ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第21回「桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」」(前編)をお届けします。
一人のプロ選手として輝かしい成績を残しながら、引退後は言論活動を通じて野球界に貢献してきた桑田真澄。彼の野球史観を批判的に検証しつつ近代日本の野球について分析します。
中野慧 文化系のための野球入門
第21回 桑田真澄の「野球道」に欠けているものは何か? 一高・東大的「ガリ勉のエートス」と「不良性」(前編)
一高中心史観と桑田真澄の「新野球道」
日本野球の文化性が形作られた最も重要な時期は、1900〜1920年代である。
この時代は明治末期から大正期、昭和初期へと続いていく時期で、日露戦争、韓国併合、第一次大戦への参戦、関東大震災、普通選挙法施行といった近代日本の歴史のなかでも重要な出来事が次々に起こった。日本は1868年の明治維新を契機に近代化を始めたがその歩みは遅く、高等教育(旧制高等学校、大学や専門学校[1])の普及、俸給生活者(サラリーマン)の登場、良妻賢母教育の広がりなど、今に続く文化の雛形が形成されたのは1900〜1920年代になってからだった。
前回、日本の野球文化を規定するものとして「一高中心史観(=日本野球は根性論と精神主義の歴史である)」の存在について論じた。戦前は現代に比べ高等教育の学資を支弁できる家庭は限られており、そのうえ一高は男子のみ入学可能、入試も日本最高難度で、1学年わずか300人程度しか入学できない非常に狭き門だった(現在の日本で最難関の大学とされる東京大学は1学年3000人程度である)。
その超エリートである一高で1890年代に「校技」となったのが野球であり、一高野球部の強さは日本一とされ、野球部員たちはスクールカーストでも頂点に君臨していた。そして野球部員以外の学生たちも「野球の応援に熱心に参加するべきである」とされていた。
ところが世紀転換期、藤村操の投身自殺をひとつの契機として一高生たちの間で個人主義が台頭し始め、野球応援に熱狂する集団主義的学生文化が冷ややかな目で見られるようになった。また経済成長を背景に旧制高校への進学を狙う家庭が増え始め、一高の入試難易度が上がったこと、そして野球の民衆への普及により日本野球全体のレベルが向上し、一高野球部に勝利する大学や中学(当時の中学は5年制で、現在の中学校・高等学校に相当する。当時は旧制高校と中学校の対戦もごく普通に行われていた)も現れ始めた。
しかし同年代男子内でもっとも学業優秀、スポーツにも秀でる「文武両道」の一高野球部に対するフェティシズムは強力に存在し続けた。こうしたフェティシズムを背景に、有山輝雄や佐山和夫といった戦後の歴史家たちは、一高野球部のプレゼンスを大きく見積もる歴史観を書き続けてきた。
こうした「一高中心史観」を現代に引き継いで発信を行っているのが、巨人やピッツバーグ・パイレーツなどで投手として活躍した桑田真澄(現:読売ジャイアンツ一軍投手チーフコーチ)である。桑田は現役引退後、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程に入学し、そこで論文「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」を執筆し、脚光を浴びた。
元選手が野球史を論じる試みは現代において非常に珍しいものであり、その意味で注目に値する。だが桑田も有山や佐山の議論に大きく経路依存し、「日本野球は根性論と精神主義の歴史である」という一高中心史観を踏襲してしまっている。
以下、それの何が問題なのかを詳しく見ていこう。
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