【対談】國分功一郎×宇野常寛
「いま、消費社会批判は可能か」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.25 vol.229

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今日のほぼ惑は、『帰ってきた「哲学の先生と人生の話をしよう」』が好評連載中の哲学者・國分功一郎さんと、宇野常寛の1万字に及ぶ対談のお蔵出しをお届けします。『暇と退屈の倫理学』から、現在連載中の人生相談まで、國分先生の活動に通底するテーマを掘り下げて語っていきます。

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(※連載第1期の内容をまとめた単行本です。)
 
好評連載中の國分先生による人生相談『帰ってきた「哲学の先生と人生の話をしよう」』、今月末の配信はお休みで、次回掲載は1月下旬を予定しています。

次回の人生相談のテーマは…「逃げること」。

國分功一郎×宇野常寛「いま、消費社会批判は可能か」
初出:『PLANETS vol.8』
 
◎インタビュー:宇野常寛/構成:中野 慧
 
 〈浪費〉とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収すること。必要を超えた支出であるから、それは贅沢の条件になる。そして、豊かな生活に欠かせないものである。物を受け取ることにも、吸収することにも限界があるから、〈浪費〉は満足をもたらし、どこかでストップする。しかし、〈消費〉は限界がないので止まらない。〈消費〉は満足をもたらさない。つまり、〈消費〉は退屈をまぎらわすために行われるが、同時に退屈を作り出してしまう。
 ――哲学者・國分功一郎が『暇と退屈の倫理学』で展開した議論は、その穏当な語り口とは裏腹に過激で、そして野心的なものだ。
 形骸化し、それ自体が商品となることで陳腐化した左翼的消費社会批判を葬り去り、歴史的な視座から人間性それ自体を問い直す……哲学的思考のもつダイナミズムを存分に味わせてくれる同書の登場は圧倒的だった。
 そんな國分はその一方で「哲学とは究極的には人生論でなければならない」と断言する。これはむろん、アイロニーではない。國分功一郎にとっての「哲学」はすなわち人生について正面から考えることだ。「メルマガPLANETS」の人生相談(「哲学の先生と人生の話をしよう」)を読めば一目瞭然だ。家族の問題、恋愛の悩み、仕事のトラブル……國分はどんな悩みも常にその人にとっての運命とは何か、性とは何か、社会契約とは何かという問いを交えながら答えてゆく。言いかえれば大きな人類の歴史と、小さな個人の人生のあいだをつなぐものとして、歴史から人生を考えるものとして國分の哲学は存在する。
 だから、というわけではないのだろうけど、この日の議論はおもに「中間のもの」について交わされることになった。そこでは〈市民〉と〈動物〉、という概念がおもに取り上げられているが、それは同時に個人と世界をつなぐもの、歴史と人生をつなぐものでもあるだろう。
 〈消費社会〉に〈情報社会〉としての顔が加えられたとき、この〈中間のもの〉はどう変化してゆくのか。〈消費〉と〈浪費〉のあいだにあるものをめぐるこの日の議論は、そんな新しい問いを浮き彫りにしたように思える。(宇野常寛)
 
 
「消費社会」の可能性の中心はどこか
 
宇野 今日訊きたいことは、國分さんはなぜ消費社会批判にこだわるのか、ということなんですね。消費社会論のブームは、1980年代のニューアカデミズム以来、すでに一巡した感があります。でも國分さんの『暇と退屈の倫理学』(以下『暇倫』)って、その終わったはずの議論に独特の手つきで戻ろうとするものだったと思います。そして、その射程はたぶんものすごく長い。

國分 「なぜ再び消費社会論なのか?」という疑問はもっともだと思います。しかし、僕にとっては必然性がありました。簡単に言うと、かつての消費社会論や消費社会批判がまったくもって不十分であったというのがその理由です。僕は1993年に大学に入学していますが、当時はバブル時代への反省から「本当の豊かさとは何か?」という問題が、やたらと大袈裟に、そして説教口調で論じられていました。僕はそれに猛烈な反発があった。保守的な層の逆襲にしか思えなかったからです。あの頃の結論は結局「質素なのがいい」という話だったと思います。「清貧の思想」とかいうものも流行りましたし。
 僕の出発点には「自分が自分の楽しみを肯定できないなら、何のために生きているのか」という思いがあります。「みんな我慢して質素に生きなさい」というのはライフスタイルとして絶対に許容できないし、そもそもこういう物言いには権力のにおいがします。既成の秩序に人を従わせようという気持ちが見え見えの言い方です。僕はそれに猛烈に反発していました。しかし、それにどう対抗したらいいのかがまだわからなかった。ずっと考えていたのです。
 『暇倫』で提示した〈消費〉/〈浪費〉という概念は、そうした長い熟考の末に至りついたものです。この概念がボードリヤールから来ていることの意味を改めて考えていただきたいです。あれだけ騒がれた思想家を誰もきちんと読んでいなかった。そもそも彼についてのイメージが間違っています。彼はゴリゴリの左翼です。フランスによくいる古き良き左翼。そんなことは彼の本を読めばすぐにわかる。そんなことすらわからない連中が、1980年代あたりでしょうか、偉そうに「ボードリヤールがどうのこうの」とか言ったり、「ボードリヤールは消費社会の擁護者だ」というイメージを流布していたのです。僕は敢えてボードリヤールを使うことで、思想における消費社会批判なんて日本では誰もきちんとやっていなかったんじゃないかと問題提起したかった。もっと言うと、ボードリヤールへの愛着はそれほどなくて、ボードリヤールを使っていた連中に対する批判的意識が猛烈にある。
 あと、僕自身は意外とエコなので(笑)、やっぱり消費社会の大量生産・大量消費・大量投棄は何とかしなければならないとずっと思っていました。これまでは理念として「消費か質素か」の二者択一しかなかったから、新しい軸を入れたかったんですね。この思いは3・11以降は強まっています。あの本を書いている時に福島の原発事故が起こりましたが、僕は自分の議論に全く訂正の必要性を感じませんでした。ボードリヤールの消費社会論に依拠する〈消費〉/〈浪費〉の概念をむしろもっと強く社会に訴えかけないといけないと思った。

宇野 1980年代の消費社会論はエコと質素が結びついていた。ところが國分さんの『暇倫』を中心とした消費社会論って、そこを反転したおもしろさがあると思うんですよ。

國分 そうかもしれない。とにかく「一生懸命やっていればいい」とか「質素にやっていればいい」というのがすごくイヤなんです。「楽しく真剣に難しいことを考えよう」というのが僕のモットーだから。

宇野 エコを倫理の問題から快楽の問題に読み替える、ということですよね。

國分 そうですね。ただ、あれだけでうまくいくとは思っていません。まずは〈消費〉と〈浪費〉を区別し、現在の事態と議論を整理し、その上で、どこに「最適解」があるのかを具体的に考えていかないといけない。この「最適解」というのは中沢新一さんの言葉です。欲望やモノの流れなど様々な流れがうまく収斂していって落ち着く地点というものをイメージするための言葉なんだけど、僕はこれが放っておいてもやって来るとは思えない。『暇倫』でも論じたハイデッガーは1950年代ぐらいから「放下(Gelassenheit)」ということを言い出して、これは第一には「落ち着き」という意味なんですけど、最近、ハイデッガーの中にも「最適解」がおのずとやって来るというイメージがあったのではないかと考えています。僕はどうもそこは違って、不均衡と揺り戻しが常にあるように思われるんですね。人々が〈浪費〉を楽しめるようになったら様々な流れはある程度落ち着いていくとは思いますが、おのずと「最適解」がやって来るとは思えない。ここは引き続き考えていきたいところなんです。

宇野 『暇倫』の続編を書くとしたらおそらくこの「エコを快楽に読み替えていく」回路の理論的整備に重点が置かれるような気がするんです。このとき僕がどうしても気になるのは前の対談(宇野常寛×國分功一郎「個人と世界をつなぐもの」『すばる』2012年2月号、集英社)でも指摘しましたが、情報社会の問題なんですね。國分さんが映画『ファイト・クラブ』を引いて論じているような、マスメディアとコマーシャリズムが人間に画一化された欲望を植え付けて「ほんとうの豊かさ」を奪っている、という状況は端的に言えばインターネット以降の情報社会の拡大で大きく揺らいでいる。現に、テレビ、広告といったオールドメディアはそのせいで従来通りのビジネスモデルが揺らいで、四苦八苦している。
 逆に、ボーカロイドでもクラウドファンディングでもいいのだけど、自分で発見したものや自分が参加したもの、あるいは自分が応援したい人に対して発信することはとても気持ちのいいことなので、お金を払ってでもやりたい、という消費者像が台頭してきている。こうして考えると『暇倫』は消費社会批判のようでいて、同時に消費社会の可能性の中心を論じているようにも読めると思うんです。

國分 一応確認しておくと、僕はロハス派じゃないんですね(笑)。まぁ、そのように誤解されたことはないので、これは『暇倫』の論述が成功したということかもしれません。僕は情報化社会の肯定的側面を様々な場面でかなり強調している方だと思います。僕自身がTwitterやFacebookに大いに助けられているし、それに特に政治に関しては情報技術は革命的な変化をもたらしましたね。新しい人間の絆が情報化社会の手段を使って人工的に組み立てられるということもすごく大切だし、新しい可能性でしょう。

宇野 言ってしまえば、「資本主義の可能性をしゃぶりつくせ」ということでしょう?

國分 そこまで言えるかはわからないけれど、とにかく一人ひとりが〈浪費〉できる対象を発見していけることが何より大切で、もちろんその中には資本主義経済によって提供されるものもたくさんあるでしょう。当たり前です。これはあまり適切な例じゃないかもしれないけど、確か昔、「コンピューターゲームでオナニーしているようなヤツはアホ」みたいな議論に対して、浅田彰が、「しかし、もしかしたら彼らはマウスを握る“この手”に何か快楽を感じているかもしれない。それは簡単なイメージの問題じゃないんですよ」とか言っていた(笑)。テキトーな引用で申し訳ないんですが、確かにどこにどういう快楽があるかなんて、わからないんですよ。

宇野 バーチャルを〈消費〉している行為は現実でもあるわけですからね。

國分 そのバーチャル/リアルの区別は僕の次の本のテーマに深く関わってきます。たとえば性行為だったら「肉体と肉体がぶつかるリアルなものが良くて、バーチャルはくだらない」という語り口があります。でもバーチャルなものが関わらない性のあり方なんてありえるんだろうか? 妄想まったくなしで気持ちよくなるなんてありえない(笑)。妄想がまったくない性的快楽というのは、男性の場合だったら、単に身体の中の管を液体が通るという快楽ですけど、それで性的〈快楽〉が語り尽くせるわけがない。
 つまり、〈快楽〉って、バーチャルなイメージと完全には切り離せない、不純なものだと思うんです。そうすると、〈快楽〉に不純物として入り込むバーチャルなものは、〈消費〉的なロジックとどう関係があるのかを考えないといけない。