「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ第三弾!
まだプロレスと格闘技が交じり合っていたグレーな時代。パンクラスファンとリングスファンが憎しみ合っていた時代。骨法が最戦前にいた時代、ターザン後藤がUFC出場に名乗り上げていた時代……プロレスが格闘技に変換していくダイナミズムに満ち溢れた90年代を振り返っていく今回は、アブダビコンバットで日本初の優勝を飾った菊田早苗選手です。新日本プロレス、UWFインターナショナルの新弟子時代を経て格闘家として名を馳せることになった菊田選手に佐村河内守氏の賛否から、同志であった三崎和雄さんとの現在の関係までうかがいました!

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最近の菊田さんといえば、GRABAKA自主興行が注目を集めていましたね。
菊田 3回自分で興行をやってみましたけど、やっぱり大変でしたねぇ。
――菊田さんの試合が「素手バーリトゥード」という危険なルールにしたのは話題性を睨んでのことなんですか?
菊田 まあ、ボクと桜木(裕司)選手や成瀬(昌由)選手が普通に闘ってもいまの時代に大きな注目を集めないと思うんですよね。そこで、素手ルールというのをずっとやってみたかったので、この機会にとなりました。
――そこのプロデュース感覚って菊田さんは昔から敏感ですよね。いかにして雑誌記事のスペースを取るかとか対戦相手選びにしても熟考を重ねて。
菊田 ハハハハハハハ。いや、そんなことないですよ。でも、プロの世界ですからね。格闘技の世界だけじゃなくてどこもそうだと思うんですけど、いかに「小さいものを大きくして見せるか」が問われるわけですし。そこは名プロデューサーである石井館長や宮戸(優光)さんもそういう発想だったと思うんですよね。ウソをつくのはいけないことですけど、エンターテ イメントの魅力をどうやって出すかということで。まあ、いくら派手に演出してもやってる闘いは真剣勝負ですからね。じつは中身が薄かったり、自分で作曲し てなかったりするような行為はマズイけど(笑)。
――格闘技界きってのピアニストである菊田早苗として佐村河内守氏のゴースト問題は許せませんか(笑)。
菊田 でもね、あの人もあそこまで幻想を作れるんだから売り込みのうまい名プロデューサー(笑)。あの作業を僕らはリング外ではやらないといけないから。それはプロレスもそうだし、芸能界だってそうですよね。
――そんな菊田さんからすると「佐村河内氏はいちおう設計図を書いてるから問題ない」という一部の意見はどう思われますか?
菊田 そんなことをしゃべっていいんですか(笑)。
――マット界を代表してお願いします!
菊田 そうですねぇ。自分が口ずさんだものを曲にしてもらったのなら作曲扱いになると思うんです。ただ、今回のは完全に丸投げだから単なるプロデューサーですよね。だってボクですらコードを知ってるから作曲できるのにあの人は何もやってないわけですよ(笑)。
――音楽家として考えられませんか(笑)。
菊田 プロデュースに関しては長けてた人なんだなってわかりましたけど、まあウソとエンターテイメントは違いますからね。
――菊田さんは佐村河内氏を怪しいとは思わなかったんですか?
菊田 僕は以前から(佐村河内のことは)知ってましたけど、そりゃあ騙されますよね。だってプロフィールにそう書いてあるわけですし、プライベートで接してるわけじゃないですから。逆にいうと、いまになって「怪しいと思ってた!」という関係者たちはなんで言わなかったんだろうなあって。こっちは「4歳からピアノをやってる」という表の情報しか知らないじゃないですか。
――じつは石原プロに憧れていたとか知らないですよね、そんな話(笑)。
菊田 ホントに(笑)。プロレスや格闘技でもそういうプロとしての幻想は大事だけど、肝心の部分が欠けていたならダメってことですね。
――純粋に音楽だけで売れるのは難しい世界なんでしょうね。
菊田 やっぱりきっかけがないですからね。いい悪いかではなくて、みんなから見てもらうにはきっかけがないと。そこは格闘技も同じですよ。
――菊田さんにとっての「きっかけ」ってなんでしたか?
菊田 僕の場合はアブダビコンバット優勝ですよね。それまではテイクダウンしてもお客さんは静かだったのが盛り上がるようになりましたし。
――プロレス方面での騒動も名を売るきっかけになったところはありますよね。PRIDEのアレクサンダー大塚戦とか。
菊田 ああ、そこはボクのKYの部分がへんな幻想になっちゃったから(苦笑)。
――あの試合は物議を醸しましたけど、当時あの試合を煽っていたKamiproに菊田さんも何か凄く言いたかったらしくて。kamiproとパンクラスって当時は他団体との裁判がらみもあって取材拒否状態だったんですけど、菊田さんが「そこはなんとかするから!」って動いたことで取材が実現したそうで。
菊田 まあ、Kamiproさんとはその前にもいろいろとあったんで。
――フリー時代に受けたkamiproインタビューの「プロレスラーはロクな死に方しない」発言問題ですか。
菊田 そこもハッキリさせたかったんですよ。「そんなこと言ってないでしょ?」って。
――あの問題って結局、解決したんですか?
菊田 まあ、たしかにあのとき現場では「プロレスラーはロクな死に方しない」とは言ったんです。でも、誌面になったときは選手個人を名指ししてるから。
――問題を小さくしようと編集部の判断で選手個人に限定したら、よけいに炎上したってことなんですかね(笑)。でも、名指しはしてなくともそんな発言をするくらい菊田さんも当時はギラギラしてたんですよね?
菊田 それはもう強い意思がありましたよ。格闘家をプロレスのリングに呼んで、格闘技みたいな試合をさせてプロレスラーが勝ったりするのはあんまりね。 PRIDEが盛り上がってからはそんなことはなくなりましたけど、当時の格闘家はナメられていたので。でも、格闘家はみんなどこかしらに所属してるし責任が生じるじゃないですか。ボクはフリーだったので「みんなの代わりに言ってやろうか」って。それでおもいきり言ったわけですよねぇ。
――よくよく振り返ってみると、格闘家にプロレスのことを聞くインタビューってほとんどなかったですね。『ゴン格』も『格通』もあえてやる必要がないですし。
菊田 そうそう。それにフリーだから何か起こっても関係ないから。だってくやしいですよね、単純に。ペドロ・オタービオが新日本に出て負けちゃったり。
――武藤敬司とのバーリトゥード風マッチですね。
菊田 凄くへんな試合でしたよね。今後もあんなことをやっていたらおかしなことになるから「それは言おう!」と。言ったのはいいんですけど、よけいなことを言い過ぎてですね。プロレスの本質まで語る必要まではなかったとあとで思いました。
――言い過ぎちゃったわけですねぇ。
菊田 そこがKYでしたねぇ。やっぱりプロレスファンもたくさんいるわけですし。ボクもそのひとりなんですけど。
――菊田さんもプロレスラーを目指して新日本やUインターに入門してるわけですからね。
菊田 プロレスファンに反感を買って「売名行為だ」とか言われたんですけど、そんなつもりはまったくなくて「なんでこんなに反響があるのかなあ~~?」って驚いちゃって。
――あのインタビューで菊田さんの名前を知った人は多いですよ(笑)。
菊田 あー、いま振り返っても恥ずかしいですよ!(笑)。
――プロレスファンが怖くなりました? 当時はネットもそんなに普及していないダイレクトな反応はそうはなかったと思うんですけど。
菊田 いやもう怖いですよ。 あんときはPRIDEの松井(大二郎)戦の前のインタビューだったんですけど、松井選手が本気で怒ってたじゃないですか。その怒りは伝わってきたんです、なんとなく。で、入場したら客席から野次だらけで。
――のちのアレク戦も野次だらけだったわけですよね(笑)。
菊田 あー、アレク戦もねぇ、PRIDEの上層部もそういった雰囲気を察知してセミファイナルにしたわけでしょ。あのときはまんまと乗せられた感じはありますよね。
――当時のPRIDEとは信頼関係はなさそうでしたよね。向こうは完全にアレク寄りでしたし(笑)。
菊田 あのときボクはパンクラス所属でしたから、やっぱりPRIDEからすれば他団体であり敵なんですよね。だから全然信頼関係なかったですよ(苦笑)。
――あのときは菊田さんがいろんな対戦相手を断って最終的に勝てそうなアレク選手を選んだことで、アレク選手が怒ったと言われてますよね。まあ、誰かがアレク選手をそう炊きつけたとしか思えないんですけど(笑)。
菊田 あー、実際はですね、僕の中の勝負事って、意味のある相手じゃないといけない。そこはお客さんにとっても自分にとってもですね。そうじゃない相手との試合だったら絶対に勝たないといけないんですよね。
――それは先ほど話されたプロデュース論につながりますね。
菊田 それでPRIDEを見渡したときに「ミルコ・クロコップとやりた い」と言ったのかな。あとはホイス(・グレイシー)に(クイントン・ランペイジ・)ジャクソン。でも、みんな都合が悪くて相手が決まらなくて、だんだんと 試合の日が迫ってきたんです。せっかくひさしぶりにPRIDEに出るのに相手も決まらないんじゃなあって。
――ヒカルド・アローナも提示されたんですよね?「アローナを断ってアレクを指名した!」みたいに騒がれていた記憶があるんですけど。
菊田 そうそう、アローナ。でも体格差もあるでしょ。
――菊田さんとは一階級以上、違いますねぇ。
菊田 それにアローナはノゲイラみたいに絶対的な知名度もないし、その候補の中にアレクが入っていたんです。アレクは『PRIDE・4』でマルコ・ファスに 勝ってるところを見ててスターになってたし、そんな選手といい試合をすればPRIDEで再スタートできるな、と。それにアレクは実績が認められていると思ってたんですよ。
――それで選んだら「ナメてるだろ!」と怒られたわけですか(笑)。
菊田 当時はエンターテインメントというものをわかってなかったんですね、まったく。ド天然でやっていたから、アレクがなんで怒ってるのかはわからなかったし。こっちは「おまえ、マルコ・ファスに勝ってんじゃん!」って思ってましたからね。
――「アローナより有名じゃん!!」と(笑)。
菊田 だからなんでセミファイナルなのかわからなかったし、向こうは真剣に怒ってたじゃないですか。その怒りを必要以上に煽るPRIDEにも腹ただしいなと思ってたし。
――菊田さんにもPRIDEへの不信感は生まれますよねぇ。
菊田 そうそうそう。榊原さんとは『PRIDE・2』のときからの付き合いなんでね。ボクは仲のいいイメージがあったんですけど、あのときは「なんでこんな扱いするんだろう……?」と疑問でしたよね。なおかつ(当時パンクラスの)尾崎社長もPRIDEに上がることは神経質になっていたんで。
――当時PRIDEルールディレクターの島田(裕二)さんの言動がアレク寄りだということも原因となって、のちに尾崎さんは公衆の面前で島田さんにコップの水をぶっかけたくらいですからね(笑)。
菊田 凄く怒ってましたねぇ。
――尾崎社長からすれば、パンクラスの選手をいいように使われる不信感があったんですかね?
菊田 何をやってくるかわからない。PRIDEに上がることが凄く大げさなことになってるんですよ。だってアレク戦のとき控室に入った瞬間、尾崎社長が「置いてある弁当は絶対に食べるなーーーーっ!!」って絶叫しましたからね。
――ワハハハハハ! それくらい信用できなかった(笑)。
菊田 「毒でも入ってるんじゃないか」ってことで。それで自分で食べてるんですからわけがわからないですよ(笑)。
――社長自ら毒味をしていたわけですか(笑)。リング外も真剣勝負だったんですね。
菊田  いやあ、アレク戦はいままでやった試合の中でも何本の指に入る試合ではありますよね。凄く緊張して心臓が飛び出るくらいで。
――単なる競技の勝ち負けじゃなかったですよね。もし菊田さんが負けたらすべてを失うシチュエーションになってたというか……。
菊田 負けたら引退しかなかったですよね。格闘技ですから勝ち負けはどうなるかはわからないですし、「えらいことになっちゃったな」という感じですよね……。

「新日本プロレスは刑務所、Uインターは収容所」

――もともと菊田さんはどんな理想像をもって格闘家の道を進んだんですか?
菊田 昔は格闘技といってもプロレスしかなかったわけですから、そこに入門して給料をもらって派手なことをやるのが理想でしたよね。働きながら格闘技をやるなんてのはまったく考えてもなかったし。シューティング(修斗)はありましたけど、プロとして食っていくには厳しい環境だったじゃないですか。結局プロレスを3回もやり損ねたわけですけど。
――新日本プロレスへ入門、そしてUWFインターには一度出戻って。
菊田 でも、それでやめるわけにはいかなかったので、せめてリングには立とうと思って、商売とか関係ないしにアルバイトをしながら格闘技をやることにしたんです。給料をもらって戦うという理想が崩れて、お金にならなくても戦うという一番純粋な動機に戻ったわけですよね。
――しかし、そんな大挫折をしたら欝気味にならないですか?
菊田 あ、そうなんですよ。鬱です。というのはね、なんで鬱になったというと、もともと柔道でも高校のときに優勝したり、その推薦で日体大に行ったりしてるので、できてあたりまえで来ちゃったから。プロレスも好きだったから厳しい世界だということはわかってたし、自分は挫折はしないと思ってたんです。それが見事にダメだったときにはもう、やることがなくなっちゃって。小学生の頃からプロレスラーになろうとしてましたから、顔を上げて町を歩けなくなっちゃって。22、3歳でホラ吹きになっちゃったわけですからね。
――いったん挫折したものにはふれたくなくなるもんですけど、菊田さんはよく格闘技を続けましたね
菊田 そこはプロレスに関してだけ目をつぶったんです。格闘技でもリングに上がる意味では同じなんじゃないかなって。まっ、妥協なんですけどね。自分の一番の理想は諦めた。その妥協があって先に何も見えないからこそプレッシャーもないし楽になったんですよね。40歳までバイトをしながらとくに目標を持たずに格闘技をやればいいと思ったし。当時は平(直行)さんも働きながら闘ってたし、そういうのもカッコいいかなって。
――平さんは当時、すき家など展開するゼンショーは「ゼンショー総合格闘技部」に所属してましたね。
菊田 ありましたよね(笑)。そうやって目標を小さくしたからこそ、その場その場でここまで生きてきて。ジムが必要だなと思ったら作って、格闘技イベントが盛り上がってきたら試合に出て。「よくあそこで諦めないで頑張ったね」とか言われるけど、とくにキツくなかったんですよ。プロレス新弟子の時代のほうがよっぽどキツかったんでね。
――新日本とUインターはどっちがキツかったですか?
菊田 うーーーーーーーーーーーん。
――甲乙つけたがいですか(笑)。
菊田 まず新日本の話をすると、佐々木健介さんと馳浩さんはとにかく厳しかったんですね。僕の担当は馳さんだったんだけど、あれは異常だったと思いますよ。
――「朝まで生テレビ」の体罰問題で馳先生がほぼ発言しなかったのはそういう事情があったんですかね(笑)。
菊田 新日本の中でもトップクラスの厳しさだったんじゃないですかね。ま、過去にも厳しい時代はあったんだと思いますけど。
――たとえばどんな厳しさなんですか?
菊田 ボクはケガをして入っちゃったんで、運がいいのか悪いのか、練習をある程度、制限されていたんですよ。でも、みんなの練習の話を聞いたり、たまにぶん殴られたりすると「これはヤバイなあ……」って。
――本練習の前で。
菊田 ある程度は想像をしてたんですけど、それを超えていましてねぇ。
――菊田さんは高校大学の柔道部で体育会系縦社会というものをたっぷりと経験されてるじゃないですか。それでもつらかったと?
菊田 いやあ、あのときの新日本はおかしかったですねぇ。それでも小島(聡)さんとか残った人がいたわけだから言い訳になるんだけど。そこで思ったのはボクはプロレスがどこまで好きだったのかって。そこは小島さんと比べて情熱が足りなかったんですよねぇ。
――そこは執念なんでしょうね。
菊田 小島さんは凄いですよ。だってあのときの新日道場なら刑務所のほうがマシですもんね。刑務所に入ったことないですけど(笑)。
――一方、Uインターはどんな厳しさだったんですか?
菊田 Uインターは練習というより収容されてる感じですね。
――新日本は刑務所で、Uインターは収容所(笑)。寮長の田村(潔司)さんがとにかく厳しかったとか。
菊田 田村さんは真面目っていうか、ちゃんと寮を管理しないといけないと思ったんでしょうね。ボクが寮に入ったときに金原さんはデビューしてるのに日曜日に外出できずリビングで体育座りして過ごしてるんです。あの光景を見たときに「これは厳しいなあ……」と。
――Uインターでは初日早々「これは厳しいなあ……」ですか(笑)。
菊田 「ここも厳しいなあ」と思いましたねぇ。金原さんが高山(善廣)さんに「コンビニに行くけど、田村さんが来たらごまかしておいて」とか言ってて「うわっ、コンビニにも自由に行けないんだ……」って最初から落ち込んじゃって。笑