ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第19回「日本SFの祖」と「日本社会主義の父」がリードした〈野球のポップカルチャー化〉──押川春浪と安部磯雄」(前編)をお届けします。
20世紀初頭に「エリート文化」から「ポップカルチャー」へと変化していったベースボール。そこには押川春浪と安部磯雄という二人の立役者の存在がありました。
中野慧 文化系のための野球入門
第19回 「日本SFの祖」と「日本社会主義の父」がリードした〈野球のポップカルチャー化〉──押川春浪と安部磯雄(前編)
世紀転換期の文化状況──「ハイカラ」と「バンカラ」
2022年現在の日本の野球文化は、「する」「みる」「ささえる」の三側面のどれにおいても〈市民の自発的な結社〉としてのクラブチーム的なあり方は、あまり浸透していない。中学生年代まではシニアリーグやボーイズリーグのような外形的には「クラブチーム」に見えるもの自体は多く存在するが、これらはどちらかと言えば習い事、つまり学校文化を補完するという性格のものであり、しかも「する」に参加できる年代も「子ども」に限られているため、本質的な意味での〈市民の自発的な結社〉とは言えないものだろう。
19世紀末から20世紀初頭(明治後期から大正期)にかけての日本では、新橋アスレチック倶楽部に代表される〈市民の自発的な結社〉としてのクラブチームと、一高野球部などの学校の部活動としてのチームが混在しており、人的にも相互交流があった。また学校チーム自体も、最初から制度化されたものというよりは自然発生的に生まれたものであり、そこには〈市民の自発的な結社〉としての性格もたしかに存在していた。
だが、現代と大きく違うのは、世紀転換期の野球文化は庶民に広く開かれたものではなく、あくまでも経済的・社会的に余裕のある、しかも男性に限られた「おぼっちゃん文化」であった点だ。和装が一般的であり、身体文化としては武道しかまだ定着していなかった時代において、洋風文化である野球は庶民たちからは好奇心と憧れの目線で見られていた。
しかしクラブチームは、平岡凞の新橋アスレチック倶楽部がやがて消滅してしまったように、持続性には課題があった。当事者たちに、自発的結社を育てていくための市民意識が必要であることが、まだ十分に自覚されていなかったのである。
逆に学校チームの場合は継続性を担保することはできたが、あくまでも学校の支援を受けることが必要だったため、「教育」の枠内で正当性を確保することが必要だった。そのときに正当化の道具として動員されたのが、すでに民衆道徳としてある程度の認知を得ていた「武士道」のロジックの上に野球チームの活動を位置づけることであった。学校文化との接点を保っておくために、メジャーな社会秩序と結びつく必要があったのだ。
こうした社会状況が端的に表れているのが、20世紀初頭(明治末期)の「ハイカラ」という言葉の誕生である。ハイカラとは洒落た西洋風の身なりをした人物のことで、高襟(ハイカラー)に由来しており、1900年〜1901年(明治33〜34年)頃に、毎日の新聞記者が造語したものと言われる。この言葉には、西洋風の洒落者への憧れの感情と同時に、流行に流されやすい軽薄者、俗物根性を揶揄するニュアンスも含まれていた。
すでに述べたように20世紀初頭は、社会的なトップエリートである一高生たちの特にイノベイティブな者たちが、それまでの籠城主義、武士的・東洋豪傑的な気風を捨て去り、身体文化を「あえて」軽視する態度を選択し、西洋思想の本格的受容へと舵を切っていった。つまり教養主義の時代の幕開けである。
そしてハイカラという言葉の流行とともに逆に、一高の文化的イノベーターたちが捨て去っていった東洋豪傑風の文化が「バンカラ(蛮カラ)」という言葉で集約的に表現されることになったのである。
「バンカラ」の者たちは、西洋思想に傾倒する教養主義者たちが、ともすれば「文弱」とも表現されるように身体文化を軽視していったことに対抗し、むしろ「男らしさ」を誇りとした。そして洋装などのオシャレを含む西洋文化への関心を「男らしくない」「軟弱である」と批判し、自分たちは「あえて」ボロボロの衣服を身にまとう、いわゆる弊衣破帽(へいい・はぼう)のファッションスタイルを採用した。さらに行動習慣としては意気盛んで覇気がある反面、言動が粗暴であり、それすらも誇りにするという特徴を持っていた[1]。
そして教養主義者は思想的には自由主義(リベラリズム)と非戦論・絶対平和主義に傾倒する一方で、バンカラたちは愛国ロマン主義・帝国主義と親和的な傾向を持つようになっていったのであった。あくまで価値中立的な意味でこの言葉を用いるが、要するに教養主義者は〈左翼的〉であり、バンカラは〈右翼的〉な性格を持っていたのだ。