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記事 16件
  • 「大学」でない大学MIT〜戦争によってもたらされたアメリカン・ドリーム |小山虎

    2021-06-16 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第16回。今日では、コンピューター・サイエンスをはじめ世界の科学技術研究を牽引するエリート大学として名高いMIT(マサチューセッツ工科大学)。19世紀後半の開学以来、ドイツ型の研究大学を目指した創立者ウィリアム・ロジャースの理念はなかなか実現の契機に恵まれず、「大学」としては二流以下の地位に甘んじてきました。しかし2度の世界大戦による軍学複合の波をとらえた工学者ヴァネバー・ブッシュの手腕により、MITは大きな「アメリカン・ドリーム」を成し遂げていくことになります。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第16回 「大学」でない大学MIT〜戦争によってもたらされたアメリカン・ドリーム
     前回は、「人工知能」という言葉が誕生したことで知られるダートマス会議に焦点を当てた。ダートマス会議で一堂に会したジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルの3名はみな、ヴェブレンによって全米に名を轟かせるようになっていたプリンストン大学数学科出身であり、コンピューター・サイエンス発展の立役者として活躍することになるのだった。  ところで、彼ら3名のうち、マッカーシーとミンスキーはダートマス会議以前にニューイングランド計算センターで再会しており、また一時期はMITで同僚だった。このように、MITはコンピューター・サイエンスの創成期に重要な位置を占めているのである。  MITの名前を聞いたこともないという読者はなかなかおられないのではないだろうか。MITは日本でも広く知られているアメリカの大学の一つであるだけでなく、多数のノーベル賞受賞者を輩出しており、世界でも有数の研究機関の一つだ。その正式名称は「マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)」という。お気づきになったかもしれないが、日本語では「工科大学」と訳されているものの、MITは正式名称では「大学(university)」でも「カレッジ(college)」でもないのである。しかも、MITは「工科大学」であるにもかかわらず、人文学でもアメリカ有数の研究機関であり、あるランキングでは世界2位にランクインしている。科学技術にだけでなく、人文学ですら世界でもトップクラスの大学が、厳密には「大学」ではない。奇妙なことのように聞こえるが、事実、創設されてからかなりしばらくの間、MITはいかなる意味でも大学とは言えない存在だったのだ。
    「大学」でも「カレッジ」でもないMITの創世記
     MITの創設は1861年にさかのぼる。当時マサチューセッツ州ボストン在住だったウィリアム・バートン・ロジャースという地質学者が、科学技術の進展と普及を目的とする学校をボストンに設立する運動を推し進めていた。アメリカにドイツ式の研究大学が持ち込まれるのは1865年の南北戦争終結後であり、当時の大学のほとんどは教育を中心とした「カレッジ」だった(本連載第9回)。ロジャースは、ボストンにやってくる前はヴァージニア大学で地質学の教授を務めていたのだが、当時のアメリカの大学では、彼が追い求める科学技術を中心に据えたカリキュラムは難しかった。だからロジャースは、新たな学校を設立しようとしたのだ。やがてロジャースの運動は広く認知されるようになり、最終的にマサチューセッツ州政府はロジャースの提案を受け入れ、設立のために多額の資金を援助する。こうしてMITは創設されるのである。もちろん初代学長はロジャースだ。
     ところが、誕生まもないMITにいきなり試練が訪れる。創設から2日後の1861年4月12日、サウスカロライナ州のサムター要塞に南軍が攻撃を仕掛ける。南北戦争が始まったのだ。戦争により誕生したばかりのMITはいきなり資金不足に陥ることになる。結局MITで最初の授業が開かれるのは、南北戦争が集結した1865年のことだった。開校から戦争の影響を受けたことは、その後のMITの運命を暗示していたのかもしれない。  MIT初代学長ロジャースが目指したのはドイツ型の研究大学だった。彼は、科学技術の進展とそのための人材育成にとって実験室での研究が不可欠だと考えていた。研究大学でない当時のアメリカの大学では、科学の授業であっても講義が中心であり、実験室を備えてあったとしても、日本の高校の理科室のように教科書に書かれていることを確認するのが一般的だった(本連載第9回)。ロジャースは、このような教科書を中心とした教育では科学技術の進展には不十分だと考えていた。そこで彼が注目したのが、実験室での研究を中心としたドイツ式大学教育だ。  そもそも、研究と教育をいかにして両立させるかは大きな問題である。いかに優秀な学生であろうとも、学生は学生であり、科学者としては半人前だ。そうした学生が卒業後には科学者として研究に従事できるように育てるにはどうしたらよいのか。この問題を解決するのが実験室だ。最先端の研究が可能な実験室があれば、学生は教授の指導のもと、実験室で自ら実験を行うことができる。十分な成果が得られたら、学生はそれをまとめて論文として発表する。大学は、自ら実験を行い、成果を出して論文にするという経験でもって、学生が科学者として最低限の技量を備えていると認定する。つまり博士号は、科学者として一人前になった証しなのである。
     ロジャースがドイツ型の研究大学を目指したために、創設当初のMITには寮がなかった。現在のアメリカの大学制度は、イギリスのカレッジ制大学をモデルにした、もっぱら教育を担当する「カレッジ」の上に、ドイツの研究大学をモデルにした「スクール」と呼ばれる大学院が乗っかっているという構造をしている(本連載第9回)。イギリスのカレッジ制大学はもともと修道士を養成する寄宿学校が起源であったため、「カレッジ=寮」、すなわち、大学に入学したら入寮するというイメージがアメリカでは一般的である。これはMIT設立前も変わらなかった。寮を持たないMITは、まさに「Institute of Technology」の名称どおり、大学とは一線を画した新しい教育機関だったのだ。  ロジャースの壮大な夢の実現として誕生したMITだったが、設立当初から長らくMITの財政状況は悪く、財政は学生からの授業料頼りという有様だった。設立から40年目の1900年になると財政的には改善されていたが、それは教養教育を削減し、産業界の要望に合わせた人材育成に特化することによって達成されたものだった。寮もなく、学部教育も貧弱であり、名前に「大学」も「カレッジ」もない当時のMITは、いわば専門学校のような存在であり、創設者ロジャースが構想していたドイツ式の研究大学とは大きくかけ離れたものになってしまっていたのだ。
     創設の理念から逸れてしまったMITにさらなる危機が訪れる。20世紀に入ると、すぐ近くにあるハーバード大学との合併が画策されるようになるのだ。当時のハーバードの学長は、チャールズ・エリオット。ハーバードに大学院を設置し、また男女共学を実現するなど、ハーバードを「カレッジ」から「大学」に変えた伝説の学長だ(本連載第9回)。エリオットはMITで教鞭をとっていたこともあり、ロジャースの理念に強く共感していた。ハーバードが世界に名だたる研究大学になったのは、ロジャースの理念を実現したエリオットのおかげといってもよいだろう。エリオットが大きな反対を知りつつもMITとの合併を目指したのも、自分に大きな影響を与えたMITを財政危機から救うためだった。  両者の合併は、1914年に一度は正式に告知されたものの、最終的には破談となる。それ以降もMITとハーバードとの合併(あるいは後者による前者の吸収)は何度も検討されるが、結局実現することはなかった。  1917年、ハーバードとの合併話がなくなったちょうどその年、MITがそれまでの単なる「ボストンの専門学校」から脱皮するきっかけとなる出来事が発生する。アメリカが第一次世界大戦に参戦したのだ。
    ▲MIT設立に合わせて建築されたビル。この建物は後に創設者の名をとって「ロジャース・ビルディング」と呼ばれることになる。(出典)
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  • プリンストンで出会った3名が再会した会議と再会しなかった会議〜人工知能の誕生|小山虎

    2021-04-20 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第15回。今ある情報社会の欠かせないインフラになっている人工知能(AI)技術。その確立の立役者となったアメリカ生まれの3名の科学者、ジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルもまた、中欧から落ちのびてきたフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと同じく、1949年にプリンストンで出会っていました。第二次世界大戦後、軍産学複合体制によるコンピューター・サイエンスの発展基盤が整えられるなかで、世代と出身の異なる二つの三人組が交錯した軌跡を辿ります。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第15回 プリンストンで出会った3名が再会した会議と再会しなかった会議〜人工知能の誕生
     前回は、フォン・ノイマンがコンピューター開発に関わることになった経緯をたどった。フォン・ノイマンという高名な数学者が関わったことで、コンピューターの開発は計算機の性能向上にとどまらず、コンピューター・サイエンスという新たな科学の誕生につながったのだが、その背景にあったのは、第二次世界大戦であり、アメリカ軍部、加えて、戦争に積極的に関与したアメリカの大学の姿があったのだった。  ところで、こうしたアメリカの軍産学複合体によって産み出された科学はコンピューター・サイエンスだけではなかった。コンピューター・サイエンスと縁の深い人工知能はその代表例である。今回は人工知能の発展の中心人物のなかから、ジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルの3名に焦点を当てたい。同年代の彼らは1949年にプリンストンで初めて出会っている──そういえば、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3名もまた、1946年にプリンストンで初めて出会っていた。もしかするとこれは、偶然のことではないのかもしれない。
    1956年夏、ニューハンプシャー州ハノーヴァー

    「ダートマス会議」のオリジナル提案書の1ページ目。2行目に「人工知能(ARTIFICIAL INTELLIGENCE)」の文字が見える(ダートマス大学所蔵)。 AI Magazine 2006年冬号(Vol. 27, No. 4), p. 13(出典)
     「人工知能(Artificial Intelligence, AI)」という言葉を作ったのは、プログラミング言語LISPの開発者ジョン・マッカーシーである。マッカーシーがこの言葉を初めて用いたのは、1956年に開催された、のちに「ダートマス会議(Dartmouth conference)」という名で知れ渡ることになる会議だ。人工知能という分野は、このダートマス会議において誕生したとされているのだが、マッカーシーは、その中心人物だった。  1927年生まれのマッカーシーは、若い頃から数学の才能に秀でており、1944年にカリフォルニア工科大学の数学科に入学する。卒業前に第二次世界大戦に従軍することになるが、復帰後に彼の人生を変える出来事がある。フォン・ノイマンとの出会いである。  1948年、カリフォルニア工科大学を卒業し、同大学の大学院に進学したばかりのマッカーシーは、あるシンポジウムに出席する。そこで講演していたのは、フォン・ノイマンだった。フォン・ノイマンの講演を聞いたマッカーシーは、機械で人間の思考を実現するという構想を思いついたのだ。マッカーシーはすぐさま、プリンストン大学の大学院に移籍する。プリンストン高等研究所にいたフォン・ノイマンの教えを乞うためだった。  フォン・ノイマンは若き俊英の野望を大いに励ましたものの、進捗ははかばかしくなく、結局マッカーシーは違うテーマで博士号を取得する。マッカーシーが本格的に「人工知能」へと向かうようになったのは、1955年ダートマス大学に職を得てからのことである。
     ダートマス大学(Dartmouth College)は、アメリカで9番目に古い大学であり、その設立は、独立前の1769年にまで遡る。つまり、ダートマスもまた、ハーバード大学やプリンストン大学と同じく、植民地時代のアメリカで設立された「カレッジ(college)」の一つなのだ(本連載第9回参照)。ハーバードを始めとする植民地時代に設立された他の大学とは異なり「大学(University)」へと正式名称を変更していないことからもわかるように、ダートマス大学は研究大学ではあるが、かつての「カレッジ」が担当していた教養教育に力を入れた大学である。  「ダートマス」という名称は、イギリスのダートマス伯爵にちなんだものである。また、大学がある街は「ハノーヴァー(Hanover)」というのだが、当時のイギリス王家が、ドイツ(正確には、神聖ローマ帝国)のハノーファー(Hanover)選帝侯を兼任するハノーヴァー朝だったことに由来する。このように、ダートマス大学はイギリス植民地時代と縁が深いのだが、マッカーシー、および後の人工知能の発展にとっては、このことが大きく影響することになる。
     1955年、ダートマス大学の数学科は、4人の教授が一斉に退職してしまったために、4人分の後任を探していた。だが、優秀な人材を一度に何人も揃えるのは明らかに困難な作業だった。白羽の矢が建てられたのは、プリンストン大学である。当時、ヴェブレンの指導のもと、プリンストン大学数学科は全米でトップレベルの数学科として広く知られるようになっていたからだ(本連載第13回)。最初に雇われたのは、ジョン・ジョージ・ケメニーという数学者だった。  のちにプログラミング言語BASICを開発することになるケメニーは、フォン・ノイマンと同じくハンガリーからの移民であり、誕生時の名前は、ケメーニ・ヤーノシュ・ジェルジという(本連載第5回でも述べたように、ハンガリー語では姓が名の前に来る)。ユダヤ人でもあったケメニーは、1939年にポーランドがナチス・ドイツに侵攻されたため(本連載第6回)、ハンガリーも同様に危険があると考えた父とともに、13歳の時に一家でアメリカに移住する。他のユダヤ人同様、ニューヨークで育ったケメニーは数学の才能を発揮し、プリンストン大学に入学するが、第二次世界大戦中の終わり頃に陸軍に招集され、マンハッタン・プロジェクトに関わることになる。ここでケメニーは、同郷のフォン・ノイマンと出会うのである。戦後、プリンストン大学でチャーチの指導のもと博士号を取得したケメニーは、プリンストン高等研究所でアインシュタインの助手をしていたのだが、フォン・ノイマンとアインシュタインの推薦により、ダートマス大学の教授となる。なんと27歳の若さだった。
     一方マッカーシーはといえば、1951年に博士号を取得した後、いくつかの大学を点々としていた。ところが、ダートマス大学数学者の後任候補としてリストアップされる。ケメニーが、よく知っている後輩のマッカーシーを推薦したためだ。こうしてマッカーシーは、ダートマス大学に勤務することになるのである。  ダートマス大学で働き始めたマッカーシーに、さらに思いがけない出来事が生じる。1955年の夏、IBMがニューイングランド計算センター(New England Computation Center)を設立したのだ。このセンターはボストンにあるMITのキャンパス内にあったのだが、当時売り出し中だったIBM 704──IASコンピューターを元に設計されたIBM 701の後継機だ(本連載第14回)──が設置されており、ニューイングランド地域の大学の利用が許されていた。ニューイングランドとは旧イギリス植民地のことだ(本連載第11回)。ハーバード大学やMITのあるマサチューセッツ州もそうだが、マッカーシーにとって幸運なことに、ダートマス大学のあるニューハンプシャー州もニューイングランド地域の一部だったのだ。  ニューイングランド計算センターでマッカーシーには重要な出会いがあった。まずは、大学院時代の友人、マーヴィン・ミンスキーだ。ミンスキーはのちにマッカーシーとともにMIT人工知能研究所を作ることになる高名な人工知能および認知科学の研究者だ。  マッカーシーと同じ1927年生まれのミンスキーは、ユダヤ人であり、ユダヤ人の多いニューヨークで生まれ育つ。高校卒業時が第二次世界大戦まっただなかの1944年だったこともあり、卒業後にミンスキーは海軍に入隊する。終戦後、ハーバード大学に入学し、大学院はプリンストン大学に進学。ここでマッカーシーと出会うのだ。博士号を取得した後、ミンスキーは母校であるハーバード大学で働いていたのだが、彼もまた、IBM 704を求めてMITのニューイングランド計算センターにやってくるようになっていたのである。再会した彼らの友情は生涯のものとなる。  マッカーシーはニューイングランド計算センターで、IBM 701の設計者であるナサニエル・ロチェスターとも知り合う。彼ら3人に、マッカーシーが博士号取得後に一時的に働いていたベル研究所で知り合った、情報理論の生みの親クロード・シャノンを加えた4名が、ダートマス会議の発起人になるのである。
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  • アナログからデジタルへ〜「ノイマン型」コンピューターの誕生|小山虎

    2021-02-10 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第14回。現在では「コンピューターの父」として知られるジョン・フォン・ノイマン。ただし、最初期の電子計算機であるENIACやEDVACの開発への関与は限定的で、ノイマン一人が名声を受けることへの疑義や軋轢は当初からありました。そうしたなか、ノイマン自身が果たしたコンピューター黎明期における功績の本質とは何だったのかを改めて探ります。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第14回 アナログからデジタルへ〜「ノイマン型」コンピューターの誕生
     前回述べたように、フォン・ノイマンは、ENIACが開発されたアバディーン性能試験場の弾道研究所の顧問を務めていたが、ENIACの開発に最初から関わっていたわけではなかった。フォン・ノイマンがコンピューターの開発に関わるのには、複雑な経緯と様々な偶然があったからである。今回は、その経緯をたどってみたいと思う。  ところで、ENIACは世界初のコンピューターだとされることもあるが、厳密には「世界初の汎用電子計算機(コンピューター)」の方が正確である。同じように、いわゆる「ノイマン型コンピューター」についても、それが何を指すのかは、実のところあまり明らかではない。この名前は、フォン・ノイマンによるEDVACの報告書で提示されたことに由来するが、その内容は、フォン・ノイマン個人というよりは、ENIACおよびEDVAC開発チームによるところが大きい。だから、その意味では「ノイマン型」という名称はあまり適切ではない。また、ノイマン型コンピューターの特徴とされるプログラム内蔵方式についても、現在では、それを最初に考案したのはフォン・ノイマンではないと考えられている。
     ということは、本当はフォン・ノイマンは、世間で言われているようなコンピューターの歴史に輝く重要人物などではなかった、ということなのだろうか。必ずしもそうとは言えない。もし「ノイマン型コンピューター」を、フォン・ノイマン自身が構想していたようなコンピューターだと考えるのであれば、それは確かに存在するだけでなく、コンピューターの歴史において極めて重要な地位を占めるようなものなのだ。  そのような「ノイマン型コンピューター」とは何か。それを説明するために、まずはどうして弾道研究所でENIACが開発されるに至ったのかの話から始めよう。そこで重要な役割を果たすのは、「アナログ」のコンピューターである。
    アメリカ陸軍とペンシルベニア大学を結びつけた「アナログ」コンピューター
     これも前回触れたことだが、アバディーン性能試験場は第一次世界大戦中に設立されたものである。当然ながら、終戦後はその中心的な役目が失われたため、予算は大きく削減されていた。試験場の弾道学部門は、戦争中にヴェブレンが戦後も継続的に研究することを推薦する報告書を残していたこともあり、規模は小さくなりながらも削減されることなく残されていたのだが、1935年に他の部門と合併し、一つの研究所となる。それが弾道研究所(Ballistic Research Laboratory)だ。  研究所になったとはいえ、予算やスタッフが増員されたわけでもなく、相変わらず細々と研究が続けられていたのだが、数年後に転機がやってくる。第二次世界大戦の勃発である。  1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。ちょうどそれは、タルスキがアメリカ・ハーバード大学で開催される科学哲学の国際会議に出席するために母国ポーランドから旅立ってまもなくのことだった。開戦により生き別れになった家族とタルスキが再会するには、それから7年もの歳月が必要だった(本連載第6回)。 アメリカはすぐには参戦せず、様子をうかがっていたものの、実際にヨーロッパで戦争が始まると、アメリカ国内への影響は少なからずあった。特に弾道研究所は、戦争勃発の恩恵を大いに得る。1940年から1945年にかけて、弾道研究所の予算とスタッフ数は十倍以上に膨れ上がるのだ。ENIACの開発も、この戦争による弾道研究所の規模拡大がもたらしたものなのである。
     ところで、以前にも触れたが、実際にENIACの開発を担当したのはペンシルベニア大学だ(本連載第9回)。つまりENIACは軍産複合体の産物である。それが可能になったのは、ペンシルベニア大学と弾道研究所には、ENIACの開発以前から結びつきがあったからだ。  コンピューターの誕生以前、弾道の計算には機械式のアナログ計算機が用いられており、弾道研究所では「微分解析機(Differential Analyzer)」というものが使用されていた。ペンシルベニア大学はペンシルベニア州の州都フィラデルフィアにあるのだが、フィラデルフィアは研究所のメリーランド州アバディーンから車で行ける距離であり、より高性能な微分解析機を所有していた。そこで、陸軍が資金を出し、ペンシルベニア大学の電気工学部──といっても日本の大学の「学部」とは違い、ロー・スクールやメディカル・スクールと同様、専門家を養成する大学院であり(本連載第9回)、正式名称も「ムーア電気工学スクール(Moore School of Electrical Engineering)」というのだが──が互いの所有している微分解析機の性能を向上させるという共同プロジェクトが行われていたのだ。
    ペンシルベニア大学で用いられていた微分解析機(1942-1945年ごろ)(出典)
     このような大学と軍の共同プロジェクトは、当時は珍しいものではなかった。むしろ、推奨されていたと言ってもいい。なぜなら、第一次世界大戦中に米軍から資金援助を受けることで大きくなった大学がいくつもあったからだ。その代表例が、マサチューセッツ工科大学(MIT)である。1861年に設立されたMITは、当初はカレッジですらない専門学校のようなものであり、経営も安定せず、近くにあるハーバード大学の工学部に何度も吸収されそうになるほどの弱小大学だった。それが、第一次世界大戦中に海軍の航空機パイロット訓練プログラムを請け負うことで一変する。軍や関連産業に協力することで教育研究を充実させ、経営の安定化や規模拡大を実現する。これが第一次世界大戦後のアメリカの大学では、主流のビジネスモデルだったのだ。
     ペンシルベニア大学は弾道研究所以外にも様々なプロジェクトを受注していたが、1942年、かつてないほどに性能を向上させるプロジェクトとして、デジタルの計算機(コンピューター)の開発がペンシルベニア大学から弾道研究所に提案される。これがENIACとなるのである。  ENIACの開発を提案した中心人物は、ジョン・モークリーという若い物理学者だった。モークリーの専門は天体物理学であり、天体の軌道計算と弾道の計算の両方で微分解析機を駆使していた経験から、より高性能な計算機を求めており、大学院生のジョン・プレスパー・エッカートと協力し、ENIACを構想したのだ。モークリーとエッカートの二人は、ENIACの開発者として、コンピューター・サイエンスに名を刻むことになる。  ところで、ENIAC開発を提案した当時、モークリーはまだペンシルベニア大学に来たばかりだった。彼がペンシルベニア大学に来るきっかけも戦争だった。
    1942年、フィラデルフィア〜戦争のために分野を越えて集まった4人の開発者たち
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  • どうしてフォン・ノイマンとゲーデルはアメリカにやってきたのか──アメリカ学問の中心地プリンストンの誕生|小山虎

    2020-12-15 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第13回。ヒトラーのナチス総統への就任がせまる1930年代、いち早く渡米してアメリカの学術研究の中心地になるプリンストン高等研究所に所属することになったフォン・ノイマンとゲーデル。二人をこの地に招き寄せ、結果的にのちのコンピューター技術発展の立役者になった先達の数学者らの足跡を追いかけます。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第13回 どうしてフォン・ノイマンとゲーデルはアメリカにやってきたのか──アメリカ学問の中心地プリンストンの誕生
     前回はアメリカに来てからのタルスキに焦点を当てた。では、フォン・ノイマンとゲーデルはいつ、どのようにしてアメリカにやってきたのだろうか。フォン・ノイマンが初めてアメリカ・マンハッタンの地を踏んだのは、1930年にまで遡る。タルスキの9年前、アシモフの5年前だ。プリンストン大学に招聘されたフォン・ノイマンは、それから数年、アメリカとドイツを行き来する生活をすることになる(本連載第1回)。そして、1933年に設立されたプリンストン高等研究所の最初のメンバーとなり、ここを拠点にして様々な活動を行う。コンピューターの開発に関わり、ノイマン型アーキテクチャーを考案するのもその一つだ。  ゲーデルの最初の渡米は、フォン・ノイマンより3年後の1933年の秋。アシモフのコロンビア大学面接(本連載第11回)より1年半ほど前のことである。その時ゲーデルは、フォン・ノイマンのいるプリンストン高等研究所のメンバーとして1年間滞在し、オーストリアに帰国する。その後ゲーデルは2度アメリカを訪れるが、最終的に1940年に渡米した後、アメリカ市民権を取得して永住することになる。  だが、どうして彼ら二人はアメリカに、そして同じプリンストンという土地に来ることになったのだろうか。そのためには、アメリカに来て以降のフォン・ノイマンとゲーデル両名の終生の地となったプリンストンの歴史をひもといてみる必要がある。
    研究大学としてのプリンストン大学の誕生
     プリンストンといえば、まず思い浮かぶのはプリンストン大学だろう。プリンストン大学は、世界の研究をリードするトップクラスの名門大学の一つであり、我が国でもその名は広く知られている。だが、意外かもしれないが、フォン・ノイマンとゲーデルが初めてプリンストンにやってくるよりも前の1920年代までのプリンストン大学は、決して現在のような世界的にも高名な大学ではなかった。  プリンストンは、ニューヨーク州の西隣にあるニュージャージー州の決して大きくない町である。ニュージャージー州は、隣接するニューヨーク州がもとはオランダ領だったこともあり(本連載第11回)、オランダ移民が多く、彼らが建設した入植地が数多くあった。プリンストンもその一つであり、その名もオランダにちなんだものだ。現在のオランダ王家は、オラニエ=ナッサウ(Oranje-Nassau/Orange-Nassau)家というが、オラニエ=ナッサウ家では、代々の当主が「オラニエ公(Prins van Oranje/Prince of Orange)」という肩書きを受け継ぐしきたりになっている。プリンストンという名は、そのオラニエ公の町、すなわち、「プリンス(公)のタウン(町)」ということで、「プリンストン(Princeton)」と呼ばれるようになったとされているのだ。
     「プリンストン大学」という名前は、所在地であるプリンストンという町に由来するものだが、最初から「プリンストン大学」だったわけではない。もともとプリンストン大学は、ニュージャージー州の最初の大学として1746年に設立されたものであり、当初は「カレッジ・オブ・ニュージャージー(College of New Jersey)」という名称だった。本連載の読者であれば、カレッジということから推測できるかもしれないが、アメリカ最古の大学であるハーバード大学と同じく、当初は聖職者養成を目的としたものであり、現在のような研究大学ではなかった(本連載第9回)。  カレッジ・オブ・ニュージャージーは設立10年目の1756年に、プリンストンに引っ越してくる。だが、「プリンストン大学」という名前になるのはもっと後になってからだ。1896年、創立150周年を迎えたカレッジ・オブ・ニュージャージーはそれを機に、所在地に合わせ、名称を「プリンストン大学(Princeton University)」と変更する。そして改名と歩調を合わせるかのように、プリンストン大学は、現在我々の知る世界的な研究大学への道を歩み始めるのである。
     プリンストン大学が研究大学へと変わるきっかけとなったのは、1902年、後にアメリカ大統領となるウッドロー・ウィルソンがプリンストン大学の学長に就任したことだ。ウッドロー・ウィルソンはプリンストン大学の卒業生であり、ジョンズ・ホプキンス大学大学院で政治学を学んで博士号を取得した後、母校プリンストン大学に教授として帰ってくる。そしてウィルソンは、母校をジョンズ・ホプキンスのような研究大学へと変えることを目指し、学長に就任するのである。プリンストン学長としての手腕を評価されたウッドロー・ウィルソンは政治家に転身し、ニュージャージー州知事となる。そしてさらには第28代アメリカ大統領となる。博士号を持ったアメリカ大統領は彼が最初だ。
     ジョンズ・ホプキンス大学はアメリカ最初の研究大学だった(本連載第9回)。ウィルソンは、自らが博士号を取得したジョンズ・ホプキンスを参考に、プリンストンに大学院を設置し、研究大学への道を進ませる。それを実現するためにウィルソンは教授陣の数も倍増させる。また、それまでプリンストンにはいなかった、ユダヤ人やカトリック教徒の研究者も迎え入れる。ウィルソンの大胆な改革には、保守的な旧来の教授陣や同窓生からの抵抗も大きく、これがウィルソンの政治家転身のきっかけでもあったのだが、ウィルソンによる一連の改革がなければ、いま我々が知るようなプリンストン大学がなかったことは疑いない。
    プリンストン大学最古の建物ナッソー・ホール(Nassau Hall)。この名称もまたオランダ王家オラニエ=ナッサウ(Oranje-Nassau)家から来ている。(画像出典)
    アメリカの数学を変えた男、オズワルド・ヴェブレン
     さて、ウッドロー・ウィルソンによる大学改革により、一人の数学者がプリンストンに職を得ることになった。彼の名はオズワルド・ヴェブレン。ヴェブレンこそ、フォン・ノイマンとゲーデルをアメリカに招いた張本人である。彼ら二人以外にも、例えばアインシュタインを招いたのもヴェブレンであり、ヴェブレンがいなければ、こうした数学や物理学の歴史で一、二を争うような学者がアメリカに来ることは、おそらくなかっただろう。それだけではない。様々な意味でヴェブレンは、アメリカの数学を大きく変えた人物なのである。

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  • アメリカでのタルスキ〜幻の「タルスキ型」コンピューター|小山虎

    2020-10-22 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第12回。ナチス・ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発する直前、統一科学国際会議への出席のために渡米したタルスキ。もはや帰国もかなわず、アメリカの研究機関に職を求めて東西海岸を流転した大数学者の足跡が、分析哲学という知の端緒になったほか、フォン・ノイマンのそれと競うかたちで、「幻のコンピューター構想」を生み落とします。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第12回 アメリカでのタルスキ〜幻の「タルスキ型」コンピューター
    1939年、マンハッタン
     前回はマンハッタンのユダヤ人哲学者の話だった。若きアシモフが初めてマンハッタンに足を踏み入れてから4年後の1939年の8月、別のユダヤ人が初めてマンハッタンに足を踏み入れる。タルスキである。今回は、アメリカにやってきた後のタルスキに焦点を当てたい。  その前に、本連載でこれまでに見てきたタルスキの足跡を振り返ろう。タルスキはゲーデルと並ぶ20世紀最大とも呼ばれるほどの大論理学者である。また、哲学でも、分析哲学を学んだものならその名を知らないものはいないと言ってよいほどの知名度を誇る。なぜなら、分析哲学では「意味論(Semantics)」というものがあちこちで登場するのだが、それは普通、「タルスキ型意味論(Tarskian Semantics)」と呼ばれるものであり、タルスキの業績に由来するものだからである。
     タルスキはゲーデルにとって、数少ない親友の一人でもあった。彼ら二人が初めて出会ったのは1930年のウィーンだ。タルスキは1918年、生まれ故郷のワルシャワ大学に進学し、若くして数学の天才として知られるようになるのだが、1929年にウィーン学団の先輩数学者であるカール・メンガーが父親の出身地であるポーランドを訪問した際にタルスキと出会い、ウィーンに招待したのだ(本連載第1回)。  それ以降、タルスキはウィーン学団、およびウィーン学団が推進する統一科学運動に関わることになる。タルスキが渡米するのも、アメリカ・ハーバード大学で開催される第5回統一科学国際会議に参加するためだった。友人であり分析哲学を代表するアメリカ人哲学者クワインの強い勧めがあったからだ。だが、タルスキがポーランドを発ってすぐ、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。無事アメリカについたものの、戦乱に陥った祖国、そしてそこに残してきた家族や友人たちを案じることで頭がいっぱいだったタルスキの前に現れたのは、ベルリン・グループと呼ばれるドイツの科学哲学者(本連載第5回)の一人、カール・グスタフ・ヘンペルと、フォン・ノイマンだった(本連載第6回)。
    ニューヨークのポーランド人〜渡米直後のタルスキの奮闘と様々な出会い
     ヘンペルは以前の統一科学国際会議でタルスキと面識があり、また先にアメリカという土地にやってきたヨーロッパ人ということもあり、様々な不安を抱えるタルスキを安心させようとニューヨークを案内した。また、ヘンペルは、彼と同じくナチスの迫害を受けドイツからアメリカへと渡ってきた論理学者のオラフ・ヘルマーをタルスキに紹介している。ヘンペルもヘルマーも、アメリカに来たはいいものの職を探すのに苦労していた。当時のアメリカは、彼らと同じくナチスの手を逃れて移住したヨーロッパからの知識人で溢れていたからだ。幸い彼ら二人にはあてがあった。ロックフェラー財団だ。ロックフェラー財団は、フォン・ノイマンのゲッティンゲン留学を支援し(本連載第6回)、またタルスキのウィーン滞在も支援するなど(本連載第1回)、科学哲学や論理学を積極的に支援していた。ヘンペルとヘルマーはフォン・ノイマンやタルスキほどの知名度はなかったが、ニューヨークにあるロックフェラー財団本部の恩恵を受け、一足先にアメリカへと移住し、シカゴ大学の哲学教授になっていたウィーン学団の科学哲学者カルナップのアシスタントをして糊口を凌いでいたのである。
     だが、タルスキには、彼ら二人のドイツ人とのんびりニューヨークを観光している時間はなかった。統一科学国際会議のために、ハーバード大学のあるマサチューセッツ州ボストンにすぐさま移動しなければならなかったからだ。そして会議にも戦争が暗い影を落としていた。大会プログラムを見ると、氏名の後に「?」がついた発表者が少なからずいる。これは、戦争により参加できるかどうかが不明になったヨーロッパからの参加者を表すしるしである。タルスキの名前にもそのしるしがあった。タルスキは幸運にも発表することができたが、ベルリン・グループの論理学者クルト・グレーリンクは、もはやアメリカへ行く船がなくなっていたドイツからベルギー、フランス、スペインと大陸を移動し、スペインから渡米しようとしたが、結局果たせなかった(本連載第5回)。また、タルスキとルヴフ大学論理学教授の席を争ったレオン・フヴィステクや、タルスキの教え子のアドルフ・リンデンバウム、その妻であり同じく論理学者のヤニーナといったタルスキの近しいポーランド人も、会議に姿を現すことがなかった。
     会議終了後もタルスキにはすべきことがあった。まず、そもそも彼は会議の参加だけのための短期ビザでアメリカに入国しており、そのままでは帰国しなければならなかった。ナチス・ドイツに占領されたポーランドにユダヤ人のタルスキが戻ることは、当然ながら死を意味する。それを避けるにはアメリカの永住権が必要だ。クワインやカルナップ、ラッセルらの尽力により、タルスキは無事に永住権を手に入れることができたが(そのために一度キューバまで行かなくてはいけなかったのだが)、次の問題は職だ。タルスキの知名度はヘンペルやヘルマーより上だったが、ヨーロッパから逃げ延びてきた知識人であふれていたアメリカで、高い名声を持つ大学の教授職を得るのは容易ではなかった。第5回統一科学国際会議開催に関わったハーバード大学の面々の尽力により、ハーバード大学での非常勤研究員のポストは確保できたものの、給与はわずかであり、他の収入源が必要だった。結局タルスキは、ニューヨーク市立カレッジ(シティ・カレッジ)での半年間だけの教授職に就くことになる。こうしてタルスキは、またマンハッタンに戻ることになるのである。1940年のことだった。
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  • ニューヨークの大学とユダヤ人哲学者の系譜|小山虎

    2020-09-02 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第11回。19世紀後半の中東欧の動乱を受け、新大陸に殺到したユダヤ系移民たち。その中の一人に、のちにアメリカを代表するSF作家となるアイザック・アシモフの姿もありました。彼が直面したニューヨーク近郊の大学での「ユダヤ人問題」を背景に、科学と哲学を架橋する知的土壌が築かれていくさまを活写します。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第11回 ニューヨークの大学とユダヤ人哲学者の系譜
    1935年、マンハッタン
     1935年の春、一人のユダヤ人の若者が生まれて初めてマンハッタンを訪れた。彼はまだ15歳だったが、飛び級でコロンビア大学に入学する機会を得て、面接審査に臨もうとしていたのだ。彼の名は、アイザック・アシモフ。後に『われはロボット』や『ファウンデーション』シリーズ、そしてロボット三原則で知られるようになるアメリカを代表するSF作家だ。アシモフはロシア生まれだったが、ロシア革命の影響を受けて一家でアメリカに移り住み、マンハッタンの対岸にあるブルックリン地区で幼少時代を過ごしていた。  若きアシモフの面接はうまくいかなかった。だが奇妙なことに、面接官は、コロンビア大学付属のセス・ロウ短大(Seth Low Junior College)という学校がブルックリンにあることをアシモフに教え、入学を勧めた。ニューヨークで育ったアシモフはコロンビア大学についてはよく知っていたが、地元にあるこの短大のことは全く聞いたことがなかった。とりあえずお礼を言って帰宅し、セス・ロウ短大の入学について調べたアシモフは一つの結論に達する。面接官がセス・ロウ短大を勧めたのは、自分がユダヤ人だったからに違いない、と。  セス・ロウ短大は1928年から1936年という短期間だけブルックリン地区に存在した学校だ。入学資格はコロンビア大学の学部であるコロンビア・カレッジと変わらず、学費も同額だったが、二年制であるため卒業しても学士号は得られない。学士号を得るにはロー・スクール等に改めて入り直す必要があった。そして、学生の大半はユダヤ人、それ以外もブルックリン在住のイタリア系アメリカ人のみという極めて偏った構成をしていた。要するに、セス・ロウ短大は、アシモフのようなブルックリン在住で、コロンビア大学への入学を希望するユダヤ人の若者を、コロンビア大学本体から「隔離」するのを目的に設立されたものだったのだ。
     前回も触れたように、新天地アメリカへと渡ってきたユダヤ人の多くはニューヨーク近郊に住み着いた。このことには様々な要因があったのだが、今回は特に大学に焦点を当てたい。彼らがニューヨークの大学へと進学していったことは、20世紀のアメリカ哲学にとって重要な意味を持っていたのだ。

    セス・ロウ短大は独自の建物すらなく、ブルックリン・ロー・スクールという別の学校の建物の一角に間借りしていた。http://www.columbia-current.org/seth_low_junior_college.html
    宗教と結びついていた建国当時のアメリカの大学
     建国当時のアメリカの大学はすべて「カレッジ」であり、その主な役割は聖職者育成だったが(本連載第9回)、聖職者といってもプロテスタントに限られていた。イギリス植民地時代に設立されたアメリカの大学は全て、特定のプロテスタント宗派と結びついていたからだ。例えばアメリカで最も古い大学であるハーバード大学の場合、設立当初の入学者の大半は、プロテスタントの中でも、あのメイフラワー号でアメリカにやってきたピルグリム・ファーザーズと同じ、ピューリタンだった。  ピルグリム・ファーザーズは現在のマサチューセッツ州プリマスに入植地を建設する。このプリマス入植地が近郊の他の入植地と合併して──正確には、より大きく成長していた後発のマサチューセッツ湾入植地に吸収されて──マサチューセッツ入植地となるのだが、いずれの入植地も、ピルグリム・ファーザーズをまねてアメリカに渡ったピューリタンが建設したものであり、支配層はピューリタンだった。実際、初期のマサチューセッツ植民地には、ピューリタンでなければ選挙権がなかったほどだ。そしてハーバード大学を設立したのは、そのマサチューセッツ入植地政府である(本連載第9回)。こうした経緯もあり、別に設立規約に定められていたわけではなかったものの、ハーバード大学は、自然とピューリタン向けの大学となった。20世紀に入るまでカトリックやユダヤ人の学生は数%程度だったと言われている。  似たような事情でピューリタン向けだった大学は他にもある。例えばイエール大学がそうだ。マサチューセッツ入植地は後にマサチューセッツ州になるのだが、マサチューセッツ州をはじめとするアメリカ北東部の6州は、いずれもマサチューセッツ同様にイギリスから逃れてきたピューリタンたちが設立した入植地に端を発するものであり、これら旧イギリス植民地はニュー・イングランド地域と呼ばれるようになる。コネチカット州のその一つなのだが、イエール大学は1701年にコネチカット入植地政府によって神学校として設立されたものである。
     だが、ユダヤ人が多く住み着くことになるニューヨークでは事情が異なっていた。そもそもニューヨークは、古くはニーウ・アムステルダム(Nieuw Amsterdam/New Amsterdam)といい、オランダの植民地であるニーウ・ネーデルラント(Nieuw Nederland/New Netherland)に属していた。ブルックリンやハーレムといった著名な地名も、オランダに由来するものである。ニーウ・ネーデルラントは、第三次英蘭戦争の講和条約である1674年のウェストミンスター条約によってイギリスに割譲されるが、オランダの多文化主義や宗教的多様性はそのまま残されることになる。  ニューヨーク最初の大学は、1754年に設立されたコロンビア大学だ。当時の名前は「キングス・カレッジ(King&#39s College)」といい、イギリス国王ジョージ二世の名の元に設立された。宗教的には、イギリス国王を長とするイングランド国教会(アングリカン・チャーチ)に属していたものの、オランダ領だった伝統のおかげで宗教的自由が広く認められていたことという点では、ニュー・イングランドのハーバードやイエールとは異なっていた。  アメリカの独立は、イギリス国王によって設立されたキングス・カレッジにとっては痛手となり、独立後に閉鎖されることになる。キングス・カレッジは1784年、アメリカの古い呼称である「コロンビア」を用いた愛国的な名称「コロンビア・カレッジ(Columbia College)」でもって再出発することになる。その後、アメリカの他の大学と同様に、ロー・スクールやメディカル・スクール、そして大学院を供えるようになったコロンビアは、1896年、正式に「コロンビア大学(Columbia University)」と改称するのである。  こうした経緯もあり、19世紀のコロンビア大学はユダヤ人が多い大学として知られていた。19世紀の終わり頃、当時のアメリカ総人口のうちユダヤ人の割合は3%であり、アイビー・リーグ(コロンビア大学を含むアメリカ北東部の名門私立8大学の総称)全体のユダヤ人学生の割合は7%だったが、コロンビアでは15%にものぼっていたという。

    オランダ領時代のマンハッタンの様子(1660年)。 左右に伸びる広い道が後のブロードウェイ、 右側の上下の道が後のウォール・ストリートだと言われている。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CastelloPlanOriginal.jpg
    「ユダヤ人問題」と「消えていくニッカボッカー」〜アイビー・リーグを恐れさせたユダヤ人学生の増大
     アイビー・リーグの中でも特にユダヤ人を多く入学させていたコロンビアが、どうして若きアシモフにこのような差別的な待遇をしたのだろうか。
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  • 新世界より〜オーストリアからアメリカへと渡った移民たち | 小山虎

    2020-07-21 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第10回。前回までに辿ったアメリカにおけるドイツ的な知の風土の移植に対し、いよいよオーストリア的な知の流転にスポットを当てます。故国の動乱を追われたオーストリア帝国諸邦の移民たち、とりわけ最も「オーストリア的」な民としてのユダヤ系移民は、新世界に何を求めたのか?
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第10回 新世界より〜オーストリアからアメリカへと渡った移民たち
    アメリカへの移民供給元となっていた19世紀後半のオーストリア
     本連載第8回でも言及したが、ドイツからアメリカへという知の流入は、19世紀半ばに始まる。特に、1848年のドイツ三月革命の失敗後、弾圧の対象となったリベラル派のドイツ人知識層がアメリカにやってくる。アメリカ建国期からの支配層に牛耳られていた東海岸に安住の地を見つけられなかった彼らが向かったのは中西部であり、その中心地となったのが、オハイオ州シンシナティ、そして「セントルイスのヘーゲル主義者たち」がいたミズーリ州セントルイスだった。だが、こうした知識層のアメリカ移動は、ドイツだけではなく、オーストリアでも起こっていたのだ。いや、それどころか、オーストリアはドイツよりもずっと多く、アメリカへの移民を生み出していたのだ。  ドイツ三月革命では、ウィーンでも民衆蜂起が起きており、ウィーン会議を取り仕切った帝国宰相メッテルニヒが失脚していた。同時期に、当時はオーストリア帝国に属していたチェコのプラハでも民衆が蜂起した。時の皇帝フェルディナンド一世は、ウィーンの暴動を鎮圧するのを優先すべく、民衆の声をいったん聞きいれ、彼らが要求するチェコ人とドイツ人(ドイツ語を母語とするオーストリア人)の平等を実現するために仮政府が樹立される。  だが、これを良しとしなかったものもいた。チェコ国内に住むドイツ人だ。チェコはドイツと隣接しているだけでなく、チェコ(厳密にはチェコ西部であるボヘミア)自体はチェコ語を話すチェコ人の国でありながら、古くから神聖ローマ皇帝の支配下にあり、有力な帝国諸侯の一つとしてドイツとの往来も頻繁で、多くのドイツ人がチェコに住んでいた。  加えて、当時のオーストリア帝国は広大な多民族国家であり(第2回)、帝国内での移動は日常的におこなわれていた。外国人と区別するために、オーストリア国籍とは別に、国内のどこの地域が出身地かを示す「本籍(Heimatrecht)」を定める法律があったほどだった。このようにオーストリアは、帝国本体が多民族国家であるだけでなく、帝国を構成する諸国もその内部では様々な少数民族を抱えていたのだ。特にドイツ人は帝国の支配階級であり、各国に散らばっていた。彼らにとって、当時盛んになっていた民族自決主義は、自らの立場を危うくするものでしかなかったのだ。
     チェコで民族対立が広がりつつあった1848年5月、ドイツ統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開催される(第8回)。この「ドイツ統一」の対象となったのは神聖ローマ帝国を構成した諸邦だったのだが(第2回)、オーストリアの一地方ながら旧帝国諸邦の一つでもあったチェコにも議員を派遣するよう、要請が来る。チェコ人主体の仮政府は当然のように、フランクフルト国民議会への議員派遣を拒否する。このことはチェコ国内のチェコ人とドイツ人の対立をさらに激化させ、やがて首都プラハで暴動が発生する。それを見たオーストリア政府はすかさず方針を転換し、プラハを軍事制圧するのである。仮政府も解散させられ、プラハの革命はかくして失敗に終わるのである。  チェコと同じくオーストリア帝国の版図に含まれていたハンガリーのブダペストでも、革命が起きようとしていた。ここでもまたオーストリア皇帝は、いったんハンガリーの立憲君主制への移行を約束し、ハンガリー人を中心とする新政府が発足する。しかし、こうした恩恵を得ることはできたのはハンガリー人だけだった。ハンガリー国内にはドイツ人のみならず、クロアチア人やルーマニア人などが様々な民族が住んでいたのだ。ハンガリー新政府に対する彼ら非ハンガリー人の反感は、チェコと同様、大きいものだった。  1848年11月、プラハをはじめとする帝国内部での暴動を次々と鎮圧していたオーストリアは、最後の反乱分子となっていたハンガリーに宣戦布告する。ハンガリー新政府に批判的な非ハンガリー人を中心とした部隊を組織するというオーストリアの戦略は功を奏し、翌1849年1月にはブダペストを占領する。  このように、19世紀の後半には、ドイツ人だけでなく、チェコやハンガリーをはじめとするオーストリア帝国を構成する諸国からも、政治的対立や圧政を受けてアメリカへと移民するものが相次いでいたのである。
     じつのところ、1848年の革命失敗によってアメリカ移民が増えたという点では、ドイツとオーストリアは変わらない。だがその後、両者の立ち位置は対照的なものとなっていく。当時のドイツ諸邦で主導権争いをしていたのは、プロイセンとオーストリアだった(第2回)。しかし、大学改革に成功したプロイセンは、産学協同を軸に重工業化を進め、オーストリアとの主導権争いに勝利。1871年にはプロイセン中心のドイツ帝国が成立する。アメリカは、こうして国力でも学問でも世界をリードする国家となったドイツを手本とするようになるのである(第9回)。  一方、カトリック国家であったオーストリアの大学は、相変わらず教会の強い影響下にあり、旧態依然としたままだった。工業化も一部の地域でしか進まず、取り残された地域では、より強まったオーストリア帝国の圧政のもとで農民たちが貧困に喘いでいた。彼らの中には、職を求めてドイツやフランスといった国外へと出稼ぎに行くものがいた。広大な多民族国家だったオーストリア帝国では、国内での出稼ぎは当たり前のようにおこなわれていたからだ。そして発展を続けるアメリカもまた、やがて主要な出稼ぎ先の一つとなっていた。19世紀終わり頃のオーストリアは、ドイツとは対照的に、アメリカへの移民の主要な供給元になっていたのである。  彼らオーストリア移民が目指したのは、ドイツ移民と同じく中西部のオハイオ州やイリノイ州、さらには、その西にあるウィスコンシン州やミネソタ州にまで及んだという。ミネソタ州には、その名も「ニュー・プラーグ(New Prague)」という街がある。もちろん「プラーグ」とは、チェコの首都プラハ(Praha/Plague)の英語表記である。  チェコの国民的作曲家のアントニン・ドヴォルザークは、1892年から約3年アメリカに滞在している。代表作「新世界より」を作曲したのはこの時期だ。ドヴォルザークは主にニューヨークで暮らしていたが、「新世界より」の作曲後、知人に招かれて中西部のイリノイ州スピルヴィルという街で休暇を過ごす。スピルヴィルには多くのチェコ人が住んでおり、そこにいる時は故郷にいるように感じられたとドヴォルザークは回想している。結局ドヴォルザークはホームシックのために帰国するのだが、ヨーロッパとは大きく異なる東海岸とは違い、中西部には故郷を思わせるものが数多くあったのだろう。

    イリノイ州スピルヴィルのドヴォルザーク逝去75周年記念スタンプ(1975年)(引用) Public Domain
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  • アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷 | 小山虎

    2020-06-11 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第9回。これまで中欧からアメリカに渡った学問や思想の潮流や担い手たちを辿ってきましたが、今回は知の生産を担う「大学」制度に光を当てます。宗主国イギリスのカレッジ制度を範に出発したアメリカの大学は、南北戦争後の「ドイツ化」の波を経て、次第に独自の発展を遂げていきます。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第9回 アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷
    どうしてENIACは大学で開発されたのか?
     コンピューターの歴史にその名を刻むENIACが開発されたのはペンシルバニア大学である。現在の視点からすると、大学がコンピューターを開発することに何の奇妙さも見出されないだろう。じっさい、Google、Apple、MicrosoftといったIT界の巨人たちはみな、その誕生の物語が大学と結びついている。  しかし、改めて考えてみると、今となっては常識にしか見えないことにうちに隠れているミステリーが浮かび上がってくる。例えば、試しに考えてみて欲しい。ENIACが高校で開発されるなどということは、ちょっと想像できないのではないだろうが。もちろん、小規模のものなら高校でも可能だったかもしれないが、周知の通り、ENIACは巨大であり(設置には167平方mのスペースが必要だったという)、開発のためのスペースを確保することすら容易ではない。しかし、なぜ高校では不可能なものが大学では可能になるのだろうか。もし大学が高校卒業後に学ぶ次の学校に過ぎないのなら、高校と同じような困難があるはずである。問題はスペースだけではない。開発のための予算がどこから入手するのか。誰が何のために開発するのか。大学では中学や高校とは違って、こうしたことは問題にならない。その理由はなぜかというと、大学は教育だけではなく、研究もおこなう機関だからだ。  くどくど述べたが、大学では教育とともに研究もなされていることは、大学院に進学した人や理系の研究室に所属したことのある人には、改めて述べるようなことではないだろう。だが、ここで立ち止まらず、さらに考えて欲しい。どうして大学では、高校までと異なり、研究もおこなわれているのだろうか。そもそもどうして学校で研究もする必要があるのだろうか。  コンピューター誕生の背景には、今となっては当たり前の、「研究機関としての大学」の存在がある。だがそれは、大学という制度が誕生した当初からのものではなかった。コンピューター、そしてコンピューター・サイエンスという学問は、アメリカに「研究機関としての大学」が根づいたことによって初めて誕生したものだ。今回はこのことに焦点を当ててみたい。
    大学の歴史〜世界最古の大学からアメリカ最古の大学まで
     大学の歴史は古い。世界最古の大学と言われているのはイタリアのボローニャ大学であり、11世紀に設立されたとされている(正確な年月は残されていない)。ボローニャに続くのはパリ大学、そしてオックスフォード大学であり、13世紀までにはヨーロッパの各地で大学が設立されたことがわかっている。ただし、ややこしいことに、設立当時の段階では、これらは大学とは言えない。まだ大学制度が確立されていなかったからだ。  じつのところ、設立された時点では、ボローニャ大学もパリ大学も当時世界各地にあった学校のひとつに過ぎず、世界最古と呼べる要素は何ひとつない。日本では、奈良時代(8世紀)の時点で「大学寮」と呼ばれる学校があり、大学寮で教える役職として「博士」が設置されている。その意味では、日本の「大学」の方がヨーロッパよりよっぽど歴史が古いのである。  もちろん、その名称だけを理由に、日本にはヨーロッパよりも古くから大学があった、と言うのは無理が過ぎる。事態は単に、明治期にヨーロッパから大学制度が輸入された時に、奈良時代に存在した由緒ある言葉を訳語として利用した、というだけである。そもそもヨーロッパでも、ボローニャ大学ができるよりもずっと前から同じような学校は存在した。ボローニャ大学は法学校として始まるが、もちろん最初の法学校ではない。ローマにはそのずっと前から法学校があった。では、どうしてボローニャ大学は最古の大学だとされるのだろうか?  13世紀に入ると、こうした各種学校のうち一定の基準を満たしたものに対して、ローマ教皇が「大学」として認可を与え始める(といっても、まだ「大学(university)」という名称は用いられていないのだが)。最初に認可されたのはフランスのトゥールーズ大学、次がモンペリエ大学。それ以前から名声を獲得していたボローニャ大学やパリ大学も負けじと認可を求め、無事認可される(奇妙なことに、オックスフォード大学は何度か認可を求めたにもかかわらず、結局一度も認可されることがなかった)。ローマ教皇による認可はその後、ヨーロッパ中に広まっていく。こうしてローマ教皇から認可を得た大学のうち、もっとも古くから存在していたことが確認されているのがボローニャ大学だ。ボローニャ大学が最古の大学とされるのは、このような理由からなのである。  ローマ教皇が認可していたということからもわかるように、初期の大学で重要な地位を占めていた学問は神学だった。13世紀ごろ、教会の神父やその上の司教になるためには神学をしっかり学ぶことが求められるようになり、そのための「品質保証」をしてくれる学校を定める必要が生まれていたのだ。その後もずっと、聖職者を育成することは大学の大きな役割として残り続ける。今の日本の大学でも神学部を持つものがあるぐらいだ。  現代の日本に生きる我々にはイメージしづらいが、建国当時のアメリカでひとつの問題となったのは聖職者の育成だ。前回の連載でも少し触れたが、アメリカ建国はピューリタンたちによって始められた。毎週日曜には教会の礼拝に参加するような敬虔なキリスト教徒である彼らの生活にとって、聖職者は不可欠である。そして上述のように、聖職者になるには大学で必要な課程を修了する必要があった。こうした理由により、当時のマサチューセッツ入植地政府は大学の設立を決定する。1636年のことだ。だが、大学のための土地は確保したものの、大学設立を進めるための予算が足りず、計画は頓挫する。  2年後、状況が変化する。ジョン・ハーバードという人物が、大学設立のためとして莫大な遺産を寄贈するのだ。その額は入植地政府の1年間の予算に相当するほどだったという。こうしてアメリカで最初の大学が設立される。それがハーバード大学である。ジョン・ハーバードはイギリス生まれであり、ケンブリッジ大学の卒業生だった。だからハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとして設立される。ハーバード大学が立地する土地の名前もまた、「ケンブリッジ」へと改称される。
    「カレッジ」と「大学」の差〜植民地時代のアメリカの大学
    エマニュエル・カレッジ(ケンブリッジ大学)の礼拝堂にあるジョン・ハーバードの記念碑Dolly442 at English Wikipedia / CC BY-SA
     ハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとしていたが、ケンブリッジ大学全体ではなく、その一部だった。少し細かい話になるが説明しておこう。大学制度は国ごとの違いが大きいため、日本の大学のイメージで捉えていると簡単に誤解してしまうからだ。  ケンブリッジ(およびオックスフォード)大学は、世界でも数少ないカレッジ制を採用した大学である。ざっくりいって、日本の大学が文学部や理学部などの学部によって構成されているのに対し、カレッジ制の大学は学部の代わりにカレッジによって構成されていると理解しておけばよいだろう。  学部とカレッジはある点ではよく似ている。例えば、日本の大学では学部ごとに歴史が異なる。例を挙げると、山口大学で最も古い経済学部の来歴は1905年設立の山口高等商業学校にまでさかのぼるが、最も新しい国際総合科学部が設立されたのは2015年である。一方カレッジ制の大学であるオックスフォード大学で最初にカレッジとして認められたのはマートン・カレッジであり(1274年)、最も新しいカレッジであるパークス・カレッジの設立は2019年である(ちなみに2020年6月現在でまだ一期生すら入学していない)。また、学費や予算、定員が学部ごとに異なるように、カレッジごとに学費や予算、定員もまちまちである。  このようにカレッジは学部と似ているが、最大の違いは、その名称からもわかるように、分野別ではないことである。
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  • 理想主義、観念論、そしてヘーゲル〜19世紀のアメリカ哲学 | 小山虎

    2020-05-15 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第8回。いよいよ今回からは舞台を新大陸に移し、コンピューターの開発を可能にした知的風土に迫っていきます。すべての始まりは、19世紀革命期のリベラル派ドイツ移民が流れ着いたアメリカ中西部、「セントルイスのヘーゲル主義者たち」の出会いにありました。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第8回 理想主義、観念論、そしてヘーゲル〜19世紀のアメリカ哲学
    開発中のENIACと哲学者アーサー・バークス(1946年)Douglas Harms, (2007), “Techniques to introduce historical computers into the computer science curriculum”より引用
    コンピューター・サイエンスを生み出したアメリカの知的風土とは?〜理想主義と観念論
     本連載でこれまで主に焦点を当ててきたのは、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキという3名の数学者、および彼らの知的背景にある「ドイツ的」と対比されるものとしての「オーストリア的」なものだった。第二次大戦後、アメリカ市民となった彼ら3名は、今度はアメリカの知的風土と向き合うことになる。そしてそのアメリカの知的風土こそがまさにコンピューター・サイエンスを生み出す土壌となるわけである。ということで、今回はアメリカの知的風土の話をしたい。  アメリカの知的風土ということでまず挙げるべきものは、アメリカの独自の哲学として知られるプラグマティズムであろう。とりわけ、本連載でこれまでに見てきたような、哲学者のライプニッツやカントの数学観を背景に、数学者のフレーゲやヒルベルトが生み出し、発展させた数理論理学という抽象的な学問から、コンピューターという具体的な現実のモノがアメリカにおいて生まれたのは、プラグマティズム──ときには「実用主義」という全く本質を外した訳語が当てられる──との邂逅こそがきっかけだったのだ、というストーリーには、なにか腑に落ちるところがある。  困ったことに、このストーリーがまったくの大間違いだとも言えない。実際にプラグマティズムとコンピューターには一定の関わりがあるのだ。例えば、史上初のコンピューターとも言われるENIACの掛け算機構開発を担当したアーサー・バークスは、ミシガン大学の哲学科で博士号を取得し、ENIAC開発終了後には母校に戻って教鞭を取ったプラグマティズム哲学者だった。哲学科で博士号を取得した後にコンピューターの開発に携わるなどというのは、アメリカならではの感があることだろう。
     しかし、当然のことながら、事態はそう単純ではない。そもそも「プラグマティズム」という言葉でどのようなことを念頭におくべきかは難しいという問題がある。典型的な教科書では、「プラグマティズム」を代表する哲学者として、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイという19世紀生まれの3名の名前が載っている。しかし、彼らがみな同じ「プラグマティズム」を信奉していたのではない。むしろまったく逆だ。パースは後年、プラグマティズムを広く知らしめたジェイムズとの根本的な違いを主張し、自分の立場を「プラグマティシズム(pragmaticism)」という、今日では忘れ去られた名前で呼び始めた。デューイもまた、自分の立場をプラグマティズムとは考えず、むしろ「道具主義」という名称を積極的に用いていた。彼ら3人の間に共通点ももちろんあったとは言え、当人たちにとっては違いの方が重要だったのだ。  このような代表者たちの間の相違に留まらない。著名な思想家リチャード・ローティの著作『哲学と自然の鏡』(原著出版は1979年)では、プラグマティズムは分析哲学と相反するものとして位置付けられているが、それから30年後、プラグマティズム研究者シェリル・ミサックの著作『プラグマティズムの歩き方』(原著出版は2013年)では、逆にプラグマティズムは分析哲学と互いに影響しあい、入り混じったものとされている。そもそも、プラグマティズムの捉え方が一筋縄ではいかないということ自体、今から百年以上も前、1908年の段階で既に、アーサー・ラブジョイが論文「13のプラグマティズム(The Thirteen Pragmatisms)」で指摘している。プラグマティズムを特定のイメージで語ることは極めて危うい行為なのだ。  もちろん、ここで読者に「プラグマティズムとは何か?」という哲学史上の問題につきあわせるつもりはないので安心されたい。本連載で注目するのは、「プラグマティズム」と呼ばれる多様な相違を内包した思想が19世紀末のアメリカで誕生し、世紀をまたいだ20世紀にアメリカ全土へと広まっていったという事実である。この「プラグマティズム」なるものの誕生と広まりを可能にした背景こそが、数理論理学からコンピューター・サイエンスへの橋渡しも可能にしたアメリカの知的風土にほかならない。
     では、その知的風土とはどういうものなのか。これを一言で述べるのは難しいが、あえてキーワードを挙げるとするならば、「理想主義(idealism)」と「観念論(idealism)」の二つ──あるいは数え方によっては一つ──である。  アメリカが理想主義の国であることには、それほど違和感はないのではないだろうか。アメリカは明確な建国理念がある珍しい国の一つである。アメリカ独立宣言はその冒頭で、人間の平等や生存権、自由権などが自明の真理だとみなすと宣言されている。また、「アメリカン・ドリーム」やオバマ前大統領のスローガン「Yes We Can」には、理想を追い求めることに肯定的な国民性がうかがえる。  一方の観念論についてはどうだろうか。アメリカと観念論哲学の関係についてはほとんど知られていないだろう。しかし、実は19世紀後半から第一次世界大戦までのアメリカでは観念論が支配的だったのだ。しかも、興味深いことに、その発端となったのは、ハーバード大学やイエール大学、コロンビア大学、プリンストン大学といった日本でも馴染みのある名だたる名門大学が位置するアメリカ東部の諸州ではなく、オハイオ州やミズーリ州、ミシシッピ州といった中西部の州だったのだ。いったい19世紀のアメリカ中西部では何が起きていたのだろうか?
    1858年、セントルイス〜「セントルイスのヘーゲル主義者たち」
     1858年のミズーリ州セントルイス。ミシシッピ川に面するミズーリ州最大のこの街で2人の男が出会ったことがすべての始まりだった。若い方の名はウィリアム・トーリー・ハリス。1835年に東部のコネチカット州で生まれたハリスは、名門イエール・カレッジ(正式にイエール「大学(University)」となるのは1881年のことだ)で学んでいたが、卒業前に公立学校の教師の職を得てセントルイスに来たばかりだった。年長の方は、ヘンリー・コンラッド・ブロックマイヤーという1826年プロイセン生まれの男だ。かの宰相ビスマルクの甥であるブロックマイヤーは、16歳の時に単身アメリカに移住していた──極めて信心深い母親にゲーテの詩集を燃やされたことがきっかけだったという。ニューヨークやケンタッキーで職を転々としていたブロックマイヤーがセントルイスにやってきたのは、彼が20歳の頃だった。そんな一見したところ何の共通点も持たない彼ら2人が意気投合したものこそ、ヘーゲルに代表されるカント以降のドイツ哲学、すなわち、いわゆるドイツ観念論(German Idealism)だったのだ。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第7回 インタールード〜年表と人物相関図から

    2020-04-02 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第7回。 今回はインタールードとして、世界大戦期のオーストリア諸邦とドイツを中心に、中欧における科学と哲学の交錯を追ってきたこれまでの流れを図解で振り返ります。
     前回をもって中欧圏を主舞台にした本連載の「第1部」も一区切りとなり、次回から新たに「第2部」に入ることになる。今回はインタールードとして、読者がこれまでの連載内容を整理する機会にさせていただきたい。本連載では、様々な人物や事件を時代や地域を行き来しつつ登場させているため、全体の流れをつかむのはいかにも大変である。そこで、本連載の全体像(といってもこれまでの回に登場したものに限られるが)を把握するために年表と人物相関図を用意するとともに、これまでの大きな流れを振り返ってみたい。
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