ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第18回「保守本流・精神野球のオルタナティブ、『エンジョイ・ベースボール』の思想を育んだ明治期のクラブチーム文化」をお届けします。
国内への導入当時はクラブチーム同士でのカジュアルなプレイが一般的だった「ベースボール」。やがてナショナリズムと結びつく「野球」が発展するまでには何が起きていたのか、その足掛かりを論じます。
中野慧 文化系のための野球入門
第18回 保守本流・精神野球のオルタナティブ、「エンジョイ・ベースボール」の思想を育んだ明治期のクラブチーム文化
前回までは、若者文化としての野球が、できたばかりのエリート校「第一高等学校(一高)」でどのように展開していったのかを見てきた。19世紀から20世紀の変わり目の日本は日清・日露戦争を経験し、明治前半期の「脱亜入欧」のモードから、日本の伝統的な価値を見直すナショナリズムのモードへと切り替わっていった時期であった。
そこでエリート校・一高の若者たちは、外面だけの西洋の模倣にとどまらず、内面つまり哲学・思想も含めた本格的な受容へと舵を切っていった。それがやがて、近代日本の文化空間の土台となる日本型教養主義へと発展していったわけである。
一方、教養主義以前、武士的/東洋豪傑的なものの強い影響下に成立した黎明期日本の野球文化は、少なくとも一高の文化的ヘゲモニーの中では敗退していった。それは別の見方をすれば、野球が一高──社会的なトップエリート──の占有物でなくなったということでもある。一高で教養主義が台頭していった時期とほぼ時を同じくして、早稲田・慶應などのその他の高等教育機関や、全国の中学校(以前も述べたが戦前における中学校は現代の中学・高校に相当する教育課程である)へと、野球文化は本格的に浸透していくことになる。
野球文化本流とは別の「エンジョイ・ベースボール」の潮流
プレイヤー文化としての日本野球は、基本的に一高からやがて新興の早稲田野球部へと受け継がれ、それが保守本流となって現在のアマチュア野球文化が形作られている。
なかでも最大の重要人物は、早稲田大学野球部で監督を務め、現在も「アマチュア野球の父」として尊敬を集める飛田穂洲(とびた・すいしゅう)である。後で詳しく述べるが、飛田の野球観は「一球入魂」という言葉に象徴されるような精神野球・武士道野球であった。これは、これまで述べてきた一高野球部の文化を受け継ぎ発展させたものだった。飛田のこうした思想は、現在においても、ファッションスタイルとしては高校野球の「坊主頭」文化に集約的に表現されている。こうした文化のあり方は良きにつけ悪しきにつけ、「学校」という空間をベースに育まれたものであった。
一方で、日本の野球文化のなかには、精神野球・武士道野球の集約的表現である「坊主頭」をあえて採用していない希少種も、わずかながらに存在している。それが「慶應」である。
現在の慶應義塾高校・慶應義塾大学野球部は、「エンジョイ・ベースボール」というスローガンを掲げている。エンジョイ・ベースボールは、慶應義塾高校野球部元監督の上田誠によれば、「選手が楽しむ野球」であると同時に「自分で考える野球」でもあるという[1]。
慶應式野球は、思想から外面的なプレーも含めて必ずしも「一高→早稲田」的な精神野球とはっきりと一線を画しているとまでは言えないが、少なくともエンジョイ・ベースボールの考え方は、彼らの採用しているスタイルには表れていると言ってよいだろう。それは「坊主頭にはしない」という点に、である。
今も慶應義塾高校野球部は神奈川県屈指の強豪としてときおり甲子園にも出場しているが、多くの選手が坊主頭にはせず短髪であり、そのスタイルを長年にわたって貫いている。すでに述べたように、高校野球の坊主頭文化──とりわけ2000年代に特に強まったそれ──は、指導者から直接的に強制されたものではなく、「高校野球かくあるべし」という当事者意識なき外部の目線に高校球児たちが屈し、そして何より高校球児自身が主体的な思考を持てないことによって発生する極めて強力な同調圧力が「髪型」という外面に集約的に表現されている、というものである。
そのような四面楚歌の状況のなかで「慶應」だけが同調圧力に屈してこなかったということの背景には、慶應義塾の創始者・福澤諭吉の「一身独立して一国独立す」、つまり「独立自尊」の精神の影響を見て取ることもできるだろう。これは慶應の指導者たち自身も様々な機会で述べていることでもあるが、現在に至るまで野球を取り巻くメディアの人間たちは、その意義を高く評価するということをほとんどしてこなかった。
では、その「慶應」的なものの源流は何かというと、遡れば明治時代の「新橋アスレチック倶楽部」というクラブチームに辿り着く。今となっては野球=学校文化というイメージが強いが、草創期には学生や市民が自発的に集まるクラブチームも大きな存在感を持っていたのだ。
その新橋アスレチック倶楽部を創設したのが、平岡凞(ひらおか・ひろし)という人物であった。
▲平岡凞(1856-1934)Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons(出典)
平岡はいわゆる「徳川御三卿」の一角である名門・田安徳川家の家老の家に生まれ、明治維新後の1871年、新政府の海外視察団の一員としてアメリカ・ボストンに留学し、鉄道技術を学んだ。当地では鉄道会社で働きながら、空き時間に行われる野球もプレイするようになった。
その1871年、アメリカではプロ野球チームが誕生しており、特にボストンやニューヨークなどの東海岸ではプロ野球が盛んになり始めていた。なかでもボストンにあったチーム、ボストン・レッドストッキングス(現在のボストン・レッドソックスと直接的には関係なく、MLBで最も長い歴史を持つアトランタ・ブレーブスの前身である)のアルバート・スポルディングは投手として6年連続最多勝を挙げるなど活躍したのち、スポーツメーカー「スポルディング社」を創業する。スポルディング社といえば現代日本ではバスケットボールのメーカーというイメージが強いが、もともと野球選手だったスポルディングが野球用具開発・野球の全米への普及のために起業した会社である。
▲スポルディングジャパン公式サイト - SPALDING JAPAN OFFICIAL SITE より。スポルディングは第12回で述べた「野球の(アメリカにおける)国技化」に大きな役割を果たし、ルールブックの作成や、草創期の野球史の「発掘(ないし捏造)」を通じて、野球を「アメリカ人の白人男性のスポーツ」へと作り変えていくのに大きな役割を果たした人物でもある。だが今回のテーマとは逸れるため、それは別の機会に改めて論じたい。
平岡はボストンの鉄道会社に就職して働き、フィラデルフィアの会社に移ったのちに日本に帰国して、渡米中に知り合っていた伊藤博文の推薦で新橋鉄道局の工場に就職した。やがて平岡はアメリカから持ち帰ったボールとバットで神田三崎町の練兵場で仲間たちを集めて野球をプレイするようになる。そこには正岡子規ら開成学校(のちの一高)や慶應義塾の学生たちも加わり、平岡に野球を教わったという。