村山談話・河野談話に未来はあるか?
第26回 元慰安婦・金学順の証言を検証する(その2)
慰安婦訴訟の原告第1号・金学順は、市民団体等の複数の聞き取りで
生年を「1924年」と答えているが、
なぜか裁判の訴状だけ「1923年」になっている。
当時の韓国は戸籍制度が完備しており、調べようと思えば
生年月日から一族の構成まで調べられたが、
弁護士はそれもせずに訴状を書いたのだ。
市民団体等への証言と訴状を読み比べた現代史家の秦郁彦は
「訴状がもっともお粗末」と感想を述べているが、
本連載の第15回で書いたように、もともとこの裁判は
万に一つも勝つ見込みなどなく、裁判は話題作りの道具で
しかなかったのだから、訴状は杜撰でかまわなかったのだろう。
さらに、金学順がマスコミに登場して有名になった後に
来日して行なった証言では、実父は朝鮮独立の運動家で
日本軍に射殺されたとか、自身も中国共産党軍の密偵役もやったとか、
上海で韓国独立の光復軍と連絡をとっていたとか、
それまでの証言になかった話が続々登場する。
反日運動の象徴のように祭り上げられた後なので、
単なる慰安婦ではなく、もともと抗日家だったことにしよう
と話を盛ったのは明らかである。
だが、訴状を含め全ての証言に出てくるのは
「キーセン」の出身だと語っていることである。
キーセンというのは日本の芸者に近く、
芸のみを売る女性もいるが、多くは体も売っており、
芸のできない専業の娼婦もいた。
韓国では戦後も長く売春が合法で、80年代まで
「キーセン観光」という買春ツアーを外貨獲得のために
政府機関が奨励していたほどである。
韓国で「キーセン出身」と言えば「もともと娼婦だった」
と言ったと同じで、当初韓国人はなぜこの人が日本政府を
相手に訴訟をしているのか理解できず、
「強制連行」の事実を隠蔽するために日本側が仕掛けた
陰謀かと疑う者までいたらしい。
金学順が抗日家だったように話を盛ったのも、
そんな事情のためだろう。
朝日新聞等のメディアは訴状にも書かれている
「キーセン出身」という事実を伏せて報道した。
だが実際の証言を読むと、結局のところ、これでなぜ
日本政府が責任を負い、謝罪しなければならないのか
全くわからないものだったのだ。