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本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。歴史書を基礎とする古代の中国小説が、やがて一般化した「小説」とどのように異なるのかを分析し、近世の小説のあり方を捉え直します。
福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
1、二つの文学ウイルス
本章および次章では、主に近世(early modern)の小説を中心として、中国文学および日本文学のあり方に照明を当てるが、それに先立って、中国小説の文化史的な位置づけを検討したい。少し回り道しながら考えていこう。
夏目漱石の『文学論』(一九〇七年)の序は、英文科出身の彼が英語の研究を命ぜられ、二〇世紀初頭のイギリスに留学したときの回想に始まる。彼はそこで文学を「社会学的心理学的」に研究するという巨大なテーマに取り組み、ついに神経衰弱に陥った。ここで重要なのは、彼をこの無謀な研究に駆り立てたのが「漢文学」および「英文学」との遭遇であったことである。
夏目漱石の『文学論』(一九〇七年)の序は、英文科出身の彼が英語の研究を命ぜられ、二〇世紀初頭のイギリスに留学したときの回想に始まる。彼はそこで文学を「社会学的心理学的」に研究するという巨大なテーマに取り組み、ついに神経衰弱に陥った。ここで重要なのは、彼をこの無謀な研究に駆り立てたのが「漢文学」および「英文学」との遭遇であったことである。
余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短かきにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学もかくの如きものなるべし、かくの如きものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。
こうして、二つの文学の共通性を信じて、英文学研究に生涯をささげようとした漱石は、しかしいくら読書しても英文学を味わい得たという境地に到れず、大学の卒業時には「何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念」に駆られる。この不安が漱石を次の有名な見解へと導いた。「漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず」。つまり、漱石は漢文学と英文学をいったん「文学」の名のもとに同一化したが、それがかえって両者の差異を際立たせたのである。
私は前章で、小説の流行をパンデミックにたとえた。そのメタファーを再び用いて言えば、すでに漢文学ウイルスに感染していた漱石は、英文学ウイルスに遭遇し、しかもその特有の「症状」に強い違和感を覚えていたと言えるだろう。この二つの文学は同種に思えるが、いわばインフルエンザウイルスとコロナウイルスが似て非なるものであるように、それが読者の引き起こす反応は異なっていた。少なくとも、鋭敏な漱石はどうしてもその差異を看過できなかったのである。
同時代人の森鷗外は、ゲーテをはじめヨーロッパ文学の翻訳に熱心に取り組んだ。ゲーテが『西東詩集』でペルシア詩人の「精神」をドイツ語に変換したように、鷗外もヨーロッパ文学のエッセンスを日本語の表現に導入しようとした。特に、オムニバス形式で各国の短編小説を翻訳・収録した鷗外の『諸国物語』は、まさに世界文学の地図製作者の面目躍如という感がある。むろん、ドイツに留学した鷗外も漱石と同じく、二つの文学の差異を肌身で感じていたに違いない。それでも、彼はゲーテの翻訳者にふさわしく、世界文学を受容し得るだけの表現力や柔軟性をもつ日本語のプラットフォームを、入念に組織したのである。
それに対して、漱石は卓越した語学力をもっていたにもかかわらず、年上の鷗外や二葉亭四迷と違って、その能力を翻訳に向けることはなかった。彼がやろうとしたのは、いわば系統の異なる二つの文学ウイルスを生み出した共通の仕組みを、科学的なアプローチで解き明かすことである。F(認識的要素)とf(情緒的要素)の組み合わせであらゆる文学を説明しようとする漱石の力業は、そこから生み出された。
ただ、現代のわれわれのもつ文学イメージからすると、いささか奇妙に思えることがある。それは、漱石が「文学はかくの如き者なりとの定義」を得たのが「左国史漢」、つまり『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』という歴史書からであったという事実である。彼自身優れた漢詩人であったにもかかわらず、漱石はこの序文で詩人にまったく言及していない。『文学論』の本文では、イギリスと中国の詩が多く作例として挙げられるのだから、序文の態度はなおさら奇異に感じられる[1]。
しかし、中国文学の基礎を歴史書に求めるのは、決しておかしいことではない。それは中国文学の特性に関わっている。かつて吉川幸次郎は、近世に白話小説が流布するまで、中国文学の担い手たちが一貫して、虚構よりも事実を尊重してきたことに本質的な意味を認めた。
私は前章で、小説の流行をパンデミックにたとえた。そのメタファーを再び用いて言えば、すでに漢文学ウイルスに感染していた漱石は、英文学ウイルスに遭遇し、しかもその特有の「症状」に強い違和感を覚えていたと言えるだろう。この二つの文学は同種に思えるが、いわばインフルエンザウイルスとコロナウイルスが似て非なるものであるように、それが読者の引き起こす反応は異なっていた。少なくとも、鋭敏な漱石はどうしてもその差異を看過できなかったのである。
同時代人の森鷗外は、ゲーテをはじめヨーロッパ文学の翻訳に熱心に取り組んだ。ゲーテが『西東詩集』でペルシア詩人の「精神」をドイツ語に変換したように、鷗外もヨーロッパ文学のエッセンスを日本語の表現に導入しようとした。特に、オムニバス形式で各国の短編小説を翻訳・収録した鷗外の『諸国物語』は、まさに世界文学の地図製作者の面目躍如という感がある。むろん、ドイツに留学した鷗外も漱石と同じく、二つの文学の差異を肌身で感じていたに違いない。それでも、彼はゲーテの翻訳者にふさわしく、世界文学を受容し得るだけの表現力や柔軟性をもつ日本語のプラットフォームを、入念に組織したのである。
それに対して、漱石は卓越した語学力をもっていたにもかかわらず、年上の鷗外や二葉亭四迷と違って、その能力を翻訳に向けることはなかった。彼がやろうとしたのは、いわば系統の異なる二つの文学ウイルスを生み出した共通の仕組みを、科学的なアプローチで解き明かすことである。F(認識的要素)とf(情緒的要素)の組み合わせであらゆる文学を説明しようとする漱石の力業は、そこから生み出された。
ただ、現代のわれわれのもつ文学イメージからすると、いささか奇妙に思えることがある。それは、漱石が「文学はかくの如き者なりとの定義」を得たのが「左国史漢」、つまり『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』という歴史書からであったという事実である。彼自身優れた漢詩人であったにもかかわらず、漱石はこの序文で詩人にまったく言及していない。『文学論』の本文では、イギリスと中国の詩が多く作例として挙げられるのだから、序文の態度はなおさら奇異に感じられる[1]。
しかし、中国文学の基礎を歴史書に求めるのは、決しておかしいことではない。それは中国文学の特性に関わっている。かつて吉川幸次郎は、近世に白話小説が流布するまで、中国文学の担い手たちが一貫して、虚構よりも事実を尊重してきたことに本質的な意味を認めた。
非虚構の素材の尊重、言語表現の特別な尊重が、この文学史の二大特長と考えられる。二つはともに、この文明に普遍な方向である即物性によって説明されるであろう。歴史事実、日常の経験は、空想による事象よりも、より確実な存在である。表現された言語は表現する心象よりも、より確実に把握される。この国の哲学も、ひとしく即物的であり、神、超自然への関心を抑制し、地上の人間そのものへ視線を集中したが、おなじ精神が、文学をも支配したのである。[2]
このような「即物性」を凝縮したのが、「地上の人間」の諸相を記録した歴史書というジャンルである。左国史漢に文学を代表させたとき、漱石は中国文学の急所を浮かび上がらせていたと言えるだろう。
2、詩と小説――その評価の違い
そもそも、事実の記録と伝承は、中国では歴史書に限らず文学的なエクリチュール全般――今はこういう大雑把な言い方をしておく――で要求されたものである。ホメロスの叙事詩が百科全書的な教育装置であったとするエリック・ハヴロックの説(第二章参照)は、ギリシアのみならず中国の文芸にも適用できる。例えば、詩を学ぶ効用について、孔子は次のように説明した。
子曰く、小子何ぞかの詩を学ぶこと莫きや。詩は以て興すべく、以て観るべく、以て群すべく、以て怨むべし。邇くは父に事え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を識る。(『論語』陽貨)
孔子の詩学によれば、詩は心を奮い立たせ(興)、ものを観る仕方を教え(観)、共同生活を営ませ(群)、うらみごとの感情もうまく吐露させる(怨)。のみならず、詩の学習者は父や君主に適切な仕方で仕え、鳥獣草木の知識を得ることもできる――つまり、詩は共同生活に必要な基礎教養や倫理を教える百科全書として、孔子には理解されていた。しかも、この百科全書はたんに自然の名称のみならず、自然の根源的な生命力(古代ギリシアで言う「ピュシス」)をも伝達する。「詩三百、一言以て之を蔽う、曰く思い邪なし」(『論語』為政)と力強く言い切った孔子は、邪念のないまっすぐでふくよかな生命力こそを、詩という教科書の核心と見なしていた。
現に、古代の歌謡を集めた『詩経』における自然物は、しばしば「徳」の文字を伴って歌われる[3]。徳とは英語のvirtueと同じく、万物そのものに内在し、人間や自然を動かす霊的な「力」を言い表した言葉である。ゆえに、詩を共有することは、たんなる知識の獲得にとどまらず、自然や人間のもつ根源的な生命力にアクセスする行為に等しかった。詩が共同体の基礎教養となったのも、この万物のもつ「徳」の力を了解するのに、詩が欠かせなかったためである。
孔子やその門弟は、しばしば『詩経』を倫理的生活のメタファーとして用いた。一例をあげると、孔子が「貧しくても学問を楽しみ、豊かでも礼を好むほうがよいだろう」と述べたところ、弟子の子貢が「『詩経』に「切するがごとく、磋するがごとく、琢するがごとく、磨するがごとく」とあるのがそれでしょうか」と答えて、孔子が絶賛したというエピソードがある(『論語』学而)。切磋琢磨とはもともと骨、象牙、玉、石の加工法を指す言葉だが、師弟はそれを修養のテクノロジーとして読み替えている。詩は自然と人為をメタファーでつなぐ、一種の翻訳装置であったと言えるだろう。
では、小説はどうだろうか。詩が歴代の知識人(士大夫)に高く評価されてきたのに対して、小説は総じて劣位に置かれてきた。ここで重要なのは、小説が文化と非文化のボーダーラインにあったことである。中国の小説の起源を考えるとき、紀元一世紀の歴史家・班固の『漢書』芸文志――漢代の書籍目録であり、古代学術史の基礎文献でもある――の次の記載は必ず参照されるが、そこにはすでに小説の位置づけの難しさが示されていた。
現に、古代の歌謡を集めた『詩経』における自然物は、しばしば「徳」の文字を伴って歌われる[3]。徳とは英語のvirtueと同じく、万物そのものに内在し、人間や自然を動かす霊的な「力」を言い表した言葉である。ゆえに、詩を共有することは、たんなる知識の獲得にとどまらず、自然や人間のもつ根源的な生命力にアクセスする行為に等しかった。詩が共同体の基礎教養となったのも、この万物のもつ「徳」の力を了解するのに、詩が欠かせなかったためである。
孔子やその門弟は、しばしば『詩経』を倫理的生活のメタファーとして用いた。一例をあげると、孔子が「貧しくても学問を楽しみ、豊かでも礼を好むほうがよいだろう」と述べたところ、弟子の子貢が「『詩経』に「切するがごとく、磋するがごとく、琢するがごとく、磨するがごとく」とあるのがそれでしょうか」と答えて、孔子が絶賛したというエピソードがある(『論語』学而)。切磋琢磨とはもともと骨、象牙、玉、石の加工法を指す言葉だが、師弟はそれを修養のテクノロジーとして読み替えている。詩は自然と人為をメタファーでつなぐ、一種の翻訳装置であったと言えるだろう。
では、小説はどうだろうか。詩が歴代の知識人(士大夫)に高く評価されてきたのに対して、小説は総じて劣位に置かれてきた。ここで重要なのは、小説が文化と非文化のボーダーラインにあったことである。中国の小説の起源を考えるとき、紀元一世紀の歴史家・班固の『漢書』芸文志――漢代の書籍目録であり、古代学術史の基礎文献でもある――の次の記載は必ず参照されるが、そこにはすでに小説の位置づけの難しさが示されていた。
小説家の流れは稗官に由来するのだろう。街談巷語(大通りや路地の話)、道聴塗説(道端で聞いたことを道端の他人に受け売りで話すこと)をこととする人間の造ったものである。
班固はここで孔子の批評を念頭に置いている。孔子は「道聴塗説は、徳を之れ捨つるなり」(『論語』陽貨)と弟子に厳しく注意した。他人の言葉をすぐに受け売りしたり、街角のゴシップを不用意に垂れ流したりするのは、彼には徳を台無しにする悪行として映ったのである。これは、彼が詩を徳の向上と結びつけたこととちょうど対照的である。孔子の文芸批評は、詩を共同体の教師として評価しながら、後に「小説」の淵源となったゴシップの流通(道聴塗説)を批判するという両面戦略を示していた。
ならば、班固はこの孔子の考え方に従って「小説」には社会的価値がないと断定しているのだろうか。その答えはイエス・アンド・ノーである。この文章は確かに、国家の高級官僚の立場から、ストリートで交わされる不正確な言葉を見下している(実際、班固が具体的に「小説」の書名を挙げるとき、そこにはしばしば「内容が浅薄である」という短いコメントも付けられた)。しかし、ここで重要なのは、班固がその直後に次の孔子(実際には弟子の子夏)の言葉を引用したことである。
ならば、班固はこの孔子の考え方に従って「小説」には社会的価値がないと断定しているのだろうか。その答えはイエス・アンド・ノーである。この文章は確かに、国家の高級官僚の立場から、ストリートで交わされる不正確な言葉を見下している(実際、班固が具体的に「小説」の書名を挙げるとき、そこにはしばしば「内容が浅薄である」という短いコメントも付けられた)。しかし、ここで重要なのは、班固がその直後に次の孔子(実際には弟子の子夏)の言葉を引用したことである。
小道といえども、必ず観るべき者あり。遠きを致すには泥まんことを恐る。是を以て君子は為さざるなり。(『論語』子張)
つまらないことにも必ず見るべきものはある、ただ遠大なことをやろうとする君子はその小さなことにのめりこむのを恐れるから、それには手を出さない――班固はこの『論語』の考え方を「小道」を語る「小説」の批評に応用した。彼が認めたのは、街角のゴシップが、まともな人間には相手にされないとはいえ、社会の観察者にとっては一定の意義をもつということである。しかも、このサブカルチャーとしての「小説」が君子をものめりこませる怪しげな魅力を備えていることも、班固は認識していた。
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最終更新日:2024-11-13 07:00
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