分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第15回。
今ある情報社会の欠かせないインフラになっている人工知能(AI)技術。その確立の立役者となったアメリカ生まれの3名の科学者、ジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルもまた、中欧から落ちのびてきたフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと同じく、1949年にプリンストンで出会っていました。第二次世界大戦後、軍産学複合体制によるコンピューター・サイエンスの発展基盤が整えられるなかで、世代と出身の異なる二つの三人組が交錯した軌跡を辿ります。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第15回 プリンストンで出会った3名が再会した会議と再会しなかった会議〜人工知能の誕生
前回は、フォン・ノイマンがコンピューター開発に関わることになった経緯をたどった。フォン・ノイマンという高名な数学者が関わったことで、コンピューターの開発は計算機の性能向上にとどまらず、コンピューター・サイエンスという新たな科学の誕生につながったのだが、その背景にあったのは、第二次世界大戦であり、アメリカ軍部、加えて、戦争に積極的に関与したアメリカの大学の姿があったのだった。
ところで、こうしたアメリカの軍産学複合体によって産み出された科学はコンピューター・サイエンスだけではなかった。コンピューター・サイエンスと縁の深い人工知能はその代表例である。今回は人工知能の発展の中心人物のなかから、ジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルの3名に焦点を当てたい。同年代の彼らは1949年にプリンストンで初めて出会っている──そういえば、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3名もまた、1946年にプリンストンで初めて出会っていた。もしかするとこれは、偶然のことではないのかもしれない。
1956年夏、ニューハンプシャー州ハノーヴァー
「ダートマス会議」のオリジナル提案書の1ページ目。2行目に「人工知能(ARTIFICIAL INTELLIGENCE)」の文字が見える(ダートマス大学所蔵)。
AI Magazine 2006年冬号(Vol. 27, No. 4), p. 13(出典)
「人工知能(Artificial Intelligence, AI)」という言葉を作ったのは、プログラミング言語LISPの開発者ジョン・マッカーシーである。マッカーシーがこの言葉を初めて用いたのは、1956年に開催された、のちに「ダートマス会議(Dartmouth conference)」という名で知れ渡ることになる会議だ。人工知能という分野は、このダートマス会議において誕生したとされているのだが、マッカーシーは、その中心人物だった。
1927年生まれのマッカーシーは、若い頃から数学の才能に秀でており、1944年にカリフォルニア工科大学の数学科に入学する。卒業前に第二次世界大戦に従軍することになるが、復帰後に彼の人生を変える出来事がある。フォン・ノイマンとの出会いである。
1948年、カリフォルニア工科大学を卒業し、同大学の大学院に進学したばかりのマッカーシーは、あるシンポジウムに出席する。そこで講演していたのは、フォン・ノイマンだった。フォン・ノイマンの講演を聞いたマッカーシーは、機械で人間の思考を実現するという構想を思いついたのだ。マッカーシーはすぐさま、プリンストン大学の大学院に移籍する。プリンストン高等研究所にいたフォン・ノイマンの教えを乞うためだった。
フォン・ノイマンは若き俊英の野望を大いに励ましたものの、進捗ははかばかしくなく、結局マッカーシーは違うテーマで博士号を取得する。マッカーシーが本格的に「人工知能」へと向かうようになったのは、1955年ダートマス大学に職を得てからのことである。
ダートマス大学(Dartmouth College)は、アメリカで9番目に古い大学であり、その設立は、独立前の1769年にまで遡る。つまり、ダートマスもまた、ハーバード大学やプリンストン大学と同じく、植民地時代のアメリカで設立された「カレッジ(college)」の一つなのだ(本連載第9回参照)。ハーバードを始めとする植民地時代に設立された他の大学とは異なり「大学(University)」へと正式名称を変更していないことからもわかるように、ダートマス大学は研究大学ではあるが、かつての「カレッジ」が担当していた教養教育に力を入れた大学である。
「ダートマス」という名称は、イギリスのダートマス伯爵にちなんだものである。また、大学がある街は「ハノーヴァー(Hanover)」というのだが、当時のイギリス王家が、ドイツ(正確には、神聖ローマ帝国)のハノーファー(Hanover)選帝侯を兼任するハノーヴァー朝だったことに由来する。このように、ダートマス大学はイギリス植民地時代と縁が深いのだが、マッカーシー、および後の人工知能の発展にとっては、このことが大きく影響することになる。
1955年、ダートマス大学の数学科は、4人の教授が一斉に退職してしまったために、4人分の後任を探していた。だが、優秀な人材を一度に何人も揃えるのは明らかに困難な作業だった。白羽の矢が建てられたのは、プリンストン大学である。当時、ヴェブレンの指導のもと、プリンストン大学数学科は全米でトップレベルの数学科として広く知られるようになっていたからだ(本連載第13回)。最初に雇われたのは、ジョン・ジョージ・ケメニーという数学者だった。
のちにプログラミング言語BASICを開発することになるケメニーは、フォン・ノイマンと同じくハンガリーからの移民であり、誕生時の名前は、ケメーニ・ヤーノシュ・ジェルジという(本連載第5回でも述べたように、ハンガリー語では姓が名の前に来る)。ユダヤ人でもあったケメニーは、1939年にポーランドがナチス・ドイツに侵攻されたため(本連載第6回)、ハンガリーも同様に危険があると考えた父とともに、13歳の時に一家でアメリカに移住する。他のユダヤ人同様、ニューヨークで育ったケメニーは数学の才能を発揮し、プリンストン大学に入学するが、第二次世界大戦中の終わり頃に陸軍に招集され、マンハッタン・プロジェクトに関わることになる。ここでケメニーは、同郷のフォン・ノイマンと出会うのである。戦後、プリンストン大学でチャーチの指導のもと博士号を取得したケメニーは、プリンストン高等研究所でアインシュタインの助手をしていたのだが、フォン・ノイマンとアインシュタインの推薦により、ダートマス大学の教授となる。なんと27歳の若さだった。
一方マッカーシーはといえば、1951年に博士号を取得した後、いくつかの大学を点々としていた。ところが、ダートマス大学数学者の後任候補としてリストアップされる。ケメニーが、よく知っている後輩のマッカーシーを推薦したためだ。こうしてマッカーシーは、ダートマス大学に勤務することになるのである。
ダートマス大学で働き始めたマッカーシーに、さらに思いがけない出来事が生じる。1955年の夏、IBMがニューイングランド計算センター(New England Computation Center)を設立したのだ。このセンターはボストンにあるMITのキャンパス内にあったのだが、当時売り出し中だったIBM 704──IASコンピューターを元に設計されたIBM 701の後継機だ(本連載第14回)──が設置されており、ニューイングランド地域の大学の利用が許されていた。ニューイングランドとは旧イギリス植民地のことだ(本連載第11回)。ハーバード大学やMITのあるマサチューセッツ州もそうだが、マッカーシーにとって幸運なことに、ダートマス大学のあるニューハンプシャー州もニューイングランド地域の一部だったのだ。
ニューイングランド計算センターでマッカーシーには重要な出会いがあった。まずは、大学院時代の友人、マーヴィン・ミンスキーだ。ミンスキーはのちにマッカーシーとともにMIT人工知能研究所を作ることになる高名な人工知能および認知科学の研究者だ。
マッカーシーと同じ1927年生まれのミンスキーは、ユダヤ人であり、ユダヤ人の多いニューヨークで生まれ育つ。高校卒業時が第二次世界大戦まっただなかの1944年だったこともあり、卒業後にミンスキーは海軍に入隊する。終戦後、ハーバード大学に入学し、大学院はプリンストン大学に進学。ここでマッカーシーと出会うのだ。博士号を取得した後、ミンスキーは母校であるハーバード大学で働いていたのだが、彼もまた、IBM 704を求めてMITのニューイングランド計算センターにやってくるようになっていたのである。再会した彼らの友情は生涯のものとなる。
マッカーシーはニューイングランド計算センターで、IBM 701の設計者であるナサニエル・ロチェスターとも知り合う。彼ら3人に、マッカーシーが博士号取得後に一時的に働いていたベル研究所で知り合った、情報理論の生みの親クロード・シャノンを加えた4名が、ダートマス会議の発起人になるのである。
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