『大東亜論』を描いていて驚くのは、明治初期の藩閥政権と、
今の政権が似通っていること、そして自由民権運動の
論客たちが、わしが行う安倍政権批判の論拠と通底した
主張をしていることである。
例えば植木枝盛は「世に良政府などない」と断定し、
権力を徹底的に疑え、監視せよ、それが自由民権だ
と唱える。
植木枝盛はルソーの天賦人権説に影響されているが、
保守派から見ればそこに問題点があるにせよ、
民主主義・あるいは民主制を採用する限りは、植木の
「世に良政府などない」という国民の側の構えの原則は
理解しておかねばならない。
「お上のおっしゃるままに」という感覚では、民主制を
採用する国民としては愚かすぎる。
高市総務相、もちろん安倍政権の「メディア・コントロール」
を容認する勢力(自称保守論壇、読売・産経新聞、NHK)
は、明治初期の自由民権の原則にすら到達していない
前近代的な「お上任せ」の封建的な人種レベルだと言える。
わしの安倍政権批判は、決して左翼陣営の論拠と同一の
ものではない。
むしろ明治の近代化を受容する中で、取捨選択しながら
日本に民主制を啓蒙していこうとした士族たちの思想に
似ている。
『大東亜論』を描く意義はまさにそこにあるのであって、
時代が進行しても、民主制の原則である「言論の自由」
や「権力監視」の構えすら、おそらく日本人には
将来的にも身につかぬのではないかという危惧があるから、
描いているのだ。
もちろん思想が露骨に悟られては物語ではなくなるので、
あくまでもエンターティンメントに消化させねばならない。
そこが難しいが、挑戦しがいのある仕事である。