「こんな腐った世界なんかに生きていたくない」
・・・なんて、今でも思う事がある。
特に20代の頃はそれは激しかった。腐った連中ばかり目につくのに、自分は何もできないからだ。
おまけに自分まで、その「腐った連中」と同じような行為をしている事にも気づく。
海の話で言えば、人間が汚染物質を流し放題にするから「魚が死んじゃう」なんて憤りつつ、シャンプーを使うし、合成洗剤を使う自分がいるわけです。
温暖化を阻止するためには、夜間の営業を控えればいい、とかいいつつ、夜中にコンビニに行く自分もいる。
最低なのは「世間」のはずなのに、自分も完全にその一部になってるわけです。
特に貧しい国の人たちを犠牲にして、この国は繁栄している、という情報はきつい。
外国の子どもを飢えさせてまでして、そんなに贅沢がしたいのか?俺達はそんなに貧しい魂になってしまったのか?
なんて。苦しんでいたわけです。今もだけど。
でも、どこかに「自分も大変なんだし、頑張っているんだから仕方ないじゃんか」という自分や「自分とその仲間だけが幸せならそれでいい」という自分なんかもいる。
「それが人間」というのもある。「みんなそうじゃないか」という人もいる。
でも、どうしても嫌なのは、それが「美しくない」ことだ。
まるで「豚野郎だ」
千と千尋の神隠しで、ブタになる両親と同じ仲間になってしまう。
見た目がブタ野郎でもいいけど、生き様がブタ野郎になるのは耐えられない。
なので、先週取り上げた「美の為に死んだ、三島由紀夫」の話はけっこうこたえた。
三島由紀夫先生はこう言っていたという。
「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」
豊かな金融国家の何が悪いんだ?というかもしれないけど、これは「人の国がどうなろうと、自然がどうなろうと、自分の企業だけが儲かればいい」という「醜い集団」という意味が含まれている。
つまり「カッコ悪い国」で「醜い金持ちが支配する醜いブタの国」ってことだ。
僕はあらゆる民族を尊重していて、集団行動と暴力が苦手なので、「この国は特別に偉いのだ」みたいな考え方や、刃物を持ち込むやり方などには共感できないけど、自分の生まれた国が「醜いブタ」に支配されるのは嫌だ。
三島由紀夫先生は「君たち、私とこの国を(本当の意味で)守ろう」と言っていて、その主張は完全に無視された(と感じた)らしい。
「ならば、せめて志を同じくしたものと共に美しく散ろう」という事だったのだろう。
戦争で散っていった同世代の者たちに対する「この国を守れなかった」という、申し訳ない気持ちを抱えて「浮かれた醜いブタ」と一緒に生きていたくなかったのだろう。
本当の事はご本人しかわからないけど、この気持には共感してしまう。
僕もBバージンからすでに「自分のことより世界のこと」というテーマを描いていて、ココナッツピリオドに至って完全に「みんな、僕と一緒に世界をなんとかしよう」という主張の漫画を描いた。
「ココナッツピリオド」は、かわいいウサギの博士を主人公に、温暖化の問題と解決の提示を分かり易く描いた漫画で、それは真剣な主張だった。
このまま「豚野郎」を続けていたら、温暖化(と、その他の問題)は人間の手に負えなくなり、大災害と食糧難と世界的混乱の時代が来るのを真剣に考えていたのだ(今もですけど)。
でも、その漫画は、まったく話題になる事もなく、完全に無視されたまま打ち切られた。
その事で漫画雑誌での新連載のチャンスが絶望的な状態になっていました。
山田玲司を使うのは「おいしくない」という評判が定着して、その時期の僕は「終わった人」にされたわけです。
なので、僕は三島由紀夫先生の気持ちがわからないわけがない。
だからこそ僕は、三島由紀夫先生に「したたかに生きて、もっと幸せになって欲しかった」
よく「学校が最低だから」とか「家族が大嫌いだから」とか言って、自殺してしまう人がいるけど、それはおかしい。
悪いのはそんな学校であり、そんな家族なのだから、自分が死ぬ事はないんだ。
むしろ、生き残る資格があるのは自分のほうなのだ。
若者を自殺にまで追い込むような学校や親、友人の方こそ反省するべきなのだ。
だから三島さん。生きる資格はあなたの方にあったんだよ。
僕はバブルの時に沢山の「豚野郎」を見たよ。0年台の金融ブームの時も「みっともないブタ」を沢山見たよ。問題はさ。あいつらの「魂の貧しさ」だよ、三島さん。
それをなんとかしようと、報われなくてもあがくのが文士じゃないのかな?
「おそ松さん」に打ち込まれた爆弾
ところで、最近大人気の「おそ松さん」を見ていたら、なかなか深い風刺が一発入っていたので、書いておきます。
それは「なごみ探偵」という話で、連続殺人が次々に起こる屋敷で、警官が犯人探しをしている所に探偵「おそ松」が登場する。という定番のものでした。
その探偵は「なごみ探偵」と言って、犯人を見つけられなければ、捜査の邪魔ばかりする人です。
でも、彼は「現場を和ませる力」があるので、現場はなごんで、楽しい雰囲気になって、警官たちも「それでいいか」となっていきます。
その間も連続殺人は続き、死体の山が築かれて行くが、みんなは笑っている、という話だ。
なんだかんだ言っているうちに、なんとなく犯人は捕まり、事件は解決するが、死体の山は残った。
という、なかなか冴えた話になっている。
最初の死体を前に真剣に事態の解決をしようとする警官は、みんなが「考えない」という方向に流されていくのに、抵抗するのだけど、結局自分も流されてしまう。
「これはヤバいぞ」と感じて、具体的に動き出した人は、考えない人達にバカにされる。
そうこうしているうちに事態は深刻化していき「誰か」が犠牲になっていく。
それを見ながら、現実の世界でも同じ事が起きている事に気づいた。
真剣に考えて、行動しなければいけない時に「なごみ探偵」が現れた歴史がある。
例えばそれは、バブル崩壊後(踊っている場合じゃない時)の小室サウンド(テクノディスコポップス)だったり、環境問題と貧困問題が深刻化した0年代の「お笑いブーム」や、震災前後の「集団アイドルブーム」や「朝ドラ」だったり、「なごみ探偵」は形を変えて現れる。
もちろん、人間なんさから、張り詰めてばかりじゃ生きていけない。
大ピンチの時こそ「なごみ」は大切だ、とも思う。
でも、それで問題を放置していくと、事態は深刻化して必ず「誰か」が犠牲になるわけです。
震災で心を痛めた人の心を癒やす(和ませる)のは大切だけど、仮設住宅の暮らしをかつての暮らしに戻せるようにすることや、二次災害を引き起こした多くの問題を解決して、地震国にふさわしいインフラに変える事に取り組まなければ、必ずまた同じ地獄がやってくるわけです。
考えて、行動しなくてはいけない時に、それを直視せず、和んでいる日本人。
三島由紀夫の自決から、ずっと、それは続いてきたんですよね。
じゃあどうすればいいのか?
と言えば「和むけど、問題の解決に動きたくなるようなコンテンツ」にするしかないんだろう、と思う。
本当に必要なのは「なごみ探偵のフリをした三島由紀夫」が必要なのだ。刃物を持った張り詰めた男の話を聞いてくれる人はほとんどいないのだ。
自決をしないために