分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第16回。
今日では、コンピューター・サイエンスをはじめ世界の科学技術研究を牽引するエリート大学として名高いMIT(マサチューセッツ工科大学)。19世紀後半の開学以来、ドイツ型の研究大学を目指した創立者ウィリアム・ロジャースの理念はなかなか実現の契機に恵まれず、「大学」としては二流以下の地位に甘んじてきました。しかし2度の世界大戦による軍学複合の波をとらえた工学者ヴァネバー・ブッシュの手腕により、MITは大きな「アメリカン・ドリーム」を成し遂げていくことになります。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第16回 「大学」でない大学MIT〜戦争によってもたらされたアメリカン・ドリーム
前回は、「人工知能」という言葉が誕生したことで知られるダートマス会議に焦点を当てた。ダートマス会議で一堂に会したジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルの3名はみな、ヴェブレンによって全米に名を轟かせるようになっていたプリンストン大学数学科出身であり、コンピューター・サイエンス発展の立役者として活躍することになるのだった。
ところで、彼ら3名のうち、マッカーシーとミンスキーはダートマス会議以前にニューイングランド計算センターで再会しており、また一時期はMITで同僚だった。このように、MITはコンピューター・サイエンスの創成期に重要な位置を占めているのである。
MITの名前を聞いたこともないという読者はなかなかおられないのではないだろうか。MITは日本でも広く知られているアメリカの大学の一つであるだけでなく、多数のノーベル賞受賞者を輩出しており、世界でも有数の研究機関の一つだ。その正式名称は「マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)」という。お気づきになったかもしれないが、日本語では「工科大学」と訳されているものの、MITは正式名称では「大学(university)」でも「カレッジ(college)」でもないのである。しかも、MITは「工科大学」であるにもかかわらず、人文学でもアメリカ有数の研究機関であり、あるランキングでは世界2位にランクインしている。科学技術にだけでなく、人文学ですら世界でもトップクラスの大学が、厳密には「大学」ではない。奇妙なことのように聞こえるが、事実、創設されてからかなりしばらくの間、MITはいかなる意味でも大学とは言えない存在だったのだ。
「大学」でも「カレッジ」でもないMITの創世記
MITの創設は1861年にさかのぼる。当時マサチューセッツ州ボストン在住だったウィリアム・バートン・ロジャースという地質学者が、科学技術の進展と普及を目的とする学校をボストンに設立する運動を推し進めていた。アメリカにドイツ式の研究大学が持ち込まれるのは1865年の南北戦争終結後であり、当時の大学のほとんどは教育を中心とした「カレッジ」だった(本連載第9回)。ロジャースは、ボストンにやってくる前はヴァージニア大学で地質学の教授を務めていたのだが、当時のアメリカの大学では、彼が追い求める科学技術を中心に据えたカリキュラムは難しかった。だからロジャースは、新たな学校を設立しようとしたのだ。やがてロジャースの運動は広く認知されるようになり、最終的にマサチューセッツ州政府はロジャースの提案を受け入れ、設立のために多額の資金を援助する。こうしてMITは創設されるのである。もちろん初代学長はロジャースだ。
ところが、誕生まもないMITにいきなり試練が訪れる。創設から2日後の1861年4月12日、サウスカロライナ州のサムター要塞に南軍が攻撃を仕掛ける。南北戦争が始まったのだ。戦争により誕生したばかりのMITはいきなり資金不足に陥ることになる。結局MITで最初の授業が開かれるのは、南北戦争が集結した1865年のことだった。開校から戦争の影響を受けたことは、その後のMITの運命を暗示していたのかもしれない。
MIT初代学長ロジャースが目指したのはドイツ型の研究大学だった。彼は、科学技術の進展とそのための人材育成にとって実験室での研究が不可欠だと考えていた。研究大学でない当時のアメリカの大学では、科学の授業であっても講義が中心であり、実験室を備えてあったとしても、日本の高校の理科室のように教科書に書かれていることを確認するのが一般的だった(本連載第9回)。ロジャースは、このような教科書を中心とした教育では科学技術の進展には不十分だと考えていた。そこで彼が注目したのが、実験室での研究を中心としたドイツ式大学教育だ。
そもそも、研究と教育をいかにして両立させるかは大きな問題である。いかに優秀な学生であろうとも、学生は学生であり、科学者としては半人前だ。そうした学生が卒業後には科学者として研究に従事できるように育てるにはどうしたらよいのか。この問題を解決するのが実験室だ。最先端の研究が可能な実験室があれば、学生は教授の指導のもと、実験室で自ら実験を行うことができる。十分な成果が得られたら、学生はそれをまとめて論文として発表する。大学は、自ら実験を行い、成果を出して論文にするという経験でもって、学生が科学者として最低限の技量を備えていると認定する。つまり博士号は、科学者として一人前になった証しなのである。
ロジャースがドイツ型の研究大学を目指したために、創設当初のMITには寮がなかった。現在のアメリカの大学制度は、イギリスのカレッジ制大学をモデルにした、もっぱら教育を担当する「カレッジ」の上に、ドイツの研究大学をモデルにした「スクール」と呼ばれる大学院が乗っかっているという構造をしている(本連載第9回)。イギリスのカレッジ制大学はもともと修道士を養成する寄宿学校が起源であったため、「カレッジ=寮」、すなわち、大学に入学したら入寮するというイメージがアメリカでは一般的である。これはMIT設立前も変わらなかった。寮を持たないMITは、まさに「Institute of Technology」の名称どおり、大学とは一線を画した新しい教育機関だったのだ。
ロジャースの壮大な夢の実現として誕生したMITだったが、設立当初から長らくMITの財政状況は悪く、財政は学生からの授業料頼りという有様だった。設立から40年目の1900年になると財政的には改善されていたが、それは教養教育を削減し、産業界の要望に合わせた人材育成に特化することによって達成されたものだった。寮もなく、学部教育も貧弱であり、名前に「大学」も「カレッジ」もない当時のMITは、いわば専門学校のような存在であり、創設者ロジャースが構想していたドイツ式の研究大学とは大きくかけ離れたものになってしまっていたのだ。
創設の理念から逸れてしまったMITにさらなる危機が訪れる。20世紀に入ると、すぐ近くにあるハーバード大学との合併が画策されるようになるのだ。当時のハーバードの学長は、チャールズ・エリオット。ハーバードに大学院を設置し、また男女共学を実現するなど、ハーバードを「カレッジ」から「大学」に変えた伝説の学長だ(本連載第9回)。エリオットはMITで教鞭をとっていたこともあり、ロジャースの理念に強く共感していた。ハーバードが世界に名だたる研究大学になったのは、ロジャースの理念を実現したエリオットのおかげといってもよいだろう。エリオットが大きな反対を知りつつもMITとの合併を目指したのも、自分に大きな影響を与えたMITを財政危機から救うためだった。
両者の合併は、1914年に一度は正式に告知されたものの、最終的には破談となる。それ以降もMITとハーバードとの合併(あるいは後者による前者の吸収)は何度も検討されるが、結局実現することはなかった。
1917年、ハーバードとの合併話がなくなったちょうどその年、MITがそれまでの単なる「ボストンの専門学校」から脱皮するきっかけとなる出来事が発生する。アメリカが第一次世界大戦に参戦したのだ。
▲MIT設立に合わせて建築されたビル。この建物は後に創設者の名をとって「ロジャース・ビルディング」と呼ばれることになる。(出典)