オウム真理教の地下鉄サリン事件から
もう20年経つという。

上祐元幹部が裁判に証言者として出廷したらしいが、
あの頃はわしが「事件はオウムの仕業だ」と
『ゴー宣』で描くと、「上祐さんはそんな人じゃない
青山さんは悪い人のはずがない」と、
わしに抗議する葉書が殺到したものだ。

信者である若者たちが、「純粋」に見えたからだろう。 

オウムの信者は純粋な信仰者であり、社会は
教団に対して不当なバッシングをしている、
警察は不当逮捕している、続発するテロ事件の
最中も、そう主張する者は多かった。

特に、サヨク・リベラル系の知識人、文化人に。 

わしはオウム真理教に名誉棄損で訴えられ、
裁判闘争をしながら、同時に暗殺部隊に
尾行される日々が続いていたので、そんな空論に
付き合っておく余裕はなかった。 

オウム信者は近代合理主義に背を向けた、
質素で真面目な純粋な人たちばかりだ、
オタク文化を取り入れた子供の宗教だと、
人畜無害なイメージを、知識人たちは宣伝していたが、
無害どころか、無差別殺傷テロを起こす狂団に
成り果てていた。 

閉ざされた団体は恐ろしいのだ。

無条件に擁護する知識人は、いざと言うときには、
その責任を取らねばならない。

サヨク・リベラル系の文化人は「弱者」「少数者」
そして「周縁の者たち」に感情移入する。
無条件で信用し、擁護する。

純粋な教団」があると信じる。
純粋な団体」があると信じる。
純粋な民族」がいると信じる。

これを批判する者は「悪」にしか見えない。

弱者を守るときは「主観」に埋没してはいけない。
感情に流されてはいけない。

「かわいそうに、気の毒に」と単なるヒューマニズムで
「主観」に埋没すると、とんでもない過ちを起こすこと
だってあるのだ。

わしだって弱者を守る戦いは、今までしてきた。

薬害エイズの犠牲になった子供たちを守る
戦いもした。

部落差別とも、在日差別とも、戦ってきた。

だが同時に、本当に弱者か否か、疑う「客観性」も
失わない。

オウム真理教の事件で学んだことは、
知識人・文化人の「疑う」力の希薄さだった。

 

 

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