77年前の12月13日は、中国大陸で侵略をすすめる日本軍が、当時の国民党政権の首都だった南京を攻略し、南京大虐殺事件(南京事件)と言われる「残敵掃討」作戦を始めた日です。あらためて南京事件とはどういうものだったのかを見ます。 (若林明)
南京大虐殺は1937年11月に上海を制圧した日本軍が、12月13日南京を占領したあと発生しました。日本軍は南京城の内外で、逃げ遅れた中国兵や子ども・女性を含む一般市民を虐殺し、性的暴行、略奪、放火などを行いました。この虐殺は、南京陥落から約3カ月間続き、被害者は「十数万以上、二〇万人に近いかそれ以上」(笠原十九司著『南京事件』)と言われています。
当時、現地にいた外国人や複数のジャーナリストは惨状を世界に発信します。「(日本軍の)野蛮な行為、大規模な捕虜の処刑、略奪、強姦、民間人の殺害、その他暴行などにより、日本の勝利は台なしになった」(ニューヨーク・タイムズのF・T・ダーディン、38年1月9日付)。「日本軍は少なくとも5000人を射殺し、その大半は埋葬の手間を省くために川岸で実行された」(駐華ドイツ大使館の報告第113号に添付)などとしています。
当事者の兵士たちは虐殺を書きとめています。砲兵伍長として参戦した永井仁左右さんは「城壁の隅に多数押し込め鉄条網を張り機関銃で射殺したり、尚又石油を掛け焼殺したりした隊もあった」(『永井仁左右回想録』)。
南京攻略作戦は、上海派遣軍司令官の松井石根(いわね)=A級戦犯、東京裁判で死刑=が参謀本部の統制に従わずに軍隊を進軍させました。そのため、作戦計画は不十分で、食料や軍馬のえさの補給を考えておらず現地調達主義をとり、進軍の途中で略奪や暴行などが頻発しました。
しかも、日本は宣戦布告もせずに「支那事変」と称して「戦争」ではないといい続け、日本軍は捕虜のあつかいなどの戦時国際法の規定を投げ捨てていました。そのうえ、軍規の乱れと中国人への侮蔑意識が虐殺につながりました。
笠原十九司都留文科大学名誉教授は「急に編成された軍隊で、戦意が低いため、南京を占領すれば何をやってもいいと、兵士をあおる上官もいました」と言い、そのうえで、「靖国派は東京裁判が南京虐殺やA級戦犯を裁き、侵略戦争を裁いたことを否定しようとしています」と言います。
こうした「靖国派」の立場はファシズム・軍国主義を否定した戦後の平和秩序に真っ向から挑戦するものです。