタメジャンル「武侠」ものの取り込みを経て、いよいよ大陸でもオリジナルのPCソロゲームが隆盛を始めるまでの流れを概観します。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第10回 中華圏ゲームの発展史:1980〜90年代編
これまで9回にわたって、中国では日本のアニメ・コミック・ゲームを、テレビ・雑誌・インターネットなどのメディアや、個人・サークル・字幕組といった人々のムーブメントがリレーして繋げてきた歴史を紹介してきました。そうして日本のコンテンツを受容していくなかで、自国のオタク文化が形成され、オンライン小説を中心に独自の同人文化が発展し、同時に独自のプラットフォームが発展して、いよいよ独自のコンテンツ制作が軌道に乗る兆しを見せ始めます。それは、ゲームから始まりました。
そこで今回からは、どのように現在のゲーム産業が発展していったのかをひもといていきたいと思います。具体的には、まず今回は1980年代から1990年代まで、台湾を起点とした中華圏におけるゲーム発展史、および日本のPCゲームの流入経過を分析します。そして次回以降は、様々な中国オリジナル作品が登場し、政府による様々な政策に翻弄され、最後に海外へと流れていく過程をまとめつつ、今後の中国におけるオタク層のゲーム消費について展望を述べたいと思います。
台湾ゲームの黎明期
大陸のゲームについて語るには、まず台湾に触れなければいけません。台湾と日本は1972年、国対国としての国交が断絶されて以降、民間レベルで往来があり、日本から様々な情報や産業、そして漫画や小説などコンテンツが流入しました。
台湾は中華圏においては大陸に先駆けて日本コンテンツに触れた場所であり、のちに中華圏におけるその一大拠点となっていきます。 しかしこれはあくまでも、ファンによる私的な行動であり、企業の経済行為ではありませんでした。そのため、香港、台湾には多くの非正規の日本漫画出版社や音楽出版社が生まれました。1990年代に台湾はWTOに加盟するために複数回マラケシュ協定に基づく著作権法の改定を行うと同時に、漫画出版社である東立出版社が日本の版元から正式な許諾を受けた正規版書籍の出版を開始、台湾全土の非正規業者に対する「殲滅戦」を展開したため、追い詰められた非正規業者は対岸の中国大陸に渡りました。大陸が海賊版の温床といわれますが、実際は台湾非正規業者の影響もあるのではないかと推測します。
そうした背景も踏まえつつ、1980年代から2000年までの中華圏のゲーム史を全体的に俯瞰してみると、始まりは1982年に設立された台湾の「第三波文化事業股份有限公司」に遡ることができます。これは台湾パソコン業界の雄で、パソコンやモニター等のデジタル機器を取り扱う企業、acerのメディア部門が独立した、中華圏最初のゲーム会社です。
1982年といえば、有限会社シンキングラビットから発売されたコンピュータパズルゲーム『倉庫番』が登場した年です。1973年にセガとタイトーが日本初のコンピューターゲームを発表してから、1980年に『パックマン』(ナムコ)、『ウルティマ』(Origin Systems)、『ミステリーハウス』(Sierra Entertainment, Inc.)、PC初の3Dゲーム『3D Monster Maze』(Malcolm Evans)などが登場し、各国でコンピューターゲーム雑誌が創刊され、空前のPCゲームブームが到来した時期でした。
第三波はacerの3つ目の子会社で、当時流行っていた情報革命を唱えた書籍、『第三の波』(アルビン・トフラー・1980)から名前を取ったと言われています。設立当時は家庭用コンピューター市場で上場を目指しますが、市場が思ったように伸びず、90年代にはゲームコンテンツの販売代理、ソフトウェア販売代理、雑誌、図書出版業務だけを残し、ハードウェア開発を諦めます。
第三波は台湾だけではなく、中国大陸のゲーム業界にも大きな影響を与えました。『ヒーローズ・オブ・マイト・アンド・マジック』(ニューワールドコンピューティング・1995~)、「大航海時代」シリーズ(コーエーテクモゲームス・1990~)、「三国志」シリーズ(コーエーテクモゲームス・1985~)などの海外有名作品の代理店として活躍しています。これによって、日本の多くのゲームが台湾・香港を中心に広まっていきます[1]。
1984年には「第三波金軟件排行榜」(第三波・ゴールデンソフトランキング)という自主制作ゲームのイベントを開始し、ゲーム開発の促進を目指します。のちに台湾のゲーム業界をけん引する企業「智冠科技」と「大宇資訊」は、第三波のイベントが会社設立のきっかけのひとつだったといいます。 この年には、中華圏初の商業ゲームを発売する企業「精訊資訊」(せいじんしじん)が設立されます。精訊が発表した「如意集」は欧米や日本などのゲームに比べると全体的なボリュームが小さかったといわれており、現在では当時のゲームのスクリーンショットや関連情報はほとんど出てきません。ですが、中華圏で始めて制作されたゲームとして、中華圏のゲーム史を語るときには必ず語られるタイトルであり、制作会社でもあります。 1990年代に入ると、台湾のゲーム黄金期とも言うべき時代に入りますが、「第三波」「精訊資訊」のほかに前述した「智冠科技」「大宇資訊」を合わせた四大企業がしのぎを削り、業界を拡大していきます。
大宇資訊は「精訊資訊」創始者の一人、李永進が独立して起こした会社で、1990年にオリジナル武侠RPG「軒轅剣」(けんえんけん)シリーズの第1作を発売します。軒轅剣シリーズの最新作は2020年にPS4で発売された『軒轅剣 閻黒の業火』(けんえんけん えんこくのごうか・2020年)で、30年で12作という長寿作品となりました。1995年には『仙剣奇侠傳』を発表し、こちらもオリジナル武侠ゲームとして大ヒット、1999年にセガサターンへ移植されたほか、漫画、テレビドラマ、舞台などマルチメディア展開され、最新作『仙剣奇侠傳7』が2021年10月15日に発売されました。フィギュア会社のグットスマイルカンパニーからもヒロイン・趙霊児等のフィギュアが発売されています。
智冠科技は1993年、金庸(きんよう・1924-2018)の武侠小説原作RPG『笑傲江湖』を制作し、中華圏における武侠ゲームの歴史が開きます。その後『倚天屠龍伝』、『鹿鼎記之皇城争覇』、『金庸群侠傳』といった大ヒットゲームを発表していきます。
▲図1 『笑傲江湖』パッケージ
武侠とは
こうした台湾産ゲームのベースとなった世界観が「武侠」(ぶきょう)と呼ばれる中華圏オリジナルの伝統的なエンターテインメントジャンルで、中華圏、つまり中国語圏に人々にとって日常生活にまで染み込んでおり、中国のゲーム、ひいてはコンテンツの発展を語る上では欠かすことのできない存在です。武侠は、ルーツを辿れば唐代まで遡ることのできる大衆小説のジャンルでしたが、近年は映画やドラマ、アニメ、ゲームなど中華系コンテンツにおいて非常に重要なジャンルとなっています。日本でも著名な「水滸伝」はこの武侠というジャンルの小説に位置づけられます。そのほか、『グリーン・デスティニー』や『セブンソード』、『片腕必殺剣』など香港、台湾映画のタイトルを見るとなんとなく雰囲気がわかる方もいるでしょうか。 簡単に言うと、「俠」、つまり己の信じる正義のために行動しようという精神、そしてその正義を「武」で表すという意味で、「武俠」と呼ばれています。中国の歴史的背景で描かれる群像時代劇といってもいいかもしれません。もともと、さまざまな武術の流派の使い手が、それぞれ得意な技や武器を引っさげて戦ったり、冒険したりするストーリー展開であったため、現代のエンターテインメント、特に二次元とは親和性が高く、今ではそこにファンタジーの要素もからませ、流派間の争いであったり、秘伝書をめぐる陰謀、正統、正義を司さどる正派と、悪、恐怖を代表し、異国から来たおかしな術を使うことも多い魔教との戦い、魔教内部のクーデター、正派どうしの併呑など、数々の事件が巻き起こるエンターテインメント作品となっています。
たとえば、もっとも有名な武侠小説のひとつである『笑傲江湖』では、剣術の流派と魔教の戦いが描かれます。例えば主人公が属する五岳剣派や少林寺派、武当派の各流派は正派として描かれますが、五岳剣派内の内部闘争も重要なストーリーとして描かれますし、魔教も一つではなく、日月神教や五毒教など、それぞれの正義をもって行動します。五毒教の教主の娘が主人公と行動を共にしたり、五岳剣派の一派が主人公を殺そうとしたり、正派は絶対的な正義ではなく、魔教も絶対的な悪ではない、複雑なストーリーが展開し、見せ場がこれでもかと詰め込まれた一大エンターテインメントです。
こうして武侠が中華圏に欠かせない現代的なコンテンツとして大きくなった背景には、大陸が大躍進運動や文革など国内が不安定な状況にあった1950年代以降、香港、台湾を中心に作品を量産した新派と呼ばれる作家の活躍があります。彼らが伝統にとらわれず、現代的な視点や表現方法を積極的に導入したことにより、武侠は現代のエンターテインメントとして、映画、ドラマなどいわゆるマルチメディア展開が始まり、香港を起点に東南アジアや世界各国のチャイナタウンまで、大きく羽ばたきます。
▲図2 武侠御三家の金庸、梁羽生、古龍
新派作家の代表であり、武侠小説の御三家とも言われる、金庸、梁羽生、古龍の作品は、中華圏の映画やドラマ、ゲーム、アニメなど幅広いジャンルに多大な影響を与えています。誤解を恐れず、その作風をわかりやすく日本の漫画に例えるなら、起伏は大きくないが長く楽しめる梁羽生は『ナルト』。一動作ごとの描写は少なくとも、とりあえずカッコいい古龍は『ブリーチ』。独特なキャラクター性やストーリーの仕掛けが非常に秀逸な金庸は『ハンター×ハンター』と言えるでしょうか。 なかでも金庸は、飛び抜けて人気と影響力がある作家で、現在の武侠の基本的な設定はほとんど、金庸の作品群がベースになっているといっても過言ではありません。金庸小説原作のドラマ・映画は現在までに150本以上、古龍は180本以上あることから、彼らの影響力の大きさがうかがい知れます。
1990年代台湾ゲームの躍進と凋落
1990年代、台湾産ゲームの黄金期では、智冠が金庸作品シリーズを出し、大宇がオリジナル武侠作品である「軒轅剣」シリーズと「仙剣奇侠傳」シリーズを出していることから、武侠というジャンルとゲームの親和性がわかります。
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オタク文化を育んだ中国ネットプラットフォームの発展|古市雅子・峰岸宏行
2021-10-21 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第9回。今回は、国家主導の独自インフラの構築で知られる中国産のインターネットプラットフォームが、いかにオタク文化と関係してきたのかを辿ります。いまやGoogleやFacebookとならぶ世界的プラットフォーマーとなったテンセントの「QQ」や中国版ニコニコ動画「Bilibili」の成立、そして政治環境の変化とともに一気に普及した中国版Twitter「微博」など、時流と規制に振り回されながらユーザー文化も発展を遂げていきます。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第9回 オタク文化を育んだ中国ネットプラットフォームの発展
中国のオタクが個から集、そしてまた個へと変化していった経緯をネット海賊版アニメ、コスプレ文化、同人誌文化の歴史から紹介してきました。 個から集に際して、オンライン掲示板やフォーラム、そして雑誌、大学が大きな作用点となりましたが、集まった人々はそこから細分化し、新たなコンテンツに対する判断、鑑賞基準を作っていきます。そこには中国で独自に発展したプラットフォームの存在がありました。
今回は、以前紹介した中国のオタク文化の細分化と共に様々なネットプラットフォームが立ち上がり、衰退、勃興していく中、オタクがどのようにそれらを利用していったか紹介したいと思います。
ネットプラットフォームとはサービスやシステム、ソフトウェアを提供・カスタマイズ・運営するために必要な「共通の土台(基盤)となる標準環境」とされています。コミュニケーションの土台となる、という意味では、グループチャットができるチャットソフトやコミュニティを形成できるSNSも含むので、旧来的な掲示板やフォーラム以外にもBilibiliや愛奇芸のような動画プラットフォームやチャットツールも含め、年代別に紹介していきたいと思います。
2000年代初頭:チャットツール「テンセントQQ」
オタク文化の発展のみならず、中国全体のビジネススピードにも大きく寄与しているのがテンセントが運営しているチャットツール「騰訊QQ」です。QQは当時世界的にユーザーが多くいたICQをモデルに開発されたツールですがオタク文化のプラットフォームになったのは、2000年代、フォーラムでは動画アップロードができず、まだ動画プラットフォームもなかった時代、動画やゲームファイルを気軽に友達同士で転送できるということ、そして大規模なグループを構築できるという点がその理由に挙げられます。
中国のインターネット元年と呼ばれる1999年2月にリリースされたQQは、2021年現在、MAU(月間アクティブユーザー数)が6億人前後、同じくテンセントが運営する「Wechat(微信)」(2011年・テンセント)の12億に比べると往年の勢いはありませんが、QQの使用者は2000年以降生まれが50%を占めると言われています。ゲームや趣味の大規模コミュニティが多く立ち上がっており、筆者がメイドレストランを経営していた2010年頃は、来客のファンコミュニティをQQで運営していました。
QQのグループチャット「群」(Qun、グループという意味)の参加者は最大500人(現在では条件を満たせば3000人)で、1日あたりの上限はありますが、数百Mbの大容量のファイルを転送することができます。VCDの容量700Mbに海賊版アニメが5~10話ほど詰め込まれていたことから考えると、かなりの量の動画を転送することができます。また500人と言えば、当時、中国の大学のアニメサークルメンバー全員が参加できる規模でもあり、サークル内でQQを使ってアニメ動画ファイルやゲームファイルのやり取りを行うことができたのです。
高校の勉強漬けの日々から解放され、大学で「オタク」デビューした学生たちが晴れてサークルに参加していくという動きは以前にも紹介しましたが、中国では部室やサークル部屋がないことが多く、寮くらいしか集まる場所がない中、QQは部室のような役割を果たしていたと言えるでしょう。 そこはサークルの新着情報の告知やコスプレ大会、イベント参加の通知等を行う回覧板的な機能を持ち、また日常的な情報交換や雑談をするのにとても適したプラットフォームだったのです。
「群」にはサークルやファンコミュニティ用途の側面だけでなく、ゲームの中国語化(「漢化」と呼ばれる)や字幕組制作チームの制作グループ用プラットフォーム的な立ち位置もあります。それは今でも続いていて、字幕組や漢化組は、最初にフォーラム等から仲間を集めてスタートし、QQにグループを作ってリアルタイムに情報交換や動画シェアを行い、役割分担をすることによって作業を進めていました。
このようにして字幕がつけられたアニメやゲームはフォーラムにアップロードされ、フォーラムメンバーへの布教として無償で提供されていました。これらはあくまでも限定的な範囲での利用でしたが、やがてより効率の良いシェアの方法が現れます。動画配信プラットフォームの「土豆」・「優酷」そして弾幕動画サイト「AcFun」です。
2000年代中盤:「土豆」と「優酷」
土豆と優酷はそれぞれ2005年と2006年、AcFunは2007年に登場しています。中国外の動画配信プラットフォームとしては「YouTube」や「ニコニコ動画」がありますが、それら海外の動画プラットフォームと中国の配信サイトはほぼ同時期に立ち上がっています。
土豆の創始者の一人、王微は同サービスを開始した4月15日のことを以下のように振り返っています[1]。
―当時、土豆は全部で5人。まもなく夜が明けようとしている。私は開発プログラマーとパソコンのモニターをにらみ、土豆をサービスインさせるかどうか、決心しかねていた。2005年、私はインターネットの素人で、私のチームもそうだった。
「いくつかのバグの修正がまだです」、「怖くなってきました。もう数日サービスインを延ばせませんか?」 当時、私たちは、私の頭にあるアイデアの開発をはじめて3カ月たっていた。私たちの知る限り、これはこの世界で唯一の動画シェアリングサイトだった。私は誰からも学ぶことはできなかった。世界にはYouTubeさえもなかったのだから。土豆を検索すると、開くのは料理に関するサイトだった(訳者注:土豆は中国語でジャガイモを意味する)。私たちはみなある言葉を知っていた。「もしあるアイディアを思いついたのがあなたひとりだったら、それはいいアイデアではない」。もし、世界中で私たちだけが昼夜問わずこれをやっているのだとしたら、それは極めて愚かなことではないのだろうか。
(中略)
「リリースしますか?」 プログラマーが聞いてくる。もう早朝だ。
「しよう」私は思い切っていった。「800元のプレスリリース代を準備したんだ。返金できないっていうんだぜ。」
無知な者は恐れを知らず。私はあの時、中国のインターネットの恐ろしさと難しさをまだまったく知らなかった。 少しでも多くの金を払って自分を追い込み、この危険きわまりない窮地に身を置くことは、恐怖を克服するもうひとつの方法だった。
YouTube社の設立は2005年2月、3人の創設者の一人、ジョード・カリムの有名なサンディエゴ動物園の象の動画が投稿されたのが4月23日、β版が公開されたのが5月と言われているので、土豆はおそらくYouTubeのメンバーと同じぐらいの時期に着想を得て、YouTubeより1週間ほど早くリリースされたと言えます。
一方、のちに土豆と双璧をなす動画サイトとして市場を二分した優酷は、2006年6月に会社設立、12月にサービスインしました。
土豆の創始者、王微はドイツのメディアコングロマリット、「ベルテルスマン」の中国エリア総裁で、その後アメリカで衛星テレビの仕事をしており、優酷の創始者、古永鏘(Victor Koo)はアメリカのプライベートファンド「ベインキャピタル」、中国のインターネット会社「捜狐」(Sohu)の副総裁兼CFOを歴任しています。王微は中学中退しているものの、どちらもアメリカで学位を取得しており、海外での留学、就職経験があるエリートです。
土豆は何も参考がなく、資本金もゼロに近い状態から始まった動画サイトですが、優酷は300万ドルを元手に始めたビデオサイトで、王と古の両者の生い立ちを表しているようにも思えます。
この、背景がまったく異なる二つの動画サイトはすぐに中国で受け入れられ、多くのオタクがこれらのサイトに動画をアップロードし始めます。
2007年には湖南衛星テレビが放送した中国の男性タレント発掘オーディション番組「快楽男声」、左溢を始めとする天才少年が有名になった同じく湖南衛星テレビのバラエティ番組「天天向上」といった人気テレビ番組の映像がアップされたり、TBS DIGICONで賞も獲得した国産アニメーション『功夫兎』(李智勇・2005年)が投稿されたりと、優酷はデイリー再生回数が1億を突破[2]し、中国で動画サイトが広く使われるようになっていきました。この時点で、土豆、優酷、のほか、2005年サービス開始の「PPTV」、「LeTV楽視」と、すでに少なくとも4社の動画サイトが登場しています。このころから、日本でもサイトにあげられた日本アニメの無許可アップロードが注目され始めました[3]。
そんな中、2007年にニコニコ動画がサービスインします。ニコニコ動画の弾幕や「歌ってみた」、「踊ってみた」等の投稿スタイルは中国のオタク文化にも大きな影響を与えます[4]が、これはそのフォーマットを学んだというより、「二次創作」を一般人でも行えるという考えを知らしめたことが大きかったと言えます。 従来の動画プラットフォームにおける字幕組は、アニメの仕入れ担当、日本語の書き起こし担当、翻訳担当、編集担当など、比較的専門的な知識やスキルが必要でした(今でこそ動画編集はハード的にもソフト的にも手軽になりましたが、当時はまだまだ素人にはできない作業でした)。それまでは単純に「見る」だけだった消費者も、自分たちもコンテンツに「参加できる」という考え方をニコニコ動画から学んだのです。
そうして登場するのが、「〇〇してみた」の中国独自の形である「日本アニメを中国語にアフレコしてみた」(同人アフレコ)です。その中で一番最初に、そして一番バズったのが『ギャグマンガ日和』(増田こうすけ・2000年~)アニメ版の同人アフレコでした。 2010年5月、南京にある中国傳媒大学南広学院の学生サークル「CUCN201」がアフレコした『ギャグマンガ日和』の第10話「西遊記 ~旅の終わり~」がアップされました。この動画は瞬く間にQQやフォーラムでシェアされ、彼らが独自に当てはめたセリフに出てくる単語、「老湿」[5]、「給力」[6]、「最終形態」などがネットスラングとして広まります。これらの言葉、特に「給力」は爆発的に流行し、人民日報一面の見出しで使用され、国から「メディアはネットスラングを使わないように」というお達しが出るほどの事態となりました。 これらネットスラングが「ニューヨークタイムズ」でも解説され、「給力」(ピンイン表記:geili)は「gelibable」「geibility」など活用変化し英語のスラングとしても流行ったと中国で話題になりました。そうした言葉の浸透も、動画サイトが一般層に定着していたことを示しています。
そんな中、登場するのがアニメ専門動画サイト、「AcFun」と「Bilibili」です。
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中国同人文化の変遷、過去、未来|古市雅子・峰岸宏行
2021-08-04 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第8回。今回は、20世紀末にインターネットの普及とともに広がった中国の同人文化について。日本産コンテンツの二次創作から始まった中国の同人文化が、アイドル業界やSNSの発展と絡みながら独自の進化を遂げ、日本へ逆輸入されるまでの過程を紹介します。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第8回 中国同人文化の変遷、過去、未来
前回は、インターネットの普及によりアニメを好きな人たち、いわゆる「オタク」が急速にコミュニティを形成し、コスプレが広まっていく様子を描きましたが、今回は中国の同人文化について、その中心ともいわれていた同人小説をメインに、独特な文化をご紹介します。
プラットフォームとともに発展した同人小説
1995年8月、まだ中国の一般家庭にパソコンすら普及していない時代、理系の最高学府、清華大学の実験室にあったパソコンを使用し、「水木清華BBS」という掲示板が創設されました。その後、各重点大学に設置される学生用BBSの走りですが、自由に文章を発表できる場所として、ここから中国の同人文化が始まりました。現在、中国で最初の同人作品だと認識されているのは、1998年、この水木清華BBSのCOMIC板で発表された『新世紀エヴァンゲリオン』の同人小説『幕後』です。 この年、まだ多くないパソコンユーザーの間で『第一次親密接触』という台湾の学園ラブストーリーが中国で初めてオンラインで流行した影響もあるかもしれません。男性の多い理系大学のBBSで始まった同人小説ですが、その後、女性は重要な役割を果たしていくことになります。
この水木清華BBSのヘビーユーザーであったsunsunが、桑桑学院という初の同人フォーラムを開設し、フォーラムは大きな影響力をもちました。また、「耽美小島」という板が設置されたことでBL系の文章も集中して発表されました。しかしこの時期に掲載された文章はほとんどが日本や台湾の作品の翻訳で、オリジナル作品ではなかったため、台湾の書き手から強い抗議を受けました。そこでオリジナル作品への熱が高まり、1999年11月には国内初の耽美小説専門サイト「ルシファー倶楽部」(露西弗俱乐部)が開設され、桑桑学院とともに一時代を築きます。
図1 当時の雑誌に掲載された国内十大マンガサイト。1番に桑桑学院がある。(ネットより)
この2000年前後、「三大同人作品」と言われていたのが『SLAM DUNK』『銀河英雄伝説』『聖闘士星矢』です。CLAMPも人気がありました。『SLAM DUNK』を見て、男子は外にバスケをしに行きましたが、バスケに興味がない女子はもっぱら同人小説を書いていたといいます。桑桑学院創設者のsunsunは、日本の大人気BL系少女漫画『絶愛』が中国に入ってきたことも大きかったと指摘しています。 「絶世の顔、凄美な愛、多くの腐女がおののいた。いや、身がよじれるほど嘆き悲しんだ。」[1]彼女は、この作品は多くの人の人生を変えた、これを読んで自身がゲイであることに気づき、今もゲイとして生きている人もいると回顧しています。
最初に発表されたBL系同人作品はおそらく『SLAM DUNK』の同人小説『世纪末,最后的流星雨』(1999年)で、オリジナルの同人作品として大きな影響力を持った最初の作品として認識されています。ちなみに、同年に初のBL専門雑誌『耽美季節BOY‘S LOVE』が出版され、専門フォーラムも続々と開設、マンガやアニメだけではなく、ジャニーズアイドルの同人作品なども含め大きく発展していくことになります。
この時期、BL以外で触れるとすれば『銀河英雄伝説』の同人作品があげられます。架空の歴史小説を書いている書き手はほぼ『銀英伝』を通っているといわれ、その影響が直接感じられる作品も数多くあります。[2]
また、日本アニメだけではなく、中国の歴史小説の一ジャンルである武侠小説の同人も一定数存在し、2002年には専門フォーラムも開設されました。
2003年になると、大手検索サイト「百度」が「百度貼吧」というBBSを開設、ネットユーザーの増加も相まって裾野がぐっと広まります。 それまで主な作品発表の場であったフォーラムは、中国ではグレーゾーンである同人文化特有の同性愛や性表現を取り締まられないように、自衛として厳格な規則をもとに管理人が厳しく管理し、アカウント開設は招待制であったり、予め指定された質問に答えさせるなど条件を指定し敷居を高くして、一定期間発言のないユーザーは自動的に退会措置を取るなど排他的な空間でした。しかし、誰でも使えるオープンな「百度貼吧」が出現したことで、敷居がなくなり、さらに好みの作品を容易に検索できるようになります。作品名やカップリングですぐに検索でき、ジャンルがより細分化されました。しかし、誰でも見られるために、グレーゾーンにあると自覚している作品は、百度にリンクだけおくなど対応策が取られました。 2002年に「起点中文网」、2003年に女性向けサイト「晋江原创网」と今もオンライン小説を代表する大手サイトが続々と創設されたことも特記しておかねばなりません。こうして同人文化に触れる人口が増えるに連れ、日本のアニメやマンガ、ゲームだけではなく、武侠小説、韓流アイドル、中国のアイドル、欧米のドラマ、韓流ドラマ、中国のテレビドラマなどさまざまなジャンルの同人作品が出現することとなりました。特に中国の国民的オーディション番組『超级女声』(2005年)で、カリスマ性のあるボーイッシュな女性歌手、李宇春が絶大な人気を博したことで、同人人口の増加に拍車をかけます。2010年のイギリスドラマ『SHERLOCK』は女子大学生を中心に熱狂的に受け入れられ、当時ブレア首相が中国での異常な人気に言及するほどでしたが、これらはすべて、中国のファンがそこに「萌え要素」を感じとった結果です。同人文化がインターネットをプラットフォームに発展してきたがゆえに、中国において同人は、ネットユーザーであればすぐに足を踏み入れることができる世界でもあるのです。
図2 右がオーディション当時の李宇春(オンラインサイトより)
現在、同人が集まるのは2011年に開設されたSNS「LOFTER」(乐乎)です。ネットイースが「趣味を楽しみ、創造をシェアする」(专注兴趣,分享创造)SNSとして開設しました。写真や絵を中心にシェアするSNSであったため、当初はカメラが趣味の人たちが集まりましたが、その使いやすさから次第に同人が増え、「征服」された結果、今では同人専用SNSのようになっています。イラスト、小説、動画、写真などさまざまなコンテンツをシェアできます。中国の同人文化は小説、ついでイラストが多く、マンガももちろん存在しますがそこまで多くはありません。この連載で扱う時代が1980年代から始まっているように、マンガがそれなりの規模で読まれ始めたのはここ20〜30年です。ストーリーを考え、コマ割りを考え、イラストを描くといった一人で何役もこなさなければならないマンガの創作が同人文化においてもそれなりの規模をもつには、まだまだ蓄積が必要だというのが現状だと思います。 現在、同人作品のおおまかな動向は、ここを見ればだいたい把握できるといっていいでしょう。しかし、大手IT企業であるネットイースが運営しているため、誰にとっても安心安全、安定して使用できるものの、より踏み込んだ表現については、海外にサーバーを置くサイトを利用したり、その時々で考えられる方法を用いて生き延びています。
図3 LOFTERのインターフェイス(2021年7月5日)
同人小説とオンライン小説
以上の同人小説の歴史からもわかるように、中国では、同人文化はネット文化であると考えられています。これまでの連載でも書いてきたように、テレビや海賊版のマンガ、VCDを見ていた消費者が表に姿を表し、コミュニティを形成し、同人作品を発表するようになったのはすべてインターネットが普及してからであり、その発展の歴史はインターネットの発展の歴史と重なります。『鉄腕アトム』が放送されたのが1981年。小さい頃、テレビで日本アニメを見て育った、「80後」と呼ばれる1980年代生まれが大学生になった2000年前後から、中国ではインターネットが一般にも普及していきました。ネットユーザーは大学生が中心です。テレビで日本アニメが規制されてからも、ネット上からあの手この手で日本のアニメやマンガ、ゲーム、そして同人作品をシェアし、自分たちの文化としてネット上で楽しんできました。中国のネットカルチャーには、ベースとして日本のオタク文化があるのです。 現在、中国において同人小説はオンライン小説の一ジャンルと位置づけられていますが、そもそも中国のオンライン小説は同人小説をもとに発展してきました。
日本の国文学部に相当する北京大学中文系の研究者が、大学院での授業をもとに院生と共同で執筆した『网络文学经典解读』(オンライン文学作品解読)という本があります。オンライン小説を学術的に理解するための入門書といった位置づけの本ですが、巻末にある用語集には、「同人」「男性向」「女性向」「百合」「CP」「耽美」「弾幕」「腐女」「腐男」「攻/受」「同人」「YAOI」「御宅族」「中二病」といった言葉が羅列されています。日本語と同人文化がわかる人であれば、中国語がわからなくてもひと目で意味がわかるでしょう。また、オンライン文学の非常に重要な概念の一つが「萌」だと考えられています。「萌」と「爽」(自分の欲望が満たされた爽快感を表す言葉)がオンライン小説の中心的概念です。
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コスプレカルチャーの中国独自進化|古市雅子・峰岸宏行
2021-06-03 07:00550pt
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第7回。今回は、2000年代半ばごろから独自進化を遂げた中国のコスプレ文化について。アジア最大のゲームショウ「ChinaJoy」を頂点に、中国全土でトップ・コスプレイヤーを競うコンテストが開催されるほか、大がかりな創作演劇やライブパフォーマンスなども上演。閉じた場でこっそり楽しむ趣味という印象の強い日本とは異なり、オープンなショービジネスとしても発展していきます。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第7回 コスプレカルチャーの中国独自進化
ここまで、日本のマンガやアニメがどのように中国で受容されていったのか、時系列に述べてきました。2000年代、パソコンとインターネットの普及により、各地に点在していたファンがインターネットを介してコミュニティを形成し、インターネットを通して日本のオタク文化に触れ、「アニメファン」からいわゆる「オタク」へと変化したわけですが、今回はその「オタク文化」の一つでもあるコスプレに注目し、今や独自の文化を持つ中国のコスプレについて、その歴史と今後の発展についてお話ししたいと思います。
1.コスプレの最高峰「ChinaJoy Cosplay嘉年華(カーニバル)」とは
中国でコスプレといえば、まず触れなければいけないのは中国最大のゲームショウ「ChinaJoy」で開催される「ChinaJoy Cosplay嘉年華(カーニバル)」です。
▲ChinaJoy Cosplay Carnivalの様子
「ChinaJoy」は正式名称「中国国際数碼互動娯楽展覧会」といい、国家出版総署と上海市人民政府が主催、全国の映像デジタルメディア運営事業者が集まって結成された「中国音像与数字出版協会」が共催する国営のイベントで、2004年第1回は北京、同年に行われた第2回以降は上海で開催しています。 会場である上海新国際博覧中心は室内展示面積10.35万㎡と東京ビックサイト(総計9.5万㎡)を上回るほどの規模で、来場者数も第1回こそ1.5万人だったものの、2019年の第17回にはのべ36万人となり、アジア最大のゲームショウと呼ばれています。日本の「Tokyo Game Show」(以下TGS)と同じように、ビジネス向けと一般ユーザー向けの公開日がそれぞれ分けられ、ビジネス向けはビジネスエリアでの商談が主ですが、一般公開日には30万人に及ぶ来場者とオンライン配信を見る無数のユーザーに自社のゲームや会社の勢いを広く宣伝する絶好の機会となります。その「ChinaJoy」において、「ChinaJoy コスプレカーニバル」(以下「ChinaJoy」)は、特に注目されるメインイベントのひとつです。 「ChinaJoy」はコンテスト形式で行われますが、2007年からは北京・上海・広州を始め、中国全土10を超える都市で予選を行い、海外からの参加者も増えています。コンテストにはサークル単位での参加となり、金、銀、銅賞からなる優秀団体賞、そして演技賞、脚本賞、道具賞、ビジュアル賞、アクション賞、またその時々の状況に合わせたいくつかの賞によって構成され、受賞者には賞金が出ます。 コスプレのコンテストは今も大小様々、各地で行われていますが、この「ChinaJoy」で優勝することは、中国全土のコスプレイヤーの頂点に立つことを意味するのです。
2.中国におけるコスプレの始まり
マンガやアニメと同じように、コスプレもやはり香港、台湾から伝わってきました。香港では1993年、「四百尺」というサークルが『銀河英雄伝説』の同盟軍の制服を着てアートフェスに参加したのが最初だと言われています。その後、徐々にコスプレをするサークルが増え、1998年には香港初のコスプレ大会が開催されました。また台湾では、1995年に台湾南部にある高雄市のSEGA WORLDという現地最大のゲームセンターで行われたイベントが、初のコスプレイベントと言われています。台湾、香港で徐々に広がっていったコスプレは、両地に親戚や友人がいたり、地理的に近い環境にあった中国のアニメやゲーム好きに少しずつ広がり、中国大陸にもコスプレイヤーが少しずつ出現していきます。
▲「電子遊戯軟件」1997年12月号に掲載されていたコスプレ写真
興味深いのは、コスプレにおいては早くから日本のマンガ、アニメの枠を超えていたということです。香港ではすでに現地のマンガが育っていたこともあり、初期の段階から現地のマンガ作品のコスプレも一定数存在していました。擬人化コスが最初に現れたのも香港だと言われています。また台湾は、最初のイベントがSEGA WORLDだったこともあり、その会場ではゲームキャラクターのコスプレがほとんどだったと言われています。 中国のコスプレは、ゲームと切っても切り離せない関係にあります。中国初のコスプレイベントがいつどこで行われたのか、記録がないので正確な情報はわかりませんが、2000年には広州でコスプレコンテストが開かれたのが最初だという説が多く聞かれます。現時点で、最初の大型イベントであると認識されているのは2001年、台湾のゲーム会社が行った中国初のオンラインゲーム『石器時代』のPRイベントであるゲームキャラクターのコスプレ大会です。 『石器時代』とは、日本サプライシステムが1999年に開発したオンラインゲーム『ストーンエイジ』のことです。日本では認知度も低くヒットに至らなかった作品ですが、台湾のゲーム会社、華義国際が『石器時代』として台湾、中国で発売し、爆発的にヒットしました。今も中国ではオンラインゲームを切り開いた作品として記憶されています。そのヒットの要因の一つが、コスプレコンテストを含んだPR戦略でした。 『石器時代』はオンラインゲームですが、この頃はまだ雑誌も主要な情報源の一つで、華義はゲーム雑誌でコンテスト出場者の募集を出し、ゲームを楽しむ新しい方法としてコスプレコンテストを開催しました。ここから、コスプレは急速に広まっていきます。2003年、大手検索サイト「百度」がBBS「百度貼吧」のサービスを開始したことで情報交換が劇的にスムーズになり、コスプレ専門サイトも開設され、3年後の2004年には「ChinaJoy」第1回が開かれるにいたります。その後、1997年創刊のマンガ・アニメ情報誌「漫友」が2005年に増刊号「漫友COSPLAY100」を出版、日本のコスプレ雑誌の海賊版なども多数出ていたようです。こうしてコスプレは急速に広まり、「ChinaJoy」の出場者も加速度的に増え、2006年に行われた第4回で8000人を突破しました。驚くほどの熱量とスピードで、コスプレは広まっていきました。
3.独自の文化を持つ中国のコスプレ
当初、コスプレは「角色扮演」と翻訳されていました。「角色」はキャラクター、「扮演」は演じるという意味で、『石器時代』を通して使用された台湾の訳語です。「ChinaJoy」も最初の数年は「角色扮演カーニバル」と題していました。香港に近い広州などでは、香港の訳語「服飾扮演」を使用していた人が多かったようです。ところがRPGの訳語としても「角色扮演」が使用されるようになり、2007年あたりからコスプレの訳語は「COSPLAY」として定着しました。英単語が漢字表記に翻訳されず直接使用されるのは非常に珍しいことで、コスプレに関わる人たちが、ある程度の教育を受けている人たちだということが推察できます。そして「COSPLAY」のCOSを動詞として捉え、「COS」という言葉も単独で使われるようになりました。台湾を通して日本語の影響を受けているのかもしれません。そこから、コスプレをする主体、コスプレイヤーのことを「Coser」と呼ぶようになりました。 本稿では以降、中国のコスプレイヤーは「Coser」と表記します。現在、中国のWikipediaである「百度百科」で「角色扮演」を検索すると、「Roll Playng」の訳語であるという解説が出てきます。
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