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「動と静のパースペクティブ」(現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.228 ☆
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「動と静のパースペクティブ」(現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.228 ☆

2014-12-24 07:00

    「動と静のパースペクティブ」
    (現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』第5回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.12.24 vol.228

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    今日のほぼ惑は、落合陽一さんによる好評連載『魔法の世紀』第5回をお届けします。「動」と「静」という対比関係から生み出される"魔法の世紀"の美意識とは――? 人間のエクスペリエンスを規定する「場」をデザインするための、この2つの概念について考えます。

    落合陽一『魔法の世紀』連載記事一覧はこちらから。 
    ここまで、僕はコンピュータ思想やアート、デザインとエンジニアリングの観点から、「魔法の世紀」の表層/深層の問題を語ってきました。その結論は、アーツ&クラフツ運動のように、そのニつが再び一つになるということでした。
    今回は、そんな「魔法の世紀」のパースペクティブを、さらに深く掘り下げます。ここからは「場」の考えを導入します。そこでは「動」と「静」が同時に取り扱われ、モノの問題は空間の問題へと変容します。
     
     
    ■ゆく川の流れは絶えずして
     
    1950年以後、第二次世界対戦の終結とともに、軍事研究という「山」で湧き出た水は、大きな速度で社会へ向けて駆け抜けていきました。ここでいう「川の流れ」は「情報技術の進歩」と思ってください。しかし、まだこの当時のコンピュータコミュニティへの参加者は研究者に限られていました。その数を川幅に喩えるなら、まだまだとても狭いものでした。

    続いて、川底を覗きこんでみましょう。そこに転がる石は、まだゴツゴツした岩ばかりです。ここでいう石は、「コンテンツ」だと思ってください。この時代のコンテンツは、まだパンチカードで書かれたコードやシステムなどの、とても扱いづらいものばかりでした。
    しかし、川の流れを少し下るにつれて、みるみる石は砕かれていきます。なぜなら、川の流れ(=情報科学の進歩)がとてつもない速度だったからです。具体的には、連載の第2回でも説明したように、我々とコンピュータの関わりを規定するユーザーインターフェースの研究――GUI、マウス、ダイナブック構想など――が発展したのは、たった10年足らずの時間でした。

    やがて、川の流れは中流に広がっていきます。この頃になると、汎用コンピュータ技術は産業への応用が見込まれ始めました。Macintoshが生まれ、現代的なパソコンやOSが社会に普及して、多くの人が使い始めて、「情報革命」という言葉がメジャーになっていきました。川幅(=コンピュータ文化に参加する人数)は広がり、みるみる流域面積を拡大しています。

    この流域面積は、インターネットでさらに広がりました。川の底を覗きこむと、もう地面は中程度の石に覆われています。ブログや動画などがWebに上がっていきました。一方で川幅の総量は広がり、水量も大分増えています。

    そして、今や水流は下流へと広がり、海の直前です。川幅の総量は、もう海に近づくほどの広さになり、いまも一気に広がり続けています。コンピュータ研究の最後の大きな進歩と言えるディープラーニングも盛んに研究されるようになり、コンピュータの進歩はシンギュラリティ(技術的特異点)に近づいています。その進歩が人間の手を離れたとき、海流のように世界を大きく技術の進歩が駆け巡っていくことでしょう。

    一方で、川の底はほぼ砂です。
    すっかり石=コンテンツの粒度は小さくなりました。マイクロブログやSNSの投稿、個人情報の不随意的な発信などで、コンテンツの数は増え、頻度も上がり、一つ一つの粒度も小さくなっています。

    しかし、大海を目前とした今も、不思議なことに情報は「流速」をあげる方へと動き続けています。ブログからマイクロブログになって更新頻度は上がり、動画の共有もVineなどが登場して小さくなっています。その分だけ流れる速度が上がっていくのが、情報の広がる仕組みです。

    そして今、社会をドライブしているものの正体は、この「情報流速」であると僕は考えています。我々の世界は前世紀に比べて数万倍の勢いで情報のフローが流れています。それらは目には見えないですが、この世界のありとあらゆるものを支配しています。例えば我々のコミュニケーション、経済的なやりとり、金銭の決済、ありとあらゆることが電子的な情報のやりとりで行われています。映像の世紀では物理的なやりとりだったものが、信用で担保された情報空間のやり取りに代わりました。経済、表現、コミュニケーション……そのどれにおいても情報の流れそれ自体が全てをリンクして、駆動させています。

    つまり、バックグラウンドで絶えず流れ続ける情報に、物理世界も引っ張られてしまい、一緒に動きたがっているのです。それが究極的には、動的コンテンツや動的表現が増えている原因でしょう。では、その動的コンテンツの指針とは、一体どんなものなのか。結論から言えば、それは「静」との対比関係で評価され、美意識を形成していくことになるでしょう。
     
     
    美意識の「テクノロジードリブン」
     
    最近、CMY(シアン・マゼンダ・イエロー)のべた塗りを使ったポスターやカラフルなロゴが増えたのに、皆さんは気づいていますか。実は、これらは紙への印刷で綺麗に出なかった色が、印刷技術の進歩によって高精度の色再現が可能になったために、増えたのです。
    しかし、LEDや液晶のような光の表現では根本的に、そうした色を作るのは難しいとされています。これは、アナログにおける色の表現が「減色混合」と呼ばれる手法であり、デジタルにおける色の表現が「加色混合」であることに起因しています。その一方で、逆に光では、赤・緑・青は非常に綺麗に出ますが、印刷では混色してしまい、綺麗に色を表現できません(本当に赤や青を印刷したい場合は、「特色」と言われる特別な印刷をします)。
    昨今、DTPやCADが普及したことで、こうした液晶ディスプレイと印刷の発色の違いが、デザイナーの間で話題になることが増えています。例えば、「デジタルの色味で育った最近の世代は、綺麗な青と赤に慣れすぎている」という話などが、デザイナー界隈で話題になります。やはり、印刷に適した表現、液晶に適した表現というものがあるのです。

    この話から分かることは2つあります。一つは、実は人間の美意識というものは、技術における制約条件によって規定されている事実です。そして、色と形のデジタル/アナログの差異は、図版の形については、ディスプレイが高精細になっていくにつれて、解消されていくでしょう(特に、反射色のディスプレイはさらにその傾向を強めると思います)。
    一方で、デジタルメディアの普及で、画面で美しく発色する色味が使われていくように、メディアの変化が我々の感性をアップデートしていく事実です。明らかに私たちは、アナログ的な表現もデジタル的な表現も可能なのに、デジタル寄りの美意識の表現を好み始めています。 
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