國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
第8回テーマ:孤独や寂しさについて
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.11 vol.220

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お待たせしました! 哲学者・國分功一郎先生による大人気連載『哲学の先生と人生の話をしよう』最新回をお届けします。今回のテーマは、「孤独や寂しさについて」です。

※ニコニコチャンネルツールのメンテナンス期間につき、いつもより1時間早く朝6時前に配信しています。ご迷惑をおかけしていますが、ご了承いただければ幸いです。
 
『哲学の先生と人生の話をしよう』連載第1期の内容は、
朝日新聞出版から書籍として刊行されています。
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書籍の続編となる連載第2期「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」の最新記事が読めるのは、PLANETSメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ! 過去記事はこちらのリンクから。

みなさん、こんにちは。
 すこし体調を崩しておりました。配信が遅れてしまい申し訳ありません。
 早速本題に入ります。今回の相談テーマについて、前回、次のようなメッセージを皆様にお送りしました。

「さて、今回の相談を見ていても、更には世の中を見ていても、最近同じことを思うのです。人が孤独でいられなくなっている。孤独の大切さが忘れられている。皆が孤独でいられず、寂しさに苛まされ、他者をやたらと求めるようになっている。つながり、絆、コミュニティ、地域社会…、それらはとても大切。でも、どうもそうしたものが我々を浸食しつつあるのではないか。次回は孤独と寂しさについて考えたいと思います。孤独や寂しさについての相談をお寄せください。」

 「孤独と寂しさ」、それが今回のテーマですが、実は驚くべきことに、これまでにない数の相談が編集部まで送られてきました。とてもすべてにお答えすることができない数です(何か、別の仕方を考えます)。それにしても、なんということでしょう、「孤独と寂しさ」というテーマが最も多くの相談を招き寄せたのです。
 もちろん、偶然かもしれません。あるいは、編集部の努力のかいあって、プラネッツメルマガの読者が増えているということかもしれません。しかし、「恋人関係」でも「だらしなさ」でも「勉強」でも「人間関係」でもない、「孤独と寂しさ」こそが読者の皆さんの心に訴えかけ、「相談を寄せてみよう」と思わせたというこの事実に、私は心動かされずにはいられません。
 現在、といっても、ここ10年かそこらという気がするんですが、コミュニティとかつながりとか地域社会といったものが世間で強調されるようになりました。これは20年前、私が大学生だった頃には考えられなかったことです。あの頃は、そういうタームを口にすることが自体が憚られました。
 今思えば、あの頃は、「閉じられているのは悪いことで、開かれているのがいいことだ」というイデオロギーがあったように思います。「開くことがいいことだ」、「閉じられた共同体はダメであり、開かれた社会でなければならない」、そういったことが思想界で空虚に呪文のように唱えられ、僕のような頭でっかちのインテリぶった学生が何の疑問も持たずにそれらを口まねしていました。
 開かれているとはどういうことなのか? いったい何を開くのか? よく考えずに、ただただ「閉じているのはよくないことだ」と思っていたのです。「コミュニティー」や「共同体」といったタームは僕にとって、人間を縛る悪しき束縛でしかありませんでした。
 しかし、そのような思想は、具体的な生の現場を無視して頭の中で作り上げられた抽象的な物語にすぎないということがだんだんと理解されるようになっていきました。僕自身もそのことにだんだんと気づいていきました。
 近くにいる人と協力するのは大切ですし、つながりといっても人を縛るものだけではありません。そもそも「コミュニティー」とか「共同体」という語が、ぼんやりと「ムラ社会」と同一視されていたようなところもありました。しかも、今思えば、「ムラ社会」の何たるかも曖昧でした。
 ですから、コミュニティーや地域社会、さらにはつながりといったものが具体性をもって想像され、積極的な意味を込めて語られるようになったことを僕は歓迎しました。「なるほど、よくわかっていなかった、コミュニティーは大切だ」と思うようになったのです。いまもそう思っています。特に、自分が住民運動に関わっていた時はそれを強く実感したものです。
 ただ、最近、それと同時にこういうことも考えるようになったのです──「コミュニティーやつながりは大切だが、どうも最近、コミュニティーやつながりの大切さだけしか論じられなくなっているのではないだろうか?」、と。つまり、それと並んで論じられるべき別のものが論じられなくなってしまった気がするのです。では、コミュニティーやつながりばかりが論じられることで論じられなくなってしまったものとは何か? それは個人であり、自由であり、孤独だと思うのです。
 僕自身は、個人と自由と孤独のために哲学をやっています。もちろん、コミュニティーや社会、あるいは政治も自分の哲学研究の対象としています。というか、どちらかというとそれらが中心なんですが、自分の最終的な目標は、個人と自由と孤独です。なぜかといえば、僕自身、それらがなければ生きていけないからです。個人と自由と孤独を縛ろうとするコミュニティー、個人と自由と孤独が認められない社会、個人と自由と孤独を抑圧する政治──そうしたものを生み出さないために、哲学をやっています。
 ですので、現在、個人と自由と孤独の大切さが顧みられなくなっていることがとても残念です。これらは誰にとっても大切なことだろうと思われるからです。そして、残念なだけではありません。僕は心配しています。何らかの危機を予想しています。これらが重視されなくなることはとても危険なことなのです。どういうことか? これら三つの語のうち、今回のテーマに掲げた孤独から出発してこれを考えてみましょう。
 孤独を考える時、絶対に避けて通れないと思われるのは、哲学者ハンナ・アレントが大著『全体主義の起源』の中で強調した、「孤独solitudeはさびしさlonelinessではない」という考えです(ハンナ・アーレント、『全体主義の起源 3』、みすず書房、p.320)。
 アレントはこのことを説明するために、ギリシャ生まれの解放奴隷で哲学者だったエピクテトスという人の言葉を引いています。エピクテトスは「孤独な人間は独りであり、それ故、自分自身と一緒にいることができる」と言いました。あるいはまた、孤独な人間は、「自分自身と話す」ことができて、「自分自身のもとにいられる」とも。
 ここから次のように推論できます。さびしさを感じている人間は、さびしさゆえに、自分自身と一緒にいることができない。自分自身と話すことができず、自分自身のもとにいられない。これはたとえば、落ち着いて自分を見つめることができず、ただただ欠落感を抱えながら他者を追い求めてしまう状態を指しています。
 アレントはまた、さびしさというものは、他の人々と一緒にいるときに最もはっきりと現れて来るとも述べています。周りに人はいる。しかし、自分はその中で孤立し、見捨てられているように感じる。だから誰かを追い求めてしまう…。どうして自分がそのように感じるのかを自分と話してみることもできず、自分と一緒に自分を見つめ直すこともできない…。
 そのようなさびしさを抱えた時、人は何でも受け入れるようになります。とりわけアレントが重視したのは、そうしたさびしさを抱えた人間たちが全体主義的支配を受け入れるという事実でした。