強くなくてもいいのだ
【破滅する物語】
今回のヤンサンでは鳥山明の漫画が、それ以前の王様だった「梶原一騎の時代」にとどめを刺した、という話から始まった。
ある年代にとっては基礎教養であろう「梶原一騎」だけど、最近の若い世代ではよく知らない人も多くなったと思う。
梶原作品にも色々あるが、その多くは「孤独な男」が「孤独な男」と出会い、命をかけた闘いをする中で相手を理解していく話だと思う。
孤独な男たちは「この世界で生き残るには強くなるしかねえ」と思っている。
「強ければそれでいいんだ」という梶原アニメのエンディングソングも流行った。
そんな殺伐とした世界の中で「明日はきっと何かある」と闘いつづけ「明日はどっちだ?」と疑問を投げかけ、物語の多くが「破滅と孤独」に向かっていくのが梶原漫画だ。
(今思えば闘い続ける登場人物は「闘わなくてもいい明日」を探しているように感じる)
【ディスコミュニケーション】
そんな息苦しい「闘いの季節」が終わって、その虚しさを味わった若者は「関わらない」「人と人は理解できない」という「ディスコミュニケーション」を選択し始める。
その代表が村上春樹だろう。
彼の初期作品は「誰かと関わること」より「パスタの茹で加減」の方が大切なのだ。
もう1つのディスコミュニケーションは「好きなものだけの世界に生きる」という選択だ。
他人と殴り合ってまでして「理解し合おう」などとは最初から考えず、好きなものが同じ人間たちと平和な「遊び」を共有するだけでいい、という思想。
「社会問題」や「異文化への理解」などは消える。
この代表例がDr.スランプの「ペンギン村」だと思う。
言い換えるとこれは「オタク村」であり、ピーターパンたちの桃源郷でもある。
僕は梶原漫画の「殴り合わなければ互いを理解することはできない」という過激な思想には幾分乗れない所があるけれど、異文化を排除してしまう楽園に住み続けるのもどうかと思う。
ディスコミュニケーションで「子供のまま生きること」はあらゆる問題を先送りにしてしまう。
大友克洋のAKIRAに出てくる「子供のまま老いていく人間兵器アキラ君」が旧東京を破滅させたイメージはこの辺の感覚とリンクする。
【「強さ」という回答】
・全力で他者(社会)と向き合う梶原(団塊世代)
・自分の世界で鎖国する村上、鳥山(ポスト団塊世代)
そして、あらゆる問題に対して「強ければいい」という単純な思想一択になっていくのが90年代だ。
この背後には強烈なグローバル化がある。
田舎の小猿だった「悟空」が「オラ強くなりてえ」と言い出す物語の背景には、過酷な経済競争の中で「負けたら終わり」という救いのない時代が押し寄せていたからだ。
このメンタリティは後の「新自由主義」に繋がる。
コメント
コメントを書く子供の頃、そのようなバトルマンガが増えていく中で、いがらしみきお先生のぼのぼのに出会いました。いがらしみきお先生が、少年漫画のようにはしたくなかった。目標を立てて、みんなで集まって、毎日戦って、成し遂げていくというような物語にはしたくなかったということで描いたぼのぼの。剣道をやっていた時に先生が一番じゃなくては駄目なんだ二番目は負けだ言ってました。でも、いがらしみきお先生は別に戦わなくてもいいんだよ、強くなくてもいいんだよという作品に子供の頃の私はほっとしました。リーマンショックが起きて大変な年にかむろば村へという作品の最終回に必ず何とかなる、思ったとおりではないけども、いがらしみきお先生はすごい人です。
「人の能力を勝手に数値化して評価してくる悪い宇宙人」は当時子供だった僕らを取り巻く日常に沢山存在した様に思えます。
今回読み直したら、スカウターに頼って戦闘力を盲信してるのは悪役なんですよね。
そして、主人公チームはそんな戦闘力信仰を打ち破るというか、外してくる事が多かった。
「気のコントロール」ができる主人公組が、戦闘力ヒエラルキーを信じる敵役を驚かせるシーンが繰り返し出てくる所に、勝敗とはまた別のカタルシスがあった様に思えます。
強くないと生き残れないと言われ続けた時代、能力が数値化され、競争の中で生きてきて、どこか違和感な不満を感じながらもその価値観に乗る事を選ぶしかなかった子供時代の自分に刺さったのだなぁ、と思わされました。