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本日のメルマガは、音楽ジャーナリスト・柴那典さんと宇野常寛との対談(後編)をお届けします。
音楽バブルとでも言うような1990年代から一転、「大衆的」なものが捉えにくくなったゼロ年代からの音楽シーンを分析し、現代のアングラカルチャーからオルタナティブな感性が現れる可能性について論じます。
前編はこちら
(構成:目黒智子、初出:2021年12月9日「遅いインターネット会議」)

平成を「ヒット曲」から振り返る(後編)|柴那典

音楽シーンとユースカルチャーの乖離

宇野 前回に引き続き、ゼロ年代以降の音楽シーンについて深掘りしていこうと思います。2000年の「TSUNAMI」はサザン自身の総括ソングですよね。1970年代からキャリアのある国民的バンドの総括ソングが、その年を代表するような曲になってメガヒットを記録していくというのは、社会全体が年を取り始めてきたことの最初の表れだったように思います。

 まず振り返ると1990年代は非常ににぎやかな時代で、特に1995年以降、日本社会はどんどん沈んでいくけれど音楽はきらびやかだった。

宇野 メディアの世界は1990年代後半がバブルだったので、あらゆるものがそうでしたね。

 CDに関しては1998年が一番売れた年です。1999年に宇多田ヒカルが登場してアルバムを700万枚売ったとき、「これが金字塔となるだろう」「15才の少女が登場して700万枚売るという現象を上回ることはもうないだろう」というムードはありました。そして1999年から2000年のムードというのは、僕も宇野さんも当事者として覚えていると思いますが、2000年問題がありノストラダムスの大予言もあり、1980年代に20代を過ごした人は、1999年になったら世界が滅亡してくれるんだと半ば本気で思っていましたよね。

宇野 僕は1999年の「Automatic」(宇多田ヒカル)のあたりで1990年代的なものが終わった気がしていました。ラジオから「Automatic」のイントロが流れてきた瞬間に『エヴァンゲリオン』的なものと言ったら怒られるかもしれないけど、ああいった1990年代っぽい自分語りにより繊細さの演出が流行った時代が終わった気がしたんですよ。

 その気分は共有しています。1990年代が終わって2000年の幕開けってめちゃめちゃから騒ぎでしたよね。

宇野 1990年代後半というのは比喩的に言うと、友達にカジュアルに話せる程度のトラウマが欲しいとみんなが思っていた時代ですよね。そのモードが宇多田ヒカルが出てきた瞬間に終わった気がして、それは卵が先か鶏が先かで、宇多田が終わらせたのか、時代の空気に乗って宇多田がヒットさせたのかはわからないけれど、そういうタイミングだったと思います。

 新しいミレニアムが始まったという、何かが新しくなったんだというムードと、そこから先、宇多田以上に新しいものはないという気分の中で、ゼロ年代から2004年くらいまでノスタルジーに引っ張られるようになりました。昔の良さ、歌謡曲の良さやみんなが知っていた良さをもう一度、もしくは新しい形で出しましたというのが2000年から2004年のヒットソングです。

宇野 この頃、歌謡曲シーンや大衆音楽シーンがユースカルチャーのシーンと乖離しているんですよね。

 ゼロ年代のユースカルチャーは明らかにインターネットでしたね。「2ちゃんねる」が出てきていたし、インターネットというものが今のようなプラットフォーム前提ではなく、オルタナティブだった時代です。冒頭で「スタンダードソングの時代というのはダブルミーニングだ」と言いましたが、あくまで表側としてはではいい意味に受け取れるように書いています。歌い継がれるいい曲がたくさん出た時代なんだ、と。ですが、裏の意味としてはユースカルチャーと音楽が歩調を合わせなくなった時代です。ゼロ年代にはアニメや特撮といったオタク的なカルチャーが市民権を得てきたんですね。

宇野 団塊ジュニアがオタク第二世代といわれていて、最初のマスとしてのオタクです。ゼロ年代というのは彼らが社会で意思決定権を持ち始めた時代なんです。

 このゼロ年代でレミオロメンの「粉雪」(2006年)を選んだのですが、これは「ニコニコ動画」で最初の「弾幕ソング」(弾幕とは、動画上に同じタイミングでコメントを書き込み、画面を埋め尽くす遊びのこと)で、今は権利の問題で削除されていますが、J-POPヒットの中で唯一「ニコ動」にいじられた曲なんです。この時代のミュージックビデオはMTVとかスペースシャワーに流すもので、ネットに載せることは意図していなかったんですね。こういったコンフリクトがあったことも、時代的な記憶がない人には残せないだろうというのも「粉雪」を選んだ理由です。
 インターネットの話をすると、1998年に「ピンク スパイター」(hide with Spread Beaver)を選んでいます。この年は音楽業界も20世紀型メディア産業も最も景気のいい時だったので、山ほどヒット曲があるんですが、hideを選ぼうということは最初から決めていました。hideはX JAPANのメンバーであるがゆえにビジュアル系の一大ブームを象徴できる上に、洋楽のラウドミュージック、デジタルハードコアの作り手とZilchというバンドで活動し、洋楽と邦楽という両方のリンクを持っています。「ピンク スパイダー」は大ヒットではありませんが、最終的に決め手になったのはhideがインターネットに夢中だったことです。インタビューで「ピンク スパイダー」の意味を聞かれたときに「最近夢中になってるのは音楽とWeb。Webというのは蜘蛛の巣だからスパイダーにしたんだ。」といっているのですが、この時代にインターネットに夢中になっていたミュージシャンはほかにいないんですよ。「ピンク スパイダー」の歌詞っていま見るとすごいんです。

 君は 嘘の糸張りめぐらし
 小さな世界 全てだと思ってた
 近づくものは なんでも傷つけて
 君は 空が四角いと思ってた
"これが全て どうせこんなもんだろう?"
 君は言った それも嘘さ

 完全にソーシャルメディアのフェイクニュースの話ですよね。

宇野 これはすごいですよ。この歌詞を見たとき震えました。

 音楽がユースカルチャーの立場をインターネットに奪われるゼロ年代の前に、hideがインターネットをテーマに曲を書いていた、ということはこの本で書きたかったことのひとつですね。

平成の文化史を、音楽業界からどう捉えるか

宇野 この本を読んで、一番勉強になったと思ったのがhideについて書かれたところです。以前に音楽ジャーナリストの宇野惟正さんが、日本の音楽批評は渋谷系を過大評価してビジュアル系を過小評価してきたと言っていました。僕のようにどちらにもフラットな距離感の人間からするとその通りで、やっぱり内外の大衆文化やポピュラーミュージックの研究者に与えたインパクトはビジュアル系のほうが大きいですよね。本書で述べられていたことに対する数少ない違和感の一つが、「日本のポピュラーミュージックはどんどんダメな方向に向かっているけれど、オザケン(小沢健二)とPerfumeは頑張っていた」という史観です。それはそうなんだろうけれど、ならばもう少しビジュアル系が、ガラパゴスであるがゆえに海外で面白がられたという現象に対しては言及すべきだと思います。

 ビジュアル系は曲で語れないのが難しいところです。「ピンクスパイダー」は数少ない例外で、たとえばDIR EN GREYはとても革新的ですが、代表的な曲は何かと問われたときに挙げることができないんですよね。