あえて豊田真由子議員について書くが、豊田氏が記者会見して、「生きているのが恥ずかしい。死んだ方がマシではないかと思ったこともありました」と語ったらしい。
記者会見は見てない。ネットの記事で知った。
そもそもわしは豊田氏の罵声の音声はもう飽きたし、元秘書とのパワハラ疑惑に関しては、当事者間の決着しかないだろうと突き放して見ている。
豊田氏が議員を続けたければ、選挙で国民に判断してもらえばいいだけのことで、文藝春秋に手記を書いても、記者会見しても意味はない。
人々は「記者会見しろ」とか「説明責任を果たせ」とか言うが、その本心は「もっとリンチがしたい」というだけのものである。
「大衆の前で恥をかかせたい」「死ぬまで石を投げたい」と思っているのだから、「説明責任」なんかまったく意味がない。
舛添前都知事のときもそうだったが、批判される行動があったにせよ、その追及の仕方には「程度」がある。「加減」がある。
その「程度」や「加減」は、批判される人物の人間性や、能力や状況によって違うはずなのだが、大衆というものはそのような「分別」をつける力を持たない。
「マス=一塊」で火がついて、ごうごうと燃え盛るから、「加減」が分からない。
ギロチンにかけるか、自殺するか、破滅するまで、叩きたいという熱情だけが突っ走るのである。
わしは、パワハラは犯罪に近いと思っているが、豊田氏くらいのパワハラをやっている議員は他にもいるだろう。
現在の社会は、パワハラ、セクハラが、そこら中に横行しているはずだ。
パワハラ・セクハラを許してはならないという空気は作っていく必要はあるが、豊田氏個人に対する糾弾は、そのような啓蒙の域を超えていて、単なるリンチである。
豊田氏が自殺したら大衆は一時期、居心地が悪くなるだろうが、すぐ忘れて次の獲物を探す。
そのくらい大衆というものは手がつけられない。
民主主義を正しく機能させるために、「説明責任」は必要な場面があるが、必ずしも絶対条件ではない。
だが、大衆にとっては、もはや「民主主義=説明責任」という短絡的思考に嵌り込んでしまっていて、「リンチへの欲望のための説明責任」を唱えていることが多い。
民主主義は病いを抱え込んでいる。