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記事 17件
  • 池田明季哉 “kakkoii”の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝 番外編 ヨーロッパおもちゃ最前線ーー虹色に輝く「うんち」の美学

    2019-10-10 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は番外編として、ヨーロッパ諸国のおもちゃ事情を報告します。ジェンダー的な中立性が好まれるフランスやドイツでは、児童向けおもちゃの偏向は厳しく咎められますが、一方イギリスでは、「悪趣味」で「下品」なおもちゃが人気を集めているようです。
     こんにちは、池田明季哉です。先日イギリスから帰国し、久々に日本での生活を満喫しています。今回は番外編として、イギリスのおもちゃ事情を振り返りながら、海外、特に中心的に訪れた西ヨーロッパのおもちゃを取り巻く文化について考えてみたいと思います。
    日本、アメリカ、イギリス、そしてフランスとドイツ
     この連載では「おもちゃには理想の成熟のイメージが込められている」という前提のもとに、日本のおもちゃが発展させてきた独自のイメージについて議論を進めてきました。そのなかで、日本のおもちゃ文化はアメリカ文化がベースになっている、と幾度か言及しています。  さらに遡って、こうしたアメリカ文化における成熟の美学の源流を求めるとき、イギリス文化の存在を避けては通れないでしょう。もちろんイギリス文化は西ヨーロッパの文化の中心たるフランス文化の影響を大きく受けていますし、フランスの長年のライバルともいえるドイツ文化との関連も見逃せません。  世界史的には文化の中心地のひとつと目されているこうした地域で、果たしておもちゃにどのような成熟のイメージが込められているのでしょうか。
    ヨーロッパに「おもちゃ屋さん」はあるか
     さて、そもそもヨーロッパの子供たちは(あるいはその親たちは)、おもちゃをどこで、どのようにして買っているのでしょうか。  日本では専門のおもちゃ小売店が次々と閉店して久しく、現在に至っては街でその姿を見ることはほとんどありません。代わりに台頭してきたのが、家電量販店です。多くの家電量販店にはおもちゃのフロアが用意されていて、品揃えもかなり優れています。  いっぽう、Amazonをはじめとしたオンライン通販も非常に便利です。東京都内であれば翌日には届きますし、筆者の実家である北海道にも、翌々日には届くことがほとんどです。日本国内で普通に流通している一般的なおもちゃであれば、あえて小売店に行く必要はほぼないと言ってしまってよいでしょう。  ところがヨーロッパには、こうした文化はほとんどありません。専門の「おもちゃ屋さん」が街にあり、そこで購入することが普通です。もちろんオンラインで購入することも可能ですし、若い世代を中心に徐々に浸透してもいるようですが、日本ほど受け入れられているとはいえないように思われます。少なくとも、大きなショッピングモールがあれば、そこにかなりの確率でおもちゃ屋さんがある程度には、小売店は存在感を発揮しています。  こうした環境の違いは、社会において「おもちゃ」が置かれている文脈の違いを象徴しています。  日本において、家電量販店に置かれているのは、子供向けのおもちゃだけではありません。高価格高品質のフィギュアをはじめとして、主に大人の「オタク」向けのいわゆる「ホビー」に分類されるような商品も、同じフロア、近接した棚に並んでいることがほとんどです。原理的にすべての商品が並列に置かれるインターネット通販でも、状況は同じであるといってよいでしょう。  また基本的には子供向けに開発されているおもちゃであっても、大人が購入して遊ぶような状況も稀ではありません。たとえば「スーパー戦隊」「仮面ライダー」「ウルトラマン」「ガンダム」など、長年続くIPのファンが親となり、その子供におもちゃを買い与えて一緒に遊ぶ風景は、もはや普通のものになってきています。  対してヨーロッパでは、おもちゃは基本的に「子供のもの」です。筆者が住んでいたイギリスにおけるおもちゃ小売の大手「Hamleys」や「the entertainer」などに並べられているのは、子供を対象にしたものに限定されています。特に「Hamleys」において顕著ですが、キャラクターIPを軸とした商品はむしろジャンクなものとされている雰囲気もあり、狭い意味で「子供らしい」ものが中心となっています。  もちろん、アメリカンコミックスに代表されるような「大人のホビー」としてのおもちゃも、しっかりとしたファン層があります。しかしこうしたおもちゃはアクションフィギュアのような、どちらかというとコレクターズアイテムとして、コミックショップなどで販売されています。コミックショップでは子供や親子連れの姿も頻繁に見ることができますので、「おもちゃ屋さん」と「コミックショップ」を訪れる客層が完全に別れているというわけではありませんが、やはり「子供のおもちゃ」と「大人のホビー」が分かれた場所で販売されているということの意味は大きいように思われました。  おもちゃ史としては、こうした「おもちゃは子供のもの」というヨーロッパ的な態度のほうがむしろ伝統的なものです。むしろ「子供」と「大人」が境界なく融合する傾向の強い日本文化こそが、特殊なものであることが再確認できました。
    「レゴの警察セット」は是か非か――フランス
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  • 池田明季哉 “kakkoii”の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝 番外編『トイ・ストーリー4』(3)タイム・アフター・ザ・スペース・レンジャー

    2019-07-30 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』、番外編『トイ・ストーリー4』論のラストとなる第3回です。ジェンダー論的な「政治的正しさ」(ポリティカル・コレクトネス)を体現する本作で、ウッディやバズに代わってマチズモを象徴する役割を与えられたキャラクター・カブーンから「新しい男性性」の萌芽を考えます。 ※注意:本記事には『トイ・ストーリー4』のネタバレが含まれています。
    物語のレベルで「置き去り」にされるバズ
    『トイ・ストーリー4』は、現代におけるジェンダーと結びついた美学の問題を、おもちゃという必然性あるモチーフによって整理し、ボーというキャラクターを中心に力強く描き出した傑作です。しかし本連載の立場からは、ふたつの問題点を指摘したいと思います。象徴的にいうなら、それはバズの立場が希薄化しているということに集約されます。  ひとつは、『トイ・ストーリー3』まで展開されていた、アニメーション映画史におけるコンピュータ・テクノロジーという主題が後退してしまったこと。これは3DCGがあまりにも当たり前になったという時代の変化に対応していますし、『トイ・ストーリー3』でアンディの物語と共に完結した主題であったので、脚本上の要素の取捨選択としてはむしろ正当なものであるともいえなくはありません。しかしウォルト・ディズニーが確立したアニメーションの伝統を、コンピュータ・テクノロジーで大胆に換骨奪胎し更新していくダイナミズムによって駆動されていた前3作に対して、こうした文脈での批評性は限定的なものに留まってしまっている印象はあります。  先述のように、バズはテクノロジーを象徴するキャラクターでした。バズが物語上積極的な役割を果たす立場でなくなっているのは、テクノロジーという主題がほぼ放棄されていることと関係しているでしょう。これには90年代にはまだギリギリ「新しいもの」としてのイメージを持っていた宇宙飛行士やギミック満載のアクションフィギュアというモチーフが、現在では「中途半端に古いもの」という非常に扱いにくい存在になってしまったという難しさもあると思われます。しかしそれでも「トイ・ストーリー」シリーズが、ポリティカリー・コレクトな世界以上の「未来」を語ることができなくなっている現状には、一抹の寂しさを感じてしまいます。  もうひとつ、より大きな問題は「新しい男性性」の描かれ方が不十分であることです。これまでの作品において「新しい男性性」を象徴してきたのはバズでした。本作において、バズはほとんど物語の中心から外されています。「旧い」「新しい」という縦軸と、「男性性」「女性性」という横軸によって区切られる四象限を定義するとき、『トイ・ストーリー4』は「新しい女性性」による「旧い男性性」の放逐と「旧い女性性」の救済を描いているのですが、「新しい男性性」については、ほとんどなにも描いていません。  ギャビーを通じて「旧い女性性」を救済しつつボーに「新しい女性性」を象徴させ、「旧い男性性」の象徴であるウッディを葬る物語を描いた『トイ・ストーリー4』が語り残してしまったもの、それはアニメーションの未来と「新しい男性性」ーーバズの物語であった。これまで論じてきた本作の問題点は、このようにまとめることができるでしょう。
    デューク・カブーンとジョン・ウィック
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  • 池田明季哉 “kakkoii”の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝 番外編『トイ・ストーリー4』(2)シェパーデス・オン・ザ・フロンティア

    2019-07-24 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』の番外編、『トイ・ストーリー4』論の第2回です。今作では、伝統的な男性性の頓挫が描かれ、フェミニズムを意識した目配せも各所にあります。その背景を、本作の製作中に起きたジョン・ラセターの不祥事による退陣を含めて読み解きます。 ※注意:本記事には『トイ・ストーリー4』のネタバレが含まれています。
    新たな「カウボーイ」としてのボー・ピープ
    『トイ・ストーリー4』で衝撃的な再登場を果たすのが、羊飼いを象った陶器製のランプであり、かつてウッディの恋人であったボー・ピープです。物語はボーとウッディの別れのシーンからはじまり、その後ボーがアンティークショップの棚の売れないアイテムという立場から逃げ出して、特定の子供との関係を求めない、自立した「ロスト・トイ」として生きてきたことが語られます。 劇中において、ボーは野で暮らしてきたワイルドで力強い女性として描かれます。身体能力が高く、折れた腕も動じずテープで直せばいいと言い切る豪快さを持ち、その知性であるときはウッディを論破しさえするし、強い意志で計画を実行するリーダーシップもあります。ある意味では「羊飼い」である以上に「カウボーイ」的といってもいい。『トイ・ストーリー4』の物語は、美学の上ではボーを中心に語られていきます。
    ▲ボー・ピープ(出典)
     ボーの相棒であり、同じく「ロスト・トイ」である小さな人形ギグルも女性で、かつ警察官というアメリカ的な男性性と強く結びついた職業をモチーフにしています。ギグルはおそらく80年代に展開されたブルーバード社(後にマテル社)のポーリー・ポケットという玩具をモデルにしていますが、ポーリー・ポケットは伝統的に女児向けのおままごと遊びという文脈のもとで開発されたおもちゃで、警察官のものはおそらく存在しないか、存在しても主流商品であったとはいえません。このモチーフの改変は、意識的になされたと見ていいでしょう。
    ▲ボーの肩に乗っているのがギグル・マクディンプルズ(出典)
     また同じ「ロスト・トイ」仲間であるコンバット・カールはハズブロ社のG.I.ジョーをモデルとしたキャラクターで、こちらも本連載で触れたとおり、軍人というアメリカ的男性性と強く結びついたおもちゃです。コンバット・カール(厳密にはそのバリエーション)は、後にある重要な役割を果たしますが、それは本稿の最後に改めて触れます。  ともあれここで注目したいのは、「ロスト・トイ」には、(羊飼い改め)カウボーイ、警察官、軍人というアメリカにおいて男性性と強く結びついたモチーフが導入されているということです。もちろん、90年代に流行した空飛ぶ妖精のおもちゃ「スカイダンサーズ」なども登場しますから、すべてがそういったイメージで占められているわけではありませんが、印象的なキャラクターにこうした要素が配置されていることは重要です。その中心であるボーは、24年の間に育まれたフェミニズムの達成が作り出した、強く美しい「新しい女性性」の象徴だといってもよいでしょう。
    ギャビー・ギャビーと母性の救済
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  • 池田明季哉 “kakkoii”の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝 番外編『トイ・ストーリー4』(1)パラダイス・ロスト・オブ・ザ・カウボーイ

    2019-07-16 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』の番外編として、現在公開中の映画『トイ・ストーリー4』を論じます。1995年の第一作目以降、本作の〈男性性の美学〉は少しずつ形を変え、多様な価値観を包括するようになりました。トイ・ストーリーシリーズの24年間の主題の変遷を改めて振り返ります。※注意:本記事には『トイ・ストーリー4』のネタバレが含まれています。
     こんにちは。デザイナーの池田明季哉です。今回は『“kakkoii”の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』の番外編として、『トイ・ストーリー4』について論じていこうと思います。  ご存知のとおり、『トイ・ストーリー4』は前世紀末、1995年に第一作が公開された「トイ・ストーリー」シリーズの最新作ですから、世紀末ボーイズトイから現代に繋がる想像力を引き出そうとするこの連載としては、避けて通ることはできません。これまでおもちゃにとって重要なトピックを提示し続けてきた本シリーズの批評力は、今作においても健在です。『トイ・ストーリー4』を通じて、現在のおもちゃ、特にアメリカのおもちゃ文化が置かれている状況について考えていきたいと思います。  僕は故あって、現在イギリスに住んでいます。6月21日のアメリカ公開と同時にイギリスでも本作が公開され、7月12日の日本公開に先駆けてこの作品を見る幸運に恵まれました。当然見たのは純粋な原語版ということになるので、カタカナによる代替表記については筆者独自のものであり、後に公開されるであろう日本語の吹き替え・字幕の表記とは揺れがある可能性があることをご了承ください。
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  • 池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第三章 ビーダマン(2)「炎の魔神」がビー玉に宿した魂

    2019-06-20 09:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。『スーパービーダマン』シリーズは、シリーズを重ねるごとにビーダマンに人格が付与され、『爆外伝』において完全なキャラクターとなりますが、同時に、物語からは人間が撤退します。そしてビーダマンは、鎧と人と機械の中間的存在から、それらの境界が完全に融解した存在へと深化します。
    『爆球連発!!スーパービーダマン』(以下『スーパービーダマン』)において、道具と人格の両義性を持つビーダマンというキャラクターは銃器のデザインと結びつき、不屈のフィジカルによって倫理を貫徹しようとするタマゴと、「軍人」あるいは「殺し屋」を彷彿とさせる20世紀的な男性の美学の体現者であるガンマというふたりのヒーローを生み出した。そしてその物語を通じて、ビー玉を発射する一種の銃器であるビーダマンがはらむ暴力を、倫理によって治める展開が描かれることになった。
    実はタマゴが得意とした「締め打ち」は、現実世界のビーダマンの玩具において大きな問題を引き起こしている。主人公であるタマゴの機体「フェニックス」シリーズは、パワーを重視しているという設定もあり、ビー玉発射の威力を増す方針で開発されていった。しかし硬く重いガラスでできたビー玉がプレイヤーの無茶な締め打ちによって撃ち出されることで威力が増し、競技中にプレイヤーが怪我をする事態が続出することになった。しかしビー玉の速度を限定することは、ただでさえ数少ないカスタマイズのパラメータを減らすことに繋がり、プレイバリューを大きく損なうことになる。そのため以降のビーダマンはパワーをどのように制御していくかを設計段階で考慮する必要に迫られ、締め打ちを構造上不可能にしたり、地面に設置しなければ発射できないような一種のセーフティを組み込むことで安全性を向上する工夫を余儀なくされていく。劇中で人間に向けてビー玉を撃つマダラがタマゴによって諌められるという物語は、相当に切実なものであったことは付記しておきたい。
    「人」の形をした「道具」
    『スーパービーダマン』において興味深いのは、ビーダマンに人格や魂を感じさせる描写がほとんどない点だ。初期にこそ、タマゴにとってビーダマンが「友達」であるという発言があるし、仮想空間内でビーダマンと一体化するというイベントも存在するのだが、ビーダマンに魂のようなものを感じる描写は基本的にはないといっていい。
    このことは『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』(以下『レッツ&ゴー』)において、豪がマグナムに魂を見出し、マグナムが豪の叫びに応えることと対照的だ。ミニ四駆とビーダマンは、自動車と銃というアメリカ的な表象を象った同時代のカスタムホビー玩具という非常に似た位置づけながら、この点において決定的に異なっている。それぞれの作品で描かれる美学も異なったものになったのはそれゆえだ。
    このことは、デザインという観点から見れば、実に奇妙に思える。というのも、ミニ四駆が自動車という乗り物をベースにそのデザインを発展させたのに対して、ビーダマンは自律的に行動するロボットであったボンバーマンのデザインを基礎としている。あくまで「乗り物である」ということにこだわり機能的には必要ないコックピットにこだわったミニ四駆がむしろ魂を宿し、目があり瞳がある人型ロボットの形をデザインに残したビーダマンの方がプレイヤーの道具に徹した、という事実は、デザインとそこに宿る想像力が逆転しているように見えるからだ。
    この興味深い逆転は、ミニ四駆とビーダマンの、玩具としての性質の違いに根ざしている。ミニ四駆はいったん手を離してしまえば、直接操作することができないところに大きな特徴がある。ミニ四駆が魂の器たりえたのは、この直接的には操作できないという性質によるものであることはすでに論じたとおりである。一方、ビーダマンはあくまでプレイヤーが直接ビーダマンを操作し、トリガーを引いてビー玉を発射する。そこにはミニ四駆にあるような間接性が入り込む余地はなく、すべての結果はプレイヤーの操作と直接結びつき、身体の延長となる。ミニ四駆が「魂を持った乗り物」としての想像力を宿し、ビーダマンが「軍人」の美学にこだわったのは、そのインターフェースデザインによる必然といっていいだろう。
    後に『スーパービーダマン』の系譜は、威力を減衰させて直接打ち合う対戦形式を採用した2002年〜2005年の「バトルビーダマン」、タワーを破壊する間接競技へと切り替えグリップとトリガーを設けてより銃器に近いデザインとなった2005年〜2007年の「クラッシュビーダマン」へと受け継がれていく。やがて2011年〜2013年の「クロスファイト ビーダマン」では、キャラクター性を全面に押し出し基本的にすべてのビーダマンが人格を持ち会話する設定を取り入れた。これはスーパービーダマンの系譜が宿した想像力からは例外的と言えるもので、おそらくは他の玩具シリーズなどからさまざまな影響を受けている点で大変興味深いが、逆に言えばスーパービーダマンは顔を持ったそのデザインにもかかわらず、魂を持つまでに実に誕生から10年以上の歳月がかかったと考えることもできるだろう。
    「爆外伝」が描いたボンバーマンしかいない世界
    ボンバーマンというキャラクターが持つ両義性のうち、機械であるという点は競技に注力したスーパービーダマンの系譜において強調されていった。一方、人格を持つ点について拡張し、フィギュアとして発展していったのが、もうひとつのビーダマンの系譜「爆外伝」シリーズだ。
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  • 池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第三章 ビーダマン(1)スナイパーが殺し屋にならなかった理由

    2019-04-11 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は1993年にタカラ社より発売された「ビーダマン」を取り上げます。ボンバーマンのデザインをベースに、〈銃器〉を暗喩するような機能的進化を遂げた同玩具は、コミックス版において、ある種の倫理性を提示するに至ります。
    本稿では、1984年のトランスフォーマーが、アメリカ市場を睨んだ再ブランディングに際して「自動車」と「銃」の対立を軸に据えたことを指摘した。その後「魂を持った乗り物」という想像力はミニ四駆に引き継がれ、90年代をかけて機械に導かれる美学を描いてきたことを確認してきた。
    実はミニ四駆が「自動車」にまつわる想像力を発達させたのとほぼ同時期に、「銃」をテーマにして発展したもうひとつのおもちゃシリーズがある。それが「ビーダマン」だ。
    ボンバーマンというデザインに宿った両義性
    「ビーダマン」は1993年にタカラ社から発売された玩具である。初期のビーダマンの構造そのものはいたってシンプルで、背中のトリガーを押すことによって、腹部のホールドパーツに固定されたビー玉を撃ち出す(転がす)ことができるつくりとなっている。
    ビーダマンとしてもっともよく知られているのは、ゲームメーカーであるハドソンのキャラクター「ボンバーマン」をかたどったものだ。当初は「ドンキーコング」や「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」をはじめとして、変わったところでは衛藤ヒロユキのマンガ『魔法陣グルグル』のニケとククリなど、他のキャラクターを用いた商品も発売されていたが、最終的に発展していったのは、このボンバーマンをベースにしたデザインであった。
    初期のボンバーマンビーダマン(リンク先参照)
    ビーダマンのデザインについて考えるために、まずはボンバーマンのデザインが成立した経緯についてかんたんに整理し、そこにどのような要素が含まれていたのかから確認していきたい。
    ボンバーマンのデザインの起源について紐解く上で、1983年にアメリカのブローダーバンド社から発売された『ロードランナー』というゲームに触れる必要がある。このゲームはいわゆる棒人間的なシンプルなグラフィックで構成されていたのだが、日本では1984年にハドソンがファミリーコンピュータへの移植を行うことになる。ここでハドソンは、主人公の「ランナーくん」と、爆弾をあやつる敵ロボット(この時点では名前はまだない)のデザインを作り起こした。このロボットのドット絵が、ボンバーマンのデザインの起源となる。
    ▲左に3体見えるのが爆弾ロボット。右がランナーくん(引用元)
    ファミコン版のパッケージでは、ロボットはディフォルメされながらもSF色の強い、ややレトロなテイストのあるデザインになっている。このパッケージとドット絵のどちらが先にあったのかは不明だが、ともかくロボットであるというアイデンティティは明確だといってよいだろう。
    ▲ファミコン版『ロードランナー』のパッケージ。画面左側から迫るロボットがのちのボンバーマン(引用元)
    『ボンバーマン』と題された最初のゲームはファミリーコンピュータ向けに1985年に発売された。これは1983年にハドソンが開発したパソコン用ゲーム『爆弾男』のシステムに、『ロードランナー』の物語とキャラクターを組み合わせたものとされている。そのためドット絵そのものは流用で変更されていないのだが、パッケージのデザインは大きく変わっている。
    ▲『ボンバーマン』のパッケージ(引用元)
    『ロードランナー』と比較すると、全体的にデザインの解像度が上がり、やや「リアル」なものになっている点は興味深い。ヘルメットを被りバイザーから目が覗くという要素は共通であるものの、顔の造形には当時ヒットしていた『機動戦士ガンダム』の影響を見ることもできるだろう。
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  • “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(5)「マグナムに叫ぶようにアレクサを呼ぶ」

    2019-02-27 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。自動運転車は、なぜ「カッコいいもの」として社会に受け入れられないのか。マシンを手動で操作したい欲望と、AIによる自動運転技術。未来の自動車が抱える矛盾と、それを乗り越える想像力を、ミニ四駆に宿る物語性から考えます。
    「かっこいい」自動運転車は可能か?
    工業技術によって身体を拡張することで、主体と社会を短絡させる「乗り物」──その代表たる自動車こそが、20世紀における成熟の象徴として、男性的な美学の器として機能してきたことを、ミニ四駆のデザインを通じて確認してきた。
    だとすれば、情報化した21世紀における理想の男性的な成熟のイメージを考える上で、自動車の情報的なアップデートである自動運転車、および完全自動運転の分割的実装であるところの各種の運転支援技術について論じることは、避けて通れないだろう。
    自動運転技術は、それがごく近い将来かやや遠い未来であるかに議論はあるものの、やがてレベル5と呼ばれる完全自動運転を実現させることはほぼ確実と見られている。しかし自動運転車は、20世紀的な自動車の進化の形として期待されているにもかかわらず、美学を宿す器として、少なくとも「手動運転車」であるところの20世紀的な自動車と同等に「かっこいい」存在としては認められていない節がある。
    これはある意味では当然のことといえなくもない。たとえば20世紀初頭において、個人が所有できる乗り物の主流は馬車であった。この時代に登場した新しい乗り物であるところの自動車に対しても、同様の戸惑いと抵抗があったことは想像に難くない。手動運転車が20世紀の100年をかけて蓄積した美学に比肩するためには、ごく素朴に考えて21世紀の100年という厚みが必要になるはずだ。
    しかし同時に、20世紀初頭における「未来の乗り物」としての自動車への期待と美学が、その後100年の自動車文化を育んだこともまた確かだ。ゆえに21世紀初頭の本連載では、来るべき自動運転車にどのようなかっこよさを見出すことができるかを考えてみたい。
    もちろん、そのヒントになるのは、20世紀末にG.I.ジョーから変身サイボーグとトランスフォーマーを経てミニ四駆に宿った「魂を持った乗り物」という想像力だ。
    文化的に相容れない「自動車」と「自動運転」
    そもそもなぜ、自動運転車は20世紀的な自動車文化の文脈において「かっこいい」と思われていないのだろうか。そこには単純な嗜好の保守性やテクノフォビア以上の、自動車文化の美学に深く関わる問題がある。
    自動車の美学の中心に主体の拡張があると考えるとき、自動車が「直接操作できる」という感覚は極めて重要だ。たとえば20世紀でも、いわゆるATとMTを比較したとき、一般的に言ってMTの方が格が高い──「かっこいい」と考えられているのは、こうした自動車の位置づけを背景にしているといっていいだろう。
    こうした美学の上では、情報技術による運転支援技術は、たとえ機能として事故を防ぐ効果があるとしても、むしろ邪魔なものになってしまう。あらゆる判断を正確に行う完璧な主体であることを確認することでナルシシズムを記述する自動車文化と、ドライバーが不完全なことを前提に支援を行う自動運転技術は、美学の上で相性が悪いのだ。
    叫んでも加速しないから、ミニ四駆をやめる
    手動運転自動車の美学と自動運転技術、そしてミニ四駆の関係をわかりやすくするために、少しだけ個人的なエピソードを紹介したい。
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  • “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(4)「もうひとりのディカプリオ、もうひとつのプリウス」

    2018-11-06 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。『レッツ&ゴー』における〈成熟〉の失敗は、乗り物を通じた暴力の否定であり、ひいては自動車にまつわる〈男性性〉の拒否を意味します。90年代末に描かれたその想像力は、トヨタ・プリウスに象徴される、00年代の世界的な自動車のパラダイム転換を予見していました。
    バトルレースと『レッツ&ゴー』の倫理
    『レッツ&ゴー』におけるミニ四駆の美学は、成熟を拒否している──この結論は、20世紀末ボーイズトイを通じて新しい成熟のイメージを発見しようとする本連載の趣旨からすると、奇妙に思えるだろう。しかしここで考えたいのは、こしたてつひろが、なぜ理想的な成熟を描けなかったのか──いや、描かなかったのか、ということだ。
    その理由は、『レッツ&ゴー』シリーズにおける敵の描写によく表れている。シリーズを通じて烈や豪(あるいは烈矢や豪樹)の前に立ちはだかる敵は交代していくのだが、勝利のためならばマシンを破壊しても構わないという思想を持っている点では執拗なまでに一貫している。
    こうした思想、およびこれに基づくマシンへの直接攻撃を容認するレギュレーションには、アニメ化された際に「バトルレース」という名前が与えられている。通常のレースにバトルレースを持ち込む、あるいはバトルレースそのものを主流のレギュレーションとして推進しようとする敵との緊張がドラマの軸に据えられている。敵が勝利という結果にこだわることは、重要なレース結果の不自然なまでに軽い描写と表裏一体である。『レッツ&ゴー』において、レースにおける勝利という社会的価値を通じて男性性を追求し自己を実現しようとすること──ミニ四駆と社会を接続することで「大人」を目指す営みは、暴力や破壊と深く結びついている。
    ▲「WGP編」に登場するイタリア代表のマシン、ディオスパーダ。刃物が仕込まれており、レース相手を切り裂く(むろん反則である)。 『爆走兄弟!!レッツ&ゴー(12)』p36
    ▲「MAX編」に登場する敵、ボルゾイ。バトルレースを是とするボルゾイレーシングスクールを主宰する。 『爆走兄弟レッツ&ゴーMAX(1)』p96
    だから『リターンレーサーズ』において、F1レーサーとなった豪が危険なドライビングを繰り返していることは、解決されるべき重大な問題として描かれる。これはレースを扱った物語作品において、むしろ例外的な価値観といっていいだろう。勇気を持ってリスクを取り、勝利を掴もうとする精神は、それが意図的に事故を引き起こそうとする悪意あるものでない限り、肯定的に描かれることの方が多いからだ。たとえば先代の『四駆郎』だけを見ても、四駆郎たちは命がけのレースに自ら身を投じていったし、その源流たる自動車文化を象徴する源駆郎が参加していたのは、死のレースといわれる「地獄ラリー」だった。成長した四駆郎もまた、こうした過酷なレースに身を投じていったことが示唆されていた。いうなれば四駆郎たちや豪は、成熟を目指した結果、バトルレースに身を投じてしまっているのだ。
    ▲クラッシュしたときのパーツは、武勇伝を語るものとしてではなく「いましめに」飾られている。 『爆走兄弟レッツ&ゴー!!ReturnRacers!!(1)』p16
    『レッツ&ゴー』は、確かに成熟を拒否している。しかしこしたてつひろがバトルレースを徹底して悪として描き、自らの生命を危険にさらし続ける豪の成熟のあり方を露悪的に描いたことは、乗り物を通じて社会と短絡した主体が引き起こす暴力を容認しないという倫理的な態度だったといっていい。ここでこしたてつひろが拒否したものは成熟そのものではなく、『四駆郎』までは引き継がれていた、20世紀の自動車文化における男性性のイメージなのだ。
    ミニ四駆が「魂を持った乗り物」という中間的な存在として描かれた理由も、そこにある。自動車は、工業技術によって身体を拡張し、主体にレバレッジをかけて社会に接続する。その拡張感は、自動車を直接操作しているという感覚に支えられたものだ。こしたてつひろはミニ四駆が操作できないことを肯定的に捉え、ここに「魂」という想像力を介在させて操作を間接化することでいったん主体から切断した。そしてさらにミニ四駆をスポーツとして社会からも切断することで、主体と社会の間で機能する緩衝としての役割を与えた。
    こしたてつひろの慧眼は、比喩的にいうなら、ミニ四駆が「交通事故を起こさない自動車」であることを発見した点にある。言い換えれば、進歩を目指しながらも暴力と結びつかない形で、政治的に正しく男性性を追求する可能性を、ミニ四駆という「おもちゃ」の中に見いだしたのだ。
    もうひとつのトヨタ・プリウス
    20世紀的な男性文化・自動車文化の批判的継承として、こしたてつひろが『レッツ&ゴー』で描いた想像力は先見的かつ重要だ。
    実は自動車の文化史においてこれとちょうど相似形を描いている出来事がある。それはレオナルド・ディカプリオによるトヨタ・プリウスの再発見だ。
    ▲レオナルド・ディカプリオ主演『ウルフ・オブ・ウォールストリート』
    ▲トヨタ・プリウス。写真は2003年から2011年にかけて生産された二代目。
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  • “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(3)「ここに戻ってきた少年たち、どこにも行かない少年たち」

    2018-10-17 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。「魂を持った乗り物」という新しいミニ四駆観に基づき、走る目的そのものとしてのミニ四駆の価値を確立するに至った『爆走兄弟!!レッツ&ゴー』。しかし、その続編では主人公たちの〈成熟〉の困難が露骨に描き出されます。
    ミニ四駆第一次ブームにおいて『ダッシュ!四駆郎』(以下『四駆郎』)の中心になっていたのは、父を目指す「親子」の物語と、現実に肉薄しようとする「ホビー」の美学が結びついた、垂直的な構造だった。しかし、皮肉にも四駆郎が大人になった姿は描かれることはなかった。
    連載の前回(参照)で、第二次ブームを支えた『爆走兄弟!!レッツ&ゴー』(以下『レッツ&ゴー』)およびその続編『爆走兄弟!!レッツ&ゴーMAX』(以下『レッツ&ゴーMAX』)において、ミニ四駆が「魂を持った乗り物」という想像力を宿したことを確認した。
    それでは「魂を持った乗り物」から、果たしてどのような成熟のイメージを引き出すことができるのだろうか。引き続き、『レッツ&ゴー』シリーズの展開を追いながら、レーサーたちの成熟がどのように扱われていたのかを確認していきたい。
    地平線の彼方から、今ここにあるミニ四駆へ
    結論から言えば、『レッツ&ゴー』の登場人物たちが成熟した姿は、基本的に描かれない。それどころか、『四駆郎』と比較するとラストシーンは極めて淡白なものだ。
    『レッツ&ゴー』最終巻では、烈と豪の所属する日本代表チーム「TRFビクトリーズ」の世界グランプリ(WGP)における戦いが描かれる。TRFビクトリーズは、そこでライバルであるイタリア代表チームやドイツ代表チームを破って勝利する。しかし物語における描写は決勝レースの一部分の決着のみにとどまり、果たしてTRFビクトリーズが優勝できたかどうかはわからないまま終結してしまう。TRFビクトリーズが最終的に優勝したことがわかるのは、続く『レッツ&ゴーMAX』1巻の冒頭においてだ。ただしここでも驚くほど描写は簡潔で、総ポイント数最多で優勝した旨が、台詞で説明されるのみである。
    ▲第一回世界GP、終了の瞬間。 『爆走兄弟レッツ&ゴーMAX(1)』8-9p
    おそらくは『レッツ&ゴー』の連載終了時点では、既に『レッツ&ゴーMAX』という続編の企画は固まっていたと思われる。アニメや模型の展開など、さまざまなメディアに横断的に展開した本作にとって、連載時期などの関係上不本意なラストになってしまったのではないか、と想像することもできるかもしれない。
    しかし満を持して描かれたはずの『レッツ&ゴーMAX』のラストでも、やはりレースの決着は白熱したものにならない。物語における最終レースは、世界王座に輝いたTRFビクトリーズに、烈矢と豪樹たちルーキーチームが挑戦するという構図になっている。ルーキーチームは健闘するのだが、当初強敵として現れながらやがてルーキーチームに加わったネロのマシンが、それまでの攻撃的なスタイルが祟って走行不能になってしまう。このトラブルによって、ルーキーチームはあっさり敗北してしまうのである。
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  • "kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(2)「ミニ四駆のコックピットには誰が乗っているのか」

    2018-05-31 07:00  
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    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。第一次ミニ四駆ブームと『ダッシュ!四駆郎』について論じた前回に続いて、今回は第二次ブームと『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』とフルカウルミニ四駆が宿した「キャラクター」性に迫ります。
     第1次ミニ四駆ブームを支えた『ダッシュ!四駆郎』(以下『四駆郎』)が1992年に連載を終えた後、それを引き継ぐ形で1994年から1999年まで「コロコロコミック」誌上に連載されたのが、こしたてつひろ『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』(以下『レッツ&ゴー』)だ。
     『レッツ&ゴー』は原作となる漫画版と平行して、アニメ化されている。アニメ版は、展開が原作を追い越してしまったことから独自の解釈を強く打ち出していくことになった。アニメ版におけるミニ四駆描写の特徴(具体的にはスケール感を錯覚させるカメラアングルや、ミニ四駆の高いコントーラビリティ)も重要ではあるのだが、ここではこしたてつひろが手がけた漫画版を中心にして論じていきたい。
     『四駆郎』では、父を目指す「親子」の物語と現実を目指す「ホビー」という価値観が結託した、垂直的な構造によって支配されていた。これに対して『レッツ&ゴー』では、「兄弟」を描く物語と「スポーツ」的な価値観による、水平的な構造を軸にして展開していくことになった。
    ▲こしたてつひろ『爆走兄弟レッツ&ゴー!!(1)』(小学館てんとう虫コミックス、1994年)
    矮小な「大人」と無数の「兄弟」
     『レッツ&ゴー』は、そのタイトル通り、星馬烈と星馬豪という兄弟を主人公とした物語だ。兄の烈は頭がよくテクニカルなセッティングが得意で、そのマシン「ソニックセイバー」もコーナリング重視とされている。対して弟の豪はスピード重視のセッティングを好み、愛車「マグナムセイバー」も直線を得意とするマシンとなっている。烈が小学校五年生で豪が四年生と年齢に差をつけてあること、どちらかといえば豪に感情移入させるような作りになっていることは、烈のような優秀なレーサーを不器用な豪が目指していくような構造にすることも十分可能だったことを思わせる。しかし実際には、烈と豪は異なるスタイルを持った対等なレーサーであることが強調されていくことになる。
     『レッツ&ゴー』の第一回においては、豪がレース中にマグナムを破損させてしまい、烈がそれを助けるという展開が描かれる。しかし第二回においては、豪がスタイル重視で搭載したライトが、停電で真っ暗になってしまったコースで烈(および他のレーサーたち)を助ける構図になっている。この第二回では、ソニックとマグナムの両方がレース過程で大破しており、烈と豪は失格になりながらも二台を繋ぎ合わせたマシンで走ることを決断する姿が描かれる。この第一回から第二回までの流れは、烈と豪の兄弟が、異なるがゆえに互いの欠点を補完していく存在であることを印象づけるものだ。この烈と豪の対等な関係は、物語を通じて、チームメイトとなる他のレーサーたちや、ときには対戦するライバルたちにまで、オープンに拡張されていく。
    ▲破損したマグナムセイバーを支えるソニックセイバー。『爆走兄弟レッツ&ゴー!!(1)』42p
     ここで強調しておきたいのは、「兄弟」を増やしていくような水平的な拡張に、「大人」が含まれていることだ。
     『レッツ&ゴー』においては、星馬兄弟の父親は、戦後中流的な「普通のサラリーマン」として描かれており、ミニ四駆に大きな関わりを持たない。代わりに烈と豪に「セイバー」を託す役割を与えられているのは、ミニ四駆の開発者である土屋博士だ。土屋博士は、劇中では過去飛行機のパイロットであったことが語られてこそいるものの、レーサーではなくあくまでマシンの開発者に徹する。『四駆郎』における源駆郎のような偉大な「父」としては描かれず、それどころかコミックリリーフとして笑いを誘うような役割が与えられてさえいる。またレーサーであり大会をナビゲートするミニ四ファイターも、概ね同様の扱いがされている。こうした大人たちが意図的に「子供っぽく」、あるいは『四駆郎』時代の水準からいえば矮小に描かれるのは、象徴的な意味での「父」の出現と、垂直的な構造の復権を回避するためだろう。本作における「大人」は、あくまで「兄弟」の延長にある存在として定義されており、こうした工夫からは、水平的な構造を徹底的に維持しようとする姿勢が見てとれる。
    ▲土屋博士は無邪気で子供っぽい側面が強調して描かれる。『爆走兄弟レッツ&ゴー!!(4)』21p
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