美意識についての覚書
久世です。
最近はヤンサンをお休みして、連日お芝居のリハーサル三昧という暮らしをしています。
いろんな方に迷惑をかけてすみません。
お芝居のリハーサルというのは、規模が大きく予算もある場合は毎日同じ場所でリハーサルを出来るのですが、
小さい規模でやる場合は、色んな公民館や安いスタジオを転々と渡り歩いていくのが常です。
今回は後者で、いろんな場所を渡り歩いているのですが、リハーサルの現場にすごくおしゃれでかっこいい自転車に乗っている方がいます。
その方の自転車には自転車を立てるためのスタンドがついていません。
だから毎回毎回自転車を立て掛ける場所、立てかけても怒られなさそうな場所を苦労して探して大変そうです。
その人が毎回ほとほとうんざりして、自転車を立てかけてもおかしくない場所を探すのを見て
「どうして、スタンドつけないの?」と聞いてみました。
返ってきた答えは「ダサいからつけたくない」でした。
「いつも大変じゃないの?」
「大変だけど、すごいおしゃれな自転車買ったのに、スタンドつけるくらいだったらこの自転車じゃなくていいし、これに乗る意味がない」
「へぇ。そんなもんなんだね。俺だったら速攻スタンドつけて、しかも買い物とかもするから、カゴさえつけるわ」
といったら「こーゆーやつがいるから世の中が良くならないんだ」という顔で呆れはてられたあとに、
「絶対無理。一生無理。この自転車にカゴをつけるくらいなら死んだ方がマシだ」といわれました。
「便利だからってそんなことをしたら、この自転車がダサくなってしまう。」とのこと。
スタンドをつけると…自転車は…ださくなる…???
嘘やろ。わからへん。なんの話?どこの国のなんの話?
と、かなりのカルチャーショックでした。
僕にはない価値観と美意識。便利を選ぶかおしゃれを選ぶか。そういうことでもないのか。
みんないろんなことで物事を判断しているんだなと何故かものすごく感心してしまう出来事でした。
昔、詩集を出版した時のことですが、僕はそれまで詩をかくとき必ず冒頭に「」を使って
詩のタイトルを書いていたのですが、詩集のデザイナーに原稿を渡したところデザインされたものから
全ての「」が消えてました。
「あれ?タイトルには必ず「」をつけていたと思うのですが、消えてましたか?」と聞いたところ、
その人は本気の顔をして僕にこう言いました。
「「」は絶対にいらないです。タイトルに「」をつけるのは本にするとき(僕としては)死ぬほどダサいからやめたほうがいい。
別の方法を考えたほうがいい。」
続けてその人は「これは決定事項というか、伝わらないかもしれないですが、僕にとって本当にダサいので、
これから違う詩集とかなにかを発表するにせよ頭に入れておいてほしいです。
「」はださい。それでも「」をつけたいなら、それはそれで考えますが、
僕の考えるデザイン的にはダサい行為だということは知っておいていただきたいです」と。
「そうなんだタイトルに「」はダサいんだ。そういう価値観もあるんだ。面白いなぁ。
意識したことなかったなぁ。むしろ「」から始まりますってことで自分の中では凄くかっこよく神聖な意味だったんだけどな」と思いました。
でも、デザインしてくれる人のセンスを信じていたので、「」は使わないことにしました。
結果ものすごくいい本ができたのでよかったと思います。
人とモノを作る時どこまで自分を手放せるかってのも大事だなといつも思います。
僕は大体ワードで詩を描いているのですが、それ以降タイトルに「」はつけなくなりました。
ださい、かっこいい、価値観、美意識。
難しいですね。正解のない話。生きてきた環境で全然違ってしまう話。
その人個人が一番浮かび上がってしまう話。言語化するのが簡単ではない、日常の積み重ね。
じゃあなんだったら簡単ですか?ないですよね。なんでも難しいです。
意識しだすと途端に昔は何も意識しないでやってたことも難しくなります。
だから、こういう話を聞くのが好きです。
僕は先ほどワードで詩を「描いている」と書きましたが、よく誤植だと言われます。
これは僕の美意識で、詩をつくるときは絵を描くように言葉を置いていきたい。
言葉の意味だけではなく、言葉を配置する場所や言葉の形、
言葉が持っている意味以外の意味も含めて詩をつくりたいと考えているので
自然とこの言葉をあてるようになりました。
誰かからすればこれも理解不能なこだわりなのだと思います。
先日まで【令和三年日本の形】という音と言葉と映像の展示を東京都浅草橋にあるCPKギャラリーという場所にて行っていました。
その現場でもいろんな価値観を体験できました。
この展示は、会期の後半、4組のアーティストにコロナ禍の生活をテーマに創作した作品や音楽ライブを上演してもらいました。
ものすごくきちんとした作品を発表してくださいという感じではなく
「自分の生活の中から湧き出てきた些細や発見や日常の機微を「あなたの令和三年日本の形」
として、VLOGのような感じで切り取って発表してください」
とお願いして普段つくらないようなものをつくって発表してもらいました。
その中に舞踊家の加賀谷香さんという方がいて「シニフィエ」という作品を一緒につくりました。
僕の朗読と加賀谷さんの踊りで構成された45分程度の作品。
この方はダンスの世界ですごく名の通っている方なのですが、今回の作品の台本や詩を描くために
加賀谷さんの考えるダンス、踊り、身体などについて、数回にわたりインタビューやディスカッションを行いました。
その中で、
「(私にとっては)綻んでないと踊る意味がない」とおっしゃっていて。
例えば、旅行なんかにいったときに大自然を目にすると「ちょっとここで踊ってよ。絶対綺麗だから」みたいな話になることがある。
「でももう目の前に私がいなくても完璧なものがあるのに、踊りを足す意味がわからない。それは(私にとっては)踊りでもなんでもない」という話でした。
「綻びなのよ。円満なところに踊りは要らない。」
「例えば、旅行に行って、神社とかに行って落書きとかみたり、柱についている傷とかみて、
ああ、私、もう二度とここにくることがないかもしれないから、この傷、もしかしたら一生もう見ることができないかもしれないんだと思うと、
大自然よりその柱の傷の方が踊る理由になる」とのことでした。
これもかなり衝撃的でした。
綻んでいるからそこに身体が存在してもいい意味が生まれて、その綻びを身体で埋めようとすることが踊りになると。
その人はもう少し踏み込んだ話もしてくれて
「今の若い人たちはなんでもあってそれはそれでいいことだけど(私の考える)踊りにとっては不幸かもしれない。
なんでもしていい、なんでも表現だってのももちろんいいけど、
自分の身体の特徴を使って自分にしかできない動き方を見つけてってことばかりが踊りではなくて、
踊りっていうのはもっと、これが踊りだっていう神様みたいのがあってそこに向かって進んでいるから、自分なんて要らない。
踊りをすればいい。だから、面白い」ということをおっしゃっていて、
ああなるほどな、これくらい踊ってきた人が言うとものすごく説得力があるなと感動しました。
でも、否定ばかりではなく、その中から、踊りが何を見せてくれるのかも楽しみにしているともおっしゃっていました。
一方、シルクドゥソレイユで踊っていた熊谷拓明さんも「かつて私は無言で踊っていた」という作品を発表してくれたのですが、
彼はダンスレッスンという形で広報すれば、人がいっぱいきて、定員に達してレッスンを受けられないこともよくあるそうなんですが、
こないだワークショップという形で、人を募って、彼の思うことを伝える場をつくったところ5人くらいしか人が集まらなかったそうです。
「ダンスレッスンだったら人は来るのに、ワークショップで自分のもっとコアな踊りの部分を伝えようとしたら人が来ない。
だから、本当にアンテナはってる人って意外に少ないから、ちょっと頑張ればダンスって食っていけるぞ」ということを来た5人の方には伝えたそうです。
これはこれで、面白い価値観だなと思いました。踊りって、言葉って、創作ってなんなんでしょうか。
展示で作った作品「令和三年日本の形」は音はいつもの相棒市川ロ数くんにつくってもらって、
言葉は僕が描き、映像は全国の皆さんから、「そらが映っている映像」を公募して制作しました。
空の映像をランダムで再生し、音は、令和二年から三年にかけて制作した、曲ではない「音の素材の断片」のようなものを100個くらい作って、
それを最大で同時に10トラック分流れるようにして、
それもランダムでどういうふうに音が展開していくか製作者もわからないようにプログラミングしました。
言葉も、令和二年から三年にかけて描いたモノをメインに、もっと昔に描いた詩も令和三年に録音しなおして、
これも、ランダムで再生するようにプログラミングしました。
6月の映像が流れているときに、音は音で違う時間に制作した最大で10個の令和三年の音で作った日本の形が流れ
(例えば1月10日、4月23日、25日、5月6日に作った音の素材の断片が同時に流れている)、
それに、また、9月に描いて11月に朗読した言葉で描いた令和三年日本の形が乗っかっていく。
さまざまな時間軸が同時に空間に存在しているのにもかかわらず、そこにあったのは調和でした。
なんとも不思議で落ち着く空間になりました。
ああ、自分の知らない時間にこんなに本の形があったんだと。
僕たちが描いて創って、集められた狭い範囲の中だけですが、疑似的に日本を体験できる空間になったと思います。
最終日は、ライブも行いました。
打ち合わせもせず即興で、こちらはこちらで読む詩を選び、音は展示で使った素材に今の演奏を重ね、そこに空が流れる。
今年一年やってきて、辿り着いた今日、その日の日本の形を生きている人間が体現するという行為。
関係ないように見える音や言葉や映像が日本の形を表しているといったってピンと来ない方はピンと来ないと思います。
でも、それを信じてその場に立っている人間がいればそう見えることもたくさんある。
さまざまな価値観が溢れるなかで、この行為は結局なんなんだろうか。
残ったのは、充実感でも高揚感でもなく、なんかいま、フラットになったなという些細な実感でした。
よかったら展示作品の配信もしていたので、覗いてみてください。
配信リンクまとめ
day1
day2
day3
day3 熊本比呂志×須藤信一郎
Now or Never!
day4
day4 加賀谷香×久世孝臣
シニフィエ
day5
公募パフォーマンス
熊谷拓明新作ダンス劇
かつて私は無言で踊っていた
言音(ことね)ライブ
令和三年日本の形
それでは、今回はこの辺で。
皆さんが良い年末を過ごされますことを祈っております。
写真:大洞博靖
公式サイト:漫画家 山田玲司 公式サイト
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コメント
コメントを書くこんな長文誰が読むんだろ?
>>1
僕は読みましたよ