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記事 10件
  • 新世界より〜オーストリアからアメリカへと渡った移民たち | 小山虎

    2020-07-21 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第10回。前回までに辿ったアメリカにおけるドイツ的な知の風土の移植に対し、いよいよオーストリア的な知の流転にスポットを当てます。故国の動乱を追われたオーストリア帝国諸邦の移民たち、とりわけ最も「オーストリア的」な民としてのユダヤ系移民は、新世界に何を求めたのか?
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第10回 新世界より〜オーストリアからアメリカへと渡った移民たち
    アメリカへの移民供給元となっていた19世紀後半のオーストリア
     本連載第8回でも言及したが、ドイツからアメリカへという知の流入は、19世紀半ばに始まる。特に、1848年のドイツ三月革命の失敗後、弾圧の対象となったリベラル派のドイツ人知識層がアメリカにやってくる。アメリカ建国期からの支配層に牛耳られていた東海岸に安住の地を見つけられなかった彼らが向かったのは中西部であり、その中心地となったのが、オハイオ州シンシナティ、そして「セントルイスのヘーゲル主義者たち」がいたミズーリ州セントルイスだった。だが、こうした知識層のアメリカ移動は、ドイツだけではなく、オーストリアでも起こっていたのだ。いや、それどころか、オーストリアはドイツよりもずっと多く、アメリカへの移民を生み出していたのだ。  ドイツ三月革命では、ウィーンでも民衆蜂起が起きており、ウィーン会議を取り仕切った帝国宰相メッテルニヒが失脚していた。同時期に、当時はオーストリア帝国に属していたチェコのプラハでも民衆が蜂起した。時の皇帝フェルディナンド一世は、ウィーンの暴動を鎮圧するのを優先すべく、民衆の声をいったん聞きいれ、彼らが要求するチェコ人とドイツ人(ドイツ語を母語とするオーストリア人)の平等を実現するために仮政府が樹立される。  だが、これを良しとしなかったものもいた。チェコ国内に住むドイツ人だ。チェコはドイツと隣接しているだけでなく、チェコ(厳密にはチェコ西部であるボヘミア)自体はチェコ語を話すチェコ人の国でありながら、古くから神聖ローマ皇帝の支配下にあり、有力な帝国諸侯の一つとしてドイツとの往来も頻繁で、多くのドイツ人がチェコに住んでいた。  加えて、当時のオーストリア帝国は広大な多民族国家であり(第2回)、帝国内での移動は日常的におこなわれていた。外国人と区別するために、オーストリア国籍とは別に、国内のどこの地域が出身地かを示す「本籍(Heimatrecht)」を定める法律があったほどだった。このようにオーストリアは、帝国本体が多民族国家であるだけでなく、帝国を構成する諸国もその内部では様々な少数民族を抱えていたのだ。特にドイツ人は帝国の支配階級であり、各国に散らばっていた。彼らにとって、当時盛んになっていた民族自決主義は、自らの立場を危うくするものでしかなかったのだ。
     チェコで民族対立が広がりつつあった1848年5月、ドイツ統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開催される(第8回)。この「ドイツ統一」の対象となったのは神聖ローマ帝国を構成した諸邦だったのだが(第2回)、オーストリアの一地方ながら旧帝国諸邦の一つでもあったチェコにも議員を派遣するよう、要請が来る。チェコ人主体の仮政府は当然のように、フランクフルト国民議会への議員派遣を拒否する。このことはチェコ国内のチェコ人とドイツ人の対立をさらに激化させ、やがて首都プラハで暴動が発生する。それを見たオーストリア政府はすかさず方針を転換し、プラハを軍事制圧するのである。仮政府も解散させられ、プラハの革命はかくして失敗に終わるのである。  チェコと同じくオーストリア帝国の版図に含まれていたハンガリーのブダペストでも、革命が起きようとしていた。ここでもまたオーストリア皇帝は、いったんハンガリーの立憲君主制への移行を約束し、ハンガリー人を中心とする新政府が発足する。しかし、こうした恩恵を得ることはできたのはハンガリー人だけだった。ハンガリー国内にはドイツ人のみならず、クロアチア人やルーマニア人などが様々な民族が住んでいたのだ。ハンガリー新政府に対する彼ら非ハンガリー人の反感は、チェコと同様、大きいものだった。  1848年11月、プラハをはじめとする帝国内部での暴動を次々と鎮圧していたオーストリアは、最後の反乱分子となっていたハンガリーに宣戦布告する。ハンガリー新政府に批判的な非ハンガリー人を中心とした部隊を組織するというオーストリアの戦略は功を奏し、翌1849年1月にはブダペストを占領する。  このように、19世紀の後半には、ドイツ人だけでなく、チェコやハンガリーをはじめとするオーストリア帝国を構成する諸国からも、政治的対立や圧政を受けてアメリカへと移民するものが相次いでいたのである。
     じつのところ、1848年の革命失敗によってアメリカ移民が増えたという点では、ドイツとオーストリアは変わらない。だがその後、両者の立ち位置は対照的なものとなっていく。当時のドイツ諸邦で主導権争いをしていたのは、プロイセンとオーストリアだった(第2回)。しかし、大学改革に成功したプロイセンは、産学協同を軸に重工業化を進め、オーストリアとの主導権争いに勝利。1871年にはプロイセン中心のドイツ帝国が成立する。アメリカは、こうして国力でも学問でも世界をリードする国家となったドイツを手本とするようになるのである(第9回)。  一方、カトリック国家であったオーストリアの大学は、相変わらず教会の強い影響下にあり、旧態依然としたままだった。工業化も一部の地域でしか進まず、取り残された地域では、より強まったオーストリア帝国の圧政のもとで農民たちが貧困に喘いでいた。彼らの中には、職を求めてドイツやフランスといった国外へと出稼ぎに行くものがいた。広大な多民族国家だったオーストリア帝国では、国内での出稼ぎは当たり前のようにおこなわれていたからだ。そして発展を続けるアメリカもまた、やがて主要な出稼ぎ先の一つとなっていた。19世紀終わり頃のオーストリアは、ドイツとは対照的に、アメリカへの移民の主要な供給元になっていたのである。  彼らオーストリア移民が目指したのは、ドイツ移民と同じく中西部のオハイオ州やイリノイ州、さらには、その西にあるウィスコンシン州やミネソタ州にまで及んだという。ミネソタ州には、その名も「ニュー・プラーグ(New Prague)」という街がある。もちろん「プラーグ」とは、チェコの首都プラハ(Praha/Plague)の英語表記である。  チェコの国民的作曲家のアントニン・ドヴォルザークは、1892年から約3年アメリカに滞在している。代表作「新世界より」を作曲したのはこの時期だ。ドヴォルザークは主にニューヨークで暮らしていたが、「新世界より」の作曲後、知人に招かれて中西部のイリノイ州スピルヴィルという街で休暇を過ごす。スピルヴィルには多くのチェコ人が住んでおり、そこにいる時は故郷にいるように感じられたとドヴォルザークは回想している。結局ドヴォルザークはホームシックのために帰国するのだが、ヨーロッパとは大きく異なる東海岸とは違い、中西部には故郷を思わせるものが数多くあったのだろう。

    イリノイ州スピルヴィルのドヴォルザーク逝去75周年記念スタンプ(1975年)(引用) Public Domain
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  • アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷 | 小山虎

    2020-06-11 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第9回。これまで中欧からアメリカに渡った学問や思想の潮流や担い手たちを辿ってきましたが、今回は知の生産を担う「大学」制度に光を当てます。宗主国イギリスのカレッジ制度を範に出発したアメリカの大学は、南北戦争後の「ドイツ化」の波を経て、次第に独自の発展を遂げていきます。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第9回 アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷
    どうしてENIACは大学で開発されたのか?
     コンピューターの歴史にその名を刻むENIACが開発されたのはペンシルバニア大学である。現在の視点からすると、大学がコンピューターを開発することに何の奇妙さも見出されないだろう。じっさい、Google、Apple、MicrosoftといったIT界の巨人たちはみな、その誕生の物語が大学と結びついている。  しかし、改めて考えてみると、今となっては常識にしか見えないことにうちに隠れているミステリーが浮かび上がってくる。例えば、試しに考えてみて欲しい。ENIACが高校で開発されるなどということは、ちょっと想像できないのではないだろうが。もちろん、小規模のものなら高校でも可能だったかもしれないが、周知の通り、ENIACは巨大であり(設置には167平方mのスペースが必要だったという)、開発のためのスペースを確保することすら容易ではない。しかし、なぜ高校では不可能なものが大学では可能になるのだろうか。もし大学が高校卒業後に学ぶ次の学校に過ぎないのなら、高校と同じような困難があるはずである。問題はスペースだけではない。開発のための予算がどこから入手するのか。誰が何のために開発するのか。大学では中学や高校とは違って、こうしたことは問題にならない。その理由はなぜかというと、大学は教育だけではなく、研究もおこなう機関だからだ。  くどくど述べたが、大学では教育とともに研究もなされていることは、大学院に進学した人や理系の研究室に所属したことのある人には、改めて述べるようなことではないだろう。だが、ここで立ち止まらず、さらに考えて欲しい。どうして大学では、高校までと異なり、研究もおこなわれているのだろうか。そもそもどうして学校で研究もする必要があるのだろうか。  コンピューター誕生の背景には、今となっては当たり前の、「研究機関としての大学」の存在がある。だがそれは、大学という制度が誕生した当初からのものではなかった。コンピューター、そしてコンピューター・サイエンスという学問は、アメリカに「研究機関としての大学」が根づいたことによって初めて誕生したものだ。今回はこのことに焦点を当ててみたい。
    大学の歴史〜世界最古の大学からアメリカ最古の大学まで
     大学の歴史は古い。世界最古の大学と言われているのはイタリアのボローニャ大学であり、11世紀に設立されたとされている(正確な年月は残されていない)。ボローニャに続くのはパリ大学、そしてオックスフォード大学であり、13世紀までにはヨーロッパの各地で大学が設立されたことがわかっている。ただし、ややこしいことに、設立当時の段階では、これらは大学とは言えない。まだ大学制度が確立されていなかったからだ。  じつのところ、設立された時点では、ボローニャ大学もパリ大学も当時世界各地にあった学校のひとつに過ぎず、世界最古と呼べる要素は何ひとつない。日本では、奈良時代(8世紀)の時点で「大学寮」と呼ばれる学校があり、大学寮で教える役職として「博士」が設置されている。その意味では、日本の「大学」の方がヨーロッパよりよっぽど歴史が古いのである。  もちろん、その名称だけを理由に、日本にはヨーロッパよりも古くから大学があった、と言うのは無理が過ぎる。事態は単に、明治期にヨーロッパから大学制度が輸入された時に、奈良時代に存在した由緒ある言葉を訳語として利用した、というだけである。そもそもヨーロッパでも、ボローニャ大学ができるよりもずっと前から同じような学校は存在した。ボローニャ大学は法学校として始まるが、もちろん最初の法学校ではない。ローマにはそのずっと前から法学校があった。では、どうしてボローニャ大学は最古の大学だとされるのだろうか?  13世紀に入ると、こうした各種学校のうち一定の基準を満たしたものに対して、ローマ教皇が「大学」として認可を与え始める(といっても、まだ「大学(university)」という名称は用いられていないのだが)。最初に認可されたのはフランスのトゥールーズ大学、次がモンペリエ大学。それ以前から名声を獲得していたボローニャ大学やパリ大学も負けじと認可を求め、無事認可される(奇妙なことに、オックスフォード大学は何度か認可を求めたにもかかわらず、結局一度も認可されることがなかった)。ローマ教皇による認可はその後、ヨーロッパ中に広まっていく。こうしてローマ教皇から認可を得た大学のうち、もっとも古くから存在していたことが確認されているのがボローニャ大学だ。ボローニャ大学が最古の大学とされるのは、このような理由からなのである。  ローマ教皇が認可していたということからもわかるように、初期の大学で重要な地位を占めていた学問は神学だった。13世紀ごろ、教会の神父やその上の司教になるためには神学をしっかり学ぶことが求められるようになり、そのための「品質保証」をしてくれる学校を定める必要が生まれていたのだ。その後もずっと、聖職者を育成することは大学の大きな役割として残り続ける。今の日本の大学でも神学部を持つものがあるぐらいだ。  現代の日本に生きる我々にはイメージしづらいが、建国当時のアメリカでひとつの問題となったのは聖職者の育成だ。前回の連載でも少し触れたが、アメリカ建国はピューリタンたちによって始められた。毎週日曜には教会の礼拝に参加するような敬虔なキリスト教徒である彼らの生活にとって、聖職者は不可欠である。そして上述のように、聖職者になるには大学で必要な課程を修了する必要があった。こうした理由により、当時のマサチューセッツ入植地政府は大学の設立を決定する。1636年のことだ。だが、大学のための土地は確保したものの、大学設立を進めるための予算が足りず、計画は頓挫する。  2年後、状況が変化する。ジョン・ハーバードという人物が、大学設立のためとして莫大な遺産を寄贈するのだ。その額は入植地政府の1年間の予算に相当するほどだったという。こうしてアメリカで最初の大学が設立される。それがハーバード大学である。ジョン・ハーバードはイギリス生まれであり、ケンブリッジ大学の卒業生だった。だからハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとして設立される。ハーバード大学が立地する土地の名前もまた、「ケンブリッジ」へと改称される。
    「カレッジ」と「大学」の差〜植民地時代のアメリカの大学
    エマニュエル・カレッジ(ケンブリッジ大学)の礼拝堂にあるジョン・ハーバードの記念碑Dolly442 at English Wikipedia / CC BY-SA
     ハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとしていたが、ケンブリッジ大学全体ではなく、その一部だった。少し細かい話になるが説明しておこう。大学制度は国ごとの違いが大きいため、日本の大学のイメージで捉えていると簡単に誤解してしまうからだ。  ケンブリッジ(およびオックスフォード)大学は、世界でも数少ないカレッジ制を採用した大学である。ざっくりいって、日本の大学が文学部や理学部などの学部によって構成されているのに対し、カレッジ制の大学は学部の代わりにカレッジによって構成されていると理解しておけばよいだろう。  学部とカレッジはある点ではよく似ている。例えば、日本の大学では学部ごとに歴史が異なる。例を挙げると、山口大学で最も古い経済学部の来歴は1905年設立の山口高等商業学校にまでさかのぼるが、最も新しい国際総合科学部が設立されたのは2015年である。一方カレッジ制の大学であるオックスフォード大学で最初にカレッジとして認められたのはマートン・カレッジであり(1274年)、最も新しいカレッジであるパークス・カレッジの設立は2019年である(ちなみに2020年6月現在でまだ一期生すら入学していない)。また、学費や予算、定員が学部ごとに異なるように、カレッジごとに学費や予算、定員もまちまちである。  このようにカレッジは学部と似ているが、最大の違いは、その名称からもわかるように、分野別ではないことである。
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  • 理想主義、観念論、そしてヘーゲル〜19世紀のアメリカ哲学 | 小山虎

    2020-05-15 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第8回。いよいよ今回からは舞台を新大陸に移し、コンピューターの開発を可能にした知的風土に迫っていきます。すべての始まりは、19世紀革命期のリベラル派ドイツ移民が流れ着いたアメリカ中西部、「セントルイスのヘーゲル主義者たち」の出会いにありました。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第8回 理想主義、観念論、そしてヘーゲル〜19世紀のアメリカ哲学
    開発中のENIACと哲学者アーサー・バークス(1946年)Douglas Harms, (2007), “Techniques to introduce historical computers into the computer science curriculum”より引用
    コンピューター・サイエンスを生み出したアメリカの知的風土とは?〜理想主義と観念論
     本連載でこれまで主に焦点を当ててきたのは、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキという3名の数学者、および彼らの知的背景にある「ドイツ的」と対比されるものとしての「オーストリア的」なものだった。第二次大戦後、アメリカ市民となった彼ら3名は、今度はアメリカの知的風土と向き合うことになる。そしてそのアメリカの知的風土こそがまさにコンピューター・サイエンスを生み出す土壌となるわけである。ということで、今回はアメリカの知的風土の話をしたい。  アメリカの知的風土ということでまず挙げるべきものは、アメリカの独自の哲学として知られるプラグマティズムであろう。とりわけ、本連載でこれまでに見てきたような、哲学者のライプニッツやカントの数学観を背景に、数学者のフレーゲやヒルベルトが生み出し、発展させた数理論理学という抽象的な学問から、コンピューターという具体的な現実のモノがアメリカにおいて生まれたのは、プラグマティズム──ときには「実用主義」という全く本質を外した訳語が当てられる──との邂逅こそがきっかけだったのだ、というストーリーには、なにか腑に落ちるところがある。  困ったことに、このストーリーがまったくの大間違いだとも言えない。実際にプラグマティズムとコンピューターには一定の関わりがあるのだ。例えば、史上初のコンピューターとも言われるENIACの掛け算機構開発を担当したアーサー・バークスは、ミシガン大学の哲学科で博士号を取得し、ENIAC開発終了後には母校に戻って教鞭を取ったプラグマティズム哲学者だった。哲学科で博士号を取得した後にコンピューターの開発に携わるなどというのは、アメリカならではの感があることだろう。
     しかし、当然のことながら、事態はそう単純ではない。そもそも「プラグマティズム」という言葉でどのようなことを念頭におくべきかは難しいという問題がある。典型的な教科書では、「プラグマティズム」を代表する哲学者として、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイという19世紀生まれの3名の名前が載っている。しかし、彼らがみな同じ「プラグマティズム」を信奉していたのではない。むしろまったく逆だ。パースは後年、プラグマティズムを広く知らしめたジェイムズとの根本的な違いを主張し、自分の立場を「プラグマティシズム(pragmaticism)」という、今日では忘れ去られた名前で呼び始めた。デューイもまた、自分の立場をプラグマティズムとは考えず、むしろ「道具主義」という名称を積極的に用いていた。彼ら3人の間に共通点ももちろんあったとは言え、当人たちにとっては違いの方が重要だったのだ。  このような代表者たちの間の相違に留まらない。著名な思想家リチャード・ローティの著作『哲学と自然の鏡』(原著出版は1979年)では、プラグマティズムは分析哲学と相反するものとして位置付けられているが、それから30年後、プラグマティズム研究者シェリル・ミサックの著作『プラグマティズムの歩き方』(原著出版は2013年)では、逆にプラグマティズムは分析哲学と互いに影響しあい、入り混じったものとされている。そもそも、プラグマティズムの捉え方が一筋縄ではいかないということ自体、今から百年以上も前、1908年の段階で既に、アーサー・ラブジョイが論文「13のプラグマティズム(The Thirteen Pragmatisms)」で指摘している。プラグマティズムを特定のイメージで語ることは極めて危うい行為なのだ。  もちろん、ここで読者に「プラグマティズムとは何か?」という哲学史上の問題につきあわせるつもりはないので安心されたい。本連載で注目するのは、「プラグマティズム」と呼ばれる多様な相違を内包した思想が19世紀末のアメリカで誕生し、世紀をまたいだ20世紀にアメリカ全土へと広まっていったという事実である。この「プラグマティズム」なるものの誕生と広まりを可能にした背景こそが、数理論理学からコンピューター・サイエンスへの橋渡しも可能にしたアメリカの知的風土にほかならない。
     では、その知的風土とはどういうものなのか。これを一言で述べるのは難しいが、あえてキーワードを挙げるとするならば、「理想主義(idealism)」と「観念論(idealism)」の二つ──あるいは数え方によっては一つ──である。  アメリカが理想主義の国であることには、それほど違和感はないのではないだろうか。アメリカは明確な建国理念がある珍しい国の一つである。アメリカ独立宣言はその冒頭で、人間の平等や生存権、自由権などが自明の真理だとみなすと宣言されている。また、「アメリカン・ドリーム」やオバマ前大統領のスローガン「Yes We Can」には、理想を追い求めることに肯定的な国民性がうかがえる。  一方の観念論についてはどうだろうか。アメリカと観念論哲学の関係についてはほとんど知られていないだろう。しかし、実は19世紀後半から第一次世界大戦までのアメリカでは観念論が支配的だったのだ。しかも、興味深いことに、その発端となったのは、ハーバード大学やイエール大学、コロンビア大学、プリンストン大学といった日本でも馴染みのある名だたる名門大学が位置するアメリカ東部の諸州ではなく、オハイオ州やミズーリ州、ミシシッピ州といった中西部の州だったのだ。いったい19世紀のアメリカ中西部では何が起きていたのだろうか?
    1858年、セントルイス〜「セントルイスのヘーゲル主義者たち」
     1858年のミズーリ州セントルイス。ミシシッピ川に面するミズーリ州最大のこの街で2人の男が出会ったことがすべての始まりだった。若い方の名はウィリアム・トーリー・ハリス。1835年に東部のコネチカット州で生まれたハリスは、名門イエール・カレッジ(正式にイエール「大学(University)」となるのは1881年のことだ)で学んでいたが、卒業前に公立学校の教師の職を得てセントルイスに来たばかりだった。年長の方は、ヘンリー・コンラッド・ブロックマイヤーという1826年プロイセン生まれの男だ。かの宰相ビスマルクの甥であるブロックマイヤーは、16歳の時に単身アメリカに移住していた──極めて信心深い母親にゲーテの詩集を燃やされたことがきっかけだったという。ニューヨークやケンタッキーで職を転々としていたブロックマイヤーがセントルイスにやってきたのは、彼が20歳の頃だった。そんな一見したところ何の共通点も持たない彼ら2人が意気投合したものこそ、ヘーゲルに代表されるカント以降のドイツ哲学、すなわち、いわゆるドイツ観念論(German Idealism)だったのだ。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第7回 インタールード〜年表と人物相関図から

    2020-04-02 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第7回。 今回はインタールードとして、世界大戦期のオーストリア諸邦とドイツを中心に、中欧における科学と哲学の交錯を追ってきたこれまでの流れを図解で振り返ります。
     前回をもって中欧圏を主舞台にした本連載の「第1部」も一区切りとなり、次回から新たに「第2部」に入ることになる。今回はインタールードとして、読者がこれまでの連載内容を整理する機会にさせていただきたい。本連載では、様々な人物や事件を時代や地域を行き来しつつ登場させているため、全体の流れをつかむのはいかにも大変である。そこで、本連載の全体像(といってもこれまでの回に登場したものに限られるが)を把握するために年表と人物相関図を用意するとともに、これまでの大きな流れを振り返ってみたい。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第6回 国際政治に振り回されたポーランドの論理学

    2020-02-27 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第6回。周囲の大国によって領土割譲を繰り返されてきたポーランドの不運な歴史が、アメリカに落ち延びた数学者アルフレッド・タルスキら、オーストリア的な知の継承者たちの運命をいかに変えたのか。戦間期に花咲いた「ルヴフ・ワルシャワ学派」の足跡を中心に辿ります。
    ▲逆ポーランド記法を採用したヒューレット・パッカード社の関数電卓HP-35。通常の電卓とは違って「=」ボタンがない。 By Mister rf - Own work, CC BY-SA 4.0,
    「逆ポーランド記法」の由来
     今回は、「オーストリア的」な要素を持つ国のひとつ、ポーランドに焦点を当てるのだが、まずは「逆ポーランド記法(Reverse Polish Notation)」の話から始めたい。逆ポーランド記法とは、計算式の表記法の一種である。我々に馴染みの深い通常の数学では、「1+2」のように、数字(1や2)が演算子(+や-)の前および後に位置する表記法が採用されている。だが、逆ポーランド記法では「12+」というように演算子の前に数字が並ぶ。いかにも奇妙な表記法に見えるかもしれないが、この数式「12+」が「1と2を足す」というように、日本語と同じ語順で読めるということに気づかれただろうか。このことに気づけば、むしろ通常の表記法を特に不都合を感じずに使えていることの方が不思議に思えてくるかもしれない。  逆ポーランド記法はいくつかの点で通常の表記法よりコンピューター上の処理に適している。たとえば、カッコがあってもなくても計算する順序が変わらないため、カッコは無視して計算できる。そのため、ヒューレット・パッカード社が1970-80年代に発売した関数電卓で採用され、広く知られるようになった。  ちなみに、「逆」がつかない、ただの「ポーランド記法」もある。この表記法では、「+12」というように演算子の後に数字が並ぶのだが、こちらがオリジナルである(だからこそ「逆」ポーランド記法なのである)。ともあれ、どちらも「ポーランド」式だとされていることには変わりない。その理由は、最初の開発者がヤン・ウカシェヴィチ(Jan Łukasiewicz)というポーランド人だったからだ。  ウカシェヴィチは、別にポーランドで関数電卓の開発に携わっていたのではない。また、フォン・ノイマンのようにアメリカに移住して開発に携わったのでもない。逆ポーランド記法が最初に提案された論文では、その元になった表記法として、ウカシェヴィチの著作が参照されているのだが、その著作のタイトルは『現代形式論理学の観点から見たアリストテレスの三段論法(Aristotle&#39s Syllogistic from the Standpoint of Modern Formal Logic)』という。ウカシェヴィチは、記号論理学を用いてアリストテレスを研究する論理学者だったのだ。  本連載の第3回でも触れたが、記号論理学は19世紀終わりから20世紀にかけて、フレーゲやラッセルらの手によって生まれる。これを用いて古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスを研究するとはいったいどういうことなのだろうか。どうしてどのようなことが行われることになったのだろうか。これらの問いに答えるためには、まずはポーランドという国家が辿った数奇な運命を眺めてみよう。
    国家間の争いに振り回されたポーランドの都市ルヴフ
     第二次世界大戦の前まではポーランドが現在の位置になかったことはご存知だろうか。現在のポーランドは、第二次世界大戦以前のポーランドと比べると西寄りに位置する。第二次世界大戦でドイツとソ連に占領されたポーランドは、ポツダム会談の結果、東部をソ連に割譲し、代わりとなる領土を西側に位置する敗戦国のドイツから獲得することになったからだ。この結果、ある都市がポーランド領からソ連領に移ることになった。その都市は、ウカシェヴィチが生まれ育った都市であり、現在ではウクライナに位置するリヴィウ(Lviv)、ポーランド語ではルヴフ(Lwów)という。もっとも、ルヴフは第二次大戦後にソ連領になるまでずっとポーランド領内にあったというわけでもなかった。本連載の第2回でも触れたが、1772年のポーランド分割により、ポーランドのガリツィア地方がオーストリア帝国に割譲される。ルヴフはこのガリツィア地方の首都なのである。こうしてオーストリア帝国の都市となったルヴフは、レンベルク(Lemberg)と呼ばれるようになる。ポーランド時代のルヴフは、ガリツィア地方最大の都市であり、ポーランド全体でも主要都市の一つだったのだが、オーストリア領のレンベルクとなることにより、広大な帝国の片隅にある一地方都市になってしまったのである。
    ▲第二次世界大戦前後でのポーランドの位置の変化。東側のグレーの領域がソ連に割譲され、西側のピンクの領域をドイツから獲得する。 By radek.s - Own work, CC BY-SA 3.0,
     1819年、時のオーストリア皇帝フランツ1世により、レンベルクに大学が再建される(それ以前のポーランド時代から大学はあったが、ナポレオン戦争によるオーストリア財政の悪化により閉鎖されていた)。とはいえ、一地方都市に過ぎないレンベルクの大学には特に目立ったところは何もなかった。だが、20世紀に入ってから大きな変化が訪れる。最初の一歩は、1895年にカジミェシュ・トファルドフスキ(Kazimierz Twardowski)という哲学者が赴任してくることだった。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第5回 「フォン・ノイマン」と呼ばれた男の名前の変遷

    2020-01-15 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第5回。2度の世界大戦の狭間で、哲学・数学・物理学の垣根を超えて人類知の中核が地殻変動を起こしていた1920〜30年代、いよいよ歴史の表舞台に登場するジョン・フォン・ノイマンの生涯に迫ります。ハンガリー、ドイツ、そしてアメリカへの流転を通じて、かの天才はいかにして「フォン・ノイマン」となったのか──?
    ▲フォン・ノイマンが1926年5月に奨学金の申請書と共に提出した個人記録。氏名欄には「ジョン・ルイス・ノイマン・フォン・マルギッタ(John Lewis Neumann v.margitta)」と記されている(ロックフェラー財団所有)(引用)
    若き天才的数学者フォン・ノイマンの半生
     ジョン・フォン・ノイマンは元々ハンガリー人であり、ハンガリーの首都ブダペストで生まれた。誕生時の名前は、ナイマン・ヤーノシュ・ラーヨシュという(ハンガリー語では日本語と同じように姓を先に表記する)。裕福なユダヤ人家庭に生まれたフォン・ノイマンは幼少期から神童として知られており、特に数学でその才能を発揮していた。  当時のハンガリーは、オーストリアとの二重帝国であり、フォン・ノイマンも「オーストリア的」教育制度のもとで学ぶ。だが、ゲーデルや、前回登場したその師ハンス・ハーンのように、フォン・ノイマンが帝国首都ウィーンのウィーン大学に進学することはなかった。決定的な違いは、ゲーデルやハーンがドイツ語を母語とするドイツ系オーストリア人であったのに対し、フォン・ノイマンはハンガリー人だったことだ。同じ国家で生まれたにもかかわらず、このことがフォン・ノイマンの人生を大きく左右することになる。  当時は民族自決主義が高まっていた時代であり、ハンガリーもオーストリアからの独立の機運が高まっていた。本連載の第2回で触れたように、フォン・ノイマンが学んだ首都ブダペストにあるブダペスト大学も、ハンガリー語を母語とするハンガリー人のためにハンガリー語で授業を行う大学だった。もちろん、神童であったフォン・ノイマンにとって語学は問題でなかった。彼は幼少時から複数の言語に加え、ラテン語にも精通していたことが知られており、のちに彼が提出した個人記録にも、母語のハンガリー語、ドイツ語、英語、イタリア語の四カ国語を話すことができると記されている。だからフォン・ノイマンは、本来ならどの言語が用いられる大学に行っても問題なかったのだが、紆余曲折の結果、ブダペスト大学に進学する。  フォン・ノイマンがブダペスト大学に進むことになったのには、第一次世界大戦が関わっている。彼がまだ十代だった1914年に第一次世界大戦が勃発する。終戦後、オーストリア帝国は崩壊し、ハンガリーはオーストリアから独立するのだ。フォン・ノイマンが大学進学を決める頃には、ハンガリー人の若者が旧宗主国であるオーストリアの大学にわざわざ進学する理由はまったく無くなっていたのである。  もっとも、ブダペスト大学に進学するのも簡単には決まらなかった。まず、第一次世界大戦後のハンガリーでは、短期間の間だが共産主義政権が成立する。その指導者のクン・ベーラがユダヤ人であったために、共産主義政権崩壊後のハンガリーはユダヤ人にとって住みやすい国ではなくなっていた。そのためブダペスト大学にも、入学するユダヤ人学生の数にも上限が決められていた。加えて、有能なビジネスマンだったフォン・ノイマンの父が数学を専攻することに難色を示していた。フォン・ノイマンの友人の一人に、より実学に近い分野に専門を変更するよう息子を説得してくれと依頼したほどだ。最終的に、数学と同時に工業化学も学ぶという条件で、フォン・ノイマンの父は進学資金を出すことを了承する。こうしてフォン・ノイマンは、ブダペスト大学で数学を学ぶのと並行して、当時ヨーロッパで最高峰の工科大学だったスイスの名門チューリッヒ工科大学で工業化学を学ぶことになる。そして数学と工業化学の二つの博士号を同時期に取得するという離れ業をやってのけるのだ。  フォン・ノイマンはブダペスト大学の授業にはほとんど出席せず、チューリッヒに住み、試験に出席するために帰国するだけで学位を取得したという。とはいえ、フォン・ノイマンの関心は数学にあり、チューリッヒでも数学の授業に熱心に出席していた。  チューリッヒでフォン・ノイマンにひとつの小さな転機があった。ドイツ語圏であるチューリッヒに住むにあたり、名前をドイツ式で名乗るようになったのだ。それ以前に、フォン・ノイマンの名前は、生まれた時の「ナイマン・ヤーノシュ」ではなくなっていた。第一次世界大戦直前の1913年、最後のオーストリア・ハンガリー皇帝となるフランツ・ヨーゼフ一世がフォン・ノイマンの父の経済的貢献を称え、貴族に列することを許可する(ただし、貴族になるためには一定の費用を支払う必要があったのだが)。貴族の姓は領土と結びついていなければならない。フォン・ノイマンの父は、ハンガリーの歴史的都市であるマルギッタ(現在はルーマニア)を「領土」とすることを選び(もちろん本当に領土にできるわけではなく、どういう姓にするかだけの問題である)、フォン・ノイマン一家の姓は「マルギッタイ・ナイマン」となっていた。チューリッヒに移り住んだフォン・ノイマンはこれをドイツ式に改めるのだ。こうして、彼は「ヨハン・ノイマン・フォン・マルギッタ」と名乗るようになる。  移住先の言語に合わせて名乗り方を変えるのは、珍しいことではない。我々日本人も、英語で名乗る時は姓を後に名乗ることが多い。ただ、フォン・ノイマンの場合、ドイツ式で名乗るようになったことは、それまでのオーストリア・ハンガリーの知的風土から、ドイツの知的風土へと移動することを意味していた。
     当時のフォン・ノイマンが憧れていた数学者は、本連載の第3回で登場したヒルベルトである。ヒルベルトの夢は数学の基礎づけであり、数理論理学を用いてそれを実現しようとしたのがヒルベルト・プログラムだった。数学の天才少年だったフォン・ノイマンは、大学入学前から数学の基礎づけに関心を持っていたと言われている。フォン・ノイマンはチューリッヒ工科大学で、ヒルベルトの教え子である数学者のヘルマン・ワイルからヒルベルトの手法である「公理化」を学び、学生時代に集合論の公理化に関する論文を発表している。博士号を取得したフォン・ノイマンが次にヒルベルトのもとで学ぼうとしたのは当然のことだったろう。しかし、当然ながら父からの資金援助は望めない。幸運なことに、ちょうどその頃、ロックフェラー財団の出資で国際教育委員会(International Education Board)という組織がニューヨークに設立されたばかりだった。フォン・ノイマンは、このロックフェラー奨学金により、ヒルベルトのいるゲッティンゲン大学で半年間学ぶことになるのである。  こうしてフォン・ノイマンは1926年の秋にゲッティンゲンに到着するのだが、思いがけないきっかけで新たな分野の研究に手を染めることになる。量子力学だ。フォン・ノイマンがゲッティンゲンに着いてまだまもない時期に、不確定性原理を導いた理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの講演があった。のちにノーベル賞を受賞するが当時はまだ23歳だった若き新鋭のハイゼンベルクは、「シュレディンガーの猫」で知られるオーストリア・ウィーン生まれの物理学者エルヴィン・シュレディンガーと対立していた。両者は量子力学にまったく異なる表現形式を与えていたのだ。その後、両者は数学的に等価だと考えられるようになり、シュレディンガー自身も部分的な証明を与えるのだが、完全な証明はまだ得られていなかった。ヒルベルトも聴講した彼の講演も量子力学の表現形式に関するものだったのだが、ヒルベルトからその話を聞いたフォン・ノイマンは、量子力学の公理化に取り組む。そして、ハイゼンベルクの表現形式とシュレディンガーの表現形式が等価であることを証明するのである。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第4回 ウィーン学団、3名のオーストリア人科学者の夢物語

    2019-11-14 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第4回。19世紀末からの科学と哲学を大きく変えつつあったオーストリア的な知の新展開として、「ウィーン学団」を打ち立てた3人の科学者にスポットを当てます。科学哲学という分野の勃興に結実し、20世紀科学革命とも共振する彼らの交歓。しかしその夢と友情は、2度の世界大戦の荒波に翻弄されていくことに──。
    1920年代のウィーン〜アイコンと科学哲学のルーツ
    アイコンの元祖とも言われる「アイソタイプ」(引用)
     現代のI T機器に欠かせないもののひとつに、アイコンがある。デフォルメされた画像によって特定の内容を明確かつわかりやく伝達できるアイコンなしには、これほどまでにI T機器が広まることはなかったことは間違いない。とはいえ、コンピューターが生まれる前から、アイコンと同様のデフォルメされた画像によって内容をわかりやすく伝えようという試みは存在した。わかりやすい例では、教科書の図説がそうだ。おそらく人類は、その歴史の黎明期からデフォルメされた画像を使ってコミュニケーションを図ってきたのだろう。だが、アイコンのように、内容伝達の効率化を目的として、特定のパターンに従ってデフォルメされた画像のみを用いるという試みは、そこまで古いものではない。ある説によれば、そうした試みは1920年代に遡るとされる。そしてその場所は、オーストリア帝国の首都ウィーンである。
     1926年のウィーンで、オットー・ノイラートとマリー・ライデマイスター(晩年にオットーと結婚してマリー・ノイラートとなる)という男女2人が指揮するデザインチームが「アイソタイプ(isotype)」というある種の絵文字を開発する。ノイラートが設立したウィーン社会経済博物館では、一般市民向けに社会学的、経済学的知識を得られる機会が設けられていたのだが、まだ教育が行き届いていたなかった当時の市民でも容易に理解できる方法が必要だった。そのためにアイソタイプが開発されたのだ。
     ところで、オットー・ノイラートの名前は、アイソタイプの開発という一点でのみ歴史に残っているのではない。むしろ彼は、ひと昔前に分析哲学を学んだ人の中では知らない人がいないと言ってよいほど広く知られている。ノイラートは、彼に由来する「ノイラートの舟」という比喩によって知られる科学哲学者であり、そもそも科学哲学という分野の確立に大きく貢献した「ウィーン学団」の設立者の一人なのである。
    ウィーン大学で世界初の科学哲学の教授となったマッハ
     今回はウィーン学団に焦点を当てるが、まずその前に、ウィーン学団誕生に背景にある、オーストリアの科学と哲学の状況について話をしなければならない。
     じつは19世紀の著名な科学者にはオーストリア人が少なくない。例えば、ドップラー効果で知られるクリスチャン・ドップラー(1803-1853)。その教え子のメンデルの法則で知られる遺伝学者のグレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)。さらには、速度の単位マッハに名前を残すエルンスト・マッハ(1838-1916)、そしてエントロピー増大則の証明で知られ、統計力学の創設者の一人であるルードヴィヒ・ボルツマン(1844-1906)。彼らはみな、オーストリアに生まれ、オーストリアの大学で活躍し、オーストリアで没した、生粋のオーストリア人である。彼らの他にも当時のオーストリアには著名な科学者が少なくなかったのだが、その理由は一説には、多民族国家であるオーストリア帝国には母語が異なる民族が多数暮らしていたがために、母語が異なっていても差が生まれにくい数学や科学が広まっていったとも言われている。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第3回 カントからチューリング・マシンへ〜コンピューターの芽を育んだドイツの哲学と数学

    2019-10-09 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第3回。コンピューター誕生に結実する知的潮流の背後に「ドイツ的」と「オーストリア的」の相剋をみた前回に続き、今回はドイツでの哲学と数学の探求が分析哲学の勃興を伴いながら、かのチューリング・マシンの発想へと継承されていく道筋を紐解きます。
    コンピューター・サイエンスの祖、ライプニッツの普遍記号学
    ▲ライプニッツが書簡に記した二進法(引用)
     コンピューター・サイエンスの歴史を遡っていくと、哲学者も何人か登場する。なかでも特によく言及される哲学者はライプニッツだろう。ゴットフリード・ライプニッツは17世紀ドイツの哲学者である。前回の連載を読んでいただいた読者のために正確に言うと、神聖ローマ帝国の領邦の一つであるザクセン公国のライプツィヒ出身であり、ライプツィヒで学んだ後、歴史家や政治顧問として三代のハノーファー領主に仕え(その中にはのちにイングランド王となるハノーファー選帝侯も含まれる)、晩年には神聖ローマ皇帝カール6世(オーストリア大公でもあり、マリア・テレジアの父)の命を受け、ウィーンで帝国宮廷顧問官も務めた。ライプニッツの業績は哲学に留まらず、数学や科学にも及んでおり、特にニュートンとは独立に微積分法を発明したことはよく知られている。  ライプニッツが考案した現在のコンピューターの基礎となる考えとして、普遍記号学と二進法が挙げられる。普遍記号学とは、計算ひいては思考全体を、記号の形式的な操作(オペレーション)とみなすことである。現代のコンピューター言語は、数式を記号によって表し、それを命令によって操作するものであり、この発想を基礎としている。二進法という発想そのものは紀元前からあるとされているが、あらゆる数を0と1だけによって表すことが可能だということを数学的に定式化したのはライプニッツである。  だが、現代のコンピューター・サイエンスは、ライプニッツ以降、着実に歩みを進めていったわけではない。ライプニッツの死後、普遍記号学という構想に大きく立ちはだかった哲学者がいた。カントである。
    ライプニッツ=ニュートン論争を調停しようとしたカント
     イマニュエル・カントはライプニッツより後、18世紀ドイツ(厳密にはプロイセン王国)の哲学者である。カントもライプニッツ同様、哲学だけでなく様々な分野で業績を残しているが、彼も数学を研究していた。カントにとって数学が重要だったのは、ライプニッツとニュートンの間で行われた論争に関わる。ライプニッツは、万有引力の法則の発見者である物理学者ニュートンと同時代人であり、両者の間には様々な論争があったことが知られている。有名なのは、どちらが先に微積分法を発見したかについての争いである。ライプニッツが仕えていたハノーファー選帝侯の一人、ゲオルク・ルートヴィヒはイングランド王ジョージ1世として即位し、ロンドンに移り住むのだが、ライプニッツは同行を許されず、ドイツに留まった。それにはこの争いが関わっていたのかもしれない。  哲学に関しては、ライプニッツとニュートン(の支持者)の間で、時間と空間に関する論争があった。ニュートンは時間と空間がまさに文字通り存在すると主張した。それに対しライプニッツは、時間と空間は文字通り存在するのではなく、あくまでものごとの間の関係として存在するに過ぎないと主張した。いわば、ライプニッツは時間と空間は数学的抽象化として存在しているのに過ぎないと考えたのに対し、ニュートンは我々がそうした抽象化をする以前から自律的に存在していると考えたのだ。現代では、ニュートンの説は「実体説」、ライプニッツの説は「関係説」と呼ばれているが、カントがしようとしたことは、実体説と関係説の統合であり、そのためにはニュートン力学や微積分という当時の最先端の数理科学を理解することが不可欠だったのだ。  では、カントはどのようにしてニュートンの説とライプニッツの説を統合しようとしたのか。これを簡単に説明することは明らかに筆者の力量を超えている。だが、カント哲学とコンピューターの関係を見るためには、避けて通ることができない。というわけで、多少ややこしい話になるが、しばらくお付き合い願いたい。
    科学と数学にまたがる認識の源としての「直観」
     カントによれば、まず、我々は時間と空間を直接認識できるわけではない。逆に、我々が様々なものごと(例えば、いまこの瞬間に目の前にあるコンピューターや、今朝から続いている頭痛)を認識できるのは明らかだ。だが、時間や空間に一切関わらない仕方で認識することはできないだろう。「いまこの瞬間」が時間的な認識なのは言うまでもないが、目の前のコンピューターには一定の大きさがあり、大きさの認識は空間的な認識だからだ。ということは、我々は時間と空間そのものではなく、それらに関わる何らかの能力を用いて、現実に存在する様々なものごとを時間や空間に関係づけることにより認識していると考えられる。その意味で、時間や空間をものごとの間の関係だとしたライプニッツは正しい。  だが、時間と空間はどちらも無限であるという特徴を持っている。我々が認識できるものごとの数は有限のはずであり、どうしてそこから無限の時間と空間が生まれるのだろうか。むしろ逆ではないか。無限の時間と空間は、我々が様々な認識に先んじて獲得しているものであり、それなしには何も認識できないようなものなのではないだろうか。つまり、時間と空間に関して、我々の知性に内在的に備わっているような何か──カントはこれを「直観(Anschauung/intuition)」と呼ぶ──があるのである。その意味で、時間と空間が全てに先んじた絶対的なものであるという点では、ニュートンは正しい。このようにカントは考えた。
     このことはカントの科学観と数学観に関わってくる。数学でも当然無限が登場するからだ。時間と空間の場合、それらに関する「直観」が認識に先んじる絶対的なものだったとしても、我々の認識は、感覚器官からの情報がこれらと組み合わさることで生まれる。いまこの瞬間に目の前にあるコンピューターを認識するには、視覚や触覚や聴覚からの情報が使われているはずだ。つまり、我々は様々なものを見聞きすることで様々な認識を得ることができるのである。さらには、実験器具を用いて新たな現象を見聞きする(つまり「発見」する)ことにより、それまでには得られなかった新しい認識を得ることができる。これが科学である。 しかし、数学の場合はどうだろうか。数学、特に計算は、何かを見聞きすることによって行われるというよりは、純粋に頭の中で行われるのではないだろうか。そうだとすると、結局は認識に先んじて持っているものがあるだけで、新たな認識など得られない、ということになってしまわないだろうか。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第2回「オーストリア的」な知はいかに立ち現れたか〜ドイツ近代哲学との対峙の中で

    2019-09-09 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第2回。アメリカに亡命して情報科学の土台を築いたフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3人に通底する「オーストリア的」な知の脈絡とは? その探求は、19世紀のドイツ統一運動以降の中欧諸邦の大学制度と学派形成へと遡っていきます。
    「オーストリア哲学」とは何か
     「オーストリア哲学」という言葉をご存知だろうか? 哲学では、「フランス哲学」や「東洋哲学」のように、国や民族、地域の名称を冠した分類がよく用いられる。「オーストリア哲学」もその一つである。とはいえ、この言葉を聞いたことのある人は専門家の中ですら、かなり少ないはずだ。ドイツやフランスといったヨーロッパの大国ならまだしも、オーストリアは人口一千万にも満たない小国であり、独自の言語があるわけでもない(主要言語はドイツ語である)。同じヨーロッパでも、例えばベルギーやポルトガルの人口はオーストリアより多く、一千万を超えているが、「ベルギー哲学」「ポルトガル哲学」という言葉が使われることはない。どうして哲学ではオーストリアが特別視されるのだろうか。その理由は、前回の連載でも少し述べたが、かつてのオーストリアが大国だったからである。  オーストリアが大国だったということは多くの方はご存知かもしれない。かの有名なマリー・アントワネットはオーストリア出身であり、その母マリア・テレジアはハプスブルク家の支配下にある諸国を統べる「女帝」であった。また、オーストリアの首都のウィーンは、特に音楽では現在でも文化的な中心地の一つである。そう考えれば、オーストリアにもドイツやフランスと同じように「〜哲学」と称されるものがあることはそれほど不思議なことでもないように思われるかもしれない。だがじつは、「オーストリア哲学とは何か?」という問題は、なかなか複雑な背景を持つ答えにくい問いなのである。  今回は、この問いを中心に、「オーストリア的」ということの内実を明らかにしていく。そのためには、しばらく世界史、そしてそれに翻弄されるドイツの大学制度と哲学について話をしなければならない。どうかお付き合い願いたい。
    19世紀のオーストリアとドイツ
     時は1814年のウィーン会議に遡る。オーストリアによるフランス革命への干渉を機に、全欧州を揺るがすナポレオン戦争の猛威が吹き荒れたのち、ウィーンに列強首脳が集まり、戦後体制についての話し合いが行われた。しかし議論は遅々として進まず、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたことは有名だ。会議の終了は翌1815年。その結果、フランスではフランス革命で処刑された国王ルイ16世の弟、ルイ18世の即位が認められ、ブルボン朝が復活する。  ウィーン会議の議長は、戦争による神聖ローマ帝国の解体を受けて1804年に成立したオーストリア帝国の外相メッテルニヒ。会議の結果、オーストリア帝国の版図は、現在のオーストリア地域に加え、ヴェネツィアを含むイタリア北部、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、そしてガリツィア(現在のウクライナの一部)まで広がることになり、当時のヨーロッパ諸国の中で最大の面積を持つ国家になる。  オーストリア帝国の特徴は文字通りの「帝国(empire/imperium)」であること、すなわち、語源であるローマ帝国と同じように、複数の国家・民族からなる大規模国家である点だ。オーストリア帝国は、現在のオーストリア地域に以前から住んでいたドイツ人に加え、上述のように、イタリア人、チェコ人、スロバキア人、ハンガリー人、スロベニア人、そしてポーランド人(ガリツィアは1772年の「ポーランド分割」によってオーストリアの支配下に置かれる前まではポーランドの一部であり、前回の連載で登場したウィーンの数学者メンガーの父もガリツィア出身である)など、母語が異なる様々な民族から構成される多民族国家だったのである。ドイツ人は支配的な地位を占めていたし、公用語もドイツ語だったが、数の上では1/5程度に過ぎなかった。
    ▲オーストリア帝国の版図(1815年)(出典)
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  • 【新連載】小山虎 知られざるコンピューターの思想史──オーストリア哲学と分析哲学から 第1回 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真

    2019-07-23 07:00  
    550pt

    今回から、分析哲学研究者の小山虎さんによる新連載「知られざるコンピューターの思想史──オーストリア哲学と分析哲学から」がスタートします。インターネットや人工知能など、現代の情報テクノロジーを築いた知の根幹には、アメリカに流れ着いた意外な哲学的潮流の開花があった…? 二度の大戦をまたぐ20世紀社会の激動を背景に、その知られざるルーツに迫る壮大な思想史絵巻が、いま紐解かれます。
    1946年、プリンストン
     一枚の写真がある。1946年9月にアメリカのプリンストン大学創立200周年を記念して開催された「The Problems of Mathematics(数学の諸問題)」という数学の会議での、参加者たちの記念撮影だ。
    写真出典:https://albert.ias.edu/handle/20.500.12111/4685
     当時の代表的な数学者が多数参加している。なかには読者が名前に記憶がある参加者もいることだろう。例えば、右端から5人目、中段にいるジョン・フォン・ノイマン。ノイマン型のコンピューター・アーキテクチャにその名を残すだけでなく、ENIACを元にしたコンピューターをアメリカ各地に建造することを推進したことでも知られている彼は、第二次世界大戦で日本に投下された原子爆弾の開発計画であるマンハッタン・プロジェクトにも参加していた「応用」数学者だった。現在のコンピューター・サイエンスの全貌は「応用数学」の名前が与えるイメージよりはるかに巨大なものになっているのに対し、当時のそれはまだ数学との繋がりがかなり大きかったのである。フォン・ノイマンはこの会議で「新分野」と題されたセッションの座長を担当していた。  あるいは、フォン・ノイマンとは逆の左端から5人目、前から2列目にいるクルト・ゲーデル。不完全性定理という、あまりにも知られすぎたために多くの誤解を生み出したあの定理を証明した20世紀、あるいは史上最大の数学者・論理学者である彼もまた、この会議に参加していた。
     他にも著名な数学者、論理学者、物理学者、そして哲学者の顔が見られる。例えば、ポール・ディラック、ヘルマン・ワイル、W. V. O. クワイン、アロンゾ・チャーチ、スティーブン・クリーネ、J. C. C. マッキンゼー、A. W. タッカー、……本連載のどこかでまた彼らに触れることになるかもしれないが、まずはフォン・ノイマンとゲーデルの間、フォン・ノイマンから左に5人目、ゲーデルから右に10人目に当たる、ある人物に焦点を当てたい。彼の名はアルフレッド・タルスキ。ゲーデルと並ぶ20世紀最大の論理学者とも呼ばれ、タルスキ型真理定義(意味論)やバナッハ・タルスキのパラドックスにその名を残し、幾何学の完全性証明やモデル論の基礎を築いたことで知られる彼のことは、哲学(とりわけ分析哲学)を学んだことのある人であれば聞いたことがあるはずだ。タルスキもまた、この会議に主要な参加者として招待されていたのである。  当時、1903年生まれのフォン・ノイマンは42歳、1906年生まれのゲーデルは40歳、1901年生まれのタルスキは45歳。この20世紀を代表する数学者・論理学者である3名は同年代でもあった。さらに、3人とも第一次世界大戦前、民族自決の激動に翻弄されていた中欧の生まれであり、母国で学位を取得した後、安定したポストに就く前の30代の時に、ナチス台頭によるユダヤ人迫害の影響でアメリカへ移民したという点でも共通している。
     彼らのうち一人でも違う世代に生まれていたならば、あるいは、アメリカに移民してこなかったならば、20世紀の数学の歴史だけでなく、コンピューターの発展にも大きな影響が出ていたに違いない。フォン・ノイマンだけでなく、ゲーデルもタルスキも初期のコンピューターの発展と無関係ではない。コンピューターは20世紀前半に大きく発展した数理論理学なしに生まれることはなく、ゲーデルとタルスキはフォン・ノイマン以上にそれに貢献したと言っても差し支えないからである。
     本連載では、この3人の邂逅に象徴されるアメリカのコンピューター・サイエンスの原点をめぐって、まだあまり知られていない思想史的背景を紐解いていく。  現在のコンピューターやインターネット、あるいは人工知能といった情報技術の発展のルーツには、先述したマンハッタン・プロジェクトに代表される第二次大戦期の巨大軍事科学開発があることは、言うまでもないだろう。また、それが戦後にハッカー文化やヒッピーイズムといったカウンター・カルチャーの機運と結びつき、アラン・ケイやスティーブ・ジョブズなどによって体現されるような西海岸的なIT思想を生み落としていったという「物語」も、今ではよく知られるようになってきている。  しかし、分析哲学を専門とする筆者の視点では、それはあくまで一面に過ぎない。分析哲学とコンピューター・サイエンスは、その名を知っている人の多くにとってはまったく無縁なものだろうし、両者の共通点が指摘されることなどめったにないが、じつはどちらも19世紀ヨーロッパで生まれた数理論理学を源泉とし、戦後アメリカで本格的に発展した分野である。じっさい、戦後しばらく、まさにこの写真が撮影された1946年ごろまでは、分析哲学とコンピューター・サイエンスは互いに影響しあいながら発展してきた。例えば、「コンピューターの父」と称されるアラン・チューリングはウィトゲンシュタインの講義に出席しており、二人の間で熱心な議論がなされていたことがわかっている。第二次大戦期の巨大科学と西海岸のカウンター・カルチャーの結びつきにしても、その背景に分析哲学の発展と通底する契機が見られるのである。  加えて、本連載が進むにつれて明らかになっていくだろうが、その背景に、20世紀初頭の近代科学にキリスト教的世界観との衝突など様々な「危機」が生じていたことを受け、そのありかたを問い直す営みとして当時生まれつつあった新たな分野である科学哲学の存在があったことも無視できない。そして彼ら3人の結びつきもまた、数理論理学と科学哲学を介してのものだったのだ。
     ところで、当然ながら、著名な数学者であるこの3人はこのプリンストンの会議で初めて出会ったわけではない。ただ、この3人が揃ったのはこの会議が最初かもしれない。少なくともアメリカでの公式な場としては、おそらく間違いない。3人のうち最後に移民したゲーデルがアメリカにたどり着いたのはすでに第二次世界大戦が始まっている1940年であり、この1946年のプリンストンでの会議は、アメリカでの戦後初の大規模な数学の会議として企画されたものだからである。
    1930年、ケーニヒスベルクとウィーン
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