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  • “kakkoii”の誕生――世紀末ボーイズトイ列伝 勇者シリーズ(8)「勇者指令ダグオン」後編

    2025-03-19 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は前回に引き続き『勇者指令ダグオン』を分析します。「絶対にして完璧な存在」となる誘惑を断ち切り「青春」を優先した主人公・大堂寺 炎。成熟のイメージという観点からは、どのように読むことができるのでしょうか?
     
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
    「融合」し拡張していく自我の裏表
    本作のラスボスとなるのは、超生命体ジェノサイドである。ジェノサイドは他の存在と「融合」することによって世界を支配しようとしており、サルガッソの囚人たちもジェノサイドによって操られていたことが判明する。ジェノサイドは自らを「絶対にして完璧なる存在」と称し、地球と融合することで「新しい星」になろうとする。
    これを阻止するために、炎は基地「ダグベース」と融合し、ロボットとなる。そしてダグベースにダグオンたちが融合する(かのように見える演出を挟む)ことで、ジェノサイドの作戦は失敗する。しかしジェノサイドは密かに生き延びており、地球に帰還したダグベースに格納されていたファイヤーダグオンと融合し、さらにジェノサイドは地球との融合に成功してしまう。そこでは民衆はジェノサイドの一部となってしまい、ゾンビのように意志を持たぬ存在になってしまう。炎はジェノサイドを阻止するためにパワーダグオンと融合合体し、わざとスーパーファイヤーダグオンに合体することで、意図的にジェノサイドと融合する。炎はジェノサイドと融合しそうになるが、「絶対にして完璧な存在」となる誘惑を断ち切り、「ダグオン」であることを宣言し、ジェノサイドと共に宇宙の彼方に消える――が、最終的には相思相愛となったヒロイン、戸部真理亜のもとへ帰還する。
    この終盤の展開は、成熟のイメージという観点からは、どのように読むことができるだろうか? ジェノサイドは「絶対にして完璧な存在」――理想の成熟を求めてどこまでも利己的に振る舞い、地球という惑星そのもの、そこに住むすべての生命とすら「融合」してしまう、全体主義的な危険な主体だ。対して炎はダグオンを代表して、その理想の成熟への性急な重力を、自己犠牲と利他性の徹底によって振り切ろうとする。その結果、炎はジェノサイドとともに消えてしまう。
    ファイヤーダグオンとパワーダグオンの合体によってジェノサイドと炎が同一化してしまう展開は、「融合」という想像力において二者が同じコインの裏表であることを意味している。ダグオンもまた、サルガッソの囚人たちから地球を守るために、自らの身体を「融合」によって強化してきた。そしてその「融合」は、ダグベースにまつわる演出に見られるように、信頼によって結ばれた関係性――「青春」へと拡大する。
    「青春」という美学は、成熟のために他者を必要としている。勇者シリーズはその歴史の中で、少年とロボットの出会いからさまざまな成熟を導き出してきた。『勇者指令ダグオン』は、その少年とロボットの関係の到達点として、少年とロボットを「融合」させてしまった。『勇者指令ダグオン』では少年とロボットがイコールで結ばれているのだから、必然的に「少年=ロボット」と「少年=ロボット」が相互に出会うことによって成熟が描かれる。そして少年とロボットが融合可能なのだとしたら、論理的に「少年=ロボット」と「少年=ロボット」も融合可能である(ダグベース)。そしてそれを拡張していけば、最終的には地球そのものとすら融合することが可能になってしまう(ジェノサイド)。
    本連載では、勇者シリーズの源流にあるトランスフォーマー、そしてその根底に流れるG.I.ジョー的なアメリカン・マスキュリニティの特徴を、完全な精神(という仮定)が肉体へと拡張され、社会へと短絡していく点に見出した。少年とロボットの主体がイコールで結ばれることはこうしたマスキュリニティへの回帰であり、その裏側にあるのはジェノサイド的な全体主義への回帰であることを『勇者指令ダグオン』は指摘しているように思われる。
     
  • “kakkoii”の誕生――世紀末ボーイズトイ列伝 勇者シリーズ(8)「勇者指令ダグオン」前編

    2025-02-12 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は「末期勇者」として『勇者指令ダグオン』を分析します。『黄金勇者ゴルドラン』によって一度達成されてしまった「魂を持った乗り物」という概念で名指そうとした美学。「末期勇者」はいかなる提案を勇者シリーズに行うのでしょうか。
     
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
    3つめの区分「末期勇者」
    ここまで勇者シリーズの6作品を、大きく前半「谷田部勇者」と後半「高松勇者」にわけて論じてきた。「谷田部勇者」は理想の成熟のイメージを追求した結果、子どもとおもちゃの関係を「命じる少年」と「従うロボット」として描き出した。「高松勇者」は勇者シリーズの本質を批判的に継承していく過程で、その関係の境界に挑戦していった。そして最終的に『黄金勇者ゴルドラン』はメタフィクションとして、「子どもの遊び」を永遠に続けていくという逆説的な成熟のモデルに到達した。
    ここからは『勇者指令ダグオン』と『勇者王ガオガイガー』の2作品を続けて論じていく。「谷田部勇者」「高松勇者」という呼称と同様に、この2作品を便宜上「末期勇者」と呼ぶことにしよう。「谷田部勇者」と「高松勇者」の区分が監督の切り替わりによって定義されていたのに対して、この2作品は監督も脚本家も共通していない。にもかかわらずこれらをひとつにまとめて論じるのは、共通するスタンスを共有しているためである。そのことを、それぞれを分析していく過程で明らかにしていきたい。

    「変身ヒーロー」の繰り広げる「青春」
    『勇者指令ダグオン』は、次のような物語になっている。宇宙監獄サルガッソに収監されていた多数の凶悪な囚人が反乱を起こし、サルガッソを掌握。ここから囚人たちによる惑星狩りがはじまり、地球もその侵略の標的となる。これを危惧した宇宙警察機構のブレイブ星人は、大堂寺炎、広瀬海、沢邑森、風祭翼、刃柴竜という5人の高校生(後に黒岩激、宇都美雷が加わる)を「勇者ダグオン」に任命する。彼らはダグオンとして、侵略宇宙人から地球を守る戦いに身を投じていくことになる。


    ▲『勇者指令ダグオン』。高校生の主人公たちが並ぶ。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p171
     『勇者指令ダグオン』は、これまでの勇者シリーズと大きく異なる点がふたつある。ひとつは、明確に「変身ヒーロー」のモチーフが導入されていること。もうひとつは、主人公たちが高校生であり「青春」をテーマにしていることだ。
    順番に説明しよう。大堂寺炎をはじめとした高校生たちは「ダグコマンダー」と呼ばれる変身アイテムを腕に装着しており、「トライダグオン!」の掛け声と共に、「ダグテクター」と呼ばれる強化スーツをまとう。まずこの状態で悪の宇宙人たちと戦うのだが、窮地に陥ると乗り物が変形したロボットと「融合合体」し、巨大化する。このとき自我は常に炎たちのものが保存される。つまり『勇者指令ダグオン』におけるロボットは基本的に炎たちの肉体であり、個別の自我を持たない。
    これは勇者シリーズとして見れば斬新な設定だが、同時代(20世紀後半)の子ども向け作品に目を広げれば、むしろクラシックな「変身ヒーロー」に大きく近づいている。実際、各話ごとに表示される宇宙人の名称とそのシルエットは明確に円谷の「ウルトラシリーズ」のパロディである。各話完結で地球を侵略する宇宙人が搭乗する構成に加えて、ロボットと融合合体することを巨大化とみなすなら、ヒーローの性質もウルトラマンと共通点がある。5色に色分けされたヒーローがチームで戦いロボットに搭乗するのは東映の「スーパー戦隊シリーズ」に近い。「仮面ライダー」シリーズからの引用は比較的薄いように思われるが、侵略してくるのも主人公たちに力を与えるのも同じ「宇宙人」であると考えれば、ヒーローとヴィランが同じ性質の力を持つ同シリーズの要件を備えているように見えなくもない。実際販促のために、こうした特撮作品を彷彿とさせる、人間が着用するダグテクターのスーツも作られている。

    ▲大堂寺炎が変身する「ファイヤーエン」。明確に変身ヒーローから引用されたデザイン。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p173
     
  • “kakkoii”の誕生――世紀末ボーイズトイ列伝 勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」後編

    2025-01-07 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。「黄金勇者ゴルドラン」分析の最終編です。20世紀的な男性性の美学を鋭く批判する、「所有」や「支配」ではない「遊び」による成熟のイメージとは?

    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
    世界の王、リカちゃん人形

    こうした道のりを経て、一行は最終的にレジェンドラへと達する。そしてレジェンドラ王の正体が明かされるわけだが、その名前はレディリカ・ド・レジェンドラであり、その外見は明確に「リカちゃん」として描かれる。

    レジェンドラ王という存在については、次のように説明される。レジェンドラに至れば願いが叶うという伝説は、レジェンドラ王の後継者を選定し導くためのものであった。その冒険の過程で勇者たちと心を通わせた者だけがレジェンドラへ至り、次の王となる資格を得る。王に与えられる能力とは、今の宇宙を終わらせ、次の宇宙を思うままに創造する力である。レディリカもまたかつては人間であったのだが、レジェンドラを先代から引き継ぎ、現在の世界を創造した。

    そして新たな世界を創造する能力が、タクヤたちに託される。タクヤたちはワルターやシリアスも交え、合議の上でどのような宇宙を創造するか結論を出す。それは「レジェンドラ王にはならず、今のまま冒険を続ける」というものだった。そしてこれまで奪い合ってきたパワーストーンを共有し、全員で口上を唱えて勇者たちを復活させる。そして彼らと共に、また新たな冒険へと旅立とうとするのである。

    これはおもちゃを巡る想像力を問う極めて高度なメタフィクションだ。ここでレジェンドラ王が「リカちゃん」の姿を持つことは決定的な意味を持つ。「リカちゃん」は1967年から展開されている着せ替え人形のシリーズで、タカラ社を象徴する大ヒット商品である。すなわちレジェンドラ王とは、勇者シリーズを展開するタカラ社とその営みを象徴している。そして「現在の宇宙の終わり」とはアニメーションという物語の終わりと受け取ることができるだろう。宇宙を終わらせ次の宇宙をはじめるという営みは「高松勇者」自身が――いやそれ以前から連綿と行われてきた、物語による販促そのものとはいえないだろうか。

    90年代半ば頃のリカちゃん。https://licca.takaratomy.co.jp/55th/album.html

    本連載では、タクヤたちが経験してきた、そしてワルターやシリアスを救済してきた冒険の旅路は、子供の遊びそのものであると考えてきた。ゴルドランはワルターやシリアスが「大人」を目指す試みを挫くことで、「子供」とおもちゃの関係に立ち返り、その想像力による遊びの体験=冒険の旅こそが本質であるという美学を語ってきた。ところが映像作品という物語はいつか必ず終わりを告げてしまい、次の物語がはじまる。そして次の物語はまた新しいおもちゃをもたらし、そのサイクルが連綿と繰り返されてきた。しかし、映像が終わってもおもちゃはそこにあり続ける。では、そのとき冒険は、遊びは、おもちゃと共に過ごした時間は、どこに行ってしまうのだろう? 新たな物語によって上書きされ、消滅してしまうのだろうか?
     
  • “kakkoii”の誕生――世紀末ボーイズトイ列伝 勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」中編

    2024-11-06 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。前回に引き続き、『黄金勇者ゴルドラン』について分析しています。成熟を拒否することで成熟する「逆説的な成長」とは?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」中編
    ■ワルター・ワルザックと「大人」になること
    ワルター・ワルザックは、第一話から本作のヴィランとしてとして物語に登場し、主人公たちとパワーストーンの争奪戦を繰り広げる。ワルターはワルザック共和帝国(という架空の国家)の王子として、父親であるトレジャー・ワルザック皇帝の命を受け、黄金郷レジェンドラに至ることを目的とする。キャラクターデザインは容姿端麗な貴族を意図してデザインされており、またカーネル・サングロスという老齢の執事を常に従えている。そしてその名前が戯画的に描き出すように、ワルターは典型的な「悪のプリンス」として置かれている。年齢は20歳と設定されており、12歳である主人公タクヤたちからすれば、十分に「大人」と言うことができる。▲ワルター・ワルザック。美青年としてデザインされている。
    勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p167

    ゴルドランにおける「冒険」とは、子供たちの想像力による遊びそのものを示していると本稿では考えた。そしてタクヤたちが無邪気に「遊び」として冒険を追い求めていくのに対して、ワルターは父親から認められるために――「成熟すること」を動機としてタクヤたちと対立する。主人公たちのカウンターに置かれたワルターは、設定だけ見ると、イマジネーションによる遊びを妨害する「大人」を象徴するかのように見える。

    ところが実際のワルターは、そのように振る舞わない。それどころかワルターの存在が、むしろ作品のリアリティラインを下げ、タクヤたちの冒険を「遊び」たらしめている。そしてワルター自身は、タクヤたちの影響を受けてむしろ成熟を拒否することで成熟していくという逆説的な成長を見せる。そしてこのふたつは、密接に絡み合っている。

    どういうことか説明していこう。まず本作品のリアリティの操作は、ワルターという「敵」を通じて行われる。主人公たちの遊びの世界が本当に命にかかわる危険なものなのか、それともおふざけで済んでしまうようなものなのかを襲いかかる脅威であるところの敵のトーンで表現するのは、作劇として順当な手法であるだろう。物語当初におけるワルターは、タクヤたちを「お子たち」と呼ぶ年上の存在でありながらも、むしろタクヤたちよりも情けない、ある意味で子供っぽいコミカルな悪役として描かれる。外見は二枚目だが、中身は三枚目というのがワルターのスタート位置だ。そしてワルターがこうした存在だからこそ、物語空間――ゴルドランにおいてあるべきおもちゃ遊びの空間は、リアリティを欠いた、いわゆる「ギャグ時空」として成立する。ワルターは敗北のたび「どっしぇ〜!」という台詞と共に退場していく。これまで基本的には真面目なトーンで進行してきた勇者シリーズの伝統からすると、こうしたヴィランの振る舞いはいささか例外的に映る。

    ■宇宙に出ても人が死なない世界
    しかしゴルドランが特徴的なのは、そのリアリティラインが作中でダイナミックに変動することだ。たとえば一行が宇宙に出た際、宇宙空間に生身で出てしまったらどうなるのかという問いに対して「血液が沸騰し圧力の関係から全身が粉々になって死ぬ」と説明がなされる(これが科学的に正しいかどうかはひとまず置いておく)。しかし同じエピソードの後半で、ワルターは見栄を切るためだけに、生身で宇宙空間に出てしまう。そして長々と向上を述べたあとで、他のキャラクターから「そこは空気がない」と指摘される。それに対するワルターの反応は、次のようなものだ。
    「ぎぇ〜! はやくなんとかして〜!」
    そして息ができずに苦しそうな素振りをしながらも、宇宙船(厳密には勇者ロボの内部)に戻った次のカットでは、なにごともなかったように活動している。
    重要なのは、この流れが同一のエピソードの中で行われることだ。ここではふたつの異なるリアリティが、意図的に混在させられている。より具体的に言うならば、「宇宙空間に生身で出たら死ぬ」というリアリティをいったん定義しておきながら、それを「ギャグ時空」で上書きしているのだ。
    そしてこれは、単に作劇上のご都合主義以上の意味を持つ。ワルターは当初、父親に認められることを通じて成熟を試みる。しかしタクヤたちに巻き込まれ、これは一向にうまくいかない。それでも執念深くタクヤたちを追いかけ、ついにはすべてのパワーストーンを一度手中に収めることに成功する。勇者たちは一度パワーストーンに戻って主君が変われば、それまでのことをすべて忘れてしまう。ワルターは勇者たちを一度は我が物にしようとするが、葛藤の末それをあきらめ、パワーストーンをタクヤたちに返還する。なぜか。これまで父親に認められる以外の目的を持たなかったワルターは、タクヤたちとの争奪戦という冒険そのものに価値があったことを悟ったのだ。
    つまりこういうことだ。マイトガインは旋風寺舞人の圧倒的な万能感によって、そしてジェイデッカーは人間となったロボットとの絆から父性と母性をバランスすることによって成熟を目指した。しかしこうした種類の成熟を目指したワルターは徹底的に失敗する。「大人」になろうとするワルターの試みは、タクヤたちの「遊び」に巻き込まれ、「子供」に引きずり降ろされ続ける。真面目な殺し合いは、常におふざけへとラインを変更される。勇者シリーズが開拓してきた成熟のイメージは、ゴルドランに至って、タクヤたちのように子供の遊び=冒険を続けることこそが成熟である、という逆説的な価値観にたどり着いているのである。
     
  • 勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(後編)

    2024-08-27 21:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は『勇者警察ジェイデッカー』について分析します。女性性の強いキャラクターデザインの主人公・勇太のビジュアルを引き合いに、戦後ロボットアニメが提示してきた「父性」「母性」のあり方を本作がどのように更新したのか考察しました。
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
    母なる勇太、父たるレジーナ
    ファイヤージェイデッカー誕生は、次のような展開を通じて行われる。
    かつてデッカードを倒したチーフテンは、紆余曲折を経て再びブレイブポリスの前に立ちはだかる。もともとは相棒を失ったことを悲しむ心を持っていたチーフテンは、しかし創造主たるビクティムが「強い者が全てを手にする」という「悪の心」を徹底させたことで、片方が片方を殺害し、そのパーツを吸収するかたちで一種の「グレート合体」を果たす。
    これに対抗するためにデッカードとデュークもまた合体しようとする。しかしここで、合体してしまうとどちらか一方の人格が消えてしまうという問題が発生する。そこにはさまざまな設定的理由があるのだが、物語世界においてドラマを成立させるためのエクスキューズにすぎないため、いったん置いておこう。重要なのは、象徴的なレベルにおいて、この対立がいかなるものであるのかだ。
    結論から言えば、ファイヤージェイデッカーは「母」であった勇太が「父」となり、そして「父」であったレジーナが「母」となることによって完成する。
    どういうことか、順番に見ていこう。まず、デッカードが「人間の心」を得るきっかけとなったのは勇太その人であった。そして勇太はデッカードに、そしてブレイブポリスのロボットたちに、無条件といえるような承認を与えていく。勇太は常に、心を持ったブレイブポリスたちを丸ごと受け入れる。その一方で、そのあまりの愛情の深さゆえに、しばしば警察組織たるブレイブポリスのボスとして正しくない判断をすることもある。レジーナが勇太のことを「悪い手本」と指摘するのは、勇太にロボットたちを正しい方向に導き、上司として職務を遂行させようという父性が欠如しているからだ。
    実際、これまで主人公を務めてきた少年たちに比して、勇太には際立って女性的なキャラクターデザインが与えられている。眉の太さなどいくぶんか男性的な記号も入っているものの、基本的にはふたりの姉にそっくりな顔立ちで、美少女の文法としてデザインされていると見てよいだろう。また女子中学校への潜入捜査のために女装するエピソードがあるのだが、これは劇中で似合っているともてはやされ、実際に違和感なく潜入を成功させる。こうしたデザインが物語に先立っていたのか、それとも物語に対して適切なデザインがこうであったのかを論じることは難しい。しかしいずれにせよ結果として、勇太は勇者シリーズにおいて、かつてない母性的な側面を持った主人公だといってもよいだろう。
    一方でより「成熟した」デザインを与えられたレジーナが、警察組織におけるロボットの理想像を徹底しようとしてきたことはすでに論じてきた。デュークが「人間の心」を持つことを認めず、あくまで「善の心」だけを持つよう厳しく求めてきたレジーナは、強い父性を持ったキャラクターとして配置されているといえる。
    ファイヤージェイデッカーへの合体は、勇太とレジーナが、その欠落した部分――勇太にとっては父性、レジーナにとっては母性を獲得することによって、はじめて成立する。
    先にレジーナの側から見ていこう。超AIから悪の心を取り去り善の心のみを持たせたいというレジーナの動機は、その過去に由来していることが明かされる。ロボット研究者であったレジーナの母親は、違法ロボット兵器にかかわったことで犯罪者となってしまった。そして警察官であった父親は、情に流され母親を逃がしてしまったことで職を追われていた。レジーナはそんな自分の両親に対する悲しみと憎しみ――すなわち「悪の心」を封じ込め、かつて遂行されなかった「父性」を貫徹しようとしてきたのだった。レジーナを想うデュークは、次のように問いかける。「人間には、自分を作った者に対する愛情はないのか?」。この言葉をきっかけに、レジーナは自分自身もまた思っていたほど成熟した存在でなかったこと、自らも「善の心」と「悪の心」、愛と憎しみが複雑に絡み合った「人間の心」を持つことを受け入れる。これによって、デュークが「人間の心」を持つこともまた肯定される。すなわち自分の過去に向き合うことで、デュークを丸ごと受け入れる愛情を認めていくことになっていくのだ。
    一方、勇太はデッカードあるいはデュークが消えてしまうことから、当初は合体を躊躇する。しかしレジーナの指摘を真摯に受け止めることで勇太は成長し、ときにリスクをおかしてでも犯罪を止めなくてはならないと覚悟する。
    ゆえに、勇太は人格消滅のリスクを飲み込んだ上で、ファイヤージェイデッカーへの合体を命じる。そしてレジーナはデュークを失いたくない愛情ゆえに、一度これを止める。ここに至って、母性からスタートした勇太と父性からスタートしたレジーナは、それぞれ父性と母性を得てその立場を逆転させているのだ。
    合体に際して、デッカードとデュークは次のように誓いを立てる。デッカードが消えた場合は、デュークが勇太を守る。デュークが消えた場合は、デッカードがレジーナを守る。憎しみの裏側にあるこうした思いやり――デュークの言葉を借りれば「愛情」――を持ったことによって、人格消滅のリスクを彼らは奇跡的に乗り越えるのである。
    「母性」をまとうジェイデッカー
    ファイヤージェイデッカーをめぐる想像力が、勇者シリーズにもたらした画期はふたつある。ひとつは親子の関係が逆転していること。もうひとつはそこに「母性」の論理が持ち込まれたことだ。
    勇者シリーズの前身となるトランスフォーマーVは、スターセイバーという「父」とジャン少年という「子」の物語からはじまっていたのだった。これまで理想の成熟を体現していたロボットは、象徴的な意味では「父」として存在してきた。勇者シリーズはそうした理想像であるロボットに対して命令する権利を与えることで、子供たちの地位をロボットと対等なものに格上げし、命じる者/行う者として相補的に機能させることで、「父子」から「兄弟」へとその関係を対等なものとして描き直してきた。ジェイデッカーにおける勇太少年とデッカードの関係も、当初はこうした構造を確認している。
    一方で、デュークのレジーナに対する想いは、レジーナの両親に対する想いと「自らを生み出した者」という条件によって重ね合わされている。これまで「大人」として描かれてきたロボットは、ここではむしろ「子供」の立ち位置を与えられている。ジェイデッカーにおいて、人間とロボットは単なる対等な友人なのではない。それは創造主と被造物の関係であり、この物語における「愛情」とは、創造主から被造物へと与えられる無条件にして無限のものなのだ。
    ファイヤージェイデッカーは、パトカー・トレーラーと、救急車・消防車のグレート合体であった。犯罪を取り締まる警察は父性を、命を救わんとする救急・消防は母性を象徴しているということができる。グレート合体が対立するふたつの要素を統合することによって成立するのなら、ファイヤージェイデッカーの誕生は、男性的・父性的成熟を目指してきたサイボーグの美学が、その半身に女性的・母性的成熟を取り入れた瞬間なのだ。
    ▲「大警察合体ファイヤージェイデッカー」。その象徴的存在感に見合う威容。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p37
     
  • 勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(中編)

    2024-05-07 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は『勇者警察ジェイデッカー』について分析します。人間と同じ「心」を持つ、デッカードをはじめとしたブレイブポリスたち。もはや人が「乗り込む」ロボットとして存在する必然性が薄れた結果、本作が直面した課題とは──?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
    「人間」になっていくロボットたち
    ダ・ガーンは地球の意志ともいえるような超存在にその人格の根拠を置いていた。しかしジェイデッカーのブレイブポリスは、あくまで超AIという人間が生み出したテクノロジーである。これ自体はマイトガインの勇者特急隊にも存在した設定だったが、それはあくまで旋風寺舞人が所有する旋風寺コンツェルンのテクノロジーのひとつにすぎず、超存在「ではない」意志の根拠として設定されただけで、掘り下げられることはなかった。
    しかしジェイデッカーは超AIによって生まれた人格そのものを主題にしていく。デッカードをはじめとしたブレイブポリスは、主に人間たちとの絆を通じて「心」を獲得していく。単なるAIではなく、人間と同じ「心」を持つがゆえに、ブレイブポリスはスペックを超えた能力を発揮する。「心」を獲得することで、デッカードたちは「成熟」していくのだ。
    ところがこれは難しい問題を呼び込んでしまう。「心」は勇気や愛といったポジティブな感情を通じて力を与えるが、同時に怒りや嫉妬といったネガティブな感情ももたらす。となれば、警察組織に所属するロボットという暴力装置が、そうしたネガティブな感情を持ってしまうことになる。実際に、ビクティムやフォルツォイクロンといった敵となる犯罪者たちは、超AIを持ちながら悪の心を持ったロボットを創り出す。デッカードたちは自らと同じ、心を持ったロボットたちと戦っていくことになるのである。
    ロボットが心を持つとき、そこには人間と同じように善悪が生まれる――サイエンス・フィクションとしては、これは論理的で正当な展開といえる。ジェイデッカーはこの主題をベースにして、これまでの勇者シリーズと比較してもシリアスで重厚なエピソードを多く展開している。このような物語構成が玩具の販促としてどれほど効果的であったかを正確に検証することはほとんどできない。しかし少なくとも玩具を契機にしたアニメーション作品としては、シリーズの中でももっとも完成度が高いシナリオを持つもののひとつであるといって差し支えないだろう。
    スコットランドヤードからの使者
    そしてジェイデッカーは、デュークという「2号ロボ」、そしてレジーナというヒロインの存在を通じて、この問いを深く掘り下げていく。
    ▲「救急合体デュークファイヤー」。伝統的なイギリス警官の卵型の帽子、梯子を鞘とした長大な剣、消防車と救急車による赤と白、そして赤十字をイングランドと結びつけた優れた象徴的デザイン。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p35
    再び物語を見ていこう。勇太と絆を育み「心」を得たデッカードはブレイブポリスとして活躍するが、やがて強敵「チーフテン」と対峙することになる。チーフテンは2体1組のロボットで、デッカードたちブレイブポリスと同様、超AIに心を宿している。しかし異なるのは、彼らが宿しているのが「悪の心」であるという点だ。本作では、心を宿すゆえにブレイブポリスはそのスペック以上の性能を発揮すると説明されてきた。同様に心を持った敵は、同格の強敵として――むしろ「悪の心」によって純粋に戦いを好むゆえに、ブレイブポリスを上回る力を持った存在として立ちはだかるのである。デッカードたちは敵が心を持つ自分たちと同じ存在であるがゆえに、戦うことを躊躇する。しかしチーフテンは「ブレイブポリスを倒して最強になりたい」という競争心・闘争心から戦い、ゆえに投降することはない。そしてデッカードは戦いの末チーフテンたちに敗北し、殉職してしまう。デッカードを倒されたブレイブポリスたちは怒りと悲しみを抱き、冷静さを失っていく。
    自らが心を持つゆえに、同様に心を持った相手を思いやってしまうこと。そして怒りや悲しみゆえに、ときに判断を誤ること。それはデッカードたちブレイブポリスの脆弱性――「未成熟さ」として描かれる。
    「2号ロボ」となるデューク、およびそのパートナーとなるレジーナ・アルジーンは、そのことを鋭く指摘する存在として現れる。デューク(と、その強化形態であるデュークファイヤー)は、デッカードを破ったチーフテンをあっさりと破壊し勝利する。
    レジーナは12歳にして博士号を持ち、デュークを開発した天才研究者として現れる。ショートカットにイヤリング、勇太より高い身長、肩が出たタイトなボディスーツというデザイン――明らかに勇太と比較して「大人っぽさ」を与えられたレジーナは、勇太とブレイブポリスを正面から否定する。曰く、人間は怒りや悲しみなど、ネガティブな心を持ち合わせるがゆえに、不完全な存在である。暴力装置であるブレイブポリスは、そうした悪しき心を持たない完全な存在であるべきだ。そして勇太やレジーナといった人間はその手本となるべきであるから、怒りや悲しみを表に出してはならない。これを聞いた勇太はこう悲鳴をあげる。「じゃ、じゃあ、僕がデュークの悪い見本だっていうの!」

    ▲友永勇太。未成熟な部分に焦点が当てられ、半ばヒロインとしても機能する。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p139
    ▲レジーナ・アルジーン。友永勇太とのデザインの対比に注目したい。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p140
     
  • 勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(前編)

    2024-03-08 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。勇者シリーズ初期3部作「谷田部勇者」にみられる、少年とロボットの対等な関係性を再び持ち出した『勇者警察ジェイデッカー』。一方で前シリーズまでは深く掘り下げ切れていなかった「超AI」の設定は、本作において勇者シリーズにどのような解釈をもたらしたのか──?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
    反動としての『勇者警察ジェイデッカー』
    「高松勇者」の一作目となった『勇者特急マイトガイン』は、「谷田部勇者」が確立した少年とロボットの関係性を大幅に再解釈し、少年のナルシシズムを強化した。結果としてマイトガインはむしろ搭乗型ロボットの美学へと傾くことになった。
    こうした美学の変化に、制作側はおそらく自覚的であったと思われる。なぜならそれに続く『勇者特急ジェイデッカー』は、少年とロボットの関係に明確に立ち返っているからだ。

    ▲『勇者警察ジェイデッカー』ポスター。勇太少年の手にした警察手帳が、後ろの勇者ロボたちとの関係を象徴している。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p117
    『勇者警察ジェイデッカー』(1994年)は、そのタイトル通り警察がモチーフとなっている。増加する凶悪犯罪に対し、警視庁が超AIを搭載したロボット刑事を開発。そのロボット刑事が「勇者」としてさまざまな犯罪者に立ち向かっていく――というのが大まかな設定である。
    我々はここで、『勇者エクスカイザー』が宇宙警察であり、『太陽の勇者ファイバード』もまた宇宙警備隊であったことを思い起こすことができる。警察という組織に立ち返ったのは、やはり原点回帰的なニュアンスを感じるところである。
    エクスカイザーやファイバードが警察あるいは警備隊そのものを必ずしもモチーフにしなかった一方で、ジェイデッカーにおけるこのモチーフは単なる回帰に留まらず、より具体的に展開される。『勇者特急マイトガイン』が無国籍映画をモチーフにしていたのと同様、本作は(昭和の)刑事ドラマのパロディとしての側面を持ち合わせている。オープニングテーマに合わせられた映像は、キャラクターの活躍の姿に肩書と名前を大きなフォントで出すことで登場人物の紹介を兼ねたものになっている。これは昭和期からテレビドラマでよく見られた演出で、タイトルに夕日の映像が重ねられるイメージは明らかに人気刑事ドラマ『太陽にほえろ』を踏襲したものだ。また同じく人気を博した刑事ドラマである『七人の刑事』のタイトルは、そのまま第24話のサブタイトルにも使われている。「ジェイデッカー」も、「ジェイ=J」は日本、「デッカー=デカ=刑事」から取られていると見てよいだろう。
    それでは改めて設定された警察というモチーフを通じて、勇者シリーズはどのような成熟のイメージを育んだのだろうか。
    注目したい象徴的な点はふたつある。ひとつは主人公である友永勇太の立ち位置。そしてもうひとつは、超AIというモチーフを大きく展開したことだ。この二点は密接に関係しながら、『勇者特急マイトガイン』とはまた別のルートで勇者シリーズという存在を批評的に継承し捉え直す。そしてその結果、ひとつの限界に到達してしまった。そのようにこの連載では考えたい。
     
  • 勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」|池田明季哉(後編)

    2024-01-16 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。『勇者特急マイトガイン』において強調される主人公・舞人自身の「男性性」や「成熟」のイメージ。「勇者シリーズ」前作までの美学とは一見相反するこのモチーフが、本作のメタフィクショナルな結末にもたらした意義とは?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」
    ■搭乗型ロボットとしてのマイトガイン
    これまでの勇者シリーズでは、自らは戦う力を持たない地球の少年と高い戦闘力を持つ異邦人のロボットが相補的に機能する構造となっていた。玩具においても戦闘は勇者ロボの領分であるからこそ、小ロボをストレートに拡張していくかたちが採用されていた。ゆえに谷田部勇者は、少年がロボットに指示を行うことで戦いを進める――指示する主体と戦う主体を分離・協調させる構図に到達した。そしてそれは、結果として無力な少年=遊び手の子どもと、戦うロボット=玩具の関係を正確に記述することになった。
    しかしマイトガインはこの構造を大きく変革する。谷田部勇者において少年がロボットに対して指示を行う構図にたどり着いたのは、戦うことができない少年と、戦うことしかできない(それを主任務にしており日常生活への溶け込みには困難があるという意味で)ロボットという構図を維持しながら、少年の主体を反映させるためのギミックであった。もし少年――舞人が自ら戦うのなら、その主体は旋風寺舞人が担うことになる。旋風寺コンツェルンの主体が究極的にはその総帥である舞人であるように、勇者特急隊の主体もまた、舞人に集約されている。
    こうした特徴は、マイトガインをマジンガーZやガンダムといった搭乗型のロボットに限りなく接近させる。本連載では「魂を持った乗り物」という概念を通じて、20世紀末のボーイズトイが21世紀的な想像力を先取りしていると分析してきた。確かにマイトガインもまたガインという存在を宿している以上、「魂を持った乗り物」の一種であると言うことができるだろう。しかしガインが舞人の意思決定に影響を与える度合いは高くない。たとえばダ・ガーンは命令を受けるまで行動できないという欠点と、単純な命令を複雑な行動にブレイクダウンして判断したことが強調して描かれていた。そう考えると、ガインは勇者特急隊という組織――あるいは旋風寺コンツェルンの構成員と同列の立場として捉えることができるだろう。指示に基づいて勇者ロボが戦闘するとしても、それは執事や秘書が業務をこなすのと本質的に変わらない、トップダウンにしてウォーターフォール的な主体拡張といえる。
    「乗り物」と「魂を持った乗り物」を区別したのは、「乗り物」が身体をストレートに拡張することでマスキュリニティを表現するのに対し、「魂を持った乗り物」は、精神をダイレクトに物理的現実に反映する精神と肉体の短絡に対して、別の主体が挟まれることによって生まれる中間性を指し示すために必要な概念であった。
    そう考えれば、マイトガインは「魂を持った乗り物」でありながらも、「乗り物」に近い美学を宿しているということができる。たとえば勇者シリーズの先祖と位置付けたGIジョーについての議論では、軍隊という組織をそのリーダーというひとつの主体を拡張する巨大な身体として捉え、アメリカのヒーローたちもこの系譜に位置づけた。マイトガインが描く美学も、勇者シリーズとしては最大限にこうした美学に寄っている。
     
  • 勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」|池田明季哉(前編)

    2024-01-09 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。勇者シリーズのうち「谷田部勇者」3部作を経て登場した『勇者特急マイトガイン』。谷田部勝義がシリーズを通して確立した成熟のイメージに、本作がもたらした新たな解釈とは?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」
    ■谷田部勇者から高松勇者へ
    前回の連載では、勇者シリーズが『勇者エクスカイザー』『太陽の勇者ファイバード』『伝説の勇者ダ・ガーン』から構成される「谷田部勇者」を通じて、ロボットを通じた少年の成熟についてひとつの美学を完成させたこと、そしてそれが玩具と子どもの遊びを正確に言い表したことを整理した。
    今回は第4作『勇者特急マイトガイン』について考えていく。このタイミングで谷田部勝義から監督を引き継いだのが高松信司である。勇者シリーズは玩具と手を組んだ物語であり、その制約は依然として引き継がれている。監督の交代によって「少年とロボット」という基礎構造や、前提となる玩具の商品配置が大きく変化したわけではない。もともと高松も谷田部勇者の時点でスタッフとしてクレジットされており、基本的な路線も継承されている。玩具シリーズという枠組みで考えれば、アニメーション担当監督の交代は根本的な変化をもたらす要因ではなかった。そのため担当監督を中心とした区分はあくまで便宜的なものであることはすでに述べたとおりである。
    しかし同時に、高松信司が監督を担当した時期の勇者シリーズが、その美学にさまざまな新しい解釈をもたらしたことも事実である。改めて言うまでもないことだが、玩具そのものは主に樹脂と金属の塊にすぎないのであって、その造形が持つ意味はアニメーションを含めた文脈によって定義される。映像による物語が玩具の販促に有効なのは、玩具が描き出す成熟のイメージを意味づけする作用があるからだ。
    改めてこうした前提を確認するのは、谷田部勇者がいったん完成させた成熟のイメージを、高松勇者が自己言及的に再解釈していったと考えるためである。谷田部勇者が玩具を用いた遊びの構造を物語によって正確に定義したとするならば、高松勇者はその構造を変奏しながら、そこで描きうる男性的なナルシシズムをさまざまなかたちで追求したといえる。もちろんそれは玩具というハードウェアあるいは美術的彫刻のデザインとも密接に関係しているのだが、どちらかといえば勇者シリーズを題材にした自己批評の側面が強く、ソフトウェアあるいは評論的なところに重心がある。そのため本連載もやや玩具本体から離れた議論をしていくことになるが、できるだけ物語論ではなく玩具論として、ユーザーとプロダクトの関係に注目していきたいと思う。
    ▲『勇者特急マイトガイン』ポスター。主人公がヒロインを庇いながら拳銃を構えている構図は、本作を象徴する。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p89
    ■昭和125年を生きる「12歳の少年」
    それでは具体的に見ていこう。勇者シリーズは少年とロボットの絆を中心に据えるところにその特徴があった。『勇者特急マイトガイン』もその基本的な構造は踏襲しているが、その美学はこれまでと一線を画する。
    その象徴となるのが主人公・旋風寺舞人の造形と、彼の相棒となる小型勇者ロボ・ガイン、および大型ロボ・マイトガインの関係である。しかし主人公の独自性について語るためには、まずは本作の世界観設定から説明しなくてはならない。
    本作の舞台は化石燃料が枯渇したことで飛行機や自動車など既存の乗り物が運用不可能になってから50年が経過した時代、昭和125年と設定されている。そのような状況から電動の列車によって交通を再生したのが旋風寺コンツェルンであり、その本拠が置かれる東京は「ヌーベルトキオシティ」という名の近未来大都市に生まれ変わっている。
    主人公・旋風寺舞人は15歳にして、行方不明となった親から旋風寺コンツェルンを引き継いだ若き総帥である。そして同時に、その資本力と技術力を背景にして独自開発したロボットチームを率いて、ヌーベルトキオシティにはびこる犯罪に立ち向かうヴィジランテでもある。アメリカのヒーローを参照するなら、バットマンやアイアンマンのような立場といえばわかりやすいだろう。バットマンがさまざまなガジェットで、アイアンマンがハイテクスーツで戦うとするならば、その代わりにロボットチームを率いるのが旋風寺舞人、というわけだ。
    そしてこうしたアナロジーが可能なことからわかるように、旋風寺舞人は彼らに通じるマスキュリニティの担い手として描かれる。旋風寺舞人は勇者シリーズにおけるこれまでの登場人物とはまったく異なる主人公である。勇者ロボたちの部隊を率いて敵と戦う構図そのものは、一見すると前作『伝説の勇者ダ・ガーン』における星史少年と立場を同じくするように見える。しかし星史少年があくまで未成熟でやんちゃな、等身大でどこにでもいそうな、基本的には戦う力を持たない「少年」として描かれていたのに対し、旋風寺舞人ははじめから成熟した、完璧な存在として現れる。
    舞人は15歳と設定されているだけでもはや「少年」ではなく、自らが男性的なナルシシズムを強烈に体現している。彼はヌーベルトキオシティの中心にそびえたつ(それが本当に中心かどうかは定かではないが、少なくともそのような印象を与えることを意図したデザインとなっている)自社ビルに住み、秘書と執事を従え優雅な生活を営み、作中に登場するあらゆる女性(敵を含めた)がその魅力に頬を赤らめる。
    特に秘書である松原いずみは、舞人のナルシシズムを支える重要な存在だ。常に胸の谷間を強調した服に短いタイトスカートで仕え、15歳の上司から繰り出される恋人の有無や結婚についてのセクハラとしか言いようのない質問にはポーズとして憤慨しながらも最後は照れを見せ、スケジュールの無茶な変更などの事務仕事を的確にこなしていく。舞人の社長としての立場がそうした母性に支えられる一方で、物語のヒロインとなるのは吉永サリーである。彼女は貧しさからさまざまなアルバイトに精を出しており、それゆえにさまざまな事件に巻き込まれる。そこにさっそうと現れた舞人に、身分違いと知りながら惹かれていく――という構図がとられている。女性キャラクターだけではなく、たとえばライバルとなる雷張ジョーをはじめとした男性キャラクターも、不屈の正義を貫く舞人の男気に魅せられていく。「嵐を呼ぶナイスガイ」「不死身のタフガイ」と自ら名乗る舞人の仕草は、何者にも傷つけられない自信にあふれている。
    もちろん本連載の目的は、こうした描写を批判することではない。重要なのは、旋風寺舞人がこれまでの勇者シリーズでは(少なくとも表面的には)あまり見られなかった、性的な回路によるナルシシズムを強力に体現する存在として描かれていることだ。一度崩壊した東京を列車という工業技術によって再生し、その身体を未成熟に留めたまま、美少女とロボットによって担保されたヴィジランテとしての全能感を生きる昭和125年の「12歳の少年」――それが旋風寺舞人なのである。
    ▲旋風寺舞人。ヒーロー然としたコスチュームと佇まい。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)113
    ▲吉永サリー。セーラー服の美少女。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)113
     
  • 勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」(後編)|池田明季哉

    2023-10-31 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は「谷田部勇者」シリーズ最終作にあたる『伝説の勇者ダ・ガーン』について分析します。近代的国家観への反省とグローバリズムが進行した1990年代に登場した、同作のロボットたちが提示した21世紀的モチーフとは?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」
    ■空と陸、そして文明の外側
    原点から自身を相対化しながら拡張していく形式は、この後に加わる勇者について考えることでより鮮明となる。セイバーズに後に加わるホークセイバーは、その名前通り鳥の姿をモチーフとしている。旅客機・戦闘機・スペースシャトルの並びに鳥が加わることは、一見不統一なように思われる。ところが自己の生活空間を基準とした世界の拡張と考えれば、これは別の理解ができる。すなわちホークセイバーが象徴しているのは鳥の世界だ。スペースシャトルは宇宙の領域までを射程に収めるが、ダ・ガーンは地球を単なる空間としてではなく、さまざまな存在を内包する「世界」として描く。それはこの世界に生きる人間である自身を相対化し、鳥もまたこの空に暮らしている――という星史少年の認識そのものの拡張だ。ホークセイバーはスカイセイバーと合体し、背中に翼を備えた人馬の姿を持ったペガサスセイバーとなる。玩具としても珍しい傑作ギミックであるが、人と鳥が一体となったその姿は、まさにこうした想像力の象徴として適切だろう。
    さらにこれはガ・オーンへと至る。ガ・オーンは本作における「2号ロボ」であるが、そのモチーフは独特かつ複雑である。まず、第一のモチーフは見るからにライオンであり、物語上もガ・オーンが眠っていたのはアフリカのキリマンジャロと設定されている。ホークセイバーが星史少年の鳥への思いやりから復活したのに対して、ガ・オーンはアフリカの大地に生きる獣たち――具体的にはゾウやキリンなど――の祈りを受けて目覚める。百獣の王たるライオンというモチーフは、獣の守護者として神格化されるにぴったりだろう。黒・赤・白・黄・緑というコントラストがはっきりしたカラーリングもアフリカ的だ。
    一方で驚くべきことに、ロボット形態のデザインは明らかに「インディアン」をモチーフとしている。アメリカン・インディアンあるいはネイティブ・アメリカンと呼ばずにこの言葉をあえて使うのは、ガ・オーンのデザインは明らかにそうした認識のアップデート前、「インディアン」という言葉でしか表せない旧い概念を参照しているからだ。大きく広がったライオンのたてがみはウォーボンネットを思わせるし、顔に施された二列一対のペイントは戯画化された古典的な「インディアン」のそれである。さらに武器には「ガ・オーントマホーク」が含まれ、単語を並べて片言で喋り、挙げ句の果てには星史のことを「酋長」と呼ぶのである。
    ▲「獣王合体ガ・オーン」。特徴的なフェイスペイントが見て取れる。玩具としては電動ギミックが組み込まれた野心的な作品。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p20
    このことはどう考えればいいのだろうか。こうした描写が現代では差別的と扱われるようになったことに異論はないが、それは本題でないためいったん議論から外すとして、ガ・オーンを通じて描かれようとした想像力はどのようなものだったのだろう。
    『伝説の勇者ダ・ガーン』という作品自体が、90年代的なエコ思想を背景としていることはすでに述べたし、それが20世紀的な文明社会の野放図な発展とマスキュリニティを批判する性質を持っていたことも議論してきた。
    その観点から見れば、ガ・オーンのモチーフが持つ奇妙な複合――アフリカの動物とインディアンの文化は同じカテゴリに入れることができる。アフリカの大自然は人間の活動によっていまだ破壊されざる聖域であるし、自然と深く結びついたインディアンの文化はアメリカの開拓によって民族ごと破壊された。つまりそれは20世紀的なもの――ダ・ガーンが象徴する「都市=文明」と対置される「自然」の概念なのだ。
    この連載では、谷多部勇者においてグレート合体は対立するふたつの概念の統合を意味していると読み解いてきた。グレートエクスカイザーが「西洋と東洋」、グレートファイバードが「地球と宇宙」の統合だとするのなら、ダ・ガーンとガ・オーンの合体によって構成されるグレートダ・ガーンGXは「文明と自然」の統合と見ることができる。
    ▲「伝説合体グレートダ・ガーンGX」。ダ・ガーンをベースにした整ったプロポーション。この形態でも電動ギミックは生きている。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p22
    遡ってダ・ガーンにおいて戦闘機と新幹線をモチーフにしていたことも、より一段掘り下げて考えられるようになる。上半身を構成するのが単なる航空機ではなく戦闘機でなくてはならなかったのは、それが暴力装置としての「銃」のニュアンスを含んでいなければならなかったからだし、アメリカにおいては「トラック」に象徴されたような都市の生活を支える交通・ロジスティクスは、日本においては鉄道が、そしてその最先端の形式としての新幹線が当てられる。
    我々はここで、勇者シリーズがトランスフォーマーの日本的ローカライズから出発していたことを思い起こすことができるだろう。トランスフォーマーが追求したアメリカン・マスキュリニティのルートが、21世紀において行き詰まってしまったことはすでに分析した。そのアメリカン・マスキュリニティを批判的に捉えながらも独自に発展させ、玩具と子供の関係を追求することによって中間性の美学に至ったルートが、勇者シリーズとして90年代の時点で確立されていたのである。
    ■20世紀における悪とその相対性
    そう考えると、敵についても興味深い読み解きができるようになる。オーボス軍には4人の幹部(最終盤に5人)が存在するのだが、技術至上主義の軍人であるレッドロンはドイツを、サーカス団の団長にして巨体のレスラーであるデ・ブッチョはロシアを思わせる。レディ・ピンキーが搭乗する人形をモチーフにしたロボットはフランスのハイファッションブランドをモチーフにした名前が与えられている。ビオレッツェは少々手がかりに乏しいが、名前の響きや猫との結びつき(『ゴッドファーザー』におけるマーロン・ブランドなど)を考えれば、イタリアのイメージで見ることもできなくはない。一方でオーボス最大の部下として現れ、UFOの姿からドラゴンの姿へと変化するシアンは、ほとんど暴力性そのものの具現化であって、こうした枠組みに収めることは難しいだろう。